室生寺の栞には次のように記されていた。
『奈良時代の末期、山部親王(後の桓武天皇)のご病気平癒の祈願が興福寺の五人の僧によって行なわれ、これに卓効があったことから勅命によって創建された。』
栞には山部親王とあるが、山部親王という呼び方は一般的ではなく、山部王と呼ばれることが多い。
なので、ここでは山部王と記すことにする。
『続日本紀』や『宀一山年分度者奏状』(べんいちさんねんぶんどしゃそうじょう)に次のような記述がある。
『777年12月と778年3月の2回に渡り、山部王(のちの桓武天皇)の病気平癒のため、興福寺の五人の僧が室生の地において延寿の法を修した』と。
室生寺の栞に記されている『山部王の病気平癒の祈願』とはこの777年と778年に行われた延寿の法のことだろう。
山部王の病がどのようなものだったのかを知るてがかりが『水鏡』 にある。
『水鏡』の記述は次のようなものである。
『20日にわたって夜ごと瓦や石、土くれが降った。
777年冬、雨が降らず、世の中の井戸の水は全て絶えた。宇治川の水も絶えてしまいそうだ。
12月、藤原百川の夢に、百余人の鎧兜を着た者が度々あらわれるようになった。
また、それらは山部王の夢にも現れたので、諸国の国分寺に金剛般若をあげさせた。 』
777年は水不足に悩まされた年えあったらしい。
また瓦や石や土くれが降ったと記述があるのは、地震または雹だろうか。
その結果、藤原百川や山部王の夢の中に百余人の鎧兜を着た者があらわれたという。
山部王の病とはノイローゼだったのだろうか。
これをさかのぼる5年前の772年、井上内親王が光仁天皇を呪詛したとして息子の他戸親王とともに大和国宇智郡の没官(官職を取り上げられた人)の館に幽閉されている。
井上内親王とは光仁天皇の皇后だった人である。
そして光仁天皇の皇太子には光仁天皇と井上内親王の間に生まれた他戸親王が立てられていた。
山部王の父親は光仁天皇だったが、母親は高野新笠だった。
高野新笠は百済王族の末裔とされ、身分が低かった。
ところが井上内親王の事件があったため、他戸親王は排太子となり、山部王が皇太子となった。
775年、井上内親王と他戸親王はに二人は幽閉先で逝去した。
『公卿補任(くぎょうぶにん)』によれば、この一連の事件は『藤原百川の策諜』とある。
藤原百川が策謀をたて、山部王を皇太子にする為に、井上内親王と他戸親王に無実の罪を被せた、というのである。
その後、井上内親王は怨霊になったと考えられたことが、いくつかの文献に記されている。
『本朝皇胤紹運録』
井上内親王と他戸親王は獄中で亡くなった後、龍となって祟った。
『愚管抄』
井上内親王は龍となって藤原百川を蹴殺した。
藤原百川や山部王が悪夢に悩まされたのが777年であるが、興福寺の5人の僧が室生山で山部王の病気平癒のための延寿の法を行なったのは777年と778年だった。
そしてその2年前の775年に井上内親王と他戸親王が逝去し、死後、井上内親王と他戸親王は龍になって祟ったと考えられた。
山部王の病は、龍になった井上内親王と他戸親王の怨霊の祟りがもたらしたものだと考えられたのだろう。
そして、井上内親王と他戸親王の怨霊は室生山の龍神とイメージが重ねられた結果、777年と778年に室生の地において山部王の病気平癒の祈祷が行われたのではないだろうか。
そう考えると、室生で祈祷を行ったのが、なぜ興福寺の僧であったのかについてもわかる。
藤原百川が藤原氏の氏寺である興福寺に依頼して、室生で井上内親王の怨霊を鎮めるための祈祷を行ったのだろう。
修円が室生寺の五重塔の宝瓶に封じ込めた室生の龍神とは、井上内親王の霊のことだと私は思う。
そして室生寺が女人の入山を許してきたのは、この寺が女人である井上内親王の鎮魂の寺であるからではないだろうか。
私は室生寺金堂の十一面観音を拝みながら、もしかしたら井上内親王はこのような容貌をしておられたのではないかと思ったりした。
十一面観音はふっくらした頬に切れ長の眼、赤くて小さい口元など、女性的な雰囲気を持っておられた。 (写真 →
☆)