カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑦ 変形される北斗七星 よりつづく~
あけましておめでとうございます。
今年もトンデモ説でがんばります!
京都市左京区 由岐神社
鞍馬の火祭・・・10月22日
①大地震と天慶の乱
939年ごろ、都は大地震にみまわれ、また天慶の乱が起きるなどした。
天慶の乱とは平将門の乱と藤原純友の乱のことで、同時期におきたので天慶の乱と総称されている。
また出羽で俘囚(朝廷の支配に属した蝦夷のこと)が反乱を起こしており、こちらも天慶の乱と呼ばれている。
939年は朝廷にとって大変な年だったのだ。
②由岐明神の遷宮940年9月9日、朱雀天皇はそれまでは御所で祭っていた由岐明神を鞍馬に遷宮させた。
それはもちろん939年におこったもろもろの悪いことを払拭するという意味合いを持つものであっただろう。
由岐明神の遷宮の行列は無数の松明を携え、その行列は十町(約1キロ)に及んだ。
『鞍馬の火祭』はこの遷宮の様子を再現したものだといわれている。

③山中なのに船頭篭手?下の写真の男性が腕につけているのは船頭篭手(せんどうごて)である。
船頭篭手は船頭の力強い腕力を表すために身に着けているとされているが、鞍馬は山である。
鞍馬川という川があるが、渓流で水量が少なく、舟を運行させるのにふさわしい川のようには思われない。
かつて貴船川では、保津川の渓流下りのような舟が行き交っていたのだろうか?
④由岐明神は藤原純友の乱平定を目的として遷宮された?由岐明神が遷宮したのは940年9月9日ということだが、これは旧暦だろうか。それとも新暦だろうか。
9月9日は重陽の節句で大変縁起のいい日だとされてるので、この日を選んで遷宮したのだと思う。
ということは、由岐明神が遷宮した9月9日は新暦換算したものではなく、旧暦だろう。
これを新暦に直すと940年10月12日となる。
平将門は940年3月25日(新暦)に討死し、由岐明神が鞍馬に遷宮してきたときすでに平将門の乱は鎮圧されていた。
しかし、このとき藤原純友の乱はまだ鎮圧できていなかった。
由岐明神を鞍馬に遷宮させたのは、由岐明神に立派な社殿を奉り、また都の東北におくことで鬼門封じとし、藤原純友の乱を鎮圧させようという呪術的な目的があったのではないかと想像される。
由岐神社
●藤原純友は海賊の棟梁だった。藤原純友は海賊の棟梁で、海賊を率いて乱を起こした。
さて、当時の海賊はどのようないでたちをしていたのだろうか?
もしかして鞍馬の人々が祭礼で身に着けているような船頭篭手をつけていたのではないだろうか?
そう、鞍馬の人々のいでたちは藤原純友率いる海賊のいでたちなのではないかと、私は考えているのだ。
941年、朝廷の派遣した軍が純友軍を破った。
純友は小舟に乗って伊予に逃れたが捕らえられ、獄中で死亡した。

カシオペア・北斗七星・北極星の呪術⑨ 『チョッペンの儀はカシオペアを表している?』 へつづく~
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カシオペア・北斗七星・北極星の呪術① 伝香寺 『陰蔵相のあるはだか地蔵』 毎度、とんでも説におつきあいくださり、ありがとうございました!
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