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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew ⑱高松塚キトラ古墳は高句麗壁画古墳の影響をうけているか。

トップページはこちら。 →

よりつづきます~

掲載できる写真が少なく、分かりづらい点をおわびします。

①古代朝鮮半島の大雑把な歴史

前190 衛満が衛氏朝鮮を建国
前108 前漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に4郡をもうけて支配下に置く。4郡の一つが楽浪郡。
楽浪郡の位置は下記参照
313年 楽浪郡、高句麗に滅ぼされる。
朝鮮半島における中国の支配力が低下。馬韓は百済に、辰韓は新羅となった。(三国時代/高句麗、百済、新羅)
弁韓には複数の王朝が存在していた。それらをまとめて任那(加羅・加耶)とよぶ。
百済、新羅、任那の位置は下記参照
6世紀中頃、新羅、加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れる。
660年、唐、百済を滅ぼす。
668年、唐と新羅、高句麗を滅ぼす。
670年~676年、唐・新羅戦争。新羅、唐の役所を襲撃して朝鮮半島の中南部を統一。
892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国。
901年、弓裔がの後高句麗(のちに泰封と改称)を建国。(後三国時代/泰封・百済・新羅)
    高句麗(前1世紀頃 - 668年)
    百済(4世紀前半? - 660年)
    新羅(前57年 - 935年)
918年、後高句麗の将軍・王建、王に推戴され 国号を「高麗」とする。
935年、新羅、高麗に吸収合併される。
936年、後百済、高麗の攻撃をうけて滅亡、朝鮮半島は高麗によって統一された。

②高句麗壁画古墳は4世紀末から5世紀初頭に始まった?(金元龍氏による)

※ピンク色文字は金元龍氏の説

●朝鮮の古墳壁画は三国時代に始まる 最も早かったのは高句麗          
●高句麗の固有墓制は玄室が地上に造られる積石塚
積石塚のもっとも発達した形はピラミッド形の将軍塚(5世紀)
将軍塚

●5世紀頃より封土石室墳(土塚)が現れる。
中国の塼室墳または石室墳から発達した。
石室の三角持送り天井は、中国では抹角藻井といい近東地方で誕生して中国に伝来された。

三角持ち送り天井は、下のYouTube動画「安岳3号墳壁画(日文)・・・」に映像がある。

 

● 安岳3号墳
高句麗は313年に楽浪郡(漢朝によって設置された朝鮮半島の郡)を滅ぼしたが、その後約半世紀間、楽浪の故地には楽浪以外の中国系民族が住んでおり、高句麗はこれを黙認していた。
336年、
高句麗はこれを統治させるため336年に冬寿を帯方郡の故地にすまわせた。
冬寿は357年に死亡し、1949年、冬寿の墓(高句麗王墓とする説もある)が発見された。(安岳3号墳)

冬寿(289年 - 357年)は336年に高句麗に亡命した前燕の有力者で高句麗に重用されたと考えれられている。
1949年に発見された安岳3号墳は壁面に墨書銘文があり、東晋の年号、生前の官職、出身地、冬寿が69歳で死去したことが明記されていた。(被葬者は高句麗美川王説もある)

冬寿墓壁画

安岳3号墳 壁画

●冬寿墓は三角持ち送り天井であるなど、中国系の墓と思われる。

●銘文、行列図、主人夫妻肖像などは、他の高句麗壁画の平面的展開方式とは異なる。中国系ではないか。
被葬者の名前を書き残すこと自体が中国的

●石刻画・彩色画を含める装飾墳は漢代(前漢/前206年 - 8年、後漢/25年 - 220年)には多く造られた。

●楽浪古墳にも彩篋塚(さいきょうづか)のように、騎馬図が残っている例がある。
(写真はなし)

●中国系古墳は前室に左右の側室・翼室が付く。壁画の内容は主人夫妻、侍僕、吏卒、車馬
後漢末~三国にかけて遼東一帯に広がっていた。
遼東半島の位置はこちら・・・遼東半島の位置

●平南順川郡龍鳳里の遼東城塚 4世紀 も中国系古墳
城郭、四神などの壁画あり

●高句麗が南下するまでの大同江地方には楽浪系中国人によって少数ながら中国式壁画古墳が造営されていた。
4世紀半ばごろの高句麗人は中国系壁画古墳と接していた。
そこから4世紀末から5世紀初頭にかけて、高句麗壁画古墳が発生した。

●中国の楊泓は高句麗壁画古墳の始まりを後漢末期(3世紀初頭)とし、その例を通溝の舞踊塚を上げている。

↑ こちらの記事では舞踊塚を5世紀ごろのものとしている。



●高句麗の壁画には仏教的要素があるため、仏教伝来(372年)後と考える。

●将軍塚は413年に没した広海土王の陵、またはそのころの建造と考えられているが、玄室に壁画がない。

●壁画の風習が4世紀ごろ始まっていたとしても、5世紀の初頭には一般化していなかった。その発展は高句麗が平壌に遷都した427年以降だと思う。

●石塚が消滅したわけではない。土塚のすべてに壁画が描かれているのでもない。
壁画があるのは総数30ほど。土塚の一部。

③高句麗壁画古墳の変遷

1期(4世紀末―5世紀)
・中国を模倣し、古式要素も残すことから編年上誤解を生じさせる時期。
通溝(中国,東北部の鴨緑江中流域にある平野の名称)・平壌から離れた大同江口、海岸地方に多い。

・壁画封土塚は塊石で四壁を積み、天井部は壁面と並行もしくは斜交する数段の持ち送りを内方にせり出して、最後に壱枚の板石で頂上を塞ぐ。その後漆喰を厚く塗って壁画を描く。

・夫妻合葬用

・古新羅墓は単葬

・壁画は朱・暗赤・黄・黄土・緑青・輪郭用の墨
漆喰が乾きにくいのでフレスコ法

”フレスコは、まず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を必要とする。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法だった。失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直すほかはない。

”高松塚古墳壁画はフレスコ(ブオン・フレスコ)ではなく,白漆喰壁に絵が描かれている(フレスコ・セッコ)という印象をもった。イタリアなどの海外の壁画とは違うと感じた。〔保存修復〕”
 より引用

・絵具、墨色がむらのない一色になってる。
中国壁画のように、下絵をピンで壁に差し、その穴跡をたどってゆくとか下書きをしたような形跡はない。

・壁画の内容・・・中国古墳壁画同様、前室の側室に主人夫妻の肖像と、それを取りまく侍僕を描くのが基本。
(龕神塚の神像は主人夫妻の像)。
7pより龕神塚壁画のイラストが掲載されている。

・側室の廃止とともに肖像図は玄室の正壁に移る。梅山里四神塚・双楹塚の如く夫妻を牀上(こしかけ)に列坐させた高句麗式。

・人物は一列上に並ぶ平たい正面観。その前に横向きの履(靴)が並んでいる。

上記記事17ページに「狩猟塚北壁の墓主像」双楹塚の壁画の写真がある。
台の上に正面を向いた人物が胡坐をかくような姿勢で座っており、その前に横向きのブーツのような靴が揃えられている。
このような台に座る際には靴を脱いでいたのだろう。

”肖像は4体あり、いずれも 正面を向いて牀の上に座る。右が被葬者の男性、左3人は彼の妻妾と推定される。3人のうち の右端の女性は単独の牀に座しているが、残り2人は同じ牀の上にいる。男性と左2人の女性の前には黒い靴が揃えて置いてある点も双楹塚と共通する。”
 より引用

とあり、金元龍氏が例としてあげておられる双楹塚にも同様の絵が描かれているのだろう。
また次の様にも記されている。

本書で取り上げる九つの古墳では狩猟塚と並んでもっとも新しく、主に四神図のみで構成される壁画古墳へ移行する時期のものである。
より引用

これは、双楹塚について述べたものなので、狩猟塚も金元龍氏のいう第Ⅰ期の壁画古墳ということになるだろうか。

・安城銅大塚・龕神塚・双楹塚・三室塚は
玄室の四隅に斗栱(ときょう)を具えた柱が描かれる。この意匠は二期につづく。軒を支える斗栱

・漢代の怪雲文帯(雲をデザインしたもの)

・漢鏡に見られる神像の羽根状、火焔状突起・・・梅山里四神塚の人物にある。

・両手を前に重ねた格好・・・初期の中国仏像と同じ。

・日像、月像、四神が天井に。梅山里四神塚では人物の横に描かれている。

・三室塚・・・技巧,巧拙が違っている。(数人の画工が描いたか)

Ⅱ期(6世紀前半ごろ)
・通溝の舞踏塚・角抵塚・環文塚、平壌地方の大同郡鎧馬塚・龍岡郡星塚  
   
・玄室正壁の主人夫妻を主題としている。Ⅰ期の様な静坐ではなく、生活・記録中の主人公として取り扱われている。(風俗画)

・舞踏塚
玄室(玄室を現世の再現、延長と見ている?)
四隅・・・木柱
北壁(正壁)・・・主人公が僧侶を接待する。
東壁・・・食物を運ぶ女性と歌舞団
西壁・・・狩猟図
南壁・・・樹木
天井・・・飛天、千人、四神、人面鳥、双鶏、星辰、蓮華
前室・・・馬厩、馬具、馬丁
画面は平面展開 飛翔する仙人の袴の裔(すそ)が反対の方向にはねているのも不合理
怪雲文帯はない。
粗雑な唐草文帯 側面視の蓮華
木柱の梁形の上にならぶ三角文は5世紀末、6世紀初頭の中国仏像の光背を表現
空を表す変化した鳥形文


Ⅲ期

・将軍塚のように大きな花崗岩を使う。

・百済の扶余陵山里壁画墳・・・片磨岩板石の壁面にじかに絵を描く形式も登場

・四神が壁に

・忍冬唐草、飛雲、樹木

・蓮・・・花弁から条線が亡くなる(新形式)

・四神塚、十七号墳、内里一号墳、高山里一号墳

・壁画に隋・唐の影響が見られず、六朝(呉、東晋、宋・斉・梁・陳)にとどまっているのは何故だろうか。
理由は隋唐との戦争のため、装飾墳の造営が不可能だった?
高句麗の画工たちは古来の壁画法を墨守し続けた?
どちらも事実とは考えられない。

④百済古墳の分布

・百済は、京城の南方→475年公州→538年扶余
百済の古墳は公州・扶余に集まっている。

・百済古墳で壁画があるのは公州に1基、扶余に1基。

・公州錦城洞俗称宋山里6号墳(壁画古墳)はトンネル形の塼築墳
高句麗の平地墳と違い、斜面に掘り込んだ形式


・トンネル式の塼築墳だが、塼築墳はとなりにある武寧王陵のみ。

・揚子江南朝時代塼墓そのものだが、壁画は発見されていない。

・画を描く部分のみを細土で塗り、その上に胡粉で四神を描く。

・扶余山里の壁画墳は石室墓。石室にじかに絵をかく。
四壁には四神図、天井には蓮華、飛雲など。高句麗の影響をうけている。


⑤新羅・伽耶の古墳

・大伽耶の壁画古墳・・・慶北高霊邑右衛洞1基、栄州順興1基

・慶北高霊邑右衛洞
片袖形石室と百済のトンネル形を混同した石室

壁面に泥と漆喰を塗った上に壁画を描く。

剥落がひどく原型を残さないが、青・緑・紅・褐色で蓮華と草花文を描いたようである。
羨道天井石には高句麗式蓮華紋が点々と描かれる。(高句麗の影響)

・西北部九州の装飾古墳は、高句麗ー百済ー伽耶と伝わったのだろう。

・新羅の壁画古墳・・・栄州の壁画古墳

石扉にはもと人物像が描かれており、羨道天井には七弁三重の蓮華が紅・黄・黒で描かれていた。
石扉には「乙卯年於宿知術千」とあり、6世紀後半ごろのものとされる。

⑥壁画古墳の終焉

・統一新羅には壁画古墳が存在しない。高句麗の滅亡とともに壁画古墳は消滅した。

①で記した年表を思い出してほしい。
668年、唐と新羅、高句麗を滅ぼす。
670年~676年、唐・新羅戦争。新羅、唐の役所を襲撃して朝鮮半島の中南部を統一。
金王龍氏が統一新羅とおっしゃっているのは、676年以降の新羅ということだ。

・917年に没した新羅の神徳王陵の内部が朱・白・黄・青・藍で長方形色塗り部を上下段6個ずつ配列しているが、壁画とはいえない。

・高麗時代には壁画古墳は少なくない。宋の刺戟を受けて起こった新しいアイデア。高麗時代で終了。李朝の墓は壁画を描く空間がなかった。

①の年表を確認しよう。

892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国。
901年、弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国。後三国時代に。
918年、後高句麗の将軍・王建、王に推戴され 国号を「高麗」とする。
935年、新羅、高麗に吸収合併される。
936年、後百済、高麗の攻撃をうけて滅亡、朝鮮半島は高麗によって統一された。

・玄陵、正陵、水落岩洞、法堂坊に壁画がある。(星辰、十二支神像)

・慶南居昌付近の石室墓 飛天像

⓻高句麗壁画と高松塚

・天井に星宿、四壁に四神と日月を描くのは高句麗壁画の伝統。

・女性が頭に巾を被らず、右袵(衿)なのは高句麗と逆。
高松塚 女子像2

高松塚古墳女子群像

高松塚古墳女子群像の衿の合わせ方は一般的に左前(左を合わせてから右を重ねる)と言われるが、金元龍氏はこれを右袵とおっしゃっているのだろうか?


上の動画をYouTubeの全画面で見ると衿の合わせ方は高松塚と同じように見えるのだが、下の水山里古墳は高松塚とは逆の右前になっている。



・スカートのすそに縁飾りをつけるという記録に符号している。

・人物の重なりは高句麗の平面展開とは違って唐式だが、落ち着きのある筆致と画面の効果は高句麗的。
(動いているようで顔にも体にも一種の静止がある。)

後半の「落ち着きのある筆致と画面の効果」というのは抽象的過ぎて意味がわからない。

・人物に関する限り、永泰公主墓壁画に似ている。

・女性の顔が四角い高句麗型ではなくてしもぶくれの唐型。

・史料によれば、7世紀前半ごろ、高句麗と百済の服装はほとんど同じだった。

・7世紀頃、奈良で活躍した画工たちは高句麗人。曇微、加西溢、小麻呂など

・狛竪部の小麻呂は659年同族一同を招宴したが、官から1枚60斤もする熊皮70枚を借用して客が羞じて退帰した。(日本書記)

・高松塚の画工は高句麗系だろう。

安鶴宮

・427年、高句麗の都は集安から平壌に移った。その国都の中心は安鶴宮跡。
安鶴宮跡の下層から2~3世紀の石室封土墳10基が発見された。

⑨湖南里四神塚/北を振り返りながら南へ走る青龍と白虎

ネット上に湖南里四神塚の壁画の写真はみつからなかった。(探したりないのかもしれないが)

・安鶴宮跡の南東に湖南里四神塚はある。

・5世紀から6世紀に築かれた単室墓の壁画古墳。

・花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。

・青龍は走りながら北を振り返る。
白虎は毛をむしり取られたような姿で、南に走りながらやはり北を振り返っている。
南には二柱の朱雀。羽根はシンプルで貧弱。玄武は定型どおり。

ネットに「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事があり、次のように記されている。

”湖南里四神塚[関野1941] 両袖式石室。四壁に柱・斗棋を描く。南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」ものがある。北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。天井部にS字形の連続渦文が全面に描かれる。”

ここに「北壁の玄武,西壁の白虎などは不明である。」とあるが、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には四神の写真が掲載されている。

「北朝・隋唐と高句麗壁画」という記事は1999年3月に記されたものであり、「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」の出版年は2005年である。
1993年3月以降に発掘調査などが行われて全容がわかったのだろう。
全浩天氏は「墓室に入る。ひんやりした空気である。」と書いておられるので、古墳石室内に入って見学することもできるようだ。(特別な許可が必要なのかもしれないが)

「北朝・隋唐と高句麗壁画」には
a 四壁に柱・斗棋。
b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。
c 天井部全面にS字形の連続渦文
とあるが、全浩天氏は「花崗岩の壁面に直接、四神のみが描かれる。」と記し、柱・斗棋・蓮花・S字形の連続渦文については何もしるしておられない。

『b 南壁に朱雀,その西側に「奇古なる蓮花の如き」もの。』とあるのは、南壁に記された東西二柱の朱雀のうち、西に描かれた朱雀を「蓮花の如きもの」と言っているのだと思う。

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」には湖南里四神塚南壁入口左側に描かれた朱雀の写真が掲載されている。
南壁中央に古墳入口があり、そのため朱雀を入り口の左右に描いたのだろう。
南壁入口左側とはむかって左側ということだろうか。すると、東の朱雀ということになるが、西の朱雀は東の朱雀と向かいあうように、同様の姿で描かれたのではないかと思う。
そしてその朱雀の写真は蓮花のように見えなくもない。

柱・斗棋・S字形の連続渦文については、あるのかないのかわからない。

⓾高山洞古墳群

これもネットに画像が見つからなかった。本にも画像はない。

・湖南里四神塚がある三石区域の隣の大城区域には多くの古墳群がある。
廬山洞古墳群、内里古墳群、土浦里古墳群、寺洞古墳群、高山洞古墳群、安鶴洞古墳群
壁画古墳もある。


・高山洞1号墳 5世紀末~6世紀初 玄室には人物画と四神図
高山洞7号墳 4世紀末 左右に側室、玄室がある。墓室には人物、風俗、四神図
高山洞10号墳 4世紀末 壁画は人物のみ
高山洞15号墳 壁画の剥落がひどく内容がわからない。
高山洞20号墳 三世紀の築造、前室に人物画が確認される。他は不明。
安鶴洞9号墳 3世紀の築造、玄室には四神図
嵋山洞壁画古墳 5世紀 人物と四神図

⑪鎧馬塚/馬に乗ろうとする被葬者を描く。

9ページに画像がある。

・長方形の玄室のみをもつ。

・壁画風化している。

・壁面には四神が描かれていたが朝鮮戦争(1948年、大韓民国vs朝鮮民主主義人民共和国)で破壊された。
天井部分のみ残る。

・玄室天井持ち送り部に鎧馬に乗る在りし日の被葬者が描かれている。

・絵の上には「塚主着鎧馬之像」(墓の主人が鎧馬に乗る姿)と記されている。(確かに確認できる。)

全浩天氏は「在りし日の被葬者」としているが、
『北朝・隋唐と高句麗壁画 - 四神図像と畏獣図像を中心として』という記事には次のようにある。

”鎧馬塚 玄室左壁の第1段持送り天井側面に,冠飾をつけた墓主像・従者と,御者・飾馬の像があるが,そのあいだに「家主着鎧馬之像」という榜題がある。「家」を「原」と釈読する見解[関野貞1941]もあるが,「塚」であろう。その主墓主)は,鎧馬に乗っていないが,その鎧馬の導かれて昇仙するさまが描かれているのであろう[東1992]。”


そこでもう一度画像を確認してみると確かに墓主は鎧馬に乗っていない。
また、天井部に描かれているということは、「在りし日の被葬者」ではなく、「鎧馬に導かれて昇仙する被葬者」と考えた方がよいのではないかと思った。

・日像には三本足の烏、月像にはヒキガエルと薬草をつく兎
↑ リンク先「11ページ・図10・6」に鎧馬塚の三本足の烏、ヒキガエルと薬草をつく兎の絵がある。

⑫内里1号墳/月の中に松の下にたたずむ兎

・6世紀末から7世紀初

・以前の発掘調査資料から青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれていたことがわかっている。

・月像には松の木の幹と葉の下にたたずむ兎が描かれる。

(ネットに写真は見つからなかった。)

⑬高山洞7号墳

・4世紀末から5世紀初めにかけて作られた多室墓

・建物、水車、人物、樹木、馬を牽く人
(ネットに写真みつからなかった。)

⑭徳花里1号墳

・墓室は半地下。

・八角天井に亀甲文を描き、太陽を意味する三本足の烏、月像、星、雲、蓮花、北斗七星を描く。

・柱の角には柱と斗栱

・北側天井には大きく北斗七星

・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。

・四神と人物

・単室墓

(ネットに画像はみつからなかった。)

⑬徳花里2号墳/大きく描かれた北斗七星と南斗六星

・玄室床面には北斗七星を仰ぎ観るかのように棺台が東西に並べて置かれている。

・四神と人物

・天井には19の星座が確認されている。「井星」「辟星」「胃星」「柳星」の文字が記される。
28の星座が星座名とともに記されていたのだろう。
1395年に作成された「天象列次文野之図」の星座位置とほとんど同じと指摘されている。

・1号墳に東に近接し、壁画も似ている。

・単室墓

・柱の四隅に柱と斗栱


図1に徳花里2号墳の星辰図がある。
北斗七星と南斗六星(南の空にある柄杓の形地をした星。いて座の一部)が大きく描かれている。

南斗六星

南斗六星


⑬星宿図を描いた高句麗壁画古墳 

・21基ある。

・伏獅里壁画古墳
角抵塚
特興里壁画古墳
大安里1号墳
星塚
双楹塚
狩猟塚
牛山里2号墳
通溝四神塚
集安5号墳
安岳1号墳
舞踏塚
薬水里壁画古墳
天皇地神塚
長川1号墳
三室塚
牛山里1号墳
真坡里4号墳
集安4号墳
徳花里1号墳
徳花里2号墳

⑭長川1号墳/北斗七星には男神と女神がある。

長川1号墳については「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」69pに模写図が掲載されている。
それをもとに、へたくそな図を書いてみた。↓
かなりいい加減な図である点に注意してほしい(汗)。

長川1号墳

この図を書いた後で、友人が長川1号墳の模写が掲載されている中国語の記事を教えてくれた。


そうではあるが、この中国語の記事が削除される可能性はあるので、私のへたくそな図も念のため掲載することにした。

上の記事を中国語に自動翻訳したものをまとめてみよう。(意味が分からない所もあるので、間違いがあるかもしれない。)

・堯水里古墳
平安南道南浦市麗水里にある
4世紀後半から5世紀初頭。
回廊、前室、後室で構成される。
奥の部屋(後室のことか)の上半分には、太陽、月、四神、星などの天体像が描かれている。
北壁上部には北斗七星が描かれ、その下に被葬者と被葬者の妻がカーテンがかかったソファに座る絵が描かれている。
墓主を天に昇らせ、北斗を使って墓を守る。

・高句麗の壁画墓では、北斗七星と蓮が天国の中心的なイメージとして初期に使用された。
蓮華、北斗七星、南斗七星、太陽、月など複数の天体モチーフが天を表現
a  北斗が天国の中心であり、太陽と月がそれを補う.
b  蓮の模様中央に北斗と南斗があり、左右対称になっている。

・長川1号墳
吉林省集安市長川市にある
回廊、前室、後室からなる。後室にも棺台が2台設置されている。
後室は前室よりわずかに大きいが、高さは低くなる。
前室の東側と西側の壁・・・被葬者の生涯を描いた絵 棺の下側には四神として緑龍と白虎、上側には菩薩と神像が描かれる。
前室北壁・・・仏陀を礼拝する人々
後室・・・四方の壁とケーソンには、整然と配置された蓮の文様。
ケーソンの中心の南北に北斗七星、東側と西側に太陽と月。中央に「北斗七青」の四文字が赤字で記される。
北斗七星の星座は、星を表す円と、その円を結ぶ線で構成される。円の中に点。北側の北斗は実線で結ばれ、南側の北斗は点線で結ばれる。

・トルファン・アスタ
「荘園の生活図」・・・北斗は墓主のテントに移動させる方法
「墓主の生涯図」・・・長谷1号墳と同様、二人の北斗を同時に描く。
北斗七星は実線で結ばれており、円も点で埋められる。

・なぜ 2 つの北斗を同時に描かなければならないのか。
『淮南子』巻3「天文修練」によれば、「北斗七星の神は男神と女神がいる。11月に子に建立された。月は最初の刻から始まる。男は左に行き、女は右に行く」 " _

・長川一号墓とトルファン・アスタの『墓主生涯図』に見られる二人の北斗は、北斗神の男性、女性、陽、陰の表現。
実線で結ばれたものは陽、南側の点線でつながったものは陰?
2 つの北斗の柄杓はそれぞれ東と西を向き、反対方向を向く。→左と右の移動を表す。
長川市一号墓の前室には仏像が描かれているが、天中部は基本的に墓像の伝統に従って構築されている。

・中世初期の北斗信仰
銭宝の『宋神記』(東晋時代)の第 3 巻
燕君の父親は、延命してくれるように頼んだ。関羽燕君は言った。
「それはあなたを大いに助けるだろう。私も長生きできて幸せだ。あなたが北に座っていれば、それは北斗七星だ。南に座れば南島。南島は生のためのもので、北島は死のためのもの。すべての概念は南島から北島へ移る。すべての祈りは北島に向けられる。」
ナンドゥと北斗はともに擬人化された神。「ナンドゥは生を担当し、北斗は死を担当する。」
・中世の墓には北斗の擬人化された像がない。

・道教の発展とともに北斗七星は七人格の神に変化し、北斗七星と呼ばれるようになった。
(明代・山西省保寧寺「北斗七元左補・右碧忠」では7人の僧侶の姿であらわされている。)

三本足の烏の絵を描いた〇は太陽、薬草をつく兎とヒキガエルの絵を描いた〇は月だろう。
陰陽道では太陽の定位置は東、月の定位置は西なので、太陽のある側(向かって左)が東、月の有る側(向かって右)が西だと思う。
従って、上が南、下が北である。

南北に大きく描かれているのはどちらも北斗七星と考察されているが、北に描かれた北斗七星にはおかしな点がある。
北斗七星は実は八星で持ち手の端から2番目の星のそばにもうひとつ星(アルコル)がある。
しかし図では持ち手の端から3番目の星の側に星がえがかれている。

北斗七星

北斗七星の形は上の写真の通り。
長川1号墳の北に描かれた北斗七星が地球上から見た北斗七星の形であり、南に描かれた北斗七星は柄杓の向きが逆である。
私は空間認識能力が低いので、長川1号墳北側に描かれた北斗七星の図を透明なビニール袋に書いて裏から見ててみた。
そしてそれを右回りに180度回転させると南の北斗七星の形になる。

下図のように、天球上に星座がはりついているものとし、天球の上から神様が星座を見下ろすと、実線でつながれた北斗七星の形に見えるだろう。

天球にはりついたカシオペア

北斗七星には男神と女神がいて、男神は左まわり、女神は右回りと『淮南子』に記されているという。
地球上にいる我々からみると、点線でつながれた北の北斗七星の形に見える。
そして地球から見ると、北斗七星は左回りである。
ということは、地球上から見る北斗七星の姿が男神で、実線でつながれた天球上から見る北斗七星の姿が女神ということか?

北斗七青が何かについてはよくわからなかったが、これも友人が教えてくれたところによると「大正新脩大藏經を検索すると、『7つの知恵や七つの真言の象徴』という意味で『七青』と用いられている」とのことで仏教的な意味があるのではないか、とのこと。






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