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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑯ 唇の描き方、横向きのポーズ、黄文本実などいろいろ



よりつづきます~

前回の記事の追記が含まれます。申し訳ありません。

①古墳に天寿国繍張のようなものはかけられていたか?

・森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかという。(久野健氏)

天寿国繍張

天寿国繍張

聖徳太子が亡くなった際、太子の妃のひとりである橘大郎女が太子が天寿国に往生した様を東漢末賢・高麗河西溢又らに下絵を描かせ多くの采女に刺繍させたもの。

橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか。
古墳の中にかけられた絵をみたのかもしれない。(久野健氏)

古墳から天寿国繍張のようなものや、その切れ端が出土したという例はあるのだろうか。



上の動画説明欄に次のような内容が記されている。

・2012/09/27、土浦市坂田の武者塚古墳から出土した布の断片が、7世紀末ごろの「経錦(たてにしき)」と呼ばれる絹織物であることが確認された。

・経錦は奈良県の藤ノ木古墳などで16例以上確認されている。

・「経錦」は、数色一組にした経(たて)糸をそれぞれ1本のように扱い、それに陰緯(かげぬき)と母緯(おもぬき)の2種類の緯(よこ)糸を交互に入れる、複雑な編み方で文様を織り出した高級な絹織物(錦)だ。

・福井県の十善ノ森古墳からの出土例が最古(5世紀後半ごろ)
奈良県の藤ノ木古墳のもの(6世紀後半)、市の風返稲荷山古墳のもの(6世紀)

・武者塚古墳出土の「経錦」は、武者塚古墳に葬られていた6人の遺体の上に掛けられていた。
そのため、遺体の腐敗などの影響で白色化し、文様は確認できない。

経錦について、こちらの記事の写真をみると、かなり絵画的なものもあるが、織物なので、パターン的な柄が多いのではないかと思う。
天寿国繍張のような絵画的なものを作るのは難しかったのではないだろうか。

天寿国繍張のようなものが古墳から出土した例はあるのだろうか。(あれば教えてくださいね)
そういう物が見つかっていないのであれば、古墳に先のまがった釘が規則的に並ぶ例があるとしても、
古墳に天寿国繍張のようなものを掛けたとは言い切れない。

⓶官寺に塼仏はないのか?

・7世紀では塼仏(せんぶつ)が多かった。
凹型に彫り込んだ原型に粘土をつめて像をつくり、焼いたあと、金銀の箔で装飾した土制仏像のこと。
現在、塼仏を壁面にはめ込んだ寺院は一つも残っていない。
しかし、7,8世紀の寺院跡からは多数出土している。(久野健氏)

・中国では東魏の543年の銘をもつ塼仏が最も古い。(久野健氏)

・650-656年に僧法律が造像したとの銘のある塼仏は、68万4000の像を作った。その構図は長谷寺の法華説相銅板に近い。(久野健氏)

長谷寺の法華説相銅板

法華説相銅板(長谷寺)

・日本の塼仏出土例
奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)(久野健氏)

松本清張氏は次のようにおっしゃっていた。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に拘束されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

官寺には壁画や塼仏がないというのである。

官寺についてウィキ官寺は次のように記している。

「官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。寺格の一つ。狭義には食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指すが、広義には朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指す[1]。

一般的に大寺(官大寺)と同義と考えられているが、国分寺・国分尼寺も先述の定義に該当するため、広義の官寺に含んで考えられる事も多い。また、これよりも小規模な有封寺(有食封寺)・諸寺と言った寺院も存在した。更に皇室の私寺的色彩の強い勅願寺や有力な貴族・豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けた定額寺も官寺に准じて扱われることがある[2]。

中世以降は、幕府が特に保護・帰依した禅宗の寺院を官寺と呼ぶ[3]。」

Wikipedia「官寺」 より引用

パッと読んでも、いまいち意味がわかりにくい。😌
官寺のページには、次の寺の名前があがっている。

百済大寺(後の大官大寺・大安寺)・・・天皇家の発願による最初の官寺
『日本書紀』680年・・・「官司治むる」「国大寺二三」
             大官大寺・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)
『続日本紀』702年・・・「四大寺」/大官大寺・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)・薬師寺
      756年・・・「七大寺」/「四大寺」+興福寺・東大寺・法隆寺
      770年・・・「十二大寺」不明
      791年・・・「十大寺」/「七大寺」+四天王寺・崇福寺・西大寺(あるいは川原寺)
『延喜式』「十五大寺」・・・「十大寺」+唐招提寺・新薬師寺・本元興寺(法興寺から分離、現・飛鳥寺)・東寺・西寺 
              ※本元興寺を外して法華寺を入れる異説がある
              ※梵釈寺や建興寺(豊浦寺、現・向原寺)は「十五大寺」に含まれないが大寺の待遇
              ※戒壇が置かれた観世音寺・下野薬師寺なども大寺の待遇
『拾芥抄』・・・十五大寺/東大寺、興福寺、薬師寺、元興寺、大安寺、西大寺、法隆寺、新薬師寺、不退寺、法華寺、
             超昇寺(超勝寺)、龍興寺、唐招提寺、宗鏡寺、崇福寺
             ※。龍興寺に変わり太后寺を加える説あり

これらの官寺に塼仏があるかどうか確認してみたい。
すなわち、百済大寺(後の大官大寺・大安寺)・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)・薬師寺・興福寺・東大寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・西大寺・唐招提寺・新薬師寺・東寺・西寺・法華寺・梵釈寺・建興寺・豊浦寺(向原寺)・観世音寺・下野薬師寺・元興寺・不退寺・超昇寺(超勝寺)・龍興寺・宗鏡寺である。
           、
日本の塼仏出土例は、次の寺だった。

奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

この中に上にあげた官寺は存在しない。(ただし法隆寺には壁画が存在していた。)

松本清張氏がおっしゃっていることはおおむね正しいようだ。

梅原猛氏は法隆寺や出雲大社に壁画があるのは、怨霊を祀る寺だからとおっしゃっていたが、そうではなく
松本清張氏がおっしゃるように、「基本的に官寺には壁画や塼仏がない」というのが正しいのかもしれない。
法隆寺は例外的に壁画が描かれたということだろうか。
或いは官寺といってもかなり私的な要素のある寺ということかもしれない。

橘寺の塼仏が最も古い時期のものと考えられる。(久野健氏)

・橘寺は聖徳太子創建と伝えられるが、福山敏男氏は古瓦や塔跡の礎石からみて、天智の前半としている。(久野健氏)

・大阪・野中寺に伝わる弥勒半跏像の銘文に、「丙寅の年、橘寺の知識118人が中宮天皇のために造った」というような内容が記されており、丙寅は天智5年(666年)と推定されている。
橘寺ではなく柏寺ではないかとする説もあるが、橘寺が正しいとすれば、橘寺は666年までには建立されていたことになる。(久野健氏)

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

野中寺 金銅弥勒菩薩半跏像

・橘寺の塼仏と野中寺の弥勒像を比較した結果から、橘寺塼仏が野中寺像よりのちに製作されたものと考えられる。

野中寺・・・肉つきがよい。胴のくびれが少ない。頭部に丸みがある。やや面長。顎が小さい。
橘寺・・・頬がふっくらしている。顎もやや大きい。(久野健氏)

おそらく、野中寺の塼仏の特徴が、橘寺の塼仏の特徴よりも編年では早いということだろう。

滋賀県崇福寺出土の塼仏 崇福寺は天智天皇が創建した寺。668年(菅家文章は671年とする。)天武朝とする説もある。
橘寺のものよりさらに成熟したデザイン。(久野健氏)

・橘寺の塼仏に似たものが、唐にある。「大唐善業」の銘文があり、唐代での政策であることがわかる。
橘寺塼仏から考えて、天智朝に唐朝文化が入っていたことを示す。(久野健氏)

③山田寺

・天武朝期にはさらに成熟した唐文化がはいってくる。
山田寺出土の塼仏と仏頭がそれを示す。

山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

山田寺仏頭(国宝。興福寺蔵)

・山田寺造営は『上宮聖徳法王帝説』の裏書に記述がある。
それによれば、641年ごろ整地、644年金堂建立、648年僧を住まわせる。
649年、蘇我倉山田 石川麻呂、讒言によって自害する事件があり、一次中断。
673年、塔建造。678年丈六仏像鋳造はじまる。685年、開眼供養。天皇浄土寺に幸す。(このころにはほぼ完成していたか)

・山田寺塼仏は金堂土壇より出土する。堂内装飾として塼仏を配したのは685年ごろか。
・山田寺塼仏の大型如来胸部、脚部の断片は、紀寺畑出土とされる東京国立博物館の如来坐像と同じ型から製作されている。
・十二尊をひとつの型からぬいた塼仏は諸家に多く分蔵されている。
・玉虫厨子の宮殿内部の押出千仏像のような役割をもっていたか。
・長谷寺の法華説相銅板(写真はブログ記事上にあります。)のように大型の如来を中心に、その周囲に千仏像や如来立像が組み合わされていたのだろう。

・九条兼実の『玉葉』によると、治承4年の兵火に焼けた興福寺の東金堂の本尊は、鎌倉時代の初めに山田寺から奪取してきた像。
室町時代に再び金堂が焼けた際、頭部だけ残り、昭和12年に同堂の仏壇下から発見された。(久野健氏)

これについての私の見解は別ブログのこちらの記事に書いた。
山田寺跡 白藤 赤い楓 『興福寺はなぜ山田寺の仏像を欲したのか?』

・興福寺の仏頭は、山田寺の丈六像の頭部とみてさしつかえないだろう。唐美術の影響を顕著にあらわしている。(久野健氏)

④夏美廃寺跡塼仏と高松塚古墳壁画の共通点

・夏見廃寺跡から出土した、京都大学文学部所蔵の如来および脇侍などをあらわした塼仏

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

金堂塼仏壁(復元)夏見廃寺展示館展示。

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

正面ではなく、側面をむいた人物像があらわされている。(久野健氏)

・高松塚古墳壁画が天寿国繍張や玉虫厨子絵と異なり、横向きに人物が描かれている点が共通する。(久野健氏)

高松塚古墳壁画 男子像

高松塚古墳壁画 男子群像

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳 女子群像

・塼仏は氏寺に多い。 
飛鳥寺、大官大寺、薬師寺、東大寺などの官立寺院には繍仏(刺繍で表現した仏画)はあったらしいが、塼仏は出土していない。
諸寺の資材帳、七大寺日記などの記事に、法隆寺の壁画のことは記されているが、そのほかの寺で壁画が描かれていたらしい記事は全くない。

法隆寺のように、壁画のある寺院は特異ではないか。(久野健氏)

⑤法隆寺金堂壁画と高松塚キトラ古墳の類似点 輪郭の溝、唇の描き方

・法隆寺壁画は同寺金堂の四面の12の壁画、飛天を描いた壁画20面、天井下の山岳中に座す羅漢を描いた壁画などの総称。
五重塔解体工事の際、当初層の四面の壁にも壁画が描かれていたことがわかり、これも含まれる。(久野健氏)

6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)

6号壁阿弥陀浄土図の部分(焼損後)

・製作年代はかつて和銅年間(708-715)と考えられていたが、現在では(この本の初版の1947年当時)
五重塔壁画・・・和銅年間
金堂壁画・・・和銅よりも遡る
建築様式も五重塔と金堂はかなり差がある。(両者の雲形肘木や柱のちがい)(久野健氏)

・顔料のちがい。
金堂の天井板・・・白・赤(朱)・緑・黒
五重塔の天井板・・・白・赤(ベンガラ)・緑・黒・褐・淡緑・淡褐色
五重塔の壁画の一部・・・赤(ベンガラ)が用いられている。
五重塔の壁画と天井板はほぼ平行して製作されたことをしめす。 (壁面のみ極彩色で天井が素木ではバランスがわるい)
金堂の壁画と天井板もほぼ同時に造られたのだろうが、五重塔とは同時ではないらしいと推定される。(久野健氏)

・壁画の描き方は2種類。
❶壁面に白土か小粉を幅三尺づつ程度に塗り、乾かないうちに粉本に従って絵を描く。一部分が終わると次のパートにうつる。
(乾かない壁に彩色された顔料が壁画の中にしみこんで、乾くと一分ぐらいの層を顔料で形成して堅固に保たれる。色彩は鮮明、容易に剥落しない。完成までに時間がかかる。)
❷壁面全体に白下地を塗り、壁面が乾燥してから膠を混ぜた顔料で壁画を描く。補筆も可能。剥落しやすい。

・法隆寺の壁画は昭和24年の火災の時、消化ポンプの水を浴び彩色が剥落してしまったが、線の部分が釘ぼりになっていることが分かり❶の方法で描かれたらしいと推定された。

・高松塚がどちらの手法で描かれたのかは後の研究をまつしかない。(久野健氏)

キトラ古墳の十二支寅像も、釘でほったような溝がある。

虎像

キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

来村多加史氏は著書「キトラ古墳は語る」の中で次のようにおっしゃっている。

寅像は下絵の線がヘラ状の道具で深く刻まれているために、写真にくっきりと像がうかびあがっている(口絵)。
「キトラ古墳は語る/来村多加史(日本放送出版協会)」p138より引用

・高松塚古墳壁画の男子像の唇の描き方は、下唇を二つの孤線を合わせたように描くが、法隆寺脇侍菩薩に共通する。(久野健氏)

↑ こちらのサイトに法隆寺金堂壁画の画像が多数掲載されている。
その中の「第6壁 阿弥陀浄土 右,  観音菩薩像 頭部 ②」がこちら。↓

高松塚古墳 男子像

高松塚古墳 男子像(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

たしかに唇の描き方は共通している。

・法隆寺壁画は唐美術の影響を受けているが、線質、隈取をほどこす表現はさらに西方美術の結びつきが強い。
法隆寺壁画の線は鉄線描という、肥痩のない弾力性に飛んだ線。
『歴代名画記』によれば、初唐の画家・尉遅乙僧は壁画の名手で「屈鉄盤糸のごとし」と称された。
乙僧は西域・干蘭国の出身。『唐朝名画録』に「凹凸花の中に菩薩を描いた」とあるが、おそらく陰影を施し立体感を出した描法だろう。
この描法が日本に伝わったのではないか。(久野健氏)


⑥高松塚古墳壁画に似た四神像をもつ薬師寺薬師三尊像はいつつくられた?

・高松塚四神図と薬師寺金堂薬師如来台座の四神の関係。
特に青龍は顎にXの模様がある点が同じ。(久野健氏)

青龍✖印

高松塚古墳 青龍

薬師寺 青龍

薬師寺の青龍

・680年、天武天皇は皇后の病平癒を祈って寺と薬師如来像を発願したが、完成を見ずに崩御。
697年、薬師寺薬師如来開眼供養。
710年、平城京へ遷都。
717~729年、西ノ京へ移転。藤原京の薬師寺は元薬師寺として存続した。(久野健氏)

・薬師寺縁起はふたつある。
a. 薬師如来は持統天皇が作った。
b.   平城京で新しく作った。
aが正しいと思う。その理由は、「七大寺巡礼私記」「諸寺縁起集」は持統天皇がつくったとしている。
「醍醐寺本諸寺縁起集」の「薬師寺縁起」は藤原京薬師寺から7日を掛けて運んだとする。
平城京で作ったとする縁起は全て近世以降のもの。(久野健氏)

・岡倉天心が薬師寺を訪れた際、寺僧は「薬師三尊像は天平時代行基が作った」と説明した。
また日光菩薩・月光菩薩の腰のひねりなど、作風が完成しているので、持統期に造られたものではないとする意見がある。
しかし、塼仏を見ると、天智朝末には唐朝様式の影響がはじまっており、山田寺の塼仏など様式的にかなり熟しているように思える。(久野健氏)

薬師三尊像

薬師三尊像

高松塚キトラ古墳壁画を描いたのは黄文本実か?

・黄文連は新撰姓氏録では高句麗の画師となっている。
・推古12年(604年)、黄文の画師を定む、とある。
・669年の第七次遣唐使で渡唐し、671年、土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)を天智天皇に献上した。
・649年に王玄策がインドの華氏城にあった仏足石を写し、中国にもちかえった。
さらに黄文本実が唐の普光寺でうつして日本に持ち帰った。これが薬師寺の仏足石の原図である。
・702年、申正月、黄文本実が殯官の事を司るとある。
・黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際しては、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤めている。
・鋳銭司に任じられたこともある。

・高松塚キトラ古墳壁画の作者は黄文本実とする説がある。
この説の根拠は、❶高松塚、キトラの築造時期と同時期の人物であること ❷他の絵師の名前が伝わらないこと
しかし本実が描いたと伝わる絵は一点もなく、説には根拠がない。(来村多加史氏)

・九州の装飾古墳は高句麗の影響があると言われるが、絵柄に高句麗の影響はないと思う。
龍やガマの絵はあるが形がそれらしいと言うだけで、ほとんど自由画。シロウトが描いたもの。
高松塚のものは専門の画家(高句麗系の黄文連集団の画師?)が描いた。
畿内のほうは朝鮮からの直輸入、北九州はそうではなかったという気がする。
九州のは武人、高松塚は風俗画でまったくちがう。(松本清張氏)

・百済の画氏は早くから渡来してきている。黄文画師の高句麗系技術集団で遅れてやってきたが、新しい技術を携えてやってきて、百済系画氏を圧倒したのかもしれない。
法興寺の丈六の大仏を入れたとき止利は技術をほめられている。
鳥羽の表では王辰爾だけが解読した。(松本清張氏)

止利とは鞍作止利の事だと思う。
605年、推古天皇は一丈六尺の金銅仏と繡仏を各1体ずつの制作を命じ、止利をは造仏の工(担当者)に任じた。
606年、仏像は完成したが、金銅仏の高さが法興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高く、戸を破壊しないと堂内に入れられなかったが、止利の工夫によ って、戸を壊さずに安置することができたという。
具体的にどのような工夫をしたのかについては記されていないようだが、ネットを検索すると光背をはずしたのではないか、というものがあった。
この功績により止利は大仁の冠位に叙せられ、近江国坂田に水田20町を与えられた。
またこの仏像の制作を聞いて、高句麗王が黄金300両を貢したと、日本書記にはある。
松本清張氏は、このことから、止利は高句麗系と考えられているのかもしれない。

王辰爾の話は「鳥羽之状事件」と呼ばれる。
570年、上表文を携えた高句麗の使節がやってきたが、誰もそれをよむことができなかったが
572年、王辰爾が解読した。
上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れて読めなかったが
王辰爾って羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取ることで、解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛された。(日本書記)

上表文を以ってきたのは高句麗の使節だが、王辰爾は第16代百済王・辰斯王の子・辰孫王の後裔である。
松本清張氏は、なぜ高句麗からの帰化人が新しい技術を携えてやってきて、百済系画氏を圧倒した例として王辰爾をあげているのか、わからない。

・黄文は姓が同一系かどうかを決めるのに問題が残る。造とか連とか。(井上光貞氏)

・松本清張氏は百済が古いというが、そうでもない。天智天皇代、白村江で敗れて以降もかなり入ってきている。
僧侶では百済僧、高句麗僧の両方が飛鳥にいる。
黄文にこだわりすぎないほうがいい。(斉藤忠氏)

・広く考えると問題が絞れなくなる。かなり憶測があっても絞ったほうがいい。(松本清張氏)

松本氏は作家らしい、斎藤氏は考古学者らしい意見だな、と思った。
(斎藤忠氏は、この記事の方だと思う。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%BF%A0
これについては、私は松本氏の意見よりも斎藤氏の意見に同意する。

黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際し殯宮の行事を勤めている。
文武天皇の真陵は火葬墓であること、八角墳であることなどを理由に中尾山古墳が確実視されているが
中尾山古墳を発掘調査したところ、石室に水銀朱が塗布されていたが壁画はなかった。
「殯宮の行事を勤めている」という事は、古墳造営に関わっているということだが、彼がかかわった中尾山古墳(真の文武陵)には壁画はなかったので、
黄文本実や黄文氏が高松塚古墳壁画を描いたという証拠がないということになる。

勿論広く見ると焦点は絞れないが、絞った焦点が間違っていれば、結果がちがってきそうだ。
分からないものは分からないとしておくのも科学的な態度ではないかと思う。

ただし、黄文本実や黄文氏が高松塚古墳壁画を描いたと仮定してみると、どうなるかと考えることは有意義かもしれない。
多くの点で辻褄が会えば、高松塚古墳壁画を描いたのは黄文氏である可能性は高くなるかもしれない。

・しかし7世紀半ばごろ、大陸の文物を日本に伝えたのは黄文本実だけではない。
百済や高句麗が滅亡した際、集団で日本に亡命した人の中に、多くの技術者がいた。
(東大寺大仏像造営に成功した国中公麻呂の祖父・国骨富もそのような亡命者のひとりか。)
新羅からも大勢の人がやってきた。こうしてできたのが白鳳文化。(久野健氏)

白鳳(はくほう)は、寺社の縁起や地方の地誌や歴史書等に多数散見される私年号(逸年号とも。『日本書紀』に現れない元号をいう)の一つである。通説では白雉(650年〜654年)の別称、美称であるとされている(坂本太郎等の説)。
『二中歴』等では661年〜683年。また、中世以降の寺社縁起等では672年〜685年の期間を指すものもある。
なお、『続日本紀』神亀元年冬十月条(724年)に聖武天皇の詔として「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」といった記事がみられる。

黄文本実は高句麗系渡来人として日本に住み、遣唐使にも参加したということになり、高句麗と唐、どちらの文化にも関係しているといえる。

ウィキペディア「渡来人」には次のような内容が記されている。
・た飛鳥時代には百済より貴族が日本を頼って渡来した。
・最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王(くだらのこにきし)の氏姓を賜った。
・大和朝廷では優遇され、官人として登用された者も少なくない。
・「新撰姓氏録(815)」に記載される1182氏のうち、326が渡来系氏族で全体の3割を占める。
・諸蕃の出身地は漢が163、百済が104、高麗(高句麗)が41、新羅が9、任那が9。


次回へつづく~


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