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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮-2 壁画は怨霊の慰霊のために描かれた?②



よりつづきます~

前回の記事の追記です。申し訳ありません。

①古墳に天寿国繍張のようなものはかけられていたか?

・森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかという。

天寿国繍張

天寿国繍張

聖徳太子が亡くなった際、太子の妃のひとりである橘大郎女が太子が天寿国に往生した様を東漢末賢・高麗河西溢又らに下絵を描かせ多くの采女に刺繍させたもの。

橘郎女は「太子の死後の世界を絵で見たい」という着想をどこからえたのか。
古墳の中にかけられた絵をみたのかもしれない。(久野健氏)

古墳から天寿国繍張のようなものや、その切れ端が出土したという例はあるのだろうか。



上の動画説明欄に次のような内容が記されている。

・2012/09/27、土浦市坂田の武者塚古墳から出土した布の断片が、7世紀末ごろの「経錦(たてにしき)」と呼ばれる絹織物であることが確認された。

・経錦は奈良県の藤ノ木古墳などで16例以上確認されている。

・「経錦」は、数色一組にした経(たて)糸をそれぞれ1本のように扱い、それに陰緯(かげぬき)と母緯(おもぬき)の2種類の緯(よこ)糸を交互に入れる、複雑な編み方で文様を織り出した高級な絹織物(錦)だ。

・福井県の十善ノ森古墳からの出土例が最古(5世紀後半ごろ)
奈良県の藤ノ木古墳のもの(6世紀後半)、市の風返稲荷山古墳のもの(6世紀)

・武者塚古墳出土の「経錦」は、武者塚古墳に葬られていた6人の遺体の上に掛けられていた。
そのため、遺体の腐敗などの影響で白色化し、文様は確認できない。

経錦について、こちらの記事の写真をみると、かなり絵画的なものもあるが、織物なので、パターン的な柄が多いのではないかと思う。
天寿国繍張のような絵画的なものを作るのは難しかったのではないだろうか。

天寿国繍張のようなものが古墳から出土した例はあるのだろうか。(あれば教えてくださいね)
そういう物が見つかっていないのであれば、古墳に先のまがった釘が規則的に並ぶ例があるとしても、
古墳に天寿国繍張のようなものを掛けたとは言い切れない。

⓶官寺に塼仏はないのか?

・7世紀では塼仏(せんぶつ)が多かった。
凹型に彫り込んだ原型に粘土をつめて像をつくり、焼いたあと、金銀の箔で装飾した土制仏像のこと。
現在、塼仏を壁面にはめ込んだ寺院は一つも残っていない。
しかし、7,8世紀の寺院跡からは多数出土している。

・中国では東魏の543年の銘をもつ塼仏が最も古い。

・650-656年に僧法律が造像したとの銘のある塼仏は、68万4000の像を作った。その構図は長谷寺の法華説相銅板に近い。

長谷寺の法華説相銅板

・日本の塼仏出土例
奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

松本清張氏は次のようにおっしゃっていた。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に拘束されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

官寺には壁画や塼仏がないというのである。

官寺についてウィキ官寺は次のように記している。

「官寺(かんじ)とは、国家の監督を受ける代わりに国家より経済的保障を与えられた寺院。寺格の一つ。狭義には食封や墾田保有権(荘園私有の権利)を国家から与えられて、運営が行われている寺院のことを指すが、広義には朝廷または国衙が伽藍の造営・維持のための費用その他を拠出している寺院を指す[1]。

一般的に大寺(官大寺)と同義と考えられているが、国分寺・国分尼寺も先述の定義に該当するため、広義の官寺に含んで考えられる事も多い。また、これよりも小規模な有封寺(有食封寺)・諸寺と言った寺院も存在した。更に皇室の私寺的色彩の強い勅願寺や有力な貴族・豪族の氏寺であった私寺のうち官の保護を受けた定額寺も官寺に准じて扱われることがある[2]。

中世以降は、幕府が特に保護・帰依した禅宗の寺院を官寺と呼ぶ[3]。」

Wikipedia「官寺」 より引用

パッと読んでも、いまいち意味がわかりにくい。😌
官寺のページには、次の寺の名前があがっている。

百済大寺(後の大官大寺・大安寺)・・・天皇家の発願による最初の官寺
『日本書紀』680年・・・「官司治むる」「国大寺二三」
             大官大寺・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)
『続日本紀』702年・・・「四大寺」/大官大寺・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)・薬師寺
      756年・・・「七大寺」/「四大寺」+興福寺・東大寺・法隆寺
      770年・・・「十二大寺」不明
      791年・・・「十大寺」/「七大寺」+四天王寺・崇福寺・西大寺(あるいは川原寺)
『延喜式』「十五大寺」・・・「十大寺」+唐招提寺・新薬師寺・本元興寺(法興寺から分離、現・飛鳥寺)・東寺・西寺 
              ※本元興寺を外して法華寺を入れる異説がある
              ※梵釈寺や建興寺(豊浦寺、現・向原寺)は「十五大寺」に含まれないが大寺の待遇
              ※戒壇が置かれた観世音寺・下野薬師寺なども大寺の待遇
『拾芥抄』・・・十五大寺/東大寺、興福寺、薬師寺、元興寺、大安寺、西大寺、法隆寺、新薬師寺、不退寺、法華寺、
             超昇寺(超勝寺)、龍興寺、唐招提寺、宗鏡寺、崇福寺
             ※。龍興寺に変わり太后寺を加える説あり

これらの官寺に塼仏があるかどうか確認してみたい。
すなわち、百済大寺(後の大官大寺・大安寺)・川原寺(現・弘福寺)・法興寺(飛鳥寺)・薬師寺・興福寺・東大寺・法隆寺・四天王寺・崇福寺・西大寺・唐招提寺・新薬師寺・東寺・西寺・法華寺・梵釈寺・建興寺・豊浦寺(向原寺)・観世音寺・下野薬師寺・元興寺・不退寺・超昇寺(超勝寺)・龍興寺・宗鏡寺である。
           、
日本の塼仏出土例は、次の寺だった。

奈良10(橘寺、南法華寺、定林寺、紀寺、山田寺、當麻寺、石光寺、楢池廃寺、平隆寺、竜門寺)
大阪1(西琳寺)
京都1(広隆寺)
兵庫1(伊丹廃寺)
三重4(天華寺、額田廃寺、夏見廃寺、愛宕山古墳)
滋賀1(崇福寺)
福井1(二日市廃寺)
広島1(寒水寺)
鳥取1(斉尾廃寺)
長野1(桐林宮洞)
神奈川1(千代遺跡)
福島1(借宿廃寺)
大分1(虚空蔵寺)

この中に上にあげた官寺は存在しない。(ただし法隆寺には壁画が存在していた。)

松本清張氏がおっしゃっていることはおおむね正しいようだ。

やはり、梅原猛氏は法隆寺や出雲大社、高松塚古墳に壁画があるのは、怨霊を祀る寺だからとおっしゃっていたが
そうとはいいがたいと思う。

皇族の墓のいくつかは発掘調査されていると考えられるが、それらの石室には壁画がなかった。
森浩一氏によると、古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があり、中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないかというが、
どうやら天寿国繍張のようなものは出土していないらしい?
布は腐食してしまったのかもしれないが、そのようなものが見つかっていない以上、「有る」とは断言できない。
もちろん「無い」とも断言できないのであるが。

九州の装飾古墳、大阪、鳥取、香川、埼玉にある線刻壁画古墳は皇族の墓ではないだろう。
さらに唐の壁画墳の被葬者を調べたところ、壁画墳の被葬者が怨霊だとは言い切れないように思った。

今回確認したように、官寺には壁画や塼仏壁がなく、私寺には壁画や塼仏壁がある。
壁画のある高松塚キトラ古墳もまた、皇族の墓ではないのではないか?


シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑯ 唇の描き方、横向きのポーズ、黄文本実などいろいろ
へつづく~



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