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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮高松塚キトラ古墳は皇族の墓ではないかも?

よりつづく
①古墳には絵のようなものが掛けられていた?

・古墳の中には壁面に何かをかけたらしい先のまがった釘が規則的に並んでいる例があるらしい。中宮寺の天寿国繍張のようなものを掛けたのではないか。(森浩一氏)

②装飾古墳

装飾古墳と呼ばれる古墳が存在し、特に福岡県、熊本県に多い。
装飾古墳とは、壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾を施した古墳のことである。
高松塚・キトラ古墳も装飾古墳といえるかもしれないが、九州地方の装飾古墳は幾何学的な模様を描いたものなどが多く、繊細なタッチで描かれた高松塚・キトラ古墳とは印象が異なる。


1:36あたりで高松塚古墳壁画の飛鳥美人と呼ばれる女子群像、
2:26あたりで高松塚古墳の四神図
5:43あたりでキトラ古墳の壁画が紹介されている。
キトラ古墳には四神図、十二支像、天文図などが描かれており、四神図は高松塚古墳のものに酷似しており
高松塚古墳と同一人物、または同一グループによって描かれたと考えられている。

高松塚古墳は高句麗壁画古墳や中国の永泰公主墓に似ていると指摘されている。


永泰公主墓の壁画は、たしかに絵のタッチは高松塚のものに似ているように思うが、女性が着ている衣装が異なっている。


こちらは高句麗壁画古墳。
3:09あたりから四神図、9:28あたりからの女性図は襟のデザイン、プリーツを畳んだようなスカートなど、
高松塚のものほとんど同じだ。

下の動画は熊本県のキブサン古墳の壁画。前衛アートのようで高松塚古墳とはずいぶん印象が異なる。



③本当に九州の装飾古墳と高松塚・キトラ古墳は共通点はないのか?

ということは、高松塚古墳と九州の装飾古墳とは別系統なのだろうか。

しかし、装飾古墳のひとつである、竹原古墳の壁画を見て、私はかなりびっくりしてしまった。


3:18あたりから、「さしば」と呼ばれる団扇に似た日よけが描かれている。
高松塚古墳の女子群像が手に持っている団扇も「さしば」であるという。

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳壁画 女子群像

さらに、四神のうち、青龍・玄武・朱雀も描かれている。

絵のタッチは高松塚のものよりも荒いが、抽象絵画のようなチブサン古墳の壁画とも違う。
四神図が描かれているあたり、明らかに中国は朝鮮の影響を受けていると思われる。
高松塚・キトラ古墳を考えるとき、竹原古墳について考える必要はないだろうか。
私はそう思うのだが、あまりそれを指摘する意見は聞かない。私が知らないだけかもしれないが。

竹原古墳が築造されたのは 6世紀後半とされている。(6世紀は501年~600年)
一方、高松塚・キトラ古墳の築造年代について、ウィキペディア高松塚古墳を藤原京期(694年 - 710年)、キトラ古墳を7世紀から8世紀(601年~800年)と記している。
(しかし、高松塚とキトラは同時期に作られたと考えられるので、どちらも藤原京期に作られたものとするのが、定説になっているということだろうか。)

また永池古墳に翳(さしば)を持つ人物が描かれていた。https://saga-museum.jp/museum/files/kanpo015.pdf
翳とは上の高松塚古墳壁画の黄色の着物を北女性が手にもっている団扇のようなものである。

珍敷塚古墳

珍敷塚古墳 キトラ古墳 四神の館似て撮影(撮影可)

古墳には、ガマガエル・鳥(八咫烏?)・日・月のようなものも描かれている。
高句麗壁画古墳には、カエルや八咫烏を描いた喪のがあり、高句麗壁画古墳の影響を受けたものと考えられる。。


高松塚古墳、キトラ古墳にも日、月が描かれているが、高松塚古墳は日像、月像は削られている。

高松塚 日像

高松塚 月像

キトラ古墳の日像、月像について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっている。

・キトラ古墳の日像上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端があり、八咫烏が描かれていたのだろう。
キトラ古墳の月像月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。
ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。(来村多加史氏)

キトラ 日像

キトラ 月像

④線刻の壁画

・線刻の壁画は大阪のほか、鳥取、香川(太刀をさした人物像)、埼玉(地蔵塚)でもでている。
北九州のは民間人による直接の交流、畿内のは正常な国際ルートのもとで発達した絵画だろう(斉藤忠氏)
鳥

柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画

騎馬人物

柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画

高井田

高井田横穴墓 説明版より

レプリカ

柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)

レプリカ

柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)

高井田2

高井田横穴墓 説明板より 照明が暗くてよく見えなかった。

⑤岩戸山古墳は石人が取り囲んでいた。

磐井の墓が反乱軍の対象ということで、それまで外にあった石人、石馬が壊された。それ以降、筑紫では外部の装飾が地下の壁画になった。(原田大六氏)

・原田氏のように簡単に言い切れるかどうか。
ただ磐井でも見られるように、北九州あたりに新羅などと交渉をもって畿内に対抗する意識を持つものはあったかもしれない。(斉藤忠氏)

岩戸山古墳は 6世紀前半に築造された前方後円墳で、被葬者は筑紫君磐井と考えられている。
磐井は527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を妨害し、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱である。
磐井は物部麁鹿火によって斬殺されたと伝わる。
松本氏がおっしゃっている石人石馬は上記動画7:45辺りに登場する。
墳丘・周堤・別区から出土した100点以上の石製品が100点以上出土しており、人物・動物・器財などが実物大で作られている。
原田大六氏はこれら出土した石人石馬を、破壊されたものだと考えたということだろう。

私は斎藤氏に同意で、原田氏のように簡単には言い切れないように思う。

岩戸山古墳 石製品 (模造品)

岩戸山古墳 石製品 (模造品)

岩戸山古墳の石人は興味深いが、埴輪のかわりに石で人形を作ったようにも思える。

⑥官寺には壁画がない。

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に高速されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡_塼仏壁_部分(復元)

すると、古墳に壁画があるのも、官というか、天皇家の古墳ではなく、民間の古墳なのではないか、と思えてくる。

⓻天皇陵は発掘調査されている。しかし壁画はなかった。

高松塚古墳、キトラ古墳に壁画が描かれているのが発見された。
ここから「天皇陵には壁画が描かれているのではないか」という意見があるそうだ。
このような意見がでてくるのは、天皇陵の宮内庁管理下にある古墳の発掘調査が禁止されていて、石室内部の状態などがほとんどわかっていないためだ。

しかし、私は天皇陵には壁画は描かれていないのではないかと考える。

実は天皇陵は発掘調査されている。

天皇陵の治定は江戸時代に適当に決めたものなので、考古学的には正しくないと考えられている古墳も数多くある。
考古学的に天皇陵だと考えられているが、天皇陵とされていない古墳もあるのだ。

例えば継体天皇陵(450年? - 531年?)は大阪府茨木市の「太田茶臼山古墳」に治定されているが、築造時期は5世紀の中頃とされていて、時代があわない。

6世紀前半の築造と考えられている大阪府高槻市の今城塚古墳が考古学的には本当の継体天皇陵と考えられているのだが、天皇陵とされていないため、発掘調査が行われており、古墳の墳丘に登ることもできる。

今城塚古墳に壁画は描かれていたか否か。
残念ながら今城塚古墳を発掘調査したところ、石室を作った石や石棺が発見されなかった。
石室を構成する石は、古墳を上から掘って、盗掘されたと考えられている。
副葬品を盗掘するならまだしも、石室そのものが盗掘されたというのはオドロキである。
城の石垣に石仏や石棺が用いられていることもあるので、今城塚古墳の石室もこのようなものに利用されたのかもしれないが
もしかすると今城塚古墳は破壊されたのかもしれない。

ともかく、石室や石棺が発見されなかったので、今城塚古墳に壁画があったかどうかはわからない。

奈良県明日香村にある牽牛子塚古墳を発掘調査をしたところ、天皇陵に多い八角墳であることがわかり、
二つの石室を持つこと、牽牛子塚古墳の横にもう一つ古墳が発見され「斉明天皇と間人皇女を合葬した墓の前に大田皇女を葬った」という日本書記の記述にあうところから、斉明天皇陵にまちがいないとされている。
ウィキに石室の写真があるが、壁画はない。
但し、牽牛子塚古墳は長い間開口していたので、壁画が剥落した可能性はあるとのこと。

同じく奈良県明日香村にある中尾山古墳も天皇陵に多い八角墳であり、文武天皇陵ではないかといわれているが、天皇陵に治定されておらず、発掘調査が行われた。
これも石槨内部に壁画はなかった。

中尾山古墳 石室内部

中尾山古墳 石槨内部

束明神古墳も八角墳であり草壁皇子の真陵とする説があるが、天皇陵に治定されていないので発掘調査が行われた。
その石室は橿原考古学研究所博物館に復元されているが、やはり壁画はない。

束明神古墳 横口式石槨(復元)内部

束明神古墳 復元石室

マルコ山古墳は発掘調査の結果、30代とみられる男性の骨が見つかった。
川島皇子は34歳でなくなり、越智野に葬られたとされ、年齢はあう。
越智野は奈良県高市郡高取町の北部,及び明日香村西部の低丘陵とされる。
真弓はこの越智野に該当しそうで、場所もあいそうだ。
マルコ山古墳に壁画が描かれていたという話はきかない。壁画が描かれていたのなら、大きく報じられるはずだ。

マルコ山古墳

石のカラト古墳は上円下方墳で7世紀終り~8世紀初頭に造られた古墳と考えられている。
被葬者は天武天皇の皇子で、長皇子(?~715年。弓削皇子兄)6月4日薨去や穂積皇子(?~715年)ではないかと考えられている。
ここも発掘調査されているが、壁画は発見されていないようだ。

天武持統合同陵が確実視されている野口王墓は鎌倉時代に盗掘にあい、その際の記録が阿不幾乃山陵記に記されているが、壁画があったという記録はない。
暗くて壁画が確認できなかったのではないかとする意見もあるが。

聖徳太子廟はかつて中に人が入ることが出来たそうだがやはり壁画があったというような話はきかない。

⑧高松塚キトラ古墳の被葬者は皇族ではないかも❔

⓻でのべたように皇族の墓には壁画がない可能性が高いように思われる。
そして九州の装飾古墳、大阪、鳥取、香川、埼玉にある線刻壁画古墳はまず皇族の墓ではないだろう。
さらに官寺には壁画や塼仏壁がなく、私寺には壁画や塼仏壁があるという。
壁画のある高松塚キトラ古墳もまた、皇族の墓ではないのではないか?

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑮ 壁画は怨霊の慰霊のために描かれた?
へつづく~


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