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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓾ 十二支は地獄の亡者を責めている?

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①十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟 (来村多加史氏)

・二十四方位は次の図のようになる。(来村多加史氏)

二十四方位

二十四方位


上の記事で
「『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。」
「黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡が未の方向に描かれていることを発見した。」
とする来村氏の発言について記した。

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図

図2

②黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。(来村多加史氏)

私はこの来村氏の意見には納得できない。
麒麟は置き換えられていないと思う。
図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

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漢代、猫はペットとして飼われていなかった?

・子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は?、巳は虫(蛇)、午は鹿、未は馬、申は環(猿に通じる)、酉は水(雉に通じる)、戌は老未、亥は豚。(秦代行政官の墓に副葬された巻物「日書」)
秦(紀元前905年 - 紀元前206年)の時代、干支は現在のものとちがっている。(来村多加史氏)

・後漢(25年 - 220年)時代の『論衡』に記されている干支は現在と同じ。(来村多加史氏)

・辰は貝、巳は蛇をあらわす漢字。(来村多加史氏)

・干支の虎,辰以外は身近な動物。(来村多加史氏)

・干支が整った漢代に猫は身近な存在ではなかった。猫がペットとして飼われるのは早くても南北朝時代。(来村多加史氏)

「5,300年前の中国遺跡で「飼いネコ」を発見」という記事があり、泉湖村で住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見し、その中に穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。(人間がネコに餌を与えていた。)

「漢代に猫が身近な動物でなかった」というのは疑問である。
私の友人に之を話したところ、「猫と虎はどちらもネコ科の動物でかぶるので、猫は省いたのではないか」と意見をいただいた。

④干支は人を仙境へ導いているのではなく、地獄から悪いものが出ないように見張っているのかも?

・山西省右玉県大川村で発見された銅温酒樽(河平3年の紀年銘文がある。河平3年は紀元前26年)
上段には虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁など。朱雀がはばたいている。(上空をあらわす)
下段には地穴から龍が顔をだし、足を踏ん張る虎がいる。仙人が山岳を駆ける。(低い位置をあらわす。)
伝統的な昇仙図。動物たちが人を仙境へ導く。(来村多加史氏)

虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁が上段にいるのは、人を上段の仙境へ導いているからだと来村氏はおっしゃりたいのだろうが、そうであるならば、なぜ上段には人が描かれていないのだろうか。

・山西省離石氏午茂省 三号墓
前室から奥に、向かって左側の壁に馬車に乗って昇天する被葬者が描かれる。
その下には龍にのる仙人、さらにその下には戟(武器の一種)をつく鶏頭人身の門番がたつ。
右側の壁には婦人を乗せた車、その下には笏(官人が書きつけをする板)を持つ牛頭人身の門番がたつ。

鶏頭人身の門番、牛頭人身の門番は、何を守っているのだろうか。
天国へ悪い物が入らないように、天国の入り口を守っていると考えることもできるだろうか。
それは言い換えれば地獄に堕ちた悪い物が外に出ないように地獄の出口を守っているということでもある。

戟とは鉾のような武器である。(詳しい説明はこちらを参照。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9F
笏とは、官人が書きつけをするための板を意味する漢字である。
この尺に地獄に堕ちた者の罪状を記すのだろうか?
また地獄を支配し、死者を裁く閻魔は尺をもっている。

桜町延命地蔵 閻魔大王2

山西省離石氏午茂省 三号墓の笏を持つ牛頭人身の門番は、閻魔大王のような神格を持っているのかもしれない。

・天鶏が毎朝太陽のカラスを呼ぶという伝説がある。
牽牛は牛に助けられて天に上ったという伝説がある。
そういった伝説から天の門番に抜擢されたのかも。(来村多加史氏)

日本では、鶏は伊勢神宮の神使いとされる。
伊勢神宮は太陽神・天照大神を祀る神社である。
太陽と鶏が結びついたのは、鶏が朝一番にコケコッコーとなくところから、鶏が朝(=太陽)を呼ぶと考えられたのではないかと思う。

牽牛はその名前のとおり、「牛を牽く若い男」という意味だろう。これは「牛を牽く童子」と言ってもいいと思う。
967年施行の日本の延喜式には次のように記されている。
「大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。」
なぜこのようなことをするのだろうか。
牛は干支の丑を表すものだと思う。丑は12カ月では12月を表す。

干支

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符である。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわす。
つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないかと思う。

・婁叡墓〈570年)のドーム天井壁画
上部 天体
その下 十二支
    十二支の動物たちは右に向かって進んでいる。
    十二支のほかに描かれている聖獣は人の悪い心を読み取る「カイチ」か。
その下 雷神四神、10個の太鼓をたたく雷神も描かれる。
その下 被葬者を載せた牛車(来村多加史氏)

http://ea-art-history.jp/found.html 上記記事の図30、図26に写真がある。
ここに登場する雷神は、日本では菅原道真の怨霊とされている。
菅原道真は藤原時平の讒言によって流罪となり失意のうちに没し、その後、清涼殿に落雷があって道真流罪に関わった人達が大勢死亡した。このため、清涼殿落雷は怨霊の仕業と考えられた。

雷神について、中国では日本とは違った見方をしているかもしれないが、
もしも中国も日本と同様の考え方であるとすれば、被葬者を乗せた牛車は、怨霊である雷神の下で天に向かっているということになる。
そしてその雷神の上にいる十二支は、地獄の出口と、天国の入り口を守っているのではないか。

⑤キトラ古墳壁画の十二支像の顔の向きは一定ではなかった。

高松塚古墳のような女子群像、男子群像はキトラ古墳にはなく、十二支像が描かれていた。


上記記事には次のような内容が記されている。
・キトラ古墳では獣頭人身の十二支像は6体確認されていた。
・文化庁が泥に覆われている部分を蛍光エックス線を使って分析。
「十二支」の辰・巳・申にあたる場所に顔料の成分の水銀や銅の反応が検出された。
・データをもとに可視化すると、「巳」は衣装や舌が2つに割れている様子などほぼ全身が確認できた。

リンク先には新たに見つかった辰・己・申像の映像もある♪

キトラ古墳石室に十二支すべてが描かれていたと仮定してみる。
「キトラ古墳 四神の館」で確認したところ、寅は「東壁、向かって左」に、午(うま)は「南壁、中央」に描かれていた。
すると、十二支の配列はたぶん、下図のようにこうなっているのだと思われる。

方角を表す十二支

虎像

寅像 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の石室でこれまでに確認された十二支などの壁画は、古代中国の思想を背景に、東の方角は「青」、西は「白」、南は「赤」、北は「黒」と、それそれ異なる色で塗り分けられていた可能性が高いと考えられています。

とあるので、退色しているが、たぶん寅は青い着物をきていたのだろう。

午像

午像 キトラ古墳 四神の館にて撮影

午(うま)像は南に位置しているので赤い着物をきている。
「逆像ながら現れた十二支 午の姿です」とあるのは、絵の上に泥がへばりついていてとりのぞくことができなかったが
絵の保存のため、漆喰を剥がしたところ、裏から漆喰の上に塗った赤い顔料が見えていたので、泥ではなく、漆喰の方を丁寧にはがしていった。
そうしたところ、逆像として午像の姿が現れたということである。
研究者の方々や作業をされた方の感動が、私にも伝わってくるように感じられる。

上の絵は向かって右を向いているが、実際の像は寅像と同じく向かって左をむいていたということになる。

さきほどもご紹介したこの記事に登場する己像は、寅像、午像と違って左(向かって右)向きになっている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

↑ これは韓国金庚信墓十二支像/拓本(キトラ古墳 四神の館にて撮影)である。
金庚信墓十二支像は墓石室の壁画ではなく、墓の周囲にめぐらした石に刻まれたものである。

十二支の顔は、キトラ古墳の寅像、午像と同じく全て右(向かって左)を向いている。
ところがキトラは十二支の顔の向きが全て同じではなく、異なっているものもあるということになる。

金庚信墓十二支像はほとんどの像が両手に武器を持っているように見えるが、巳像のみ、右手だけに武器を持っているように見える。

キトラの巳像は右手に何かを持っていることはわかるが、手元が不明瞭で左手に何かもっているかどうかはわからない。
キトラの辰も右手に武器を持っているのが確認できるが、左手、顔の向きはわからない。
申は顔の向きも武器の有無も確認できない。

寅・午のほか、肉眼で確認されている子・丑・戌・亥の画像を下に示す。
キトラ  子丑戌亥

子は右向きで左手はわからないが右手には武器をもっていそうである。
丑は右手に武器を持っているのはわかるが、顔の向き左手はわからない。
戌亥は着用している着物しかわからない。

⑥キトラ古墳は新羅の影響を受けている?

⑤で手に武器を持っていたと書いたが、これについて来村氏は次のようにおっしゃっている。

・子像・丑像は赤い棒状の盾(鉤鑲/こうじょう)をもっている。(来村多加史氏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A4%E9%91%B2 に鉤鑲の写真、説明あり。

・鉤鑲は後漢時代に流行した武具で、湾曲した太い鉄の棒で敵の刀を受け止める。(来村多加史氏)

・キトラに描かれた鉤鑲は房飾りがついているので、実用ではないだろう。舞人舞踏に用いられたか。(来村多加史氏)

・寅像は房飾りのついた鉾をもっている。(来村多加史氏)

キトラ古墳 四神の館にあった説明版には
「手に武器をもっている点は中国の意匠ではみられない特徴ですが、仏教の影響とも鮮半島の影響とも言われています。」と書いてあった。

十二支像が描かれているのは韓国の金庚信墓である。

金庚信(きむ ゆしん、595年 - 673年)は、伽耶王家の血を引く人物で、三国時代の新羅の将軍である。
660年、新羅は高句麗と百済の麗済同盟に対抗して、唐と組んで百済へ進軍、百済を滅ぼした。
663年(天智2年)、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍との間で戦争がおこる。
唐・新羅連合軍はこれに勝利し、さらに668年に高句麗も滅ぼしている。
金庚信はこれらの戦いで活躍した。

唐での十二支像は西安出土の加彩十二支俑がある。

上の記事をよむと「12体の俑を各方角へ配置することで、墓内に侵入する邪気を払う役割を果たしていたと考えられる。」と
「大唐皇帝陵」展カタログ には記されているようである。

この方のブログはその他にも、
四川万県唐墓出土 青磁十二支俑新羅の十二支像(景徳王陵)なども紹介してくださっている。

ここで思い出すのは土淵正一郎氏の見解である。
土淵氏は、次のような内容を述べておられた。

❶・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。(土淵正一郎氏)

❷高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。(土淵正一郎氏)

❸高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか。(土淵正一郎氏)

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。(土淵正一郎氏)


キトラもまた新羅の影響を受けているといえるだろうか。

⓻キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

・子像、丑像、寅像は右前で襟をあわせる。(来村多加史氏)

右前とは着物の襟の右を先に合わせることである。

舞妓

上は北野天満宮の節分会で撮影したものだが、舞妓さんは右前で着物を着ている。

左前

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳の女子群像をみると、左前のように見える。
右前で着物を着るのは、719年の「衣服令」で定められたという。
高松塚古墳の女子群像が左前になっていることから、719年までは左前で着物を着用していたと考えられているようである。

A.その中で着物の着方について庶民は右前、高貴な人は左前と決められたのです。しかし、亡くなったときのみは庶民も高貴な人と同じように左前で着ても良いと法令で定められました。

また奈良時代は人が亡くなると神様や仏様となるために、現世とは違う左前の服装をするという発想もありました。

黄泉の世界で良いことがあるようにという願いを込めた風習という説も存在します。

上の記事で書いてあることは事実だろうか。
衣服令の規定を読んでみたいと思ったが、残念ながら見つからなかった。
しかし、こう書いてある記事はあった。

なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。

「百姓」とは、現在では農業従事者のことをさす。
しかし、本来は「a天下万民」を指す語であった。
しかし、古代末期以降に「b被支配者階級」をさす言葉となり、明治ごろになって「c農業従事者」を指す言葉になったとされる。
もちろん、「初令天下百姓右襟」の「百姓」は「a天下万民」の意味だろう。
Aの記事はこれを、bcの意味だと誤認してしまったのではないだろうか。

高松塚、キトラ古墳に似ているといわれる高句麗壁画古墳、唐の壁画古墳の人物像をいくつか確認したところ、右前だった。

右前になっているキトラ古墳は719年以降に築造されたのだろうか。

このように考えることはできないだろうか。

現在では死に装束は左前で着付けするのが一般的である。
高松塚古墳とキトラ古墳は四神像などが酷似しているので、同時期に造られたと仮定する。
(四神像が似ているからといって、同時期に造られたとは断定できないが)

高松塚キトラが作られたとき、キトラの十二支像のように右前が一般的だった。
高松塚はキトラと同時期に造られたが、死に装束として壁画人物を左前に描いた。


⑧十二支は地獄で亡者を責める?

来村氏は「十二支は人を仙境に導くお供」だと仰るが、本当にそうだろうか。
婁叡墓は570年ごろつくられたものだが、そのころの中国にはすでに仏教が伝えられていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

上の絵は ウィキペディア「閻魔」にあったものである。

画像が小さくて確認しづらいのだが、閻魔大王の向かって右には羊の顔の人がいる。
向かって左の人は牛の顔をしているように見える。
針の木の下にいる人は馬の顔、釜の向かって右にいる人は龍だろうか。
釜の向かって左の人も動物のような耳がある。
その下には虎の顔をした人が死者を運んでいる。テーブルの上の人を料理している人は鶏の顔だ。

そして獣頭人体のものたちが手に持っている武器は、韓国金庚信墓十二支像が手にもっている武器と同じようなものがある。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めているが、中国の閻魔庁に仕えるのは鬼ではなく、動物の顔をした人(神)のようである。

上は朝鮮の地獄絵だが、泰廣大王の下にやはり動物の顔をした人がいる。

もしかして、これは十二支ではないか?

しかも獣頭人体の姿はキトラ古墳や韓国金庚信墓のものと同じである。

タイトルは「地獄の法廷を描いた中国の仏画」とあるだけで、描かれた時期、場所、作者などは示されていない。
なので、古より十二支が地獄の亡者を責める、という信仰があったかどうかわからないのが、もどかしい。

キトラ古墳の壁画に描かれた十二支はもしかして地獄の責め苦を行う役割を担う神なのだろうか?

中国に仏教が伝わったのは、紀元67年とされるが、前漢の時代(BC2年)には伝わっていたという話もある。
いずれにしても、唐(618年 - 907年)代の中国に仏教は確実にあった。
問題は、十二支が地獄の亡者を責めると言う信仰がいつごろからあったかである。

⑨四天王、十二神将は四神、十二支に対応する?

薬師三尊像

薬師三尊像〈薬師寺)

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置するものである。

左右は薬師如来からみた場合の左右である。
なので、拝観者からみれば、向かって右が日光菩薩、向かって左が月光菩薩となる。

薬師三尊像を上から見た図

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうである。
すると薬師三尊像の中央に安置される薬師如来は星を神格化した仏ということになり、陰陽道の宇宙観にあっている。

また記紀によればイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
すなわち、スサノオは星の神ということである。
船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。

薬師本尊を中心とした仏教の世界は、日光・月光菩薩、四天王のほかに十二神将が周囲を取り巻くもので、願興寺にはこの十二神将も一体もかけることなく現存している。

上の記事に記されているように、薬師如来の周囲に四天王や十二神将が安置されることがある。

そして十二神将は十二支を神格化した仏だと考えられる。

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神。

すると、仏教の薬師如来を中心とする世界は陰陽道の宇宙観を示したものだと考えられる。
また、それは中国の神と次のように対応しそうである。※()内は中国の神

方角       如来・菩薩(星・日・月) 四天王(四神)   十二神将(十二支)

中央・・・・・・・薬師如来(星)
北・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多聞天(玄武)・・・亥神(亥)・子神(子)・丑神(丑)
東(左)・・・・・日光菩薩(日)・・・・・・持国天(青龍)・・・寅神(寅)・卯神(卯)・辰神(辰)
南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増長天(朱雀)・・・午神(午)・未神(未)・申神(申)
西(右)・・・・・月光菩薩(月)・・・・・・広目天(白虎)・・・酉神(酉)、戌神(戌)、亥神(亥)

中国や朝鮮はどうか知らないが、日本では神仏は習合して信仰されていた。
そして梅原猛氏によれば、古には神と怨霊は同義語であったという。
現在でも怨霊を祀る神社は多数存在している。
各地に御霊神社という名前の神社があるが、御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことでもともとは怨霊出会った人々を神として祀っているのである。

陰陽道では怨霊(荒魂)は、神として祀り上げると、人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えたという。

そして仏教の神々は、そういった怨霊である神々に「恨み」や「祟ってやる」という煩悩を捨てさせ、悟りを開いて「人々にご利益を与える存在」と考えられたのではないかと思う。

すると陰陽道の神と考えられる星、日、月、四神、十二支などは陰の存在、
仏教の薬師如来(星)、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将は陽の存在と考えられないだろうか。

日本に仏教が伝来したのは552年説、538年説などがあって、舒明天皇代(629- 641年)には百済大寺が、6世紀末には飛鳥寺や四天王寺が創建されたとみられている。

高松塚・キトラ古墳は646年の薄葬令以降に作られた古墳である可能性が高い。
つまり、すでに仏教は伝わっていたが、高松塚・キトラ古墳は仏式ではなく、神式(陰陽道)で祀られた墓だと考えられそうである。

そして仏教=陽、神道=陰と考えると、少なくとも日本においては、墓に描かれた十二支は被葬者を守護する目的で描かれたとは言い切れないように思う。

もしかすると、被葬者を守護するというよりは、被葬者の霊魂が迷い出ないように、十二神将が被葬者の霊魂を見張っているのかもしれない。


⓾キトラ古墳と隼人石は関係がある?

ここで、聖武天皇皇太子那富山墓の隼人石についてみておくことにしよう。

那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせるではないか!

現在は4石だが、もともとは12石存在した可能性があるとされる。
が、現在は4石のみ残されている。
江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。


第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。

第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。

第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている


大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。はやといし
杜本神社 隼人石

⑪杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?

先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。

境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。

藤原永手 墓誌2

藤原永手の墓碑
藤原永手 墓誌

藤原永手の墓碑

上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えないが。「王」「里」のように見える。

藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。

日本霊異記紀にこんな話がある。

藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。

もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。

いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、先ほどもご紹介したこの中国の仏画である。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。

キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。

⑫聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?

隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。
ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」

被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。

基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。
那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?
1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?

彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。
彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。
称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
称徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?

藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。

藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。

⑬日本の地獄絵に登場する動物たち

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものが多いが、よく見ると動物もいるので、ご紹介したい。(画質悪くてすいません)

西福寺 地獄絵 龍

西福寺 地獄絵 龍

西福寺 地獄絵 馬

西福寺 地獄絵 馬 ※もっともこれはおそらく畜生道を書いたもので、亡者が馬に変身させられた姿を描いた喪のだと思う。そばには黒鬼がいて馬になった亡者を責めているように見える。

西福寺 地獄絵 牛

西福寺 地獄絵 鶏、牛、羊、兎、己、犬など十二支の動物が確認できる。

西福寺 地獄絵 蛇

西福寺 地獄絵 人間の顔をした蛇

西福寺 地獄絵 

西福寺 地獄絵 獣頭人身の像。頭部は馬のように見える。

西福寺 地獄絵 牛2

西福寺 地獄絵 獣頭人身の像(牛)





高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑭中国の地獄絵は十二支が亡者を責める?


トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、他の資料からの引用は青色文字で、私の感想などはグレイの文字であらわす。

①漢代、猫はペットとして飼われていなかった?

・子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は?(読めないのだろう。)巳は虫(蛇)、午は鹿、未は馬、申は環(猿に通じる)、酉は水(雉に通じる)、戌は老未、亥は豚。(秦代行政官の墓に副葬された巻物「日書」)
秦(紀元前905年 - 紀元前206年)の時代、干支は現在のものとちがっている。

・後漢(25年 - 220年)時代の『論衡』に記されている干支は現在と同じ。

・辰は貝、巳は蛇をあらわす漢字。

・干支の虎,辰以外は身近な動物。

・干支が整った漢代に猫は身近な存在ではなかった。猫がペットとして飼われるのは早くても南北朝時代。


・中国中央部の遺跡である泉湖村では、約6,000年前から人間が定住していた。
・考古学者らは泉湖村で、住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見した。
・見つかった骨は約5,300年前のもの。
・食生活の分析から、イヌ、ブタ、ネズミは穀類を食べており、ネコは、穀類を食べる動物を狩っていた。
・遺跡の発掘で、ネズミが貯蔵穴の近くに住んでいたことがわかった。
・狩りよりも穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。(人間がネコに餌を与えていた。)

「漢代に猫が身近な動物でなかった」というのは疑問である。
私の友人に之を話したところ、「猫と虎はどちらもネコ科の動物でかぶるので、猫は省いたのではないか」と意見をいただいた。

⓶干支は人を仙境へ導いてくれる?

・山西省右玉県大川村で発見された銅温酒樽(河平3年の紀年銘文がある。河平3年は紀元前26年)
上段には虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁など。朱雀がはばたいている。(上空をあらわす)
下段には地穴から龍が顔をだし、足を踏ん張る虎がいる。仙人が山岳を駆ける。(低い位置をあらわす。)
伝統的な昇仙図。動物たちが人を仙境へ導く。
虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁が上段にいるのは、人を上段の仙境へ導いているからだと来村氏はおっしゃりたいのだろう。

しかし、そうであるならば、なぜ上段には人が描かれていないのだろうか?

・山西省離石氏午茂省 三号墓
前室から奥に、向かって左側の壁に馬車に乗って昇天する被葬者が描かれる。
その下には龍にのる仙人、さらにその下には戟をつく鶏頭人身の門番がたつ。
右側の壁には婦人を乗せた車、その下には笏を持つ牛頭人身の門番がたつ。
・天鶏が毎朝太陽のカラスを呼ぶという伝説がある。
牽牛は牛に助けられて天に上ったという伝説がある。
そういった伝説から天の門番に抜擢されたのかも。

日本では、鶏は伊勢神宮の神使いとされる。
伊勢神宮は太陽神・天照大神を祀る神社である。
太陽と鶏が結びついたのは、鶏が朝一番にコケコッコーとなくところから、鶏が朝(=太陽)を呼ぶと考えられたのではないかと思う。

牽牛はその名前のとおり、「牛を牽く若い男」という意味だろう。これは「牛を牽く童子」と言ってもいいと思う。
967年施行の日本の延喜式には次のように記されている。
「大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。」
なぜこのようなことをするのだろうか。
牛は干支の丑を表すものだと思う。丑は12カ月では12月を表す。

干支

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符である。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわす。
つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないかと思う。

・婁叡墓〈570年)のドーム天井壁画
上部 天体
その下 十二支
    十二支の動物たちは右に向かって進んでいる。
    十二支のほかに描かれている聖獣は人の悪い心を読み取る「カイチ」か。
その下 雷神四神、10個の太鼓をたたく雷神も描かれる。
その下 被葬者を載せた牛車

・十二支は人を仙境に導くお供であり、方位の鎮守でもある。

③十二支は地獄で亡者を責める?

来村氏は「十二支は人を仙境に導くお供」だと仰るが、本当にそうだろうか。
婁叡墓は570年ごろつくられたものだが、そのころの中国にはすでに仏教が伝えられていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

上の絵は ウィキペディア「閻魔」にあったものである。

画像が小さくて確認しづらいのだが、閻魔大王の向かって右には羊の顔の人がいる。
向かって左の人は牛の顔をしているように見える。
針の木の下にいる人は馬の顔、釜の向かって右にいる人は龍だろうか。
釜の向かって左の人も動物のような耳がある。
その下には虎の顔をした人が死者を運んでいる。テーブルの上の人を料理している人は鶏の顔だ。

そして獣頭人体のものたちが手に持っている武器は、韓国金庚信墓十二支像が手にもっている武器と同じようなものがある。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めているが、中国の閻魔庁に仕えるのは鬼ではなく、動物の顔をした人(神)のようである。

上は朝鮮の地獄絵だが、泰廣大王の下にやはり動物の顔をした人がいる。

もしかして、これは十二支ではないか?

しかも獣頭人体の姿はキトラ古墳や韓国金庚信墓のものと同じである。

タイトルは「地獄の法廷を描いた中国の仏画」とあるだけで、描かれた時期、場所、作者などは示されていない。
なので、古より十二支が地獄の亡者を責める、という信仰があったかどうかわからないのが、もどかしい。

キトラ古墳の壁画に描かれた十二支はもしかして地獄の責め苦を行う役割を担う神なのだろうか?

中国に仏教が伝わったのは、紀元67年とされるが、前漢の時代(BC2年)には伝わっていたという話もある。
いずれにしても、唐(618年 - 907年)代の中国に仏教は確実にあった。
問題は、十二支が地獄の亡者を責めると言う信仰がいつごろからあったかである。

④四天王、十二神将は四神、十二支に対応する?

薬師三尊像

薬師三尊像〈薬師寺)

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置するものである。

左右は薬師如来からみた場合の左右である。
なので、拝観者からみれば、向かって右が日光菩薩、向かって左が月光菩薩となる。

薬師三尊像を上から見た図

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうである。
すると薬師三尊像の中央に安置される薬師如来は星を神格化した仏ということになり、陰陽道の宇宙観にあっている。

また記紀によればイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
すなわち、スサノオは星の神ということである。
船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。

薬師本尊を中心とした仏教の世界は、日光・月光菩薩、四天王のほかに十二神将が周囲を取り巻くもので、願興寺にはこの十二神将も一体もかけることなく現存している。

上の記事に記されているように、薬師如来の周囲に四天王や十二神将が安置されることがある。

そして十二神将は十二支を神格化した仏だと考えられる。

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神。

すると、仏教の薬師如来を中心とする世界は陰陽道の宇宙観を示したものだと考えられる。
また、それは中国の神と次のように対応しそうである。※()内は中国の神

方角       如来・菩薩(星・日・月) 四天王(四神)   十二神将(十二支)

中央・・・・・・・薬師如来(星)
北・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多聞天(玄武)・・・亥神(亥)・子神(子)・丑神(丑)
東(左)・・・・・日光菩薩(日)・・・・・・持国天(青龍)・・・寅神(寅)・卯神(卯)・辰神(辰)
南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増長天(朱雀)・・・午神(午)・未神(未)・申神(申)
西(右)・・・・・月光菩薩(月)・・・・・・広目天(白虎)・・・酉神(酉)、戌神(戌)、亥神(亥)

中国や朝鮮はどうか知らないが、日本では神仏は習合して信仰されていた。
そして梅原猛氏によれば、古には神と怨霊は同義語であったという。
現在でも怨霊を祀る神社は多数存在している。
各地に御霊神社という名前の神社があるが、御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことでもともとは怨霊出会った人々を神として祀っているのである。

陰陽道では怨霊(荒魂)は、神として祀り上げると、人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えたという。

そして仏教の神々は、そういった怨霊である神々に「恨み」や「祟ってやる」という煩悩を捨てさせ、悟りを開いて「人々にご利益を与える存在」と考えられたのではないかと思う。

すると陰陽道の神と考えられる星、日、月、四神、十二支などは陰の存在、
仏教の薬師如来(星)、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将は陽の存在と考えられないだろうか。

日本に仏教が伝来したのは552年説、538年説などがあって、舒明天皇代(629- 641年)には百済大寺が、6世紀末には飛鳥寺や四天王寺が創建されたとみられている。

高松塚・キトラ古墳は646年の薄葬令以降に作られた古墳である可能性が高い。
つまり、すでに仏教は伝わっていたが、高松塚・キトラ古墳は仏式ではなく、神式(陰陽道)で祀られた墓だと考えられそうである。

そして仏教=陽、神道=陰と考えると、少なくとも日本においては、墓に描かれた十二支は被葬者を守護する目的で描かれたとは言い切れないように思う。

もしかすると、被葬者を守護するというよりは、被葬者の霊魂が迷い出ないように、十二神将が被葬者の霊魂を見張っているのかもしれない。

⑤高松塚・キトラの被葬者は南枕だった?

先ほど、私は次のようなことを述べた。

・記紀にイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
・イザナギの顔は宇宙空間に喩えられており、イザナギの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神。
・薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置する。
左右は薬師如来からみた場合の左右。
・薬師如来は星の神

星の神とはキトラ古墳天文図の中央に描かれた赤い円(内規/1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲)の中にある、北極星(地球の自転軸は歳差運動といって独楽がぶれるような動きをしているため、北極星は時代によって異なる。地球の歳差運動の周期は約25800年。)または北辰(天の北極)の神だと思う。

高松塚星宿図では図の中央にある星宿「北極(星宿名であり、天の北極の意味ではない。)」「四輔」、または北辰の神だろう。

つまり、北極星または北辰からみて左が東、右が西ということだ。
キトラ高松塚
キトラ天文図 高松塚古墳星宿図 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

高松塚の星宿図やキトラの天文図は、石室に眠る被葬者が北枕で寝かされた状態で、空を見上げたときに、向かって右が月、向かって左が日がくるようなレイアウトになっている。

天井に描かれている図の側からみれば、左に月、右に日があるという状態になり
これでは「イザナギの左目から天照大神(日)が、イザナミの右目から月読命が(月)が生まれたという記述とあわなくなってしまう。

キトラ 被葬者は北枕?

上の図は「キトラ古墳 四神の館」で展示されていたものである。
被葬者は北枕で寝かされている。
この状態であれば、被葬者が見上げた空は上のキトラ天文図のように、被葬者の右手(向かって左)に月、被葬者の左手(向かって右)に日が見える。

キトラ古墳は木棺も朽ちてしまったのかほとんど残っていない状態だった。
人骨と歯は10点(4点は歯、6点は頭の骨の破片) http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200406180048.html
のみ発見されているが、盗掘にあっており、その際に動かされた可能性もある。

北極星や北辰からみれて、左手に太陽、右に月がある状態にしようと思ったら、南枕にする必要があると思う。
高松塚、キトラ古墳の被葬者はもしかしたら南枕だったという可能性も考えてみた方がよさそうに思える。

あるいは、地下の石室内で北枕で左手側を日、右手側を月とし、
これを反対側の地上から見下ろしたときには右手側が日、左手側が月になるように天文図・星宿図を描いているのは
何か意味のある呪術なのかもしれない。

高松塚星宿図についてだが岸俊男氏が次の様に言っておられることにも注意しておきたい。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられる。
もしそうだとすれば、朝賀の儀式の詳細を記した貞観儀式に男子人物像は「舎人を率いて先頭の〇〇に立つ」とに規定された官人だと考えることができる。(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

唐や高句麗の壁画古墳にも日月が描かれたものは多いと思うのだが、被葬者の向きはどうなっているのだろうか。
どうやらこれを調べてみる必要がありそうである。

⑥壁画を描いたのは黄文本実説には根拠がない。

・高松塚、キトラの壁画を描いたのは黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)だとする説がある。
・黄文氏は高句麗系氏族。
・669年の第七次遣唐使で渡唐し、671年、土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)を天智天皇に献上した。
・薬師寺の仏足石は本実が唐の普光寺で転写した図面をもとにしたとする記録がある。
・この説の根拠は、❶高松塚、キトラの築造時期と同時期の人物であること ❷他の絵師の名前が伝わらないこと
・しかし本実が描いたと伝わる絵は一点もなく、説には根拠がない。
・キトラ古墳の四神図は7世紀半ばから8世紀初頭にかけての唐墓壁画の四神図に最もにている。

来村氏はこのように述べているが、白虎の前足比較図が掲載されているだけなので、キトラが唐、キトラ古墳の四神図は7世紀半ばから8世紀初頭にかけての唐墓壁画の四神図に似ているかどうかは今のところ判断できない。
唐や高句麗の壁画古墳についての書籍などを調べてみた上で判断したい。

⓻十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟

・二十四方位

二十四方位




上の記事で
「『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。」
「黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡が未の方向に描かれていることを発見した。」
とする来村氏の発言について記した。

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図


図2

⑧黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。

私はこの来村氏の意見には納得できない。
麒麟は置き換えられていない。図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑬ キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

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今回も前回にひきつづき、『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』を参考資料として考えてみる。
来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、他の資料からの引用は青色文字で、私の感想などはグレイの文字であらわす。

①キトラ古墳壁画の十二支像の顔の向きは一定ではなかった。

高松塚古墳のような女子群像、男子群像はキトラ古墳にはなく、十二支像が描かれていた。

このうち「十二支」を人をかたどった姿で描いた壁画はこれまで6体が確認されていましたが、今回、文化庁が泥に覆われている部分を蛍光エックス線を使って分析したところ、「十二支」の「辰(たつ)」と「巳」、それに「申(さる)」にあたる場所に顔料の成分とみられる水銀や銅の反応が検出されたということです。
データをもとに可視化すると、このうち「巳」とみられる像では衣装をまとった姿や顔の部分から伸びた舌が2つに割れている様子などほぼ全身が確認できました。
~略~
このうち十二支の像は、▼東の壁に描かれた「寅(とら)」のほか、▼南の壁の午(うま)と▼西の壁の戌(いぬ)、▼それに北の壁の亥(い)、子(ね)、丑(うし)のあわせて6体の像が肉眼で確認されています。
残り6体のうち、▼東の「卯(う)」、▼南の「未(ひつじ)」、▼西の「酉(とり)」の3体については、それぞれ描かれていたと考えられる場所のしっくいがはがれ落ちていてすでに失われているとみられています。
一方、▼東の「辰(たつ)」、▼南の「巳(み)」、▼西の「申(さる)」が描かれていたとみられる場所は、しっくいが泥に覆われた状態だったため文化庁などはこの部分をはがしとって保存し、壁画が残っていないか科学的な方法で調査を続けていました。
リンク先には新たに見つかった辰・己・申像の映像もある♪

キトラ古墳石室に十二支すべてが描かれていたと仮定してみる。
「キトラ古墳 四神の館」で確認したところ、寅は「東壁、向かって左」に、午(うま)は「南壁、中央」に描かれていた。
すると、十二支の配列はたぶん、下図のようにこうなっているのだと思われる。

方角を表す十二支

虎像

寅像 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の石室でこれまでに確認された十二支などの壁画は、古代中国の思想を背景に、東の方角は「青」、西は「白」、南は「赤」、北は「黒」と、それそれ異なる色で塗り分けられていた可能性が高いと考えられています。

とあるので、退色しているが、たぶん寅は青い着物をきていたのだろう。

午像

午像 キトラ古墳 四神の館にて撮影

午(うま)像は南に位置しているので赤い着物をきている。
「逆像ながら現れた十二支 午の姿です」とあるのは、絵の上に泥がへばりついていてとりのぞくことができなかったが
絵の保存のため、漆喰を剥がしたところ、裏から漆喰の上に塗った赤い顔料が見えていたので、泥ではなく、漆喰の方を丁寧にはがしていった。
そうしたところ、逆像として午像の姿が現れたということである。
研究者の方々や作業をされた方の感動が、私にも伝わってくるように感じられる。

上の絵は向かって右を向いているが、実際の像は寅像と同じく向かって左をむいていたということになる。

さきほどもご紹介したこの記事に登場する己像は、寅像、午像と違って左(向かって右)向きになっている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

↑ これは韓国金庚信墓十二支像/拓本(キトラ古墳 四神の館にて撮影)である。
金庚信墓十二支像は墓石室の壁画ではなく、墓の周囲にめぐらした石に刻まれたものである。

十二支の顔は、キトラ古墳の寅像、午像と同じく全て右(向かって左)を向いている。
ところがキトラは十二支の顔の向きが全て同じではなく、異なっているものもあるということになる。

金庚信墓十二支像はほとんどの像が両手に武器を持っているように見えるが、巳像のみ、右手だけに武器を持っているように見える。

キトラの巳像は右手に何かを持っていることはわかるが、手元が不明瞭で左手に何かもっているかどうかはわからない。
キトラの辰も右手に武器を持っているのが確認できるが、左手、顔の向きはわからない。
申は顔の向きも武器の有無も確認できない。

寅・午のほか、肉眼で確認されている子・丑・戌・亥の画像を下に示す。
キトラ  子丑戌亥

子は右向きで左手はわからないが右手には武器をもっていそうである。
丑は右手に武器を持っているのはわかるが、顔の向き左手はわからない。
戌亥は着用している着物しかわからない。

⓶高松塚・キトラ古墳は新羅の影響を受けている?

①で手に武器を持っていたと書いたが、これについて来村氏は次のようにおっしゃっている。

・子像・丑像は赤い棒状の盾(鉤鑲/こうじょう)をもっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A4%E9%91%B2 に鉤鑲の写真、説明あり。
・鉤鑲は後漢時代に流行した武具で、湾曲した太い鉄の棒で敵の刀を受け止める。
・キトラに描かれた鉤鑲は房飾りがついているので、実用ではないだろう。舞人舞踏に用いられたか。(来村氏)
・寅像は房飾りのついた鉾をもっている。

キトラ古墳 四神の館にあった説明版には
「手に武器をもっている点は中国の意匠ではみられない特徴ですが、仏教の影響とも鮮半島の影響とも言われています。」と書いてあった。

十二支像があるのは金庚信墓である(墓の周囲の護石に浮彫として刻まれている。)

金庚信(きむ ゆしん、595年 - 673年)は、伽耶王家の血を引く人物で、三国時代の新羅の将軍である。
660年、新羅は高句麗と百済の麗済同盟に対抗して、唐と組んで百済へ進軍、百済を滅ぼした。
663年(天智2年)、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍との間で戦争がおこる。
唐・新羅連合軍はこれに勝利し、さらに668年に高句麗も滅ぼしている。
金庚信はこれらの戦いで活躍した。

唐での十二支像は西安出土の加彩十二支俑がある。
http://www.hitsuzi.jp/2011/10/1911sheep.html
「12体の俑を各方角へ配置することで、墓内に侵入する邪気を払う役割を果たしていたと考えられる。」と
「大唐皇帝陵」展カタログ には記されているようである。
この方のブログはその他にも、
四川万県唐墓出土 青磁十二支俑新羅の十二支像(景徳王陵)なども紹介してくださっている。

ここで思い出すのは土淵正一郎氏の見解である。
土淵氏は、次のような内容を述べておられた。

❶・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。


❷高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。

❸高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか。

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。


キトラもまた新羅の影響を受けているといえるだろうか。

③キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

・子像、丑像、寅像は右前で襟をあわせる。

右前とは着物の襟の右を先に合わせることである。

右前

上は北野天満宮の節分会で撮影したものだが、舞妓さんは右前で着物を着ている。

左前

高松塚古墳の女子群像をみると、左前のように見える。
右前で着物を着るのは、719年の「衣服令」で定められたという。
高松塚古墳の女子群像が左前になっていることから、719年までは左前で着物を着用していたと考えられているようである。

A.その中で着物の着方について庶民は右前、高貴な人は左前と決められたのです。しかし、亡くなったときのみは庶民も高貴な人と同じように左前で着ても良いと法令で定められました。

また奈良時代は人が亡くなると神様や仏様となるために、現世とは違う左前の服装をするという発想もありました。

黄泉の世界で良いことがあるようにという願いを込めた風習という説も存在します。

上の記事で書いてあることは事実だろうか。
衣服令の規定を読んでみたいと思ったが、残念ながら見つからなかった。
しかし、こう書いてある記事はあった。

なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。

「百姓」とは、現在では農業従事者のことをさす。
しかし、本来は「a天下万民」を指す語であった。
しかし、古代末期以降に「b被支配者階級」をさす言葉となり、明治ごろになって「c農業従事者」を指す言葉になったとされる。
もちろん、「初令天下百姓右襟」の「百姓」は「a天下万民」の意味だろう。
Aの記事はこれを、bcの意味だと誤認してしまったのではないだろうか。

高松塚、キトラ古墳に似ているといわれる高句麗壁画古墳、唐の壁画古墳の人物像をいくつか確認したところ、右前だった。

それでは右前になっているキトラ古墳は719年以降に築造されたのだろうか。
あるいは、何か理由が会って右前になっているのだろうか。 >

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑫ キトラ古墳の天文図、四神 ※追記有8月18日

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


図書館で『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』という本を借りることができたので、今回はこれを参考史料として考えてみることにした。

読んでみると、この本は「キトラ古墳は語る」というタイトルではあるが、中国の墓の壁画、四神の歴史などについて多くのページをさく内容となっていた。
しかし参考になる点は数多くあったので、それについて記していきたいと思う。
来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、それについての私の感想などはグレイの文字であらわす。

①キトラ古墳の天文図には大きな星が4つある。

キトラ古墳 天文図

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

・キトラ古墳では4つの星が故意に大きかった。4星のうち、3つは北半球における可視領域の限界、外規に近い場所。
めったに見れない星。
大星のひとつは冬季に地上すれすれに観測される老人星。

これについて検索したところ、次の様に書いてある記事があった。

キトラ古墳天文図の星の大きさは直径約6mmで星によらずほぼ同じだが,3星のみ大きく,直径約9mmある.大きいのは,図で「天狼」「土司空カ」「北落師門カ」と書いてあるもので,天狼はα CMa(シリウス)で,同定に間違いはないと思われるが,土司空は β Cet,北落師門は α PsA(フォーマルハウト)で,位置の差が大きいので,星の同定が違っている可能性がある.ただし,この2星は,この付近に他に目立つ星がないので,なぜこれらの星だけ大きく書かれたのかは謎である.
「キトラ古墳天文図の解析 - 国立天文台」より引用(http://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/history5/21Soma.pdf

来村多加史氏は大きい星は4つだと記しておられるが、国立天文台の記事では3つとある。
実物を確認できないので、どちらが正しいのかわからない。

この4つ(または3つ)の星が大きく描かれていたのはなぜか。
中国の占星術を勉強すればその意味がわかるかもしれない。(お手上げ状態?)😂

上の写真の天文図は分かりやすいように、「天狼」「土司空」「北落師門」を緑色で、「老人星」はオレンジ色に変更した。(本来は他の星々と同じ色/実物は金箔が貼られている。)

⓶天文図に描かれた4つの赤い円は何を表している?

キトラ古墳の天文図に描かれた4つの赤い円。うち二つの円は交差している。
いったいこの円は何なのかと思っていたが、来村多加史氏が本の中で説明してくださっていた。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道

地球の自転軸は公転軸から23.4度傾いているので、天の赤道と黄道は春分点と秋分天を交点として斜めにまじわる。

赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。(宮島一彦氏説)

来村氏が「観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない」とおっしゃっているのは、「赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になる」とする宮島氏の説に対する批判なのだ。
宮島氏がどのようにして緯度を38度と計算したのか確認してみる必要がありそうに思うが
計算の苦手な私に宮島氏の計算が理解できるかどうか自信がない。😚

③キトラの天文図が日本で作られたとは思えない。

キトラ古墳の天文図は不正確ではあるが、同時代の中国・朝鮮の墳墓ではこれほどの天文図は見つかっていない。
そうではあるが、来村多加史氏はこのキトラの天文図を、飛鳥時代の日本で作るのはムリで、外国からもちこんだものだろうとする。
その理由は次のとおり。

・602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。

・天文図の作成には渾天儀が必要だが、日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)

明時代の渾天儀のレプリカ

明時代の渾天儀のレプリカ

上は民時代の明時代(1368年~1644年)の渾天儀のレプリカだが、中国では古くから渾天儀を用いており、前漢(紀元前206年 - 8年)のころ、すでに渾天儀が存在していたようである。

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。

水運儀象台
水運儀象台

・このような中国の進んだ天文学を考えると、キトラ古墳天文図は日本製ではないと思われる。

④二十八宿について

・キトラ、高松塚は二十八宿を表している。
二十八宿は月の交点周期を測る基準、星の座標をきめる基準、占星術に用いられた。
墓の二十八宿は占星術として描かれたのだろう。

・月の周期は29.53日。地球の公転は1か月で30度。
月が次の満月の位置にくるまでには地球を実際に1回転するよりも余分に2日かかる。(地球が太陽の周囲を公転しているため)
上記リンク先にわかりやすい図解がある。)
この誤差を引いた月の公転周期を恒星月といい、約27.32日
月が一夜毎に天体の中を動いていく様子を調べるには、一恒星月を整数とした27日か28日を単位として、
天球を27か28等分して目安となる星座を設定すればよい。
二十八宿のほか、二十七宿があるのはそのため。

・中国天文学では星の緯度は天の北極からの角度によって表示される。(去極度)
星の経度は入宿度 二十八宿を基準点として計測された
二十八宿の基準点は 西端の星(距星)
二十八宿は赤道からかなり外れる星座も含まれる。

・二十八宿の使い道のひとつに天文占がある。(星占い)
天体の異常現象(日食、月食、流星、彗星)が発生した場所の二十八宿が吉凶の判断基準となる。
二十八宿と人間社会との連帯を決定づける説(分野説)
本来、地球の方角を天球に投影することはできないが(地球は自転しているため)
黄道と赤道が交わる春分点を天の東方(地の西方)秋分天を天の西方(地の東方)の定点として天球に東西南北を与えた。
二十八宿にも方角が与えられる。(東西南北に7宿づつ)
人界の動向を天界の変異で語るため、宿ごとの支配地を論じた。(分野説)

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

⑤キトラ日像・月像

キトラ日像は金箔が剥がされている。上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端がある。八咫烏が描かれていたのだろう。
(永泰公主の墓にある八咫烏と一致する。)
月像も銀箔が剥がされている。月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。

http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/heya0/kantyou57.htm
(リンク先にイラストあり)

キトラ 日像

キトラ 月像

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)
上の写真に大星が写り込んでいる。「土司空」だろう。

ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。

どちらにも同様の海島と海が表現されているので)赤線は日の出、日の入りの海の色。

来村氏は海だとおっしゃるが、梅原氏は雲だとおっしゃっていた。
どちらが正しいかわからないが、日・月を雲の上に乗せる表現は後年の熊野勧心十戒曼荼羅や北野天満宮の三光門にもみられる。
ただし、キトラ古墳壁画のように線であらわすのではなく、もくもくとした雲である。

熊野勧心十戒曼荼羅

熊野勧心十戒曼荼羅

三光門 月?

北野天満宮 三光門

⑥四神の起原

・西水玻遺跡 新石器時代の貝殻絵(貝殻を並べて東に龍と西に虎が描かれている)
北側の足元には人の大腿骨日本と三角形に敷き詰めた貝殻を組み合わせてひしゃくの形をつくっていた。
北斗七星か?
墓の南20mほどの場所には龍、虎、虎の背に乗る鹿、龍の頭に近づく雲が貝殻で表現されていた。
其の25mほどのところにも竜虎がある。

↑ こちらの記事に図がしめされていた。

・上村嶺虢国墓(じょうそんれいかくこくぼ/春秋時代)から出土した鳥獣紋鏡は、上に鹿、下に鳥、向かって右に虎、向かって左に龍が描かれている。
四匹が頭を向ける方向を北として、鏡背に方角を与えると東に虎、西に龍、となって
西水玻遺跡の貝殻絵やのちの四神図と龍と虎の方角が逆だが、図を頭上に挙げて下から見れば直る。
古い時代には玄武は登場しない。

「四匹が頭を向ける方向を北として、鏡背に方角を与えると東に虎、西に龍、となって西水玻遺跡の貝殻絵やのちの四神図と龍と虎の方角が逆だが、図を頭上に挙げて下から見れば直る。」とある。

私はこの文章の意味がわからず、3日(!)考えてようやく意味がわかった。

四神図は一般的に次のようなレイアウトで描かれる。

四神図

東(向かって右)が青龍、西(向かって左)が白虎である。
ところが、鳥獣文鏡は、向かって右には虎、向かって左に龍が配置されていて、一般的な四神図と虎・龍の位置が反対になっている。

鳥獣文鏡

しかし、上の図を頭上にあげて、鹿を北、鳥を南の方角に向けると、虎は西、龍は東の方角にくると、
そういう事をおっしゃっているのだと思う。

・戦国時代初期 曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土した衣装箱 
蓋上面に斗の字が描かれ、周囲に二十八宿の字が並ぶ。
南西に白虎、北東に青龍、龍型の面に舟形、虎方に蛙、南東には何も描かれていなかった。
鳥は他の衣装箱に描かれていたが、玄武は登場しない。

この衣装箱の図は先ほどもリンクを張らせていただいた上の記事に図が掲載されている。

玄武が描かれていないことに注意するのはもちろんだが、他の衣装箱には描かれていても、この衣装箱の南に何も描かれていなかったというのも個人的には気になる。
高松塚古墳壁画の朱雀は盗掘穴があけられたため、紛失されたとされているが
梅原猛氏は「最初から朱雀は描かれていなかったのではないか」と意見を述べられている。

↑ これは高松塚古墳南壁の盗掘穴(レプリカ)だが、盗掘穴は壁の上部にあけられている。

高松塚古墳壁画_(複製)

高松塚古墳壁画_(複製)

朱雀が描かれていたとすれば、玄武と同じくらいの位置に描かれていたのではないかと思う。
盗掘穴はこれよりも高い位置にあけられているように思うのだが、どうだろうか。
そういうわけで、梅原氏がおっしゃるとおり、朱雀は初めから描かれていなかったようにも思われる。

追記
朱雀が描かれていた場所については上に書いた通りだが、どうも盗掘穴があけられた際に、北壁の漆喰がはがれおちてしまい、その結果、漆喰の上に描かれていたと考えられる朱雀が失われたと考えられているようだ。
梅原氏は朱雀が描かれていたのならば、顔料ぐらいは残りそうだとおっしゃっているが、どうだろうか。
今後の研究をまちたいと思う。

「天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。」
と梅原氏は書いておられた。

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
しかし南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができないという呪術的しかけなのだろうかと考えたりした。

衣装箱の場合だと、大事な衣装が外にでていかない。つまり、衣装持ちになれる。そういうわけで朱雀を描いていないのではないかと考えるのは、トンデモだろうか?(笑)

・昔の大型土洞墓では、青龍、白虎、朱雀が描かれるが玄武はあまり描かれない。

玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

玄武

高松塚古墳 玄武(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

青龍

青龍(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
※青龍は脱色が激しく、頭部・胸部・前脚が残っているだけなので、高松塚古墳壁画から書き起こしたのだろう。
高松塚とキトラの白虎像は大変よく似ているため、青龍も似ていたかもしれない。

青龍

青龍

青龍 高松塚壁画館

高松塚 青龍(高松塚壁画館)

朱雀

朱雀(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
向かって右の翼は、向かって左の翼から復元された。
先ほども述べたように、高松塚古墳には朱雀像はなかった。
(一般的には盗掘穴に描かれていたと考えられている。梅原猛氏は「初めから描かれていなかった」とされる。)

朱雀

朱雀(キトラ古墳 四神の館にて撮影)

白虎

白虎(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎とよく似ているが、向きが逆になっている。

白虎

白虎 高松塚 (高松塚壁画館にて撮影)

キトラのように向かって右向きに描かれる白虎は珍しいとのこと。
なぜキトラの白虎は逆向きに描かれたのだろうか?




















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