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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew ⑫  高松塚・キトラ古墳は南枕かも?

トップページはこちら。 →「シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew① 高松塚・キトラ古墳のある場所」

 よりつづく


間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①天子南面す

・天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。(梅原猛氏)

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
古代中国で指南車が作られ、指北車が作られなかったのは(人形の向きを変えるだけで指北車はつくれる)、そのような思想に基づくものだと思う。

中国の国家の創立者である黄帝・軒轅が指南を用いたという伝説があり、
張衡(78年 - 139年)や馬鈞(生没年不明。三国時代(184年一280年)の学者)が実際に指南車を製作したという。

日本では斉明天皇4年(658年)と天智天皇5年(666年)に製作されたという。(日本書紀)


・蒲生君平は南面していることを陵墓(皇室関係の墓)のひとつの条件としてあげる。
喜田貞吉は「後期古墳の横〇(漢字がよめない 汗)が南面して開口しているのは、天子南面からくるものか」としている。(小林恵子氏)

・中国では「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」とし、北向きに葬る。(小林恵子)

中国では陵墓はほとんど北枕だということろうか。

②高松塚・キトラの被葬者は南枕だった?

記紀にイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
陰陽道の宇宙観では、東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするのだという。
高松塚古墳、キトラ古墳はまさしくこの陰陽道の宇宙観に基づいて壁画が描かれている。

高松塚 解体実験用石室

高松塚 解体実験用石室案内板(飛鳥資料館)より

キトラ展開図

キトラ展開図 キトラ古墳壁画体験館 四神の館にて撮影

すると、イザナギの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神と考えられる。

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置する。
左右は薬師如来からみた場合の左右。

薬師三尊像を上から見た図

星の神とはキトラ古墳天文図の中央に描かれた赤い円(内規/1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲)の中にある、北極星(地球の自転軸は歳差運動といって独楽がぶれるような動きをしているため、北極星は時代によって異なる。地球の歳差運動の周期は約25800年。)または北辰(天の北極)の神だと思う。

高松塚古墳星宿図では中心にある星宿「北極」「四輔」または北辰の神だろう。
キトラ高松塚
キトラ天文図 高松塚星宿図 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

つまり、北極星または北辰からみて左が東、右が西ということだ。

高松塚の星宿図やキトラの天文図は、石室に眠る被葬者が北枕で寝かされた状態で、空を見上げたときに、向かって右が月、向かって左が日がくるようなレイアウトになっている。
天井に描かれている図の側からみれば、左に月、右に日があるという状態になり
これでは「イザナギの左目から天照大神(日)が、イザナミの右目から月読命が(月)が生まれたという記述とあわなくなってしまう。

キトラ 被葬者は北枕?

上の図は「キトラ古墳 四神の館」で展示されていたものである。
被葬者は北枕で寝かされている。
この状態であれば、被葬者が見上げた空は上のキトラ天文図のように、被葬者の右手(向かって左)に月、被葬者の左手(向かって右)に日が見える。

キトラ古墳は木棺も朽ちてしまったのかほとんど残っていない状態だった。
人骨と歯は10点(4点は歯、6点は頭の骨の破片) http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200406180048.html
のみ発見されているが、盗掘にあっており、その際に動かされた可能性もある。

北極星や北辰からみて、左手に太陽、右に月がある状態にしようと思ったら、南枕にする必要があると思う。
高松塚、キトラ古墳の被葬者はもしかしたら南枕だったという可能性も考えてみた方がよさそうに思える。

あるいは、地下の石室内で北枕で左手側を日、右手側を月とし、
これを反対側の地上から見下ろしたときには右手側が日、左手側が月になるように天文図・星宿図を描いているのは
何か意味のある呪術なのかもしれない。

もしかしたら、被葬者が北極星の神であるという考えがあったのかもしれない。
北極星からみて太陽の定位置である東は左、月の定位置である西は右になるので、被葬者を北極星の神に見立て、被葬者を北枕にしたのだろうか。

小林恵子氏が述べておられるように、中国では「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」とされていたのであれば、皇帝は北極星の神に見立てられていたため、北向きに葬られていた、とも考えられそうだ。

↑ 知恵袋だが、質問に次のようにある。

「中国歴代の帝王の陵墓は多くが南向きに作られていて、生前に王として南面していたことを示しているんですよね?でも秦では始皇帝に至るまでの陵墓は東向きに作られていて始皇帝の陪葬墓群、兵馬俑によって構成された陣形もすべてが同じく東を向いています。」上記記事より引用

どうやら東向きの陵墓もあるようである。

・高松塚の場合は「天子南面」の意識があったかもしれない。
高松塚の遺骨は散乱してどちら向きとは確定できないが、壁画の従者たちがすべて南向きに歩いていく様子から、南向きに葬られた可能性がある。(小林恵子氏)

朝賀の儀式のとき、広場には大勢の人が集まるのだろう。
そして天皇は大極殿にいて、広場にいる人々の拝賀をうけるのだから、南向きに座していることになる。
広場にいる人々は北向きにたって、大極殿を望む。これは「天子南面す」である。

ところが、高松塚の壁画に描かれた人々は南を向いているので、被葬者が天皇で、壁画に描かれた人々の群臣のほうをむいているとすると天皇は南枕で北を向いていることにならないだろうか。
「天子南面す」とはならない。


「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167には次のような内容が記されている。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられる。
もしそうだとすれば、朝賀の儀式の詳細を記した貞観儀式に男子人物像は「舎人を率いて先頭の〇〇に立つ」とに規定された官人だと考えることができる。(岸俊男氏)

高松塚古墳の被葬者は南枕の可能性があるという。
そして、壁画の人物は舎人で、被葬者は舎人を率いて先頭に立つとおっしゃっている。

「先頭に立つ」ということは、被葬者は壁画の人物と同じ方角を向いていなければおかしいのではないか?
被葬者が壁画の人物と同じ方角を向く、ということは、被葬者は北枕で南を向くことになるのではないだろうか。

北枕の場合

南枕だと、被葬者は北を向くことになり、壁画の人物像と対面するような形になるのではないか?

南枕の場合

③高松塚古墳の棺は木棺

・乾漆棺は聖徳太子墓にもあるが阿武山古墳など天武陵の時代に多い。(森浩一氏)

・乾漆と木棺に漆を塗った棺はちがう。
牽牛子塚古墳は十数枚の布をはった乾漆棺。高松塚のものは乾漆が主体ではなく、木棺が主体。木棺に漆が塗られている。
・高松塚の棺は横によっていたが、意識して寄せたのか、盗掘でゆがんだのか。(末永雅雄氏)

”麻布や和紙を漆で張り重ねたり[1]、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて形作る方法である。”
ウィキペディア「乾漆造」より引用


つまり乾漆棺とは、麻布や和紙を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練ったもので形づくった棺の事を言うのだろう。
高松塚のものはこのような方法ではなく木棺に漆が塗られているということだ。

・脱乾漆の手法を用いたもの・・・夾紵棺(きょうちょかん)
 木心乾漆・・・乾漆木棺
 木棺に漆だけを塗る・・・漆木棺
 石棺に漆を塗ったもの

1.石棺に漆が塗られているもの・・・菖蒲池古墳
2.陶棺に漆が塗られているもの・・・恩坊山三号墳
3木棺に漆が直接塗られているもの・・・御嶺山古墳
4.木棺に布を張り漆塗り・・・・・・・・高松塚古墳
5.炭化物に布を張り漆塗り/・・・・・・塚穴山古墳
6.布を漆で張り合わす夾紵棺・・・・・牽牛子塚古墳・阿武山古墳・天武陵・聖徳太子陵・安福寺蔵品
(伊達宗康氏)

・漆喰純度は95%で、中尾山古墳と高麗(任那地方)の壁画古墳と一致。新羅系、旧任那刑の漆喰技術が用いられたと考えられる。
但し、高松塚は鉛含有量が0.28%で高い。(他の古墳は0.01%)

・漆塗木棺は檜とされていたが、昭和52年12月に杉と訂正された。
板の厚さは1.6cm、底・両側板・両木口板共、一枚板。銅釘で止める。
内、外とも板に麻布を二枚重ね、木糞漆で固めた上に鉛白を下地にして朱を塗り、外面には漆を3,4回塗った上に全体に金箔が貼られていた。
布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。(伊達宗康氏)

・漆塗木棺の出土例は多い(大阪府茨木市初田二号墳、大阪府羽曳野市御嶺山古墳、マルコ山古墳など)(伊達宗康氏)

・百済王家との慣例を指摘。(扶余にある百済末期の陵山古墳のほとんどの石室から棺に用いたと思われる金箔辺と棺飾金具が出土しているため)(猪熊兼勝)

・木棺に貼られていた布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。(小林恵子氏)

・高松塚多量鉛分
「『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「古代漆喰の化学分析で新しく得られた二、三の知見について」
高松塚古墳の漆喰に鉛成分が多量に含有されている。
古代の漆喰の原料・貝殻には鉛は微量。高松塚の漆喰のみ多量。(安田博幸)

・鉛は棺の部分で多量に観測される。鉛は棺から流出した?(土淵正一郎氏)

・保刈成男 毒殺(雪華社刊) 古代ローマでは鉛管をもちいていた。この水は甘く、鉛糖と呼ばれた。
鉛糖は酢酸鉛 酸化塩が洗髪や化粧に用いられて害をもたらした。(鉛害)
漆喰でなく、被葬者が原因であれば、被葬者は毒殺の可能性がある。(土淵正一郎氏)

・金銅製花文座金具の類例は、牽牛子塚古墳出土のもの、御嶺山古墳出土のものがある。(網干善教氏)

座金具

高松塚 壁画館にて撮影

牽牛子塚古墳 座金具

牽牛子束古墳出土 金銅製八花形飾金具

・座金具は半島から日本に及ぶが、いずれも夾紵棺(きょうちょかん)または漆塗り木棺に付着している。(網干善教氏)

・高松塚古墳には棺台はない。牽牛子塚古墳、阿武山古墳、聖徳太子墓にはある。(岸俊夫氏)
御嶺山古墳は高松塚に似ている。切石を使っているが、棺台がある。

御嶺山古墳 棺台

御嶺山古墳 棺台

・終末期古墳の時代は合葬が多い。(牽牛子塚古墳、天武・持統陵、菖蒲池古墳)が高松塚は最初から合葬を意図していない。(ふたつの棺を置くスペースがない)(岸俊夫氏)

・天武ごろからの伝世品が正倉院などにあるのは、天皇が火葬されて副葬品が墓に治められなくなったからかも。(岸俊夫氏)

・床面に棺座とか棺台のようなものはなかった。(伊達宗康氏)

・高句麗とはちがった簡素な棺室。(伊達宗康氏)

・持統5年以降、日本書記に賻物(ふもち/ふもつ 死者に贈る品物)の記事がある。
賻物の初見が持統5年以降。直前の持統3年に浄御原令が出されている。
浄御原令に喪葬令賻物条があり、それに従って葬送を実施していたのだろう。
古代葬制史上、浄御原令(689年)の影響は大きい。(秋山日出雄氏)

・大化の薄葬令(646年)には王以上には轜車(きぐるま/棺を運ぶ車)を用いると規定されている。
養老喪葬令葬具条には、親王・一品・太政大臣には轜車を用いると規定されている。
木棺(たぶん石棺では車で運べないということだと思う)実例から考えると漆棺を運んだのだろう。(秋山日出雄氏)

・高松塚の古墳の規模は大化薄葬令にあっているし、出土した棺は漆棺であるので、薄送令(薄葬令の誤りと思われる)や浄御原令以降に作られたものだろう。(秋山日出雄氏)

・羨道(えんどう)はない。(伊達宗康氏)

・終末期には羨道が短くなったり、なくなっていく。(松本清張氏)

羨道、墓道、玄室の意味は下記イラストがわかりやすい。横穴各部の名称

柏原市立歴史資料館 説明板より

・高句麗、百済、扶余、公州には高松塚のような横口式石槨はない。(斉藤忠氏)

”横穴式石室(よこあなしきせきしつ)とは、中国の漢代に発達し、日本では古墳時代後半に盛んに造られるようになった古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓制[1]。中国前漢代の中原で多くつくられ、前漢中期以降、中国全域に普及した塼室墓に起源をもつ。
~略~
横穴式石室は、中国の漢代に塼で築いたものが発達した[2]大陸系の墓制であり[3]、朝鮮を通過して日本に伝えられたものである[4]。具体的には、高句麗の影響が、5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して日本にも伝播したとみられ、主に6世紀から7世紀の古墳で盛んに造られた。”

6世紀の終わりから7世紀に広まる、新しい埋葬(まいそう)の施設(しせつ)
横口式石槨 - 全国こども考古学教室より引用

横穴式石室・・・
・古墳の横に穴をうがって遺体を納める玄室へつながる通路に当たる羨道(せんどう)を造りつけた石積みの墓制
・ルーツは中国であり、高句麗、百済、伽耶諸国を経由して日本に伝わった。
例として、石舞台古墳、岩屋山古墳などがあげられている。

横口式石槨・・・
・磨いた石を組みあわせて、棺の置き場を作ったもの。横穴式石室とは違い、一人を埋葬するための施設。
例として、鬼の爼・鬼の雪隠、牽牛子塚古墳、高松塚古墳、キトラ古墳、中尾山古墳、束明神古墳、石のカラト古墳などがあげられている。

斉藤忠氏によれば、「百済、扶余、公州には高松塚のような横口式石槨はない」という。
この横口式石槨は横穴式石室よりも時代が新しく、サイズも横穴式石室よりも小さいものが多いのは646年の薄葬令によるものだと思う。

・島根県には横口式の石棺でありながら、石室のような恰好を示したものがある。大阪の横穴式石室で奥の方にああいうものを特に設けて棺を設置しているが、そういうものの影響をうけているかもしれない。(斉藤忠氏)

・高松塚の様な横口式石槨に羨道をつけたものは河内にある。
羨道がなくて似ているのは、平城宮跡のカラト古墳。(斉藤忠氏)

石のカラト古墳 墳丘

石のカラト古墳

石のカラト古墳は上円下方墳で7世紀終り~8世紀初頭に造られた古墳と考えられている。
被葬者は天武天皇の皇子で、長皇子(?~715年。弓削皇子兄)6月4日薨去や穂積皇子(?~715年)ではないかと考えられている。


シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑥ 副葬品・出土品 
へつづく~






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