fc2ブログ
2024 0112345678910111213141516171819202122232425262728292024 03

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓻ 高松塚星宿図・キトラ天文図・二十八宿


・『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』における来村多加史氏の意見
・『黄泉の王』における梅原猛氏の意見

上記はピンク色で、
ネット記事の引用は青色で、私の意見などはグレイの文字で示す。

間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

②星宿について。

・天井の二十八宿は中心の北斗七星が欠落している。(梅原猛氏)

高松塚古墳 星宿図

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影 撮影可)

古星図に見る歴史と文化 

リンク先4ページ 図3にトルファン・アスターナ古墳の星宿図が掲載されている。
この星宿図の左上に8つの星で構成される柄杓の形をした星宿があるが、高松塚古墳星宿図では同じぐらいの位置に6つの星で構成される斗がされる描かれている。
これは北斗七星とは別の星から構成される星宿である。
従って、アスターナ古墳も北斗七星を欠くといえるかもしれず、高松塚古墳の星宿が異常かどうかは慎重に判断する必用がありそうである。

高松塚星宿図

高松塚星宿図

③キトラ星宿図には大きく描かれた星がある。

キトラ天文図

・キトラ古墳では4つの星が故意に大きかった。4星のうち、3つは北半球における可視領域の限界、外規に近い場所。
めったに見れない星。
大星のひとつは冬季に地上すれすれに観測される老人星。(来村多加史氏)

これについて検索したところ、次の様に書いてある記事があった。

”キトラ古墳天文図の星の大きさは直径約6mmで星によらずほぼ同じだが,3星のみ大きく,直径約9mmある.大きいのは,図で「天狼」「土司空カ」「北落師門カ」と書いてあるもので,天狼はα CMa(シリウス)で,同定に間違いはないと思われるが,土司空は β Cet,北落師門は α PsA(フォーマルハウト)で,位置の差が大きいので,星の同定が違っている可能性がある.ただし,この2星は,この付近に他に目立つ星がないので,なぜこれらの星だけ大きく書かれたのかは謎である。”
キトラ古墳天文図の解析 - 国立天文台 より引用

来村多加史氏は大きい星は4つだと記しておられるが、国立天文台の記事では3つとある。
実物を確認するのは難しいので、どちらが正しいのかわからない。

キトラ天文図4


④天文図に描かれた4つの赤い円は何を表している?

キトラ古墳の天文図に描かれた4つの赤い円。うち二つの円は交差している。
いったいこの円は何なのかと思っていたが、来村多加史氏が本の中で説明してくださっていた。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道 (来村多加史氏)

言葉にするとわかりにくいが、下の動画の図で見るとわかりやすいと思う。
2:49あたり・・・天の赤道
10:47あたり・・・黄道


地球の自転軸は公転軸から23.4度傾いているので、天の赤道と黄道は春分点と秋分天を交点として斜めにまじわる。

この動画の10:47あたりに登場する図を見ると黄道は理解できるのだが、キトラ天文図は地球上から天球を見上げた図である。
空間認識能力の弱い私には、地球上から見て黄道がこのような形に見えるというのが理解できなかった。😂

下の動画のように、地球は24時間かけて反時計回りに1周している。
そのため、太陽は毎日東から出て西へ進むわけである。


1年の太陽の動きは下の図のようになる。
下の図は夏至、春分・秋分、冬至のみ描いているが、太陽の動きを全て描き入れるとすると
コイルのように描くことができるだろう。
そして太陽の動きは冬至と夏至で折り返す。
すなわち冬至の南中高度の低い太陽は、冬至を境に再び南中高度をあげていき
夏至に達して南中高度が高くなった太陽は、夏至を境に再び南中高度をさげていく。
太陽が真南にある点をつないだものが黄道なのかもしれないが、その黄道はキトラ天文図のように円形にならない。
天球の上の一本の曲線をいったりきたりする形になるのではないか。(下図 「正午の太陽の動き」黄色の線)

黄道2


上の動画、1:39あたりで10月1日正午という文字がでてくる。
そして「昼なので見えないが、太陽の後ろに星座があり、それが誕生星座」とおっしゃっている。
さらに、次のような説明がある。
4:00 時間とともに太陽は動くが星座も太陽と共に動く。
4:43 太陽と星座は共に西へ動く。太陽は1日で360度、星座は1日で361度動く。1か月で30度ずれる。
8:06 何月何日に生まれた人は何座と決められたのはかなり昔。長い年月が経っているので、現在は星座が一つぐらいずれている。

太陽の高度は動画6:25、射手座を通るあたりで最も低くなっている。
射手座埋まれば11月23日〜12月21日である。
そして冬至は12月22日ぐらいで、この日最も太陽の南中高度が低くなる。
動画6:25あたりで、太陽の位置が低くなっているのは冬至で太陽の南中高度が低くなっていることを示しているのだと思う。

そこから再び太陽の位置が高くなっていき、6:46、おうし座とふたご座の中間あたりで太陽の南中高度は最も高くなっている。
おそらくこのあたりが夏至(6月22日ぐらい)だろう。
ちなみに、おうし座生まれは4月20日~5月20日、ふたご座生まれは5月21日~6月21日である。

地球のある時点で見たとき、正午の太陽は南に見え、この正午の太陽の線をつなぐとほぼ直線のような形になると思う。
(下図 「正午の太陽の動き」黄色の線)

黄道2

動画は太陽は高低さのみの動きで、星座は360度回転させてみせている。
しかし、天文図にはすでに星が描かれている。
星を動かすのではなく、太陽の方を動かすとキトラ天文図のようになるということだと思う。

③キトラの天文図が日本で作られたとは思えない。

キトラ古墳の天文図は不正確ではあるが、同時代の中国・朝鮮の墳墓ではこれほどの天文図は見つかっていない。
そうではあるが、来村氏はこのキトラの天文図を、飛鳥時代の日本で作るのはムリで、外国からもちこんだものだろうとする。
その理由は次のとおり。

・602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。(来村多加史氏)

・天文図の作成には渾天儀が必要だが、日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)(来村多加史氏)

上は民時代の明時代(1368年~1644年)の渾天儀のレプリカだが、中国では古くから渾天儀を用いており、前漢(紀元前206年 - 8年)のころ、すでに渾天儀が存在していたようである。(来村多加史氏)

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。(来村多加史氏)

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。(来村多加史氏)

・このような中国の進んだ天文学を考えると、キトラ古墳天文図は日本製ではないと思われる。(来村多加史氏)
水運儀象台
水運儀象台

⑤キトラ天文図は高句麗の夜空を描いたものではなかった。

来村氏は次のようにも述べておられた。
赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。

来村氏は名前はあげておられないが、これは宮島一彦氏の説である。

ネットで「キトラ古墳天文図の解析  相馬 充 (国立天文台) 」という記事が見つかり、その中で宮島氏の説についてもう少し詳しく記されていた。

それによれば、
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、宮島氏が用いた画像は不鮮明なので、星の同定や位置に誤りがありえるとした。

平壌は高句麗の都があったところである。

記事には、2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬氏が解析を行った結果が記されている。
その結果、キトラ天文図は正確なものではなかった。

①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている 
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
 ⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい 
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.

※⓻については、「附属星座ではないか」とする説がある。詳しくは以下の記事をお読みください。
「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊷ キトラ天文図・高松塚星宿図の北極星」
②キトラ天文図には附属星座がくっついている?

附属星座?

天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。

地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。

各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。

それは残念だ。
しかし相馬充氏は「天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないか」と考えた。
そしてキトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みられた。

「西暦400年ごろに赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。」
上記記事より引用

この文章は少し意味がわかりにくいのだが、こういう意味だと思う。

相馬氏も説明してくださっているように、地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。

9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
 
最初に「400年ごろ」と書かれているのは大雑把に見積もった年代で、さらに正確な観測年代を求めたところ、西暦384年±139年となった、ということだろうか。

内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.  

 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。

つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。

これに該当する中国の王朝は次のとおり。

後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404

一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。

⑥二十八宿を描いた天井壁画はアスターナ遺跡でも発見されている。

来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

ちなみに同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 

アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。

高松塚古墳は6世紀末から7世紀はじめごろの古墳と考えられており、どちらが古いものなのかわからないが
来村氏がおっしゃるように、当時の日本で行われた天体観測をベースに高松塚の二十八宿が作られたとは考えにくい。

高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。

すると星宿図も中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。

高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。

⓻二十八宿について

・キトラ、高松塚は二十八宿を表している。
二十八宿は月の交点周期を測る基準、星の座標をきめる基準、占星術に用いられた。
墓の二十八宿は占星術として描かれたのだろう。(来村多加史氏)

・月の周期は29.53日。地球の公転は1か月で30度。
月が次の満月の位置にくるまでには地球を実際に1回転するよりも余分に2日かかる。(地球が太陽の周囲を公転しているため)(来村多加史氏)

上記リンク先にわかりやすい図解がある。)

この誤差を引いた月の公転周期を恒星月といい、約27.32日
月が一夜毎に天体の中を動いていく様子を調べるには、一恒星月を整数とした27日か28日を単位として、
天球を27か28等分して目安となる星座を設定すればよい。
二十八宿のほか、二十七宿があるのはそのため。(来村多加史氏)

・中国天文学では星の緯度は天の北極からの角度によって表示される。(去極度)
星の経度は入宿度 二十八宿を基準点として計測された
二十八宿の基準点は 西端の星(距星)
二十八宿は赤道からかなり外れる星座も含まれる。(来村多加史氏)

・二十八宿の使い道のひとつに天文占がある。(星占い)
天体の異常現象(日食、月食、流星、彗星)が発生した場所の二十八宿が吉凶の判断基準となる。
二十八宿と人間社会との連帯を決定づける説(分野説)
本来、地球の方角を天球に投影することはできないが(地球は自転しているため)
黄道と赤道が交わる春分点を天の東方(地の西方)秋分天を天の西方(地の東方)の定点として天球に東西南北を与えた。
二十八宿にも方角が与えられる。(東西南北に7宿づつ)
人界の動向を天界の変異で語るため、宿ごとの支配地を論じた。(分野説)(来村多加史氏)



関連記事
スポンサーサイト




コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/tb.php/1335-a2dd8737