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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑧ 高松塚ファッションから古墳築造年代を考えてみる。






間違っているところなどがあれば教えていただけるとありがたいです。

①冠(男子)

・男子像の冠は天武11年(682年)6月条にある、『うるしぬりのうすはたのかうぶり』で、高松塚築造は天武11年6月以降。(秋山光和氏・五味充子氏)

・漆紗冠・・・天武11年(682年)7月に着用が定められた。(土淵正一郎氏)

・聖徳太子が被っているものと同種(三上次男氏)

聖徳太子像( 唐本御影)

聖徳太子像(唐本御影)

たしかに似ているように思える。

聖徳太子の生没年は、574年~622年。一方、漆紗冠は682年に着用が定められている。
聖徳太子の時代、この絵の様な冠を着用していたのかどうか、勉強不足で知らないが
聖徳太子像に描かれている冠が漆紗冠とすれば、後世になってから、聖徳太子が存命していた当事の服装ではなく、後世の衣装を描いたものということになる。

このような例は多い。
たとえば百人一首では、天智天皇、持統天皇など平安時代の衣装を着用しているが、実際にはこのような衣装を着用していなかったものと思われる。
上の聖徳太子像唐本御影は、聖徳太子を描いた最古のものと伝えられる肖像画のことをいい、8世紀半ばごろに描かれたと考えられている。

男子群像頭

②髪型(女子)

女子像は髪を後頭部で結び跳ね上げている。これは天武11年〈682年)の垂髪禁止に合致する。
朱鳥元年〈686年)垂髪に戻したが、詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。
慶雲二年〈705年)の結髪令の注には「語は前紀(持統帝の時代)にあり。是に至りて重ねて制す」とある。
大宝令では五位以上の令服は宝〇で金銀の飾りをつける。六位以下は義〇をつける。(〇は読み方がわからない。すいません。)
壁画の女性の髪型は簡素で、上記にはあたらない。朱鳥元年〈686年)と大宝令の中間の髪型。(土淵正一郎氏)

垂髪とは髪を結わずに垂らすヘアースタイルのことである。
ウィキペディアには、天武天皇11年4月23日 - 男子の髷、女子の垂髪を禁止とある。
「詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。」とおっしゃっているが、この意見は「そうも考えられる」というレベルであって根拠がない。
「詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。」という為には、「垂髪に戻した」686年以降に結髪していることを示す例が必要だろう。

・高句麗にも中国にも見られない。日本独自の髪型。結髪令(682年~686年)によるものではないか。(三上次男氏)

・結髪令ではなく、垂髪令(686年~705年)のものではないか。(原田淑人氏)

・垂髪令(686年~705年)のもの。無造作にひっつめた髪は便宜上のもの。 (五味充子氏)      

・五味氏に同意。垂髪令(686年~705年)のもの。(小林恵子氏)
垂髪では仕事をする際に不便なので、このような髪型にしているのではないか。

原田氏、五味氏、小林氏が主張されるように「垂髪令の時代の髪型ではあるが、不便なのでひっつめている」というのは、あるかもしれない。ただしこれも断言できるほどの根拠が示されていない。

・持統、文武朝には結髪の令がしばしばでているが高松塚女性の髪型は結髪の令によるものか。
また絵空事を描いた可能性もある。(松本清張氏)

・続日本紀をよむと、文武・持統あたりから、色についてはやかましくいっている。色物をきてはいけない、公式の場面のみ官位に応じた色の衣服を着けよなどとある。
高松塚の様なカラフルなファッションはありえただろうか。(松本清張氏)

漫画などでありえない髪型を描くことがあるのと同様で、そのようにも考えられるだろう。
例えば「エースをねらえ!」という作品に登場するお蝶夫人(竜崎麗華)は、日本人の高校生だが、金髪で巻き髪である。
毛染めをしてカーラーで巻くなどしなければ、多くの日本人はあのような髪型にならないが、たいていは校則で禁止されているはずだ。

・高句麗舞踏塚(4世紀末)と関係がある。(井上光貞氏)


上記記事で高句麗舞踏塚の壁画が紹介されている。
三上次男氏は「高句麗にも中国にも見られない日本独自の髪型」とおっしゃっているが、私は井上光貞氏がおっしゃるように、高松塚女子群像の髪型は高句麗舞踏塚の女子像の髪型に似ていると思う。

松本清張氏は「絵空事の可能性がある」とおっしゃるが、高松塚女子像の髪型は高句麗舞踏塚のものに似ているののもので、高句麗壁画古墳の影響を受けたものか、かつて実際にそのような髪型をしていたことがあると考えられると思う。

③髭

・高松塚の男性にはヒゲがある。(伊達宗康氏)

高松塚 髭2

向かって左から2番目の人は顎髭を生やしている。

高松塚 髭

向かって右の人は顎髭を生やしているように見える。

打ち合わせ

・養老3年〈719年)に右前にかわった。左前なので、それ以前。(土淵正一郎氏)

右前とは右を合わせてからその上に左を合わせることをいう。
下の舞妓さんは右前で着物を着ている。

舞妓

下は高松塚古墳壁画館に展示されていた人物像のスケッチであるが、上の舞妓さんとは打ち合わせが逆で左前になっている。
左前
高松塚人物像が左前になっていることをもって、719年以前は左前だったと考えられているようである。
しかし高松塚人物像が左前なのは、死の世界を描いたものだから、とも考えられるのではないかと思う。
現在でも死に装束は左前にあわせる。

埴輪の打ち合わせも左前になっているが、埴輪は古墳に並べられたものなので、これも死に関係するものということで、
普通の場合とは逆の打ち合わせにした可能性がないとは言えないように思う。

はにわ

中宮寺の天寿国繍張にも、高松塚女子群像と同様の衣装を身につけた女性が描かれている。

天寿国繍張-女性

上の図よりも大きな写真が下記リンク先に掲載されている。
国宝「天寿国繡帳(てんじゅこくしゅうちょう)」を見に行こう!

打ち合わせを見ると右前の様にも見えるがよくわからない。

さて、天寿国繍張を見る上で、注意することがある。
天寿国繍張には「聖徳太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女が作らせた」という内容の銘が記されている。
聖徳太子が薨去したのは622年なので、天寿国繍張はそのころ作られたものだと考えられているが(異説もある)
実は一部鎌倉時代のものが混ざっているとされる。

天寿国繍張は1274年に法隆寺綱封蔵より発見された。
このとき信如という尼僧がこの曼荼羅と同じ図柄の模本を新たに作らせ、1275年に開眼供養を行ったと史料にあるのだ。

ウィキペディア「天寿国繍張」 は次のような内容を記している。

●上段左の亀形や月、中段右や中段左の区画の人物群像の一部・・・飛鳥時代
・形の崩れがない。色は鮮明。
・台裂に紫色の羅が用いられている部分・・・
 輪郭線を刺繡で表し、その内側を別色の糸で密に繡い詰めている。
 糸は撚りが強く、中心部まで深く染められている。
 返し繡という技法
・撚りの強い糸を使い、単一の技法(この場合は返し繡)で密に繡い詰めるのは飛鳥時代刺繡の特色。
(法隆寺献納宝物等の繡仏や、藤ノ木古墳出土の刺繡など)

●下段左の建物、内部の人物を表した部分・・・鎌倉時代
・色糸がほつれ、褪色し、図柄がわからない。
・台裂に綾または平絹を用いた部分・・・
平繡、繧繝刺(うんげんざし)、朱子刺、駒繡、文駒刺(あやこまさし)、束ね繡、長返し繡、纏い繡、表平繡いの9つの技法。
・糸が台裂から浮き上がる部分が多い。
・染料が糸の中心部までしみ込んでいないものが多い。

天寿国繍張

天寿国繍張 打ち合わせ

上は天寿国繡帳の部分を切り取ったものであるが、打ち合わせは右前になっている。
向かって左についてはウィキペディアは飛鳥時代の物とも、鎌倉時代の物とも述べていない。
向かって右については「人物群像の一部は飛鳥時代」年ているが、この刺繍が飛鳥時代のものだとは明確に述べられていない。
色が鮮やかなのは飛鳥時代ということなので、おそらく飛鳥時代のものと考えられている刺繍なのだろうとは思う。
すると、飛鳥時代打ち合わせは既に右前であったことになってしまう。

但し、天寿国繡帳は飛鳥時代に製作されたものではないとする説もある。
東野治之氏は次のように述べておられる。

銘文では推古天皇をトヨミケカシキヤヒメ(等已弥居加斯支移比弥)と記しているが、この和風諡号は推古天皇崩御後に送られたものではないのか、と。(「トヨミケカシキヤヒメ」は生前から用いられていた尊称とする意見もある)

”人物の服装をみると、男女とも盤領(あげくび)と呼ばれる丸い襟に筒袖の上着を着け、下半身には男子は袴、女子は裳を着けている。また、男女とも褶(ひらみ、袴や裳の上に着けた短い襞状のもの)を着けるのが特色で、これは高松塚古墳壁画の男女像よりも古い服制であることが指摘されている。”

ウィキペディア 天寿国繡帳 より引用

高松塚よりも古い時代には右前だったということだろうか?
これは判断が難しい。
719年に打ち合わせは右前とされ、高松塚古墳が左前であることから、719年以前は左前だったと一般的には考えられているようだが、そうとは言い切れないように思った。

③衿

・男子は白衿をつけている。持統4年。〈690年)
大宝令は白縛口衿から白脛裳に逆戻りし、慶雲3年〈706年)に白衿にもどした。(土淵正一郎氏)

男子が白衿をつけているようには見えない。土淵氏が本を記したとき、画像が鮮明に解析されていなかったのだろう。

高松塚男子像 衿

④肩布(女子)

・高松塚女子像は肩布(ひれ)をつけていないので采女クラス。
采女の肩布が禁止されていたのは天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)。
垂髪令(686年~705年)の時期とかぶる。(横田健一氏)

・女子像は天武11年〈681年)の詔にしたがい、肩衣をつけていない。(土淵正一郎氏)

⑤すそつき

・天武十三年(684年 「会集の日にすそつきを着て長紐をつけよ」(土淵正一郎氏)
男子は全員すそつきをつけている。すそつきは上着の下部につけた別の布。大宝以前の服装。(土淵正一郎氏)

・男女の上着にある横線は襴(すそつき)。
・天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの。(五味充子)

男女ともは上衣の下に筋がはいっているが、これが別布をつけた「すそつき」である。

男子服装

ひらみ

⑥帯

・男女とも織物の紐か帯を前に垂らしている。(かむはたの帯)持統4年(690)に定めた帯だろう。
和銅5年(712年)には「六位以下、白銅と銀を以って皮帯を飾るを禁ズ」
それ以前に皮帯に改められたことがわかる。遣唐節持使粟田真人が帰国した704年7月の直後だろう。

・帯が大宝令の皮でなくヒモなので大宝令(701年)以前のものではないか。
秋山氏、高田大和男氏も同意見。(上田正昭氏)

・すなわち、高松塚古墳の築造時期は持統4年(690年)4月14日の詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」とある期間から大宝元年まで。(小林恵子氏)

ひらおび(褶)

・女子像は男子像と異なり、「ひらおび」をつけている。(土淵正一郎氏)
大宝令では皇族と内命夫の令服のみ復活したが、朝服はこれを欠く。
女子の「ひらおび」は黙認されたものだろう。701年の大宝令以降でなく、大宝令以前だろう。

「ひらおび」について調べると
「ひらび【褶】〘名〙 「ひらおび(褶)」の変化した語」
とでる。さらに

「裙の下には浅縹(うすきはなだ)の褶(ひらみ)[したも]をつけ、」
とでる。

土淵氏のおっしゃる「ひらおび」とは帯のことではなくて、褶の事ではないかと思う。
女子の上衣のすそから少しだけ見えているひだのようなものが褶である。

正倉院宝物

・養老の衣服令による文官礼服
養老の衣服令では朝賀、即位の儀式のみ男子も褶の着用が義務付けられていた。

・壁画中の人物が着用している下着は褶(ひらみ)だろう。
褶は682年に着用が禁止され、702年以降着用復活するので、壁画年代の上限は701年。(直木孝次郎氏)

⑧白袴

690年詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」
701年、禁止されていた脛裳(はばきも/脚絆、ゲートルのようなもの)を再度着用することに
705年、完全に脛裳をなくして白袴となる。(石田尚豊氏)

高松塚 男子像2

袴と履物

⑨裳

裳

・日野西資孝は、当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になったと指摘されている。(小林恵子氏)

上の高松塚女子群像は上着をスカートの上に出している。これは埴輪と同じである。
しかし、実際にはこの時代、上着をスカートの中に入れて着ていたということだろう。

はにわ

上の写真を見ると、上着をスカートの中に入れて着ており、四位の命婦(みょうぶ)=女官の礼服と説明がある。
養老の衣服令は718年である。
718年以前の女官は高松塚女子群像のようなファッションであったかもしれない、ということになるのだろうか。

・日野氏は「前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」のは、隋唐の服装の影響とし、法隆寺摩耶夫人像、女子塑像を例にあげる。
日本でも同時代の唐とほとんど同じ服装をしていた。
高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。(小林恵子氏)

「前代の埴輪」とは「古墳時代の埴輪」のことだろう。埴輪は高松塚古墳と同じように上着を裳の外に出して着こなしている。「ところが飛鳥時代には裳を上着の上につけるようになった」と日野氏はおっしゃっているのだろう。

高松塚古墳

上のコスプレの女性は裳を上着の外に出して着こなしている。

そしてこの日野氏の意見を受けて、小林恵子氏は「高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。」と考えておられるのである。


塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

アラブ世界を舞台とした漫画があるとして、漫画の中にヒジャブ・ニカブなどを身につけた女性がでてくるので、日本の女性もヒジャブ・ニカブを身に着けているとするのがおかしな論であることは、いうまでもない。
法隆寺の摩耶夫人像、女子塑像は唐を舞台として創作されたものであって、当時の人々の姿を映したものとは断言できないと思う。

⑨ファッションから高松塚築造年代を考える。

①~⑧での項目の年代をまとめてみた。

漆紗冠・・・天武11年(682年)7月
女子髪型・・・乗髪禁止 681年~686年 ※乗髪が何かわからない。
       結髪令  持統帝(690年 - 697年)の時代にもあったと記されている。
       大宝令 701年 ※髪に飾りをつけるとあるが、高松塚女子像は飾りをつけていない。
       結髪令 (682年~686年)
       垂髪令(686年~705年)のものではないか。
打ち合わせ・・・719年右前に変わった。高松塚は左前なのでそれ以前か?
肩布をつけていない。・・・肩布禁止686年~705年
すそつき・・・684年
長紐・・・・684年~701年
ひらおび(ひらみ)・・・701年より以前
            682年に着用が禁止され、702年以降着用復活
白袴・・・690年~701年、705年~

女子群像の髪型は結髪令なのか乗髪令によるものかわからないので、とりあえず省いて考えてみることにする。

またネットに次のような記事もあった。上のまとめと内容が一致するものに〇をつけ、不足情報は赤で示してみる。


男子群像 漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 〇
      白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月※石田尚豊氏の白袴の情報にはこれはなかった。
            690年4月~ 701年3月 〇
                                      706年12月~      ※石田尚豊氏の白袴の情報では705年になっている。
                   褶の未使用 682年6月6日~702年1月〇
     すそつき    684年~
                  長紐 684年~701年

女子群像 結髪の実施  682年4月23日 ~686年7月2日 ※結髪令か乗髪令なのかわからないので、省いて考える。
                                      705年12月19日 

     肩布禁止  686年~705年
     襟の左前   719年2月3日〇

私は算数が苦手で頭の回転が鈍いので(汗)、項目をふたつづつ突き合わせて,重なる時期をだしてみることにする。

漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 ❶
 白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月  690年4月~ 701年3月 706年12月~ ❷
❶と❷が重なる時期は682年6月6日~686年7月❸
                   
褶の未使用 682年6月6日~702年1月❹
❸と❹が重なる時期は682年6月6日~686年7月

すそつき 684年~❺
❹と❺が重なる時期は684年~686年7月❻

長紐 684年~701年❼
❻と❼が重なる時期は684年~686年7月❽

肩布禁止  686年~705年❾
❽と❾が重なる時期は686年~686年7月

 襟の左前   ~719年2月3日❿
❾と❿が重なる時期は
686年~686年7月

これが正しいとすると、高松塚人物像のファッションは、686年頃のものだということになりそうだが、
古墳が築かれた時期がこれに該当するかというと、そうもいえなさそうだ。
なぜならば、古い時代の装束を壁画に描くこともできるからだ。
たとえば現代に生きる我々が、飛鳥時代の装束を絵に描くこともできる。

ということは、壁画が描かれた時期を686年以降とすることはできるかもしれない。
また松本清張氏がおっしゃっているように絵空事を描いた可能性もないとはいえない。
女性のファッションが高句麗壁画に似ているとの指摘もあり、高句麗の風俗を描いたものとも考えられるかもしれない。

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑨高松塚人物像の持ち物
 へつづく~
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