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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew① 高松塚・キトラ古墳のある場所

 あけましておめでとうございます。今年も拙ブログをよろしくお願いします。

「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 」
という記事を43回にわたって書いた。
これらの記事は本ごと、研究者ごとの意見のメモと、それらに関してわからない点を調べたことや、考えたことなどを思いつくまま書いてしまったので(汗)
自分でも頭が混乱してわけわからなくなってしまった。😅
そこで復習の意味もこめて、「古墳のある場所」「古墳の大きさ」「唐や高句麗の壁画古墳との比較」などのテーマごとにまとめてみることにした。
以前の記事を読み直して、新たに疑問が生じて調べたことなども記そうと思う。

どのようにまとめればいいのかとかなり悩んだし、まだまとまりきっていない点もあるので、途中で記事の順番を入れ替えたり、追記を入れたり、書きなおすこともあるかもしれないが、よろしくお願いします。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」における研究者の発言についてはピンク色で、ウィキペディアなどネットからの引用はブルーで、私の意見などは濃いグレイの文字で示す。


上の動画で来村氏が語っておられる内容については、私は同意できない点もあるのだが、
高松塚・キトラ古墳に描かれている壁画の内容などがよくわかると思うので、張り付けておく。

①飛鳥

高松塚古墳・キトラ古墳は奈良県高市郡明日香村に存在し、発掘調査の結果、両古墳に極彩色の壁画が発見された。
高松塚古墳には四神図、人物群像、星宿図が、キトラ古墳には四神図、十二支像、天文図が描かれていた。
壁画を描いた古墳は九州の装飾古墳などもあるが、九州の装飾古墳は絵のタッチが抽象画のようなものが多いのに対し
高松塚キトラ古墳は繊細で、王朝風を感じさせる画風で注目を集めた。
まずは、その高松塚・キトラ古墳がどのような場所に造られたのかについて見てみようと思う。

明日香村は古代日本の都があったところで、主にこの辺りに都があった時代は飛鳥時代(592年~710年)と呼ばれている。
(飛鳥時代には難波や大津に都が置かれたこともあった。)

552年または538年 仏教公伝 欽明天皇は磯城島金刺宮(奈良県桜井市)に住んでいたと思われる。
         ※欽明天皇の宮として難波祝津宮(大阪市)もでてくる。
587年 丁未の乱。崇仏派・蘇我氏vs廃仏派・物部氏の戦い。蘇我氏が勝利。
592年 推古天皇 豊浦宮に住む。
593年 聖徳太子摂政となる。
603年 推古天皇 小墾田宮に住む。
643年 飛鳥板蓋宮に遷都
645年 乙巳の変で、中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺。入鹿の父・蘇我蝦夷は自殺。蘇我氏体制を滅ぼす。
    中大兄皇子が政治の実権を握るが、即位せず。中大兄皇子の叔父・孝徳天皇が即位。
    孝徳天皇、難波長柄豊崎宮に遷都    
655年 :斉明天皇(中大兄皇子の母)重祚。
    飛鳥宮に遷都
663年 白村江の戦い 百済の国家復興に助力するも、新羅・唐連合軍に大敗。
667年 近江大津宮 に遷都
668年 天智天皇(中大兄皇子)即位。
672年 天智天皇崩御。
     壬申の乱 大友皇子(天智の子)vs大海人皇子(天智の弟)が皇位をめぐって争う。
    大海人皇子が勝利して即位する。(天武天皇)
    飛鳥浄御原宮に遷都
690年 天武天皇崩御。皇后の鸕野讚良が即位。(持統天皇)
694年 藤原京に遷都
710年 平城京 に遷都

②高松塚キトラ古墳のある高市郡は今来郡だった!

直木孝次郎氏は次のような旨の発言をされている。

・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他制のものは一割~二割程度。/続日本記(直木孝次郎氏)

・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。/姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀にも見える)
後に渡来した新漢(いまきのあや)人などの中には今来に住む者も多かったのではないか。(直木孝次郎氏)

また今来という言葉の意味については次のような説明があった。
”■ いまき(今来・新)
・ 「いまき」とは新参という意味。4~5世紀に朝鮮半島から渡来した中国系の人達を一般には「漢人(あやひと)」と呼んだが、5世紀後半以降に渡来した中国系の渡来人を「新漢人(いまきのあやひと・今来漢人)」という。大和国の南部には新漢人が多く住み、かつては今来郡もあった。【出典】
■ 今来(いまき): 大和国吉野郡今来(奈良県吉野郡大淀町今木)、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木。
・ 新しく神が来臨すること。一説として、新しくやってきた渡来人の居住地。
■ 今木(いまき): 奈良県吉野郡大淀町今木、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木。
・ 今木の語源は「新しく来る」、つまり今来。木にしたのは神の降臨にかけている。神が来臨して、新しい居住地を定める。  
・ 今来、今城、新漢(いまき・イマキノアヤの略)などと書いた。今木は新木(いまき)の借字。新来の意味で、渡来人の居住地を意味する。しかし、それ以外にも諸説有り。【奈良の地名由来辞典 池田末則 東京堂出版】”
https://folklore2017.com/timei900/999065.htm より引用
・今来は新来(いまき)であり、新参という意味。
・4~5世紀に朝鮮半島から渡来した中国系の人達は「漢人(あやひと)」
5世紀後半以降に渡来した中国系の渡来人を「新漢人・今来漢人(いまきのあやひと)」と言った。
・大和国の南部には新漢人が多く住み、かつては今来郡もあった。
・大和国吉野郡今来(奈良県吉野郡大淀町今木)、大阪府岸和田市今木町、京都府(旧)宇治市今木などの地名が残る。
・新しく神が来臨すること。一説として、新しくやってきた渡来人の居住地。
・今来は今城、新漢などとも書かれた。
・渡来人の居住地を意味する。

「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」と姓氏録逸文には記されているという。

現在の高市郡は飛鳥村高取町を含む。
古代の高取町について、『和名類聚抄』は以下の郷をあげている。
巨勢・波多・遊部・檜前(比乃久末)・久米・雲梯・賀美

檜前という地名は現在でも明日香村にある。



現在、明日香村に今来や今木という地名が無いので、知らなかったのだが、飛鳥村は古代には今来郡と呼ばれる地域だったのだ。

③蘇我蝦夷と蘇我入鹿の今木の双墓はどこにある?

今木と聞いて思い浮かべるのは、「今木の双墓」である。
「今木の双墓」とは、蘇我蝦夷、入鹿が生前に作らせた二人の墓である。

1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと考えられていた。

しかし水泥古墳・水泥塚穴古墳について、ウィキペディアはつぎのように記している。

”近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。”
ウィキペディア 水泥古墳 より引用
水泥古墳と水泥塚穴古墳が今木の双墓ではなく、明日香村も今来郡だったのであれば、蘇我蝦夷・入鹿の墓、今木の双墓は明日香村にあるかもしれない。

そう思って調べてみたところ、明日香村にある小山田古墳と菖蒲池古墳が今木の双墓ではないかという説が浮上していた。

”小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。
一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]。”

④檜前は渡来人が住む土地

高松塚古墳は飛鳥地域の中でも、檜前と呼ばれる地域にある。
キトラ古墳については、

”キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。”
キトラ古墳 | 国営飛鳥歴史公園 より引用
とあるので、檜前から少し外れたところにあるようだ。
しかし、古代にはもう少し広い地域が檜前であったかもしれない。

・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」/応神20年紀
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。(直木孝次郎氏)

これだけではなぜ坂上氏や檜前氏が倭漢氏なのかわからないが、ウィキペディアには次のように記されている。

”『続日本紀』延暦四年(785年)六月の条の坂上大忌寸苅田麻呂によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂が述べた[4]。”
ウィキペディア 阿知使主より引用
ここに、「阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂」とある。
「東漢」は「やまとのあや」とよみ、「倭漢」とも記される。

”『新撰姓氏録』「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきたとある[4]。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[5]。
段(古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、評(こほり)、首、民使主首の祖。
李 - 刑部史の祖。
皀郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
朱 - 小市、佐奈宜の祖。
多 - 檜前非調使の祖。
皀 - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
高 - 檜前村主の祖。”
ウィキペディア「阿知使主」 より引用

「七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきた」のは誰なのか、主語がないが、話の流れからして
阿知使主が七姓漢人を連れてきたということだろう。

「多 - 檜前非調使の祖。」とあり、阿知使主が連れてきた七姓漢人のうちの多は、檜前非調使の祖なのだ。

直木氏は「檜前氏は倭漢氏」だとおっしゃるが、『新撰姓氏録』の、この記録からは「檜前氏は倭漢氏」だとは言い切れないように思う。
「檜前氏は倭漢氏の祖・阿知使主が連れてきた」とはいえるだろう。

⑤倭漢氏は中国系?朝鮮系?

・朝鮮系渡来氏族、倭漢氏の本拠地が檜前。(直木孝次郎氏)

直木氏は倭漢氏を朝鮮系渡来民族と書いておられるが、ウィキペディアは「後漢霊帝の曾孫」と書いている。
後漢は中国にあった王朝の名前である。
”『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人(中国から一七県の人々を率いて来日、のち天皇の命で呉(くれ)におもむき、織女、縫女を連れ帰ったという。後漢霊帝の曾孫[2])系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。”
ウィキペディア 東漢氏 より引用

”東漢氏は集団の総称とされ、門脇禎二は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。また、門脇禎二によると半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った場合がほとんどだという[3]。秦氏も同様に秦始皇の苗字は秦氏ではなく、弓月君が渡来した時期、秦国は数百年前に滅んでいる。弓月君は百済か新羅から渡来したが『魏志』東夷伝で「辰韓はその耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。」という耆老の間違った伝世によって中国から新羅はよく秦国の末裔と呼ばれ波多氏は秦氏を名乗るようになった[3]。”
ウィキペディア 東漢氏 より引用

門脇氏は直木氏同様、「半島系土着民が自ら権威を表すため東漢氏を名乗った」とおっしゃっている。

⑥天皇家の勢力は檜前に及んでいた。

・檜前は倭漢氏など朝鮮系渡来者の勢力が強い土地だったと考えられるが、「他姓のものは10に1、2」は「倭漢氏の一族を高市郡司に任用されることを願う文中にあり、誇張があるだろう。(直木孝次郎氏)

・天皇家の勢力は檜前に及んでいた。
6世紀中の宣化檜隅高田皇子という名前で、檜隅蘆入野に都した。
欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。(直木孝次郎氏)

・檜前が東漢氏など帰化人が住んでいた地域というのは、7世紀までではないか。(井上光貞氏)

今来郡は渡来人が住む土地で、その今来郡にある檜前は倭漢氏などの渡来人が多く住んでいたのだが
天皇の勢力も及んでいたということだ。

「日本書紀」によれば第28代・宣化天皇 (467年?- 539年?)は諱を檜隈高田皇子(ひのくまのたかたのみこ)といい、 檜隈廬入野宮に住んでいたとある。
宣化天皇は倭漢氏などの渡来人が多く住む地域に都をつくったということだ。
この檜隈廬入野宮は明日香の檜前にあったのだろう。

また第29代欽明天皇(509年 - 571年)の陵は檜隅坂合陵といった。
檜隅坂合陵も檜前にあったのだろう。
現在、檜隅坂合陵は明日香の梅山古墳に比定されているが、橿原市の見瀬丸山古墳が欽明天皇陵とする説もある。

後に述べるように、直木孝次郎氏も「欽明天皇陵は見瀬丸山古墳」と考えられておられるようだ。

「欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。(直木孝次郎氏)」

と直木氏はおっしゃっているが、直木氏のいう「檜隅陵」とは現在、檜隅坂合陵に治定されている梅山古墳のことではなくて、記紀に「吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。」と記されているが、その「檜隅陵」とは欽明天皇の「檜隅坂合陵」のことだろう、という意味だと考えられる。

現在、欽明天皇陵は梅山古墳に治定され、そのとなりに吉備姫王(皇極・孝徳両天皇の母)の墓とされる古墳がある。
これは、記紀に「吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。」と記述されているのを、「吉備姫王の墓は欽明天皇の檜隅坂合陵檜隅陵の域内にあった。」と解釈し、治定したのだろう。

”一方で、『日本書紀』推古紀に「推古天皇20年(612年)2月20日、皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵に改葬し、軽の巷(かるのちまた)に「しのびこと」[3]たてまつる」と見える。この「軽の巷」は当時の下ツ道と阿倍山田道の交点で現在の丈六交差点にあたり、丸山古墳の北側に位置する。堅塩媛は欽明天皇后であり推古天皇の生母でもあることから、改葬の理由を夫婦合葬とすれば、やはり欽明陵であった可能性が出てくることになる。
ウィキペディア「丸山古墳」より引用”

真の欽明陵が見瀬丸山古墳だとすると、その領域内に吉備姫王の墓と考えられる陪塚はあるのだろうか。
調べてみたがわからなかった。


 

吉備姫王墓について、ウィキペディア「宮内庁治定陵墓の一覧」をみると、陵墓名称は桧隈墓とあり、「真陵はカナヅカ古墳か」と記されている。

カナヅカ古墳は上の梅山古墳の地図を拡大すると梅山古墳の東にある。

梅山古墳が欽明天皇の檜隅坂合陵でなく、カナヅカ古墳が吉備姫陵の真陵だとすると、
吉備姫王が葬られた檜前陵の域内は、檜隅坂合陵の域内とは別所ということになる。

そうではあるが、吉備姫王の墓は「檜隅陵の域内にあった。」と記されているので、檜前の地にあったとはいえるだろう。

※倭漢氏と天皇家、蘇我氏の関係についての、門脇禎二氏の考察は、「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」に掲載されており
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉕下人に落とされた檜前氏
上の記事に、そのメモも記したのだが、読み直してみたところ、わからない点があったので、再度本を確認してから(図書館で再度借りてから)記したいと思う。

⓻檜前の範囲

大字檜前の東南7~800mのところにある栗原は、日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とある呉原の転訛と考えられる。(直木孝次郎氏)

日本書記によれば、欽明天皇が檜隅坂合陵に葬られたとある。これが檜前の北限。
欽明天皇陵は明日香村霜平田の梅山古墳に比定されているが、見瀬丸山古墳が有力。
天武・持統天皇陵は檜隅大内陵と呼ばれた。
鎌倉時代、盗難にあった際、内部の様子を記した阿不幾乃山陵記によって、檜隅大内陵であることは確実視されている。
(直木孝次郎氏)

・現欽明陵の梅山古墳は近鉄吉野線沿いに吉備姫王墓の東。濠が確認できる。さらにその東に檜隅大内陵の名前がある。
吉備姫王墓のその南東に飛鳥歴史公園館、高松塚古墳があり、先ほどの栗原は高松塚古墳の南。(直木孝次郎氏)

・檜前の西には佐田の丘陵地帯があり万葉集に名前がみえるが檜前という地名がついているものはないので、佐田は檜前ではないだろう。(直木孝次郎氏)

・檜前は明日香村大字栗原・檜前・御園・上平田・中平田・下平田・立部・野口、橿原市の五条野、見瀬あたり。(直木孝次郎氏)

高松塚 女子像2

高松塚古墳 女子群像

虎像

キトラ古墳 寅像





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