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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊸キトラ古墳被葬者の年齢、忍壁皇子の死亡年齢など※追記あり

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㊷キトラ天文図・高松塚星宿図の北極星
よりつづきます~

トップページはこちらです。


「歴史秘話ヒストリア:飛鳥美人∸謎の暗号を解けー高松塚古墳の秘密」飛鳥美人」という番組が、2017年5月12日 20:00~20:43 にNHK総合で放映されたそうである。

この番組は見ていないのだが、感想を書いたブログ記事を読ませていただいた。(ありがとうございます。)
今回はこの番組の内容について、考えてみたい。
番組の内容についてはピンク色文字で記す。

①カメラ目線の女性が被葬者を見つめている?

小林泰三氏が高松塚古墳壁画のデジタル復元を行い「カメラ目線の女性」に注目した。
その女性は下の復元図(高松塚壁画館にて撮影)の朱色の衣装の女性である。

高松塚 女子像1

朱色の上着は分の高い人が着ていた可能性がある。そしてこのカメラ目線で朱色の上着の女性は被葬者を見つめているというのだ。

下は高松塚古墳壁画のレイアウト図である。
カメラ目線の女性は東壁の北側に描かれている。

高松塚古墳 レイアウト図

被葬者が北枕であればカメラ目線の女性は被葬者を見つめているといえるかもしれないが、被葬者は南枕だった可能性もある。
そうであればカメラ目線の女性が見つめているのは被葬者の脚ということになってしまう。
当事から脚フェチの人はいただろうが、やはり見つめるとすると、相手の顔や目を見つめるのではないだろうか。

岸俊男氏はつぎのようにおっしゃっている。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられるが、もしそうなれば屏繖の下にみえる口髭・顎髭を生やした男子人物像はさきに舎人を率いて先頭の屏繖に立つとされた官人に相当するものと推定され、また円?を持つ女子像もともに東西相対して女子群像の先頭にくることとなり、壁画群像の多くが南の入口の方向に向いていることも相まって、一応壁画全体が無理なく理解できる。(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

屏繖とは傘のことである。円?と書いたのは?の部分の漢字を変換することができなかったためである。(すいません)
丸い団扇のようなもの(さしば)の事を言っていると思う。

②高松塚被葬者は40~60代の男性

・骨や歯から推測すると 被葬者は40~60代の男性と推定される。

人骨について、島五郎氏は次の様に発言されているとのこと。

・第3大臼歯(親知らず)は人によってはえる年齢がちがう。
しかし、使用期間が同じであれば減り方は同じになるが、はえた時期がわからなければ被葬者の年齢は特定できない。
減り方は2度で、6年~8年使ったとみられる。
28で生えて8年つかうと36歳ぐらい。30歳代か、それ以上で上限はわからない。

・舌骨は20~30歳では化骨するのが22±13.4%。誤差が22%の13.46%で、数字は数学的にあてにならない。(?)
30~50歳代では67%が化骨する。年寄りは85%が化骨する。若い人は化骨しない。
「20歳、30歳台では硬骨状態で化骨しない。40歳になって化骨し始める。50歳で進行する。」という人もいる。
40歳以上ぐらいで化骨し始める。したがって(高松塚古墳の被葬者は)40歳以上。

・甲状軟骨(のどほとけ)は20代では化骨しない。のどぼとけの一番上の部分が残っているが化骨している。
骨に変わるのは下からなので、かなり広範囲に骨にかわっていた。40歳以上の熟年だろう。

・顎骨が1番から7番までのこっている。

・リショカの結合という背骨の増殖が見られる。これが進むと、変形性脊椎症にって背中が痛くなる。病気ではなく、加齢現象。
19歳で0、20代で10%、30代で40%、40代で80%、50代で90%の人が変形性脊椎症になる。


『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「高松塚古墳出土人骨のX線学的研究」(城戸正博・阿部国昭・土井仲悟・玉木正雄)の記述の内容は以下。

・全ての骨に骨萎縮状態がない。
・死直前の慢性消耗性疾患、長期臥床はない。
・何らかの原因による急死の可能性。
・変形性骨変化は加齢によるもので病ではない。
・上部頸椎から中部頸椎、椎体広報部の変化という特殊性から、頸部外傷歴、乗馬の習慣を考慮したい。
・中節指骨の骨皮質の小突起、櫛状突起をみいだすので、年齢は30歳以上。
・年齢上限の判定は決定的所見はなし。
頸椎の変化、四肢関節面での変化、骨端線痕跡像、骨皮質の厚さなどを総合して生理的高齢者は否定できる。足は変形なし。

③人物群は被葬者に打毬をしよう、と誘っている?

・人物群は、石室の外へ被葬者を誘うような動きが表現されていた。
持ち物から、人物像は被葬者に「外に出て打毬をしよう」をさそっているのではないか、という仮説が立てられる。

高松塚古墳 レイアウト図

上のレイアウト図を見ればわかるように、人物は南に向かっている。

打毬はホッケーのような日本の競技のことである。
詳しい説明はウィキペディアにある。

高松塚人物 持ち物
上の図で如意とあるのが打毬に用いる打毬杖に似ているところから、そのような仮説が立てられたのだろう。

私は①で被葬者は南枕の可能性もあるということを記した。
南枕ということは、被葬者は北を向いているのである。
北を向いたとき被葬者に見えるのは男子群像、女子群像であり、被葬者は彼らに対面しているということになる。
そのように考えると、人物像が被葬者に対して「外にでよう」と誘っているとは解釈しづらいと思う。
被葬者と人物群が同じ向きを向いていれば、「外にでよう」と誘っていると解釈できるだろうが。

④縁の蓋は一位の身分を表す。

・養老令には「一位の縁の蓋は深縁で、てっぺんと四隅を錦で覆い、房を垂らす」と記されている。
高松塚古墳から出てきた土器の破片は、年代測定によって「8世紀初めの10年の間(藤原京 694~710年までの16年間)」に作られたものであることが分かった。

土器の破片の年代測定について、どのような測定方法を用いたのか、土器編年法なのか、放射性炭素年代測定法なのか。
もうすこし詳細が知りたい。

⑤694年~710年に死亡した一位の人物は高市皇子と忍壁皇子?

・高松塚出土の土器の破片は、年代測定によって「8世紀初めの10年の間」に作られたもの。

・「8世紀初めの10年の間」は藤原京 694(持統8年)~710(和銅3年)までの16年間に相当する。藤原京 694~710年までの16年間に死亡した人物で、一位の位にあった人物は高市皇子(696没/キトラ古墳被葬者か?)とは忍壁皇子(705年没/高松塚古墳被葬者か?)が考えられる。

猪熊兼勝氏「高市皇子や忍壁皇子は皇子だからこそ四神に囲まれた壁画古墳に葬られたのだろう」

天武天皇の皇子のうち、694~710年の間になくなった人物を赤で示し、官位を記してみよう。

草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年) ?
長皇子(? - 715年)
弓削皇子(? - 699年) 浄広弐
舎人親王(676年 - 735年) 
新田部親王(? - 735年) 
穂積皇子(? - 715年)
高市皇子(654年 - 696年)太政大臣
忍壁皇子(? - 705年)三品知太政官事(太政大臣)
磯城皇子(? - ?)

694~710年の間になくなったのは、弓削、高市、忍壁の3人である。
高市の死亡年齢は42歳である。

弓削は27歳ごろ亡くなったと考えられている。
寺西貞弘氏は、弓削皇子の生年を673年とされている。
その理由は
弓削皇子は693年に浄広弐に叙せられている。
蔭位の制では、有る身分にある子孫は21歳で位階が与えられることになっていた。
つまり、693年、弓削皇子は21歳だった可能性が高い。
そして弓削皇子はその6年後の699年になくなっている。
ここから弓削皇子が亡くなったのは27歳ごろと考えられているのだ。

しかし、高松塚被葬者は40~60代の男性と鑑定されているので、弓削皇子を高松塚の被葬者候補から外したのだろう。

キトラ古墳の被葬者の年齢については、こちらの記事に説明がある。(いつ書かれた記事なのかがわからない。)
http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200503100051.html#:~:text=%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%98%8E%E6%97%A5%E9%A6%99%E6%9D%91%E3%81%AE,%E9%AB%98%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82

奈良文化財研究所が石室にたまった土砂の中から約100片の人骨と、23本の歯を発見し、片山一道・京大大学院教授(自然人類学)が歯と骨を鑑定した。

・骨はすねの部分の破片1点。あとはすべて頭骨。
・重複する部分はなく、被葬者は1人。
・目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど男性の特徴が目立つ。
頭骨は全体にがっちりしており、骨太の印象があるという。身長は推定できなかった。
・歯は全体に大きめで、すり減り方や奥歯の根元に付着した石灰、頭骨の状態などから、50代の可能性が高い。
右上の奥歯1本はかなりひどい虫歯だった。

どのように鑑定したのかなど、もっと詳しいことを知りたいが、とりあえずこの結果を正しいとすると、キトラ古墳の被葬者からも弓削皇子は省かれる。

⑥忍壁皇子の死亡年齢は43歳前後?

忍壁皇子の死亡年齢は不明であるが、何とか推定できないだろうか。

672年 壬申の乱。父・天武天皇が吉野から東国に赴いた際に草壁とともに付き従う。
674年 石上神宮に派遣され、膏油で神宝の武器を磨く。
679年 天智・天武両天皇の諸皇子とともに吉野宮に参集し、戦渦を起こさないことを誓約(吉野の盟約)
681年 川島皇子、三野王、忌部子首、中臣大島らと共に、「帝紀および上古諸事」の記録校定事業に取り組む。
685年 冠位四十八階の制定に伴い浄大参に叙せられる。
686年 7月に落雷により民部省の蔵庸舎屋で火災が発生、忍壁皇子の宮殿の失火が延焼したか。
696年 高市皇子死亡。忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長となり皇族の代表的存在になる。
700年 6月、藤原不比等らと大宝律令の選定を命じられる。
701年 8月、大宝律令完成させた。大宝令による位階制の導入により三品に叙せられる。
702年 12月に持統上皇が崩御。
703年 正月、二品の位階にあった異母弟の長親王・舎人親王・穂積親王らを押しのけて知太政官事に就任。太政官の統括者に。
705年 5月7日薨去。

「696年 高市皇子死亡。忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長」とある。

草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年) ?
長皇子(? - 715年)
弓削皇子(? - 699年) 浄広弐・・・・672-699?
舎人親王(676年 - 735年) 
新田部親王(? - 735年) 
穂積皇子(? - 715年)
高市皇子(654年 - 696年)太政大臣
忍壁皇子(? - 705年)三品知太政官事(太政大臣)
磯城皇子(? - ?)

高市は654年の生まれなので、忍壁は654年かそれ以降の生まれとなる。
生年が確認できるのは、

草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年)
弓削皇子(672年-699年?)のみ。

高市が死亡したのは696年なので、このときすでに草壁、大津は死亡しているので省き、弓削皇子のみが残る。
すると忍壁皇子の生年は654年~672年となる。
忍壁皇子が死亡したのは 705年なので、死亡年齢は33歳~51歳となるが、これでは年齢の幅が広すぎる。

母親の宍人カジ媛娘の生年がわかれば、もうすこし年齢を絞れるかもしれないが、宍人カジ媛娘の生年は不明である。
宍人カジ媛娘が天武天皇の後宮に入ったのは673年以降とウィキペディアにはある。
忍壁は母親の宍人カジ媛娘が後宮に入った673年以降に生まれたと考えると、672年生まれと考えられる弓削よりも年下ということになってしまう。
これでは「696年 高市皇子死亡。忍壁皇子は天武天皇の諸皇子の中で最年長」という記述と合わなくなってしまう。


上のブログの方は、「681年の「帝紀および上古諸事」の記録校定事業に取り組む。」を忍壁皇子の初仕事であり、これを他の皇子同様に20歳の出来事としたとされている。
本当に初仕事は20歳なのか、確認してみよう。

草壁皇子(662年 - 689年)681年、立太子・・・19歳。
             686年、天武天皇から母と共に大権を委任される。・・・24歳

大津皇子(663年 - 686年) 683年、朝廷の政治に参加・・・20歳

長皇子(? - 715年)
弓削皇子(672? - 699年)  693年、同母兄の長皇子と同時に浄広弐に叙せられる・・・21歳
舎人親王(676年 - 735年) 695年、浄広弐・・・19歳
新田部親王(? - 735年)
穂積皇子(? - 715年)
高市皇子(654年 - 696年)672年、壬申の乱で活躍・・・18歳
忍壁皇子(? - 705年)三品知太政官事(太政大臣)
磯城皇子(? - ?)

たしかに天武天皇の皇子は20歳前後で初仕事をしていそうだ。

忍壁皇子の初仕事が『681年の「帝紀および上古諸事」の記録校定事業に取り組む』であり、681年に忍壁皇子が20歳であったとすれば、彼は661年の生まれとなる。

ブログ記事は忍壁皇子の年齢を草壁皇子と同じ662年とされている。
まあ、妥当な考えであるように思える。
すると忍壁皇子は705年に亡くなっているので、43歳前後となる。


上の記事ではキトラ古墳の被葬者は50歳代の可能性が高いとしていて、忍壁皇子は若干年齢が若すぎるように思える。

追記/勘違いしていた。すいません。忍壁皇子は高松塚古墳の被葬者ではないかという話だった。(汗)
高松塚古墳の被葬者は40~60代ということなので、ぎりぎりセーフであてはまるだろうか?


⓻皇子だから四神を描くとはいえない。

NHKの番組では、忍壁皇子=高松塚古墳被葬者、高市皇子=キトラ古墳被葬者とし、四神を描いたのは皇子だからだとする。

しかし、本当に四神を描いたのは皇子だからといえるだろうか。

宮内庁管理下の陵墓は発掘調査ができないことが、歴史研究を妨げている。
そうではあるが、考古学的に天皇陵や皇子陵と考えられているが、宮内庁に治定されていないものがあり、そのうち
中尾山古墳は文武天皇(683ー 707年)陵、束明神古墳は草壁皇子の墓、マルコ山古墳は川島皇子の墓と考えられている。
これらの古墳は発掘調査が行われたが、壁画は発見されなかった。

また竹原古墳(福岡県/6世紀後半ごろ)にも四神のうち、青龍、朱雀、玄武が描かれている。


竹原古墳は天皇の皇子を祀ったものなのか?と問われると、そうとはいえないだろう。
上の動画のナレーションでも、「3:56 大陸から渡ってきた騎馬民族のようにも見えます」と言っている。

高松塚・キトラ古墳の被葬者は天皇の皇子であると限定できない。
たとえば渡来系の人物ではないか、のように考えて見る必要があるのではないか。

⑧高松塚古墳は朝賀の儀式を描いたもの?

・朝賀に於ける女子の持ち物は「圓翳・如意・蠅拂」、男子の持ち物は「太刀・屏繖・桙・杖」である。

・忍壁皇子が葬られている高松塚古墳に、大宝元年の朝賀儀式が描かれた。

大宝元年は701年である。
高松塚・キトラの被葬者候補の高市(654年 - 696年、忍壁(? - 705年)のうち、高市は大宝元年には生存していなかった。
そのため、朝賀の儀式が描かれていないキトラの被葬者を高市皇子、朝賀の儀式が描かれている高松塚の被葬者を忍壁皇子と考えたのだろう。

しかし、④で述べたように四神を描いたのは天皇の皇子だから、とはいえないと思うので、高松塚が朝賀の儀式を描いたものだとしても、もう少し被葬者の幅を広げてみる必要がありそうに思える。

深緑色の傘は一位を描くものだということだった。
藤原京の時代、一位であった人間は皇子以外にはいないのか。
また、大宝元年以外の朝賀を描いたものである可能性はないのか。

⑨海獣葡萄鏡が遣唐使によって698年以降に日本に持ち込まれたとは断定できない。

高松塚古墳で出土した海獣葡萄鏡が698年に亡くなった唐の高官の墓から出土したものと同じ窯で焼かれたものと判明したため、高松塚古墳の鏡は704年の遣唐使によって持ち帰られたものであるということから、高松塚古墳の被葬者としては705年に逝去した忍壁皇子が有力になっている。

698年に亡くなった唐の高官とは独孤思貞である。
墓誌にそのような内容が記されていたとのことである。
しかし698年とはあくまで独孤思貞の死亡年であり、海獣葡萄鏡の製作年ではない。
極端な話をすれば、100年前に製作された海獣葡萄経を698年に副葬品として独孤思貞の墓に治めたということも考えられる。

高松塚出土の海獣葡萄鏡が、独孤思貞墓出土と同型ということは、高松塚出土のものは唐で作られたものと考えられるが、
遣唐使によって698年以降に日本に持ち込まれたとは断定できないのである。
唐ではなく、朝鮮から日本に持ち込まれた可能性もある。

⓾高市皇子はキトラ古墳のある今木郡ではなく広瀬郡に葬られた。

高市皇子の墓は大和国広瀬郡の三立岡に葬られたという記録がある。
広瀬郡とは、現在の北葛城郡広陵町・河合町付近と考えられている。

高松塚・キトラ古墳は昔は今木郡と呼ばれる場所にあり、ここを高市皇子の墓とすると記録と異なってしまう。

天皇や皇族の墓の記録は間違っている可能性はある。
しかし、天皇や皇族などの宮内庁管理下にある古墳は発掘調査ができないので、記録が間違っているかどうかは確認できていない。

キトラ古墳の被葬者を高市皇子と推理するのはいいのだが、記録ではキトラ古墳野ある今木郡広瀬郡になっていることには言及するべきだ。

放送のメモにはそのようなことは記されていないが、放送ではそれについて言及されたのだろうか。






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