fc2ブログ
2024 031234567891011121314151617181920212223242526272829302024 05

シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⓾ 十二支は地獄の亡者を責めている?

トップページはこちら。 →


①十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟 (来村多加史氏)

・二十四方位は次の図のようになる。(来村多加史氏)

二十四方位

二十四方位


上の記事で
「『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。」
「黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡が未の方向に描かれていることを発見した。」
とする来村氏の発言について記した。

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図

図2

②黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。(来村多加史氏)

私はこの来村氏の意見には納得できない。
麒麟は置き換えられていないと思う。
図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

1079290_s.jpg

漢代、猫はペットとして飼われていなかった?

・子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は?、巳は虫(蛇)、午は鹿、未は馬、申は環(猿に通じる)、酉は水(雉に通じる)、戌は老未、亥は豚。(秦代行政官の墓に副葬された巻物「日書」)
秦(紀元前905年 - 紀元前206年)の時代、干支は現在のものとちがっている。(来村多加史氏)

・後漢(25年 - 220年)時代の『論衡』に記されている干支は現在と同じ。(来村多加史氏)

・辰は貝、巳は蛇をあらわす漢字。(来村多加史氏)

・干支の虎,辰以外は身近な動物。(来村多加史氏)

・干支が整った漢代に猫は身近な存在ではなかった。猫がペットとして飼われるのは早くても南北朝時代。(来村多加史氏)

「5,300年前の中国遺跡で「飼いネコ」を発見」という記事があり、泉湖村で住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見し、その中に穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。(人間がネコに餌を与えていた。)

「漢代に猫が身近な動物でなかった」というのは疑問である。
私の友人に之を話したところ、「猫と虎はどちらもネコ科の動物でかぶるので、猫は省いたのではないか」と意見をいただいた。

④干支は人を仙境へ導いているのではなく、地獄から悪いものが出ないように見張っているのかも?

・山西省右玉県大川村で発見された銅温酒樽(河平3年の紀年銘文がある。河平3年は紀元前26年)
上段には虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁など。朱雀がはばたいている。(上空をあらわす)
下段には地穴から龍が顔をだし、足を踏ん張る虎がいる。仙人が山岳を駆ける。(低い位置をあらわす。)
伝統的な昇仙図。動物たちが人を仙境へ導く。(来村多加史氏)

虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁が上段にいるのは、人を上段の仙境へ導いているからだと来村氏はおっしゃりたいのだろうが、そうであるならば、なぜ上段には人が描かれていないのだろうか。

・山西省離石氏午茂省 三号墓
前室から奥に、向かって左側の壁に馬車に乗って昇天する被葬者が描かれる。
その下には龍にのる仙人、さらにその下には戟(武器の一種)をつく鶏頭人身の門番がたつ。
右側の壁には婦人を乗せた車、その下には笏(官人が書きつけをする板)を持つ牛頭人身の門番がたつ。

鶏頭人身の門番、牛頭人身の門番は、何を守っているのだろうか。
天国へ悪い物が入らないように、天国の入り口を守っていると考えることもできるだろうか。
それは言い換えれば地獄に堕ちた悪い物が外に出ないように地獄の出口を守っているということでもある。

戟とは鉾のような武器である。(詳しい説明はこちらを参照。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%9F
笏とは、官人が書きつけをするための板を意味する漢字である。
この尺に地獄に堕ちた者の罪状を記すのだろうか?
また地獄を支配し、死者を裁く閻魔は尺をもっている。

桜町延命地蔵 閻魔大王2

山西省離石氏午茂省 三号墓の笏を持つ牛頭人身の門番は、閻魔大王のような神格を持っているのかもしれない。

・天鶏が毎朝太陽のカラスを呼ぶという伝説がある。
牽牛は牛に助けられて天に上ったという伝説がある。
そういった伝説から天の門番に抜擢されたのかも。(来村多加史氏)

日本では、鶏は伊勢神宮の神使いとされる。
伊勢神宮は太陽神・天照大神を祀る神社である。
太陽と鶏が結びついたのは、鶏が朝一番にコケコッコーとなくところから、鶏が朝(=太陽)を呼ぶと考えられたのではないかと思う。

牽牛はその名前のとおり、「牛を牽く若い男」という意味だろう。これは「牛を牽く童子」と言ってもいいと思う。
967年施行の日本の延喜式には次のように記されている。
「大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。」
なぜこのようなことをするのだろうか。
牛は干支の丑を表すものだと思う。丑は12カ月では12月を表す。

干支

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符である。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわす。
つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないかと思う。

・婁叡墓〈570年)のドーム天井壁画
上部 天体
その下 十二支
    十二支の動物たちは右に向かって進んでいる。
    十二支のほかに描かれている聖獣は人の悪い心を読み取る「カイチ」か。
その下 雷神四神、10個の太鼓をたたく雷神も描かれる。
その下 被葬者を載せた牛車(来村多加史氏)

http://ea-art-history.jp/found.html 上記記事の図30、図26に写真がある。
ここに登場する雷神は、日本では菅原道真の怨霊とされている。
菅原道真は藤原時平の讒言によって流罪となり失意のうちに没し、その後、清涼殿に落雷があって道真流罪に関わった人達が大勢死亡した。このため、清涼殿落雷は怨霊の仕業と考えられた。

雷神について、中国では日本とは違った見方をしているかもしれないが、
もしも中国も日本と同様の考え方であるとすれば、被葬者を乗せた牛車は、怨霊である雷神の下で天に向かっているということになる。
そしてその雷神の上にいる十二支は、地獄の出口と、天国の入り口を守っているのではないか。

⑤キトラ古墳壁画の十二支像の顔の向きは一定ではなかった。

高松塚古墳のような女子群像、男子群像はキトラ古墳にはなく、十二支像が描かれていた。


上記記事には次のような内容が記されている。
・キトラ古墳では獣頭人身の十二支像は6体確認されていた。
・文化庁が泥に覆われている部分を蛍光エックス線を使って分析。
「十二支」の辰・巳・申にあたる場所に顔料の成分の水銀や銅の反応が検出された。
・データをもとに可視化すると、「巳」は衣装や舌が2つに割れている様子などほぼ全身が確認できた。

リンク先には新たに見つかった辰・己・申像の映像もある♪

キトラ古墳石室に十二支すべてが描かれていたと仮定してみる。
「キトラ古墳 四神の館」で確認したところ、寅は「東壁、向かって左」に、午(うま)は「南壁、中央」に描かれていた。
すると、十二支の配列はたぶん、下図のようにこうなっているのだと思われる。

方角を表す十二支

虎像

寅像 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の石室でこれまでに確認された十二支などの壁画は、古代中国の思想を背景に、東の方角は「青」、西は「白」、南は「赤」、北は「黒」と、それそれ異なる色で塗り分けられていた可能性が高いと考えられています。

とあるので、退色しているが、たぶん寅は青い着物をきていたのだろう。

午像

午像 キトラ古墳 四神の館にて撮影

午(うま)像は南に位置しているので赤い着物をきている。
「逆像ながら現れた十二支 午の姿です」とあるのは、絵の上に泥がへばりついていてとりのぞくことができなかったが
絵の保存のため、漆喰を剥がしたところ、裏から漆喰の上に塗った赤い顔料が見えていたので、泥ではなく、漆喰の方を丁寧にはがしていった。
そうしたところ、逆像として午像の姿が現れたということである。
研究者の方々や作業をされた方の感動が、私にも伝わってくるように感じられる。

上の絵は向かって右を向いているが、実際の像は寅像と同じく向かって左をむいていたということになる。

さきほどもご紹介したこの記事に登場する己像は、寅像、午像と違って左(向かって右)向きになっている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

↑ これは韓国金庚信墓十二支像/拓本(キトラ古墳 四神の館にて撮影)である。
金庚信墓十二支像は墓石室の壁画ではなく、墓の周囲にめぐらした石に刻まれたものである。

十二支の顔は、キトラ古墳の寅像、午像と同じく全て右(向かって左)を向いている。
ところがキトラは十二支の顔の向きが全て同じではなく、異なっているものもあるということになる。

金庚信墓十二支像はほとんどの像が両手に武器を持っているように見えるが、巳像のみ、右手だけに武器を持っているように見える。

キトラの巳像は右手に何かを持っていることはわかるが、手元が不明瞭で左手に何かもっているかどうかはわからない。
キトラの辰も右手に武器を持っているのが確認できるが、左手、顔の向きはわからない。
申は顔の向きも武器の有無も確認できない。

寅・午のほか、肉眼で確認されている子・丑・戌・亥の画像を下に示す。
キトラ  子丑戌亥

子は右向きで左手はわからないが右手には武器をもっていそうである。
丑は右手に武器を持っているのはわかるが、顔の向き左手はわからない。
戌亥は着用している着物しかわからない。

⑥キトラ古墳は新羅の影響を受けている?

⑤で手に武器を持っていたと書いたが、これについて来村氏は次のようにおっしゃっている。

・子像・丑像は赤い棒状の盾(鉤鑲/こうじょう)をもっている。(来村多加史氏)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A4%E9%91%B2 に鉤鑲の写真、説明あり。

・鉤鑲は後漢時代に流行した武具で、湾曲した太い鉄の棒で敵の刀を受け止める。(来村多加史氏)

・キトラに描かれた鉤鑲は房飾りがついているので、実用ではないだろう。舞人舞踏に用いられたか。(来村多加史氏)

・寅像は房飾りのついた鉾をもっている。(来村多加史氏)

キトラ古墳 四神の館にあった説明版には
「手に武器をもっている点は中国の意匠ではみられない特徴ですが、仏教の影響とも鮮半島の影響とも言われています。」と書いてあった。

十二支像が描かれているのは韓国の金庚信墓である。

金庚信(きむ ゆしん、595年 - 673年)は、伽耶王家の血を引く人物で、三国時代の新羅の将軍である。
660年、新羅は高句麗と百済の麗済同盟に対抗して、唐と組んで百済へ進軍、百済を滅ぼした。
663年(天智2年)、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍との間で戦争がおこる。
唐・新羅連合軍はこれに勝利し、さらに668年に高句麗も滅ぼしている。
金庚信はこれらの戦いで活躍した。

唐での十二支像は西安出土の加彩十二支俑がある。

上の記事をよむと「12体の俑を各方角へ配置することで、墓内に侵入する邪気を払う役割を果たしていたと考えられる。」と
「大唐皇帝陵」展カタログ には記されているようである。

この方のブログはその他にも、
四川万県唐墓出土 青磁十二支俑新羅の十二支像(景徳王陵)なども紹介してくださっている。

ここで思い出すのは土淵正一郎氏の見解である。
土淵氏は、次のような内容を述べておられた。

❶・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。(土淵正一郎氏)

❷高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。(土淵正一郎氏)

❸高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか。(土淵正一郎氏)

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。(土淵正一郎氏)


キトラもまた新羅の影響を受けているといえるだろうか。

⓻キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

・子像、丑像、寅像は右前で襟をあわせる。(来村多加史氏)

右前とは着物の襟の右を先に合わせることである。

舞妓

上は北野天満宮の節分会で撮影したものだが、舞妓さんは右前で着物を着ている。

左前

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳の女子群像をみると、左前のように見える。
右前で着物を着るのは、719年の「衣服令」で定められたという。
高松塚古墳の女子群像が左前になっていることから、719年までは左前で着物を着用していたと考えられているようである。

A.その中で着物の着方について庶民は右前、高貴な人は左前と決められたのです。しかし、亡くなったときのみは庶民も高貴な人と同じように左前で着ても良いと法令で定められました。

また奈良時代は人が亡くなると神様や仏様となるために、現世とは違う左前の服装をするという発想もありました。

黄泉の世界で良いことがあるようにという願いを込めた風習という説も存在します。

上の記事で書いてあることは事実だろうか。
衣服令の規定を読んでみたいと思ったが、残念ながら見つからなかった。
しかし、こう書いてある記事はあった。

なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。

「百姓」とは、現在では農業従事者のことをさす。
しかし、本来は「a天下万民」を指す語であった。
しかし、古代末期以降に「b被支配者階級」をさす言葉となり、明治ごろになって「c農業従事者」を指す言葉になったとされる。
もちろん、「初令天下百姓右襟」の「百姓」は「a天下万民」の意味だろう。
Aの記事はこれを、bcの意味だと誤認してしまったのではないだろうか。

高松塚、キトラ古墳に似ているといわれる高句麗壁画古墳、唐の壁画古墳の人物像をいくつか確認したところ、右前だった。

右前になっているキトラ古墳は719年以降に築造されたのだろうか。

このように考えることはできないだろうか。

現在では死に装束は左前で着付けするのが一般的である。
高松塚古墳とキトラ古墳は四神像などが酷似しているので、同時期に造られたと仮定する。
(四神像が似ているからといって、同時期に造られたとは断定できないが)

高松塚キトラが作られたとき、キトラの十二支像のように右前が一般的だった。
高松塚はキトラと同時期に造られたが、死に装束として壁画人物を左前に描いた。


⑧十二支は地獄で亡者を責める?

来村氏は「十二支は人を仙境に導くお供」だと仰るが、本当にそうだろうか。
婁叡墓は570年ごろつくられたものだが、そのころの中国にはすでに仏教が伝えられていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

上の絵は ウィキペディア「閻魔」にあったものである。

画像が小さくて確認しづらいのだが、閻魔大王の向かって右には羊の顔の人がいる。
向かって左の人は牛の顔をしているように見える。
針の木の下にいる人は馬の顔、釜の向かって右にいる人は龍だろうか。
釜の向かって左の人も動物のような耳がある。
その下には虎の顔をした人が死者を運んでいる。テーブルの上の人を料理している人は鶏の顔だ。

そして獣頭人体のものたちが手に持っている武器は、韓国金庚信墓十二支像が手にもっている武器と同じようなものがある。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めているが、中国の閻魔庁に仕えるのは鬼ではなく、動物の顔をした人(神)のようである。

上は朝鮮の地獄絵だが、泰廣大王の下にやはり動物の顔をした人がいる。

もしかして、これは十二支ではないか?

しかも獣頭人体の姿はキトラ古墳や韓国金庚信墓のものと同じである。

タイトルは「地獄の法廷を描いた中国の仏画」とあるだけで、描かれた時期、場所、作者などは示されていない。
なので、古より十二支が地獄の亡者を責める、という信仰があったかどうかわからないのが、もどかしい。

キトラ古墳の壁画に描かれた十二支はもしかして地獄の責め苦を行う役割を担う神なのだろうか?

中国に仏教が伝わったのは、紀元67年とされるが、前漢の時代(BC2年)には伝わっていたという話もある。
いずれにしても、唐(618年 - 907年)代の中国に仏教は確実にあった。
問題は、十二支が地獄の亡者を責めると言う信仰がいつごろからあったかである。

⑨四天王、十二神将は四神、十二支に対応する?

薬師三尊像

薬師三尊像〈薬師寺)

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置するものである。

左右は薬師如来からみた場合の左右である。
なので、拝観者からみれば、向かって右が日光菩薩、向かって左が月光菩薩となる。

薬師三尊像を上から見た図

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうである。
すると薬師三尊像の中央に安置される薬師如来は星を神格化した仏ということになり、陰陽道の宇宙観にあっている。

また記紀によればイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
すなわち、スサノオは星の神ということである。
船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。

薬師本尊を中心とした仏教の世界は、日光・月光菩薩、四天王のほかに十二神将が周囲を取り巻くもので、願興寺にはこの十二神将も一体もかけることなく現存している。

上の記事に記されているように、薬師如来の周囲に四天王や十二神将が安置されることがある。

そして十二神将は十二支を神格化した仏だと考えられる。

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神。

すると、仏教の薬師如来を中心とする世界は陰陽道の宇宙観を示したものだと考えられる。
また、それは中国の神と次のように対応しそうである。※()内は中国の神

方角       如来・菩薩(星・日・月) 四天王(四神)   十二神将(十二支)

中央・・・・・・・薬師如来(星)
北・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多聞天(玄武)・・・亥神(亥)・子神(子)・丑神(丑)
東(左)・・・・・日光菩薩(日)・・・・・・持国天(青龍)・・・寅神(寅)・卯神(卯)・辰神(辰)
南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増長天(朱雀)・・・午神(午)・未神(未)・申神(申)
西(右)・・・・・月光菩薩(月)・・・・・・広目天(白虎)・・・酉神(酉)、戌神(戌)、亥神(亥)

中国や朝鮮はどうか知らないが、日本では神仏は習合して信仰されていた。
そして梅原猛氏によれば、古には神と怨霊は同義語であったという。
現在でも怨霊を祀る神社は多数存在している。
各地に御霊神社という名前の神社があるが、御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことでもともとは怨霊出会った人々を神として祀っているのである。

陰陽道では怨霊(荒魂)は、神として祀り上げると、人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えたという。

そして仏教の神々は、そういった怨霊である神々に「恨み」や「祟ってやる」という煩悩を捨てさせ、悟りを開いて「人々にご利益を与える存在」と考えられたのではないかと思う。

すると陰陽道の神と考えられる星、日、月、四神、十二支などは陰の存在、
仏教の薬師如来(星)、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将は陽の存在と考えられないだろうか。

日本に仏教が伝来したのは552年説、538年説などがあって、舒明天皇代(629- 641年)には百済大寺が、6世紀末には飛鳥寺や四天王寺が創建されたとみられている。

高松塚・キトラ古墳は646年の薄葬令以降に作られた古墳である可能性が高い。
つまり、すでに仏教は伝わっていたが、高松塚・キトラ古墳は仏式ではなく、神式(陰陽道)で祀られた墓だと考えられそうである。

そして仏教=陽、神道=陰と考えると、少なくとも日本においては、墓に描かれた十二支は被葬者を守護する目的で描かれたとは言い切れないように思う。

もしかすると、被葬者を守護するというよりは、被葬者の霊魂が迷い出ないように、十二神将が被葬者の霊魂を見張っているのかもしれない。


⓾キトラ古墳と隼人石は関係がある?

ここで、聖武天皇皇太子那富山墓の隼人石についてみておくことにしよう。

那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせるではないか!

現在は4石だが、もともとは12石存在した可能性があるとされる。
が、現在は4石のみ残されている。
江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。


第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。

第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。

第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている


大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。はやといし
杜本神社 隼人石

⑪杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?

先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。

境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。

藤原永手 墓誌2

藤原永手の墓碑
藤原永手 墓誌

藤原永手の墓碑

上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えないが。「王」「里」のように見える。

藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。

日本霊異記紀にこんな話がある。

藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。

もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。

いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、先ほどもご紹介したこの中国の仏画である。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。

キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。

⑫聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?

隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。
ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」

被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。

基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。
那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?
1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?

彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。
彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。
称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
称徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?

藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。

藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。

⑬日本の地獄絵に登場する動物たち

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものが多いが、よく見ると動物もいるので、ご紹介したい。(画質悪くてすいません)

西福寺 地獄絵 龍

西福寺 地獄絵 龍

西福寺 地獄絵 馬

西福寺 地獄絵 馬 ※もっともこれはおそらく畜生道を書いたもので、亡者が馬に変身させられた姿を描いた喪のだと思う。そばには黒鬼がいて馬になった亡者を責めているように見える。

西福寺 地獄絵 牛

西福寺 地獄絵 鶏、牛、羊、兎、己、犬など十二支の動物が確認できる。

西福寺 地獄絵 蛇

西福寺 地獄絵 人間の顔をした蛇

西福寺 地獄絵 

西福寺 地獄絵 獣頭人身の像。頭部は馬のように見える。

西福寺 地獄絵 牛2

西福寺 地獄絵 獣頭人身の像(牛)





関連記事
スポンサーサイト




コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/tb.php/1315-7c3a3407