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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew⑬ 副葬品・出土品



よりつづく

①太刀

・高松塚古墳出土の刀装金具は正倉院金銀鈿装唐太刀、東大寺大仏殿須弥壇下出土の金平脱珠玉装太刀に似ている。
(網干善教氏)

太刀パーツ

冑金

太刀各部名称

3枚とも高松塚 壁画館で撮影


・盗掘にあっているが、盗掘者は刀身のみ持ち去った。(網干善教氏)

わざわざ金物をはずして刀身のみ持ち去るなどということがあるだろうか。
もしかすると盗掘に入った際、壊れて金物が外れていたのかもしれない。
しかし、その場合でも美しい細工を施した金物も持ち帰りそうなものだ。
梅原猛氏が指摘されるように、最初からなかったと考えるのが妥当なように思うが、断定はできない。

・石突は正倉院黄金装太刀・横刀、東大寺大仏殿出土の金鈿装太刀、助戸新山国府出土の方頭太刀の外装具鞘尾金物などに似ている。(網干善教氏)


透金具

高松塚出土円形飾金具 金銅製透飾金具(高松塚 壁画館にて撮影)

聖徳太子の太刀

網干氏は本の中で「高松塚出土の大刀外装具(金銅製透飾金具)と共通点がみられる」として、聖徳太子像と王子像のこの写真を掲載しておられた。
ウィキペディアから画像をお借りして、本と同じようにトリミングし、文字をいれた。

・高松塚の棺金具は、正倉院の金銀鈿装唐大刀の透かし模様、東大寺出土の金鈿装大刀の把頭の透かし、法華堂・不空羂索観音光背の透かし金具、興福寺阿修羅像の衣服の模様、玉虫厨子の須弥座の透かし彫り金具に似ている。
(網干善教氏)


興福寺 阿修羅像 服飾の模様

興福寺 阿修羅像 服飾の模様

玉虫厨子の須弥座の透かし彫り金具というのは、これの事だろうか?
https://twitter.com/OreSunny/status/1426052539930218498/photo/2

・高松塚出土の大刀外装具(金銅製透飾金具)は中国では八稜銅鏡が似ている。(網干善教氏)

・「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)109pにおいて、網干善教氏はには新羅臨海殿出土の塼(立方体あるいは直方体の煉瓦)の写真を、高松塚出土金銅装透金具の写真と並べておられる。

・高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。(土淵正一郎氏)

・透金具について、長広敏雄と五味充子は、唐・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文との共通点を指摘。
長広氏はそのデザインの最古例として則天の母楊氏の順陵の大石の坐獅子の台座線刻もようをあげる。
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、それ以後のもの。(小林恵子氏)

・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文よりも臨海殿出土の「塼(せん)」に似ている。
臨海殿は文武14年〈674年〉2月に作られたと「羅記」にあるが、文武王20年の銘文のある塼が出土している。
この模様の起原は670年まで遡るといえる。(小林恵子氏)


史料に674年とあり、出土した塼が681年であれば、遡ることができるのは674年である。
そうではあるが、高松塚の透かし金具のデザインと似たものが、則天の母楊氏の順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」にあり、
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、670年に遡るとされているのだろう。
しかし、この順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」は690年に作られたものであり、楊氏が死亡した670年にその模様があったとはいえなくはないだろうか?
興福寺 八部衆

興福寺 八部衆 向かって左・畢婆迦羅像、向かって右・沙羯羅像

・法隆寺心礎舎利容器、妙心寺梵鐘文、大官大寺出土隅木金具などの対葉華文と似ているとの指摘もある。
7世紀末から8世紀にかけてアジア全体に流行した模様だといえる。(小林恵子氏)

・高松塚出土の銀装大刀金具は正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか(土淵正一郎氏)。

・高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。(土淵正一郎氏)

②土器

・盗掘の際持ち込まれたと思われる土器が石槨内に流入した土の中や上、墳墓頂上部の攪乱土中から出土した。
これらはすべて燈明皿と推定されている。(小林恵子氏)

・墳丘基底面・下層から須恵器(古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。青灰色で硬い。)の杯身と蓋の破片が発見された。これらの土器は藤原京時代かそれ以前のものと考えられている。(小林恵子氏)


・版築層・・・飛鳥Vを 上限とする土器が 出土 
・版築層の下層・・・飛鳥 ⅡからⅣが中心。飛鳥Vの土器も含まれる。古墳の築造時期の上限が飛鳥Vであることを示す。
・周溝の埋没年代・・・奈良時代後半

「飛鳥V」、「飛鳥 ⅡからⅣ」などのローマ数字は飛鳥時代を区分した年代を表しているとおもうが、記事に解説はされていないと思う。(見落としているのかもしれない。)

一般的に、飛鳥時代は崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)の118年間のことをいう。
その118年間を5つに区分したものだろうか。
とすれば、一期は23.6年となる。ざっくりと、次のようになるのだろうか?(まちがっているかもしれない。)

Ⅰ・・・592~616年
Ⅱ・・・616~640
Ⅲ・・・640~664
Ⅳ・・・664~688
Ⅴ・・・688~710

③海獣葡萄鏡

1海獣葡萄鏡について

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡

・海獣葡萄鏡は唐鏡の一種とするのが定説(直木孝次郎氏)

・海獣葡萄鏡は唐での流行とほぼ同時期に日本にも伝来していたと考えられる。
(直木孝次郎氏)

・『東大寺献物帳』(758年ごろ)に、鏡背の文様を「鳥獣花背」と記す。
(直木孝次郎氏)

・北宋の皇帝・徽宗(1082~1135年)は、『宣和博古図録』に7面の海獣葡萄鏡を記す。漢鏡だと考えられていた。
(直木孝次郎氏)

・清の乾隆帝 (1711~1799年)は『西清古鑑』に海獣葡萄鏡の名称で、円鏡27面・方鏡1面を掲載する。
・三宅米吉「日本の古社寺に伝来する海獣葡萄鏡は古墳などからの出土品とは思えない。推古朝以降に唐との交流で伝来したものではないか。」とした。
(直木孝次郎氏)

・1899年、高市郡高取町松山海獣葡萄鏡が出土した。
高橋健自「文様の特徴から唐鏡」
喜田貞吉「宋代に唐鏡を漢鏡に見誤るはずはない」
(直木孝次郎氏)

・原田淑人「海獣葡萄鏡の盛期は高宗(628-683)から玄宗(685-762)ではないか。」
(直木孝次郎氏)

・法隆寺五重塔の心柱礎石内に海獣葡萄鏡が埋納されていた。これを調査した梅原末治は海獣葡萄鏡を隋末唐初に成立した鏡式とした。(直木孝次郎氏)

・梁上椿、禽獣葡萄文(海獣葡萄鏡)は西アジアの影響だが、そのルーツは古代ギリシャやローマ。(直木孝次郎氏)

・高松塚古墳出土鏡の年代について、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後とする。(直木孝次郎氏)

・海獣葡萄鏡は朝鮮での出土例がほとんどないので、唐から持ち込まれた可能性が高い。(直木孝次郎氏)


・海獣葡萄鏡 隋または唐と言われていたが、樋口隆康氏が中国の出土例を検討し、7世紀末から8世紀初とされている。
後の時代に伝わるが上限は動かない。(森浩一氏)


高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。


樋口氏の意見が絶対的な支持をえているわけではなさそうだ。

・中国の海獣葡萄鏡の出土例では、高松塚と似たものが開元通宝といっしょにでている。銭から遺跡の年代を出すのは難しいが一つの参考になる。(森浩一氏)

開元通宝は唐で621年に初鋳され約300年間流通した貨幣である。
このように聞くと、年代を出すのはムリのようにも思えるが、いつどこで作ったかで、異なる特徴があるのかもしれない。

開元通宝

開元通宝

2出土状況

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』では、次のような内容を記している。

・南壁面、内側より奥83CMの東壁面に接した床面の漆喰に食い込むようにして出土した。鏡面が上向きになっていた。


「食い込むように」というのは鏡が動かないようになっていたのか、それとも動かせる状態だったのか、この説明ではわからない。
出土状況を撮影した写真を見ると、床面に浅い窪みがあるように見える。

・海獣葡萄鏡は、縁の部分が高く、模様の部分が空洞となっていたので錆が少なく、鈕(下の写真の鏡中央部。緒=ヒモが通せるようになっている。)に通した緒も残っていた。

たぶん、こういう状況だということだと思う。↓

海獣葡萄鏡 出土状況

・石槨に緒が密着した状態では緒は腐食が進んでいたと思われる。すると、移動されていないか、腐食が進んでいない時期に移動されたかどちらかだと考えられる。

・おそらく鏡は棺の外に置かれていた。その理由は東壁に鏡が密着しており、棺の厚みが東壁と鏡の隙間に挟まる余裕がないため。
↓ たぶん、こういう事だと思う。

鏡の位置①

鏡の位置2

3海獣葡萄鏡はいつ作られたか。

1で、法隆寺の五重塔の心礎から海獣葡萄鏡が発見されたと書いた。
長らく、法隆寺再建論と非再建論が対立していた。
再建論の根拠は『日本書紀』670年に「法隆寺が全焼した」という内容の記事があることだった。
ところが、1939年に若草伽藍が発掘調査されたところ、火災の後が発見されて
https://renaissance-media.jp/articles/-/10046)再建論が有力となった。

日本書紀670年法隆寺消失後、693年に西院伽藍で仁王会が行われている(『法隆寺資財帳』)ことから、金堂はこのころまでに完成していたとみられている。
また、711年には五重塔初層安置の塑像群や中門安置の金剛力士像が完成(『法隆寺資財帳』)しているので、711年には五重塔、中門を含む西院伽藍全体が完成していたとみられている。

ということは、五重塔心柱礎石内から発見された海獣葡萄鏡は711年以前に製造されたものということになる。

.樋口隆康氏によれば、高松塚と同製品と思われるものに、高松市の加藤達雄氏が所蔵するもの、西安十里337号墓出土鏡(高松塚とほとんど同じ)があるという。

加藤達雄氏所蔵の海獣葡萄鏡は下記リンク先掲載のものと思われるが、写真が不鮮明で確認ができない。

径16.5cmと記されているが、高松塚古墳出土のものは径16.8㎝。3㎜は誤差と言えるか?わからない。

獣葡萄鏡は同じ文様を有する同型鏡が多い事も特徴で、高松塚古墳出土鏡は中国西安十里鋪337号鏡など3面と、香取神宮鏡は正倉院宝物南倉70の9号鏡と同型鏡であることが知られている[16]。

とあるので、西安十里337号鏡と同型鏡であるのは確かなのだろう。

.樋口氏は次のように話をつづけておられる。
・西安十里337号墓から出土した鎮墓獣、天王桶、索馬胡桶、馬桶、駱駝桶が出土しているが、同じものが則天武后の武周時代〈690から705)以降の多くの墓から出土するので、西安十里337号墓は700年前後、8世紀初頭に充てる可能性が強い。(樋口隆康氏)

・高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡の様式は、藤井有鱗館所蔵の鏡と、唐代盛期及びそれ以降のものとの中間。(樋口隆康氏)

・法隆寺五重塔心礎内より出土したものは、図柄は簡単になっているが唐代盛期とみていい。
法隆寺五重塔の塔心礎は711年以前にたてられたが、そこから出土した鏡が唐代盛期以降となる。(樋口隆康氏)

・以上の考察によって、高松塚古墳出土鏡の年代は中唐前半(7世紀後半)と考えられる。(樋口隆康氏)

現在、高松塚古墳の年代特定を考える上で、最も重要視されているのは独孤思貞墓(西安市)出土の海獣葡萄鏡だろう。
1958年、独孤思貞墓から海獣葡萄経が出土したのだが、独孤思貞墓には墓誌があり「独孤思貞は万歳通天二年(697年)に卒し,神功二年(698年)に遷葬された。」と記されていたのだ。

これをもとに多くの人が高松塚古墳の年代を推測を試みているが
独孤思貞が698年に葬られたから、この鏡も698年に作られたとはいえない。
たとえば親から譲りうけた古い鏡を、698年に独孤思貞墓の副葬品にしたとも考えられるわけだ。
確実にいえるのは、独孤思貞墓の海獣葡萄鏡は698年までに作られたということだけである。
(これについても、埋葬後何年もたってから副葬品としておさめた可能性もなくはない。)

それでは独孤思貞墓と同型鏡の高松塚古墳の海獣葡萄鏡はいつ作られたのか。
当然のことだが、独孤思貞墓の同型鏡だから698年までに作られた、とはいえない。
同じ型をもちいて、700年頃に作られた可能性もあるし、高松塚の者の法が古くて680年ごろに作られた可能性もあるといえるのではないか。
また、高松塚の海獣葡萄鏡が、680年から700年頃に作られたものとしても、先ほども述べたように副葬品の製造年と古墳の製造年は一致しないので、海獣葡萄鏡は高松塚が造営された年代を考える上で参考にはなっても、これだけで結論を出すことはできないと思う。

朝鮮出土の海獣葡萄鏡もあり、朝鮮からもたらされた可能性もあるとする説もあるが、朝鮮出土を海獣葡萄経は検索しても見つからなかった。(私が検索ヘタなせいかもしれない。)

・年代で決定的なのは鏡だと思う。少なくとも上限はわかる。
海獣葡萄鏡は初唐ぐらいから作られている。
高松塚のものは法隆寺の五重塔から出たものよりタイプが古い。(井上光貞氏)

・日本で出土したもので高松塚と同形のものはない。中国に照会してもらうことになっている。(伊達宗康氏)

高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。
より引用

このように高松塚出土の海獣葡萄鏡の年代については、現在でも諸説あって定まらない。


④不完全な三種の神器?

副葬品は海獣葡萄鏡、刀身を欠く剣の金具、玉などが発見された。
梅原氏はこれは三種の神器ではないのか、とおっしゃっている。

被葬者は朝賀の儀式を行っている中で眠っている。
しかし、被葬者には頭蓋骨がなく、天には北斗七星がなく、南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができない。
正当な皇位継承権を示す三種の神器もあるが、太刀には刀身がない。

盗掘されたのだろうか。


・終末期古墳としては珍しく鏡と刀の両方が入っていた。(森浩一氏)

・ガラスの玉は装飾品か、玉枕かわからない。(森浩一氏)

玉枕

阿武山古墳 玉枕(複製品) 今城塚古墳歴史観にて撮影(撮影可)

・壬申の乱で近江京が消失し、一時的に中国製品などがなくなり副葬品がすくなくなったのかもしれない。(森浩一氏)

・盗掘であればなぜ遺物を残したのか。刀身がなくなって、装具を残しているような例を他にしらない。
高松塚はスコップで掘れるような柔らかい土ではない。政治争い的墓荒しの可能性もある。(森浩一氏)

・高松塚副葬品の刀の刀身がなかったが、腐ってしまったのだとすれば、鏡にも錆が大量に出そうだが、出ていない。(森浩一氏)

海獣葡萄鏡は床の漆喰にのめり込むような形で、鏡面を上にした形で出土した。
そのような環境のため鏡の緒まで残っていたとされるが、それを考慮しても、もっと錆びていたはずだといえるのだろうか。




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