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シロウトが高松塚キトラ古墳を考えてみた。まとめnew②聖なるライン 



「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」における研究者の発言についてはピンク色で、ウィキペディアなどネットからの引用はブルーで、私の意見などは濃いグレイの文字で示す。

①聖なるライン

1969年、岸俊夫氏は藤原京遺跡の朱雀大路の延長線上に菖蒲池古墳・野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)・栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)がほぼ一直線上に存在している(多少のずれはある。)ことを発見した。
これは「聖なるライン」と呼ばれている。

藤堂かほる氏が「藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があるので、天智天皇陵の造営時期は文武天皇の時代ではないか」とする説を発表した。

これを受けて猪熊兼勝氏が『岸氏の「聖なるライン」の延長上に、藤原京大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳がのる」と発表した。
猪熊氏はこれらの遺跡は東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内とされている。

聖なるラインの最北は藤原京ではなく、御廟野古墳(天智天皇陵)だったのだ。

また小山田古墳は、従来、小山田遺跡として発掘調査が行われていたが、
2016年度(平成28年度)に横穴式石室跡が、2017年度(平成29年度)、第9次発掘調査で石室羨道が確認され、古墳であることが判明している。
この小山田古墳も聖なるライン上に並ぶかどうか、微妙な位置にある。(東経135度80分95秒)

小山田古墳と聖なるライン

菖蒲池古墳説明板より ※上の地図では小山田古墳は小山田遺跡と記されている。

また、上の地図を見ると、鬼の俎、鬼の厠も聖なるライン近くにあることがわかる。

つまり、聖なるライン上には、次のものがのると考えてもいいように思える。
※北から順に示す。
※オレンジ色の数字はグーグルマップによる10進法による東経。
※緑色の数字は60進法による東経。変換はこちらのサイトで行った。緯度・経度の、10進数と60進数(度分秒)の変換

御廟野古墳(天智天皇陵)135.80703578189002 135° 48' 25.3296" 〇
平城京朱雀門 135.7942909453661 135° 47' 39.447" 
藤原京大極殿跡  135.807488756034 135° 48' 26.9604" 〇
藤原京朱雀大路跡 135.80744584069 135° 48' 26.805" 〇
植山古墳?(山田高塚古墳に改装される前の推古天皇と竹田皇子の合葬墓?) 135.80348372260363 135° 48' 12.5418"
菖蒲池古墳(蘇我入鹿の小陵?)※これについては後に記す。 135.8079112530273 135° 48' 28.479" 〇
小山田古墳?(蘇我蝦夷の大陵?または舒明天皇の初葬地・滑谷岡?)※これについては後に記す。135.80953546651938 135° 48' 34.326"
鬼俎・鬼厠?※これについては後に記す。135.8053400892267 135° 48' 19.224" 
野口王墓(天武持統合同陵) 135.8078823953552 135° 48' 28.3752" 〇
カナヅカ古墳?(吉備姫王の墓?) 135.803472439535 135° 48' 12.4986"
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)※これについては後に記す。135.80610662419087 135° 48' 21.9846" 〇
高松塚古墳 135.80620099535486 135° 48' 22.323" 〇
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。) 135.8073279818628 135° 48' 26.3808" 〇
キトラ古墳  135.80524770990635 135° 48' 18.8892" ×

猪熊氏は御廟野古墳、藤原京大極殿・藤原京朱雀大路・菖蒲池古墳・野口王墓(天武・持統陵)・中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)・高松塚古墳・栗原塚穴古墳・キトラ古墳は、東経135度48分19-29秒の範囲に収まると仰っている。
収まるものに〇をつけた。

残念ながらキトラ古墳は東経135度48分18秒であり、東経135度48分19-29秒の範囲に収まらなかった。

しかし、それ以外の御廟野古墳、藤原京大極殿・藤原京朱雀大路・菖蒲池古墳・野口王墓・中尾山古墳・高松塚古墳・栗原塚穴古墳は東経135度48分19-29秒の範囲に収まっていた。
また鬼俎・鬼厠は135度48分19秒なので、猪熊氏のいう東経135度48分19-29秒に収まる。

しかし、何も東経135度48分19-29秒からわずかに外れたからといって、聖なるラインに乗らないと考えるのもおかしい。

②鬼俎、鬼厠は石室だった。
鬼の俎・鬼の厠
鬼俎、鬼厠のある付近には、昔鬼が住んでおり、霧を発生させて道に迷った人間を鬼の俎で料理し、鬼の厠で用を足したという伝説がある。
残念ながらこれらの謎の石が鬼の俎・鬼の厠であったというのは伝説にすぎず、『鬼の俎』は石室の底石、『鬼の厠』は古墳の石室だと考えられている。

『鬼の厠』と『鬼の俎』はセットでひとつの石室だったという説、また明治時代まで『鬼の俎』の西にもう一つ別の俎があったそうで、二基の墓があったとする説もある。
現存しない俎の方は割られて庭石にされ、現在は橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されているという。

『鬼の厠』『鬼の俎』は二基の石室であり、斉明天皇と間人皇后が合葬された墓ではないかという説もあったが、現在、斉明天皇陵は牽牛子塚古墳が確実視されている。
牽牛子塚古墳の石室はふたつあり、最近の発掘調査で八角墳であることが確認された。
この時代の天皇の墓のほとんどは八角墳なのである。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

鬼の厠・鬼の俎から1.5kmほど東に向かって歩いていくと石舞台古墳がある。
石舞台古墳は盛土が失われて石室がむき出しになっている。
中国では謀反人の墓は暴かれることがあり、梅原猛氏は「石舞台古墳や鬼の俎・鬼の厠も暴かれた墓ではないか」とおっしゃっている。

石舞台古墳は蘇我馬子の墓と考えられているが、馬子の孫の蘇我入鹿は自分の屋敷を宮門(みかど)と呼ばせるなど天皇のように振る舞っているのがけしからんとして、645年に中大兄皇子に斬殺されている。(乙巳の変)
翌日、入鹿の父親の蝦夷は自宅に火をつけて自殺した。
馬子の墓は謀反人・入鹿の祖父の墓だとして暴かれ、盛り土が取り除かれて石室がむき出しの状態にされたのかもしれない。

石舞台古墳

石舞台古墳

②聖なるライン上の古墳は天皇家の古墳?

・聖なるライン上にある菖蒲池・天武持統陵・中尾山・高松塚・文武陵は石室の形式に差があり、築造年代に若干の差があるが、いずれも終末期古墳。(直木孝次郎氏)

一般的にキトラ古墳も聖なるライン上に並ぶとされるが、直木氏がこの発言をされたのは、「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」においてであり(昭和47年は1972年)、このときキトラ古墳壁画はまだ発見されていなかった。(キトラ古墳の壁画が発見1983年)

・文武天皇陵は内部の状態がわからないが、他の4つの同時期の古墳がほぼ一直線に並んでいるのは偶然ではない。(直木孝次郎氏)

中尾山古墳を発掘調査したところ、天皇陵に多い八角墳であり、火葬墓であったことなどから、中尾山古墳が文武天皇の真陵と考えられている。
直木氏が文武天皇陵とおっしゃっているのは栗原塚穴古墳だと思われる。
この栗原塚穴古墳は文武天皇陵に治定されているので、発掘調査が行われておらず、内部の状態はわからない。
直木氏がこの発言をされたのは、先ほども述べたとおり「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」においてであり、中尾山古墳の発掘調査が行われたのは1974年(昭和49年)・2020年で、本はそれ以前に出版されたものである。
直木氏が「中尾山古墳は文武天皇の真陵」とおっしゃっていないのはそのためである。

・高松塚の被葬者は藤原京時代に死去した人である可能性が高い。
但し、藤原遷都の持統8年以降と見るのではなく、藤原京都市計画が出来た時期以降と考えるべき。
聖なるライン上に天武陵があることから考えると、686年崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていたと思われる。
藤原京時代の下限は平城京遷都の行われた710年。
天武、持統、文武の近親者の可能性が高い。(直木孝次郎氏)

前回も述べたが、聖なるライン上に乗りそうに思われる小山田古墳は蘇我蝦夷の大陵ではないかとする説がある。
そしてやはり聖なるライン上にあるとされる菖蒲池古墳は蘇我入鹿の小陵であり、小山田古墳と菖蒲池古墳が蘇我蝦夷・入鹿の「今来の双墓」ではないかというのだ。
かつて明日香の有る高市郡は今来郡とよばれており、小山田古墳と菖蒲池古墳はどちらも方墳なので、今来の双墓というのにふさわしいように思える。

小山田古墳 羨道跡

小山田古墳羨道跡

菖蒲池古墳

菖蒲池古墳

蘇我蝦夷の大陵とする説のほか、第34代舒明天皇の初葬地・滑谷岡ではないかとする説もある。
舒明天皇は641年に崩御し、642年に滑谷岡に葬られたが、643年に押坂陵に改葬されている。
押坂陵は奈良県桜井市の段ノ塚古墳に治定されている。
段ノ塚古墳は天皇陵に多い八角墳であり、舒明天皇の押坂陵であることが確実視されている。
しかし、小山田古墳が舒明天皇の初葬地・滑谷岡であるというのは疑問視する声もある。

小山田古墳の下層には6世紀後半の集落跡があり、古墳をつくるにあたり、その集落を潰したと考えられている。
さらに築造後の7世紀後半に掘割(地面を掘ってつくった水路。ほり。)の埋没が認められるという。

「掘割の埋没」というのがよく意味がわからないが下の記事をよむと、どうやらそれは古墳の破壊を意味しているようである。

”掘り割りが築造後ほどなく埋没している
という事実である。当然、それは墳丘の削平とも連動していた可能性が高いが、だとすると、大抵の労働力を投入して築造した古墳を、さしたる時間もおかずに、わざわざ破壊したことになる。再び大規模な動員をかけてまで、そうせざるをえなかった理由は何だったのか。舒明初葬陵説に立った場合、はたしてそれを説明しうるのか。”
小山田古墳の被葬者をめぐって 小澤毅 3pより引用
「小山田古墳を舒明天皇の初葬地・滑谷岡」とする説に対しては、「改葬するからと言って、天皇の陵であった場所を破壊するだろうか」という疑問が出されているのである。

一方、小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵、菖蒲池古墳を蘇我入鹿の小陵と考えれば、彼らは中大兄皇子と中臣鎌足によるクーデターで殺害されているので(乙巳の変)、彼らが作った壮大な墓を破壊する理由は十分にある。

ここで、次のようなここで批判があるかもしれない。

「聖なるライン上に天皇家の墓を作る目的があって、蘇我蝦夷の大陵である小山田古墳を破壊したのではないか。
とすれば、高松塚古墳、キトラ古墳は天皇家の墓であり、被葬者は天武、持統、文武の近親者ではないか?」と。

そういう考え方はありえる。
しかしその問題は一旦保留にしておいて、次に進みたいと思う。


③「聖なるライン」ではなく「聖なるゾーン」ではないか?

・岸俊男氏は「天武持統陵が藤原京の朱雀大路の線上にのる」とおっしゃっている。(聖なるライン)
直木孝次郎氏は「線ではなく、ゾーン」だとおっしゃっている。(ホーリーライン)

ホーリーラインとはHoly lineであり、Holyは「聖なる」という意味であり、Holy lineで検索すると競馬の予想サイトなどがヒットする。(笑)
私は英語はまるでダメなのでよくわからないが、Holy lineを直訳すると「聖なるライン」となってしまい、「聖なるライン」も「ホーリーライン」も同じ意味ではないのか、と思ってしまう。
もしかしたら、私が本を誤読したのかもしれないが、今手元に「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社(昭和47年)」がない。(図書館で借りて読んだため)
なので、岸氏がおっしゃる「線ではなく、ゾーン」を「聖なるゾーン」としておこうと思う。

「聖なるライン」というが、少しラインからずれている古墳もある。(これについては誤差だとする意見もあるだろう。)
また「聖なるライン」の周囲にも岩屋山古墳、牽牛子塚古墳、マルコ山古墳、真弓鑵子塚古墳、石舞台古墳、都塚古墳などが存在しているので、岸氏がおっしゃるとおり「聖なるライン」を中心に、その周囲に古墳が存在する「聖なるゾーン」ととらえた方がいいようにも思う。


④「聖なるライン」(または「聖なるゾーン」)が意図するもの

古代の人々が、このように古墳を配置した意図は何だろうか?

私は天智天皇を最上位とするため聖なるラインの最北に天智天皇陵を作ったのではないかと考えている。
「天子南面す」といい、北は天子の位置とされる。

672年、天智天皇が崩御したあとすぐに、壬申の乱がおこった。
天智天皇の皇子・大友皇子と、天智天皇の同母弟・7大海人皇子が皇位をめぐって争ったのである。
そのため、天智天皇の死体は長い間埋葬されず、放置されていたと考えられている。
『続日本紀』に天智陵が造営されたと記されているのは、天智天皇が崩御してから28年たった699年である。

誰が天智天皇陵を聖なるラインの最北に作ったのか。
私は藤原不比等(659-720年)が天智天皇陵造営に関係しているような気がする。

不比等は中臣(藤原)鎌足の子とされるが、本当は天智天皇の落胤であるとの説がある。
『興福寺縁起』には次のような内容が記されている。

「藤原鎌足は天智天皇の后だった鏡王女を妻としてもらいうけた。その時鏡王女はすでに天智の子を身ごもっていた。
これが藤原不比等である」と。

これが事実かどうかわからないが、藤原氏は事実だと考えていたのではないかと思う。
奈良時代、天武系の天皇は絶えてしまって、天智天皇の孫にあたる光仁天皇が即位する。
光仁天皇の次代には光仁天皇の子の桓武天皇が即位し、平安京に遷都する。
以後、ずっと天智系天皇が続いていることになる。

なぜ桓武天皇は平安京に遷都したのか。
そこには天武系天皇の都である平城京を捨て、藤原氏の先祖である天智系天皇の都を新たに作ろうとする藤原氏の意図が働いてはいたのではないか。
そして自分達の先祖(と彼らが信じている)天智天皇の陵も聖なるラインの最北につくったのではないか?

⑤「聖なるライン」は存在しないとする説

「聖なるライン」は存在しないとする説もある。

・中国では、古墳の立地は北。(都の北という意味だと思う。)南に墓を作ることはほとんどない。なので藤原京の南の線上というのは疑問。
高句麗の輯安(集安)も南の開けた土地にというのはない。新羅の慶州にもない。(斉藤忠氏)

・藤原京の場合は、北が低く平地になっていて、南が山という立地条件もある。藤原京の地勢から見て墳墓の地は北には求められない。(伊達宗康氏)




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