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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊵高松塚・キトラの白虎・青龍は江西大墓・江西中墓に似ていない。

シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㊳キトラ天文図はどこからもたらされたか? より続きます~
トップページはこちらです。→ ①天智・天武・額田王は三角関係?

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。

肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。


⑯八清里壁画古墳/被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む

・4世紀~5世紀

・前室と玄室の二室墓

・前室から玄室に入る短い間道中心に四角柱石が天井を支える。
天井はなくなり、内部も破損している。

・玄室
柱と斗栱、
北壁・・・被葬者の室内生活
東壁・・・楼閣、殿閣、人物,青龍
西壁・・・台所、人物
南壁・・・描かれない。

・前室 
西壁・・・被葬者夫婦
東壁、南壁・・・行列図 被葬者が車駕にのって曲芸を見ながら進む
曲芸者の木の竹馬、手品、刀使い、ラッパを吹く二人の午に乗った騎手、太鼓を打つ鼓手

9ページに図あり


⑮徳興里壁画古墳1/墓誌、天の川、織姫、牽牛



上記動画8:04あたりに徳興里古墳がでてくる。

・408年に築かれた。石室封土墳。
(高句麗独自の形式。地表、半地下に長方形の角石、板石で墓室を作り、その上に土をかぶせて叩き絞めて封土にした墳墓。)

・石室内壁に石灰の漆喰を塗り、絵を描く。

・高句麗墳墓の中で被葬者と築造年代が分かっている唯一の墳墓。

・羨道東・・・蓮花と舌を出す獣

・前室北壁・・・墓誌
「広開土王の臣下で、功を立てて大臣になった。名前は鎮。建威将軍。国小大兄を経て、左将軍、遼東太守、使持節などを歴任。幽州刺史を経て77歳で死亡、広開土王の永楽18年《408年)12月25日(409年1月26日)この地で葬られた」
と記される。

前室南側天井・・・天の川、織姫(髻を結び、鬢を長く垂らす。緑や白のチマ(スカート)をはき、淡黄色のチョゴリ(上衣をきる。)牽牛(白色の冠、長く黄色いドゥルマギ)

・信都縣(しんとけん)の出身

・人物、風俗図。
日本古代の男子の髪型(みずら)、流鏑馬

上の記事によるとみずらの人物は女性としている。

⑯キトラ古墳天文図に織女星や天の川の一部が描かれている?

・橋本敬造氏によれば、キトラ古墳の星図には織女星や天の川の一部が描かれ天清(白鳥座)がえがかれているという。

橋本敬造氏の論文はここにあった。
内容をまとめる。

・キトラ古墳の東壁と西壁の上部にあたる星図面の外側の東と西には、線状の雲とともに太陽と月とが描かれている。
六世紀の高句麗・舞踊塚古墳の日・月の描写や、唐初の李賢墓后室にみえる天象図の雲の描写の影響をうけているか。

キトラ 日像

キトラ古墳 日像

キトラ 月像

キトラ月像

・キトラ古墳・月像のなかには蜻蛤(ヒキガエル)のような図様跡が見える(図版E )。

図版Eは5ページに掲載されているが、どこにヒキガエルが描かれているのかわからない。

明日香村の記事には次のようにしるされていた。

”日像
金箔を貼った太陽の中に、わずかに黒い羽根様のものが見られる。おそらく太陽の中に描かれた三本足のカラスの一部とみられる。日像の金箔の下方には水平な線を幾筋も描き、その中に雲か山並みを描いている。

月像
銀箔を貼った痕跡はみられたものの、中に描かれたものは残っていない。本来であれば、月桂樹やヒキガエルが描かれていたのであろう。下方の水平な線や山並みは日像と同様である。”

https://www.asukamura.jp/gyosei_bunkazai_joho_kitora_4.html より引用

どうやら月に描かれていたかもしれないヒキガエルは残っていないようである。
日にはカラスと思われる羽根模様が残っているとのこと。

・ヘラ状のもので引いた下書きがみられた。特に十二支寅像で顕著に確認できる。
おそらく原図を壁面にあて、ヘラ状のものでなぞった後に、描かれたのであろう。

これは下の写真を見ていただくとおわかりいただけるように、橋本氏のおっしゃるとおりである。

虎像

・「織女」星や天の川の一部、あるいは「天津」(白鳥座)も描かれている

記事24p、図9 キトラ星図・概念図 に織女、天の川の位置が示されている。
掲載されている図は南が上になっている。そこで図をコピーして180度回転させて南を上にして、下の図と並べてみた。
(実際にやってみてください。)
すると、全く図が一致しない。

キトラ古墳 天文図

橋本敬造氏の記事の日付は「1999-03-31」となっている。
キトラ古墳が発見されたのは、1983年11月7日。このとき玄武が発見されている。
その後、1998年の探査で青龍、白虎、天文図が確認された。
2001年には朱雀と十二支像が確認された。
2013年に石室の考古学的調査は終了している。

つまり橋本敬造氏が論文を書いた時点では、キトラ古墳の天文図についてははっきりわかっていなかったということだろう。
橋本氏が「キトラ星図・概念図」と書いたのは、よくわかっていなかったためということになる。
全浩天氏が「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅」を著したのは2005年で、この時点でもキトラ古墳の考古学的調査は終了していなかったので、確認する術がなく、橋本敬造氏の論文をそのまま採用したのだろう。

そうではあるが、上のキトラ古墳天文図を見ると、中央部にある赤い円の外側、北北東あたりに、織女と記されている。
飛鳥資料館の記事を見るとさらにわかりやすいかもしれない。
https://www.nabunken.go.jp/asuka/info/2022/07/post-400.html
飛鳥資料館の記事によれば、織女の北にある河鼓という星座の真ん中が彦星であるという。

さて、キトラ天文図に天の川の一部と、天清(白鳥座)は描かれているか。

夏の 大三角

上は https://www.nao.ac.jp/news/blog/2021/20210811-milkyway.html この記事を参考にして私が描いたものである。
(正確な図ではないことに注意)

この図を回転させて、キトラ天文図と同じくらいの位置に織女星、彦星を持ってきて比較してみよう。

キトラ古墳 天文図

夏の 大三角2

比較してみると、どうやら天津とある星宿の一部が白鳥座(天清)に該当しそうである。

※上の図には東西南北が描かれているが、星は天の北極を中心に1日で約1周するので時刻によって星が見える位置は変わってくる。
また季節によって見える星も変わってくる。
季節によって見える星が変わってくるのは、星は動かないのだが、地球が公転しているために起きる現象である。
https://www2.nhk.or.jp/school/watch/clip/?das_id=D0005301507_00000


上の記事に中国星座名と現代星座名が記されているが、天津(てんしん)=白鳥座となっている。
白鳥座は天清とも天津ともいうのだろうか。

天の川の一部は描かれていないようである。

おそらく全浩天氏は「キトラ古墳には天の川、織女星、彦星が描かれているのは、高句麗の徳興里壁画古墳との共通点であるとおっしゃりたいのだろう。
しかし、キトラ古墳の織女、彦星、天津(白鳥座)などは天文図として描かれており、徳興里壁画の擬人化した織姫・彦星は描かれていない。
キトラ古墳は天の川伝説とは直接関係が無さそうに思える。

⑰徳興里壁画古墳2/みずら、流鏑馬などに高句麗の影響?

・4世紀末の高句麗天文学者は白鳥座を認識できる高い水準をもっていたのではないか。
朝鮮の史書『三国史記」高句麗本紀には、高句麗には「日者」という観測専門家集団がいたと記される。

・遣唐使が天の川伝説を伝えた(粟田真人や山上オクラが帰国したのは704年)というが、それより以前に伝わっていたのではないか。
その根拠は柿本人麻呂の702年の歌
「天の海に 雲の波たち 月の船 星の林に 漕ぎ隠れる見ゆ」

・前室天井には牽牛と織女とともに、日・月・星・蓮花
天井下部には狩猟の図。虎・猪・鹿・雉を追う狩人は馬に乗り、短弓をもつ。

上の動画8:52あたりで馬射戯の絵が登場する。

パルティアン・ショット(射法の一つ)虎やイノシシの首には鏃が月朝サリ、鹿の首から鮮血

・前室の南壁・東壁・北壁・西壁の上部
東・・・三本足の烏(太陽を表す)
西・・・ヒキガエル(月をあらわす)せんじょ
天女・神仙・天馬・火の鳥・飛魚・説明文

・前室北壁西側・・・護衛武士たち、召使いをひきつれた鎮が青羅冠(高句麗の大臣が被る)を被って帳房内に座る。
被葬者・珍の下方左右にはチョゴリ(上衣)とバジ(ズボン)を着用した人物二人が筆で記録している。従者が3人。
屏風の広報にも3人の男子の二人の女子の従者。笛、笙を吹く。西側女子は弦鼓を奏する。

前室西壁・・・十三郡太守図。上下二段。
上段6人、下段7人の太守。(郡の長官)説明文あり。

東壁と南東壁、北東壁・・・幽州刺史・珍の行列図
珍は牛輿車に乗る。

上の動画9:13、9:26あたりに「牛轎車図」とでてくる。
かごを車に乗せた形のものを轎車というそうなので、この「牛轎車図」が「珍が乗る牛輿車」だろうか。
しかし色使いが異なっているように見える。
9:13は駕籠の屋根部分が赤く、9:26は駕籠の屋根部分が黄色く見える。退化の影響があるかもしれない。

・前室から玄室に渡る通路
東壁・・・女子の被葬者が出入りする場面 
西壁・・・男子被葬者が出入りする場面
女性の従者は縞模様のロングスカート、髪型は男性従者と同じ みずら

https://www.econfn.com/iwadare/page226.html 
1枚目の写真

・法隆寺 百済の阿佐が描いたと伝わる御持聖徳太子画像 聖徳太子と二王子
みずらは高句麗壁画にしばしば登場する。水山里壁画古墳、曲芸の若者

聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『唐本御影』

・玄室・・・自宅で生活する場面
四隅と天井には柱、斗棋が描かれ、室内のようになっている。
北壁・・・被葬者の張房生活
東壁・・・蓮池・仏教の七宝行事
西壁・・・被葬者の張房生活と倉庫、流鏑馬
南壁・・・厩舎と加治屋 
天井・・・火炎模様、蓮花模様

・日本の流鏑馬は起源がはっきりしない。平安中ごろにははじまったか。高句麗の馬射戯と共通する。
日本最初の流鏑馬記事は、吾妻鏡野1187年 藤原秀郷(9世紀の人物)

・4世紀後半の高句麗の馬射戯と9世紀よりはじまった日本の流鏑馬の起原は同じだろう。
ふりかえりざまに弓を引き絞っているシーン
記録係、審判員 準備練習するシーン

上の動画8:42あたりに記録係のような人が登場している。


⑱江西三墓/二十八宿を作ったのは高句麗人?

・江西三墓 三角形に配置される。

・高句麗壁画古墳の終焉期(668年、高句麗は唐・新羅の連合軍によって滅ぼされた。)

・大墓と中墓には東西南北の壁に四神が大きく描かれる。
白虎は胸を突き出し、「首に蛇腹の様な包帯、荒々しい脚、3本の爪。(高句麗白虎の特徴)

・「他方、高句麗の人々は夜空の星や天空の運行によって人間の運命、人生における吉と凶、幸福と不幸、災いが定められるという信仰や思想があった。このため人々は夜空にきらめく星の中に二八個の星座を探り想定し、それを東・西・南・北の四つの星座群にわけた。」(原文まま)

「このため人々は夜空にきらめく星の中に・・・」とあるが、ここにある「人々」とは「高句麗の人々」という意味だろう。
「二八個の星座」とは二十八宿の事だと思われる。
二十八宿について、ウィキペディアは次のように記している。

”二十八宿は二十七宿よりも歴史が古いという説があり、二十八宿は中国にて誕生し、使用されていたが、インドへ伝わった後にヒンドゥー教の牛を神聖な存在とする宗教上理由から牛宿が除外され[1]、バビロニア占星術などが関連した上で二十七宿となって中国に戻ってきたという[1][2][3]。
この記事の4ページ表二には、「准南子天文訓・漢書律暦志・後漢書・敦煌〇本、開元占〇に基づいて決定された宿度と星名」というタイトルが付けられている。

『淮南子』は前漢の武帝の頃、淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者に編纂させた思想書で、
巻三 が天文訓になっている。

一方高句麗の成立は紀元前1世紀頃 である。
紀元前1世紀とは、紀元前100年から紀元前1年までの100年間のことであるが、
『淮南子』はそれより早い淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)に記されているので、やはりウィキペディアも書いているように、二十八宿は高句麗ではなく、中国で作られたものではないかと思う。

・高句麗の支配者層はなぜ四神思想に陰陽思想を結び付けたのか。
5,6世紀、高句麗は支配層内部での争い、対立、葛藤が激しくなったことが原因。

・初期、四神は天井に小さく描かれた。
時代が進むにつれ、四神は壁面に移り、人物とともに描かれた。
5,6世紀になると人物は描かれなくなり、四神のみ壁面に大きく描かれた。

⑲江西中墓/大きく描かれた四神

・6世紀末から7世紀初め

・墳丘は円形に見えるが、石灰と土を交互にたたきしめた方台形

・単室墓 羨道と玄室からなる。花崗岩の板石を用いてつくられている。
羨道は南壁中央に持つ両袖式。
玄室入口は二重作。玄室天井は高句麗石室封土墳によくみられる平行持ち送り式。

・壁画は石壁の上に直接描かれる。
画法、彩色は江西大墓と共通する。
内壁に壁面いっぱいの四神。天井に人頭唐草文、蓮花文、雲文、鳳凰、日像、月像。

玄武と朱雀

↑ 写真向かって右が江西中墓の朱雀(キトラ古墳 壁画体験館 四神の館にて撮影)

「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に掲載された写真をみると、江西中墓の朱雀は、ほぼ同様の姿をした(保存状態が異なるせいかもしれないが、細かい部分が若干違っているようにも見える)が向かいあっている。
下の記事に朱雀の写真があった。


⑳江西大墓/黄龍のルーツは高句麗ではなく中国だと思う。

・江西大墓が築かれた7世紀初めと同じ610年に、高句麗の曇徴と法定が紙・墨・水車などの技術を伝えた。(日本書記)
法隆寺の壁画も彼らが描いたという伝説がある。

・方台形。花崗岩の板石。
羨道と玄室からなる。羨道は玄室南壁中央に設置された両袖式
玄室入口に二重の門を立てた門枠の後
玄室長方形、天井は平行三角持ち送り式

・玄室壁面は四隅に五角形の隅石を挟み込み隅を防ぐ。

・天井には蓮花文、忍冬唐草紋、雲文、鳳凰、麒麟、飛魚、飛天、神仙、天人

・壁画は直接石壁に描かれる。

・中央には天文図ではなく黄龍
「この黄龍とは高句麗の始祖・東明聖王と呼ばれた朱蒙が他界した時、黄龍に乗って天上に昇ったというその黄龍のことである。」(原文まま)

この全浩天氏の書き方では、黄龍は高句麗が創作した聖獣(全氏はそうはいっていないが)のように勘違いする人がいるかもしれない。

黄龍とは、中国の伝承五行思想に現れる龍である。
四神も中国発祥である。
四神の玄武は北、青龍は東、朱雀は南、白虎は西の守護神であり、中央が黄龍である。

五行思想とは万物は木火土金水の5つの要素からなるという考え方のことである。


五行思想においては、四神&黄龍は次の様に結びつくものと考えられる。

木・・・緑・・・春・・・東・・・青龍
火・・・赤・・・夏・・・南・・・朱雀
金・・・白・・・秋・・・西・・・白虎
水・・・黒・・・冬・・・北・・・玄武
土・・・黄・・・土用・・・中央・・・黄龍・麒麟
※土は季節の交代をスムーズにするものと考えられ、各季節の最後の18~19日間を『土用』として均等に割りふられた。
本来、土用は夏だけではなく、すべての季節にある。

㉑江西中墓、江西大墓の四神/キトラ古墳は江西中墓、江西大墓の影響を受けているか?

白虎・・・胸を突き出し、前の両足を大きく開いている。三本の足爪。首には蛇腹のような包帯をまく。(青龍も同様に包帯を巻く。高句麗だけの特徴)


上の動画の5:05あたりからも江西中墓が紹介されている。
(5:09江西中墓の朱雀、5:51玄武、6:02白虎、6:19青龍
3:09江西大墓の玄武、3:32青龍、3:49天井、4:02蟠龍(黄龍のことか?)4:12飛天、4:26唐草模様、4:37白虎、4:52朱雀)

江西中墓の白虎・青龍について
6:02/白虎を見ると確かに首に包帯の様なものを巻いているように見える。
6:19/の青龍の首に包帯がまいてあるかどうかは確認しづらい。

江西大墓の白虎・青龍について
3:32/青龍 包帯状のものが確認できる。
4:37/白虎 包帯状のものは確認が難しい。

江西大墓の壁画を復元した動画の方でも確認してみよう。



0:38あたりに首のアップが登場するが、包帯状のものを巻いているのが確認できる。
さらに1:21あたりに青龍が登場するが、首に包帯状のものを巻いている。
0:38と1:21の映像を比較すると同じであるように見える。どちらも青龍だろう。
0:36と4:38に白虎が登場しているが、どちらも確認が難しい。4:38にはうっすら包帯状のものがあるようにも見えるが、はっきりとはわからない。

(0:31白虎、0:39青龍の首、 0:49玄武、1:22青龍、2:11青龍、2:14天井、4:30玄武、4:38白虎、5:00朱雀)

・高松塚、キトラ古墳の白虎は首に蛇腹状の包帯を巻き、三本指と爪を持っている。

白虎

高松塚古墳 白虎

白虎

キトラ古墳 白虎

上は高松塚古墳、キトラ古墳の白虎であるが、全浩天氏がおっしゃるような包帯状のものは確認できない。

だが、高松塚古墳の青龍の首には☒マークがある。
キトラ古墳の青龍の首は、泥をかぶっていて確認ができない。

青龍 高松塚壁画館

高松塚古墳 青龍

青龍

キトラ古墳 青龍

もしかすると高松塚の青龍の☒マークは、江西大墓の影響を受けた物なのかもしれない。
ただし、色は高松塚の☒マークは赤、・江西大墓の蛇腹状のもの(包帯?)は白である。
赤い包帯はありえるか。
江西中墓の白虎、江西大墓の青龍、高松塚古墳の青龍の首にあるのは包帯ではなく、首飾りなのかもしれない。

・キトラ古墳の青龍の原図が見いだされる。

と全浩天氏はおっしゃるが、私にはさほど似ているように思えない。
三本指で爪を持っている点は同じではあるが、ポーズや尾の長さなどがかなり違う。

・二羽の朱雀は「今まさに飛びたたん」とする動と静の瞬間を描く。
朱雀の下には山々が描かれている。朱雀は空高く舞っている。一部の人は両足をそろえて静止していると主張するがそうではない。

上の動画『「高句麗古墳壁画江西大墓」復元.mp4』5:00あたりを見ると、江西大墓の朱雀の下には山々が見えている。

しかし、鳥はこのような姿では飛ばないのではないか。


上記記事を読むと、「サギなどでは後ろに伸ばして飛び、小鳥は前に縮める」と書いてある。
下の動画は鳥が飛ぶ時の足の状態が大変わかりやすい。
下の動画には、真下に足をのばして飛ぶ鳥はでてこない。



江西大墓の朱雀は羽根を高く上げて垂直に天に昇って言っているようにも見える。
また「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」に記された江西中墓の朱雀の写真を見ると、朱雀の下に山々は描かれていないようである。

・キトラの朱雀は羽根を広げて駆けている。

キトラ古墳の朱雀は大浩天氏がおっしゃるように、飛ぶというよりは走っている。飛翔する直前の朱雀を描いたのかもしれない。

朱雀

朱雀

キトラ古墳 朱雀

・朱雀変遷
4世紀末 安岳1号墳・・・天井持ち送り部分に描かれる
4世紀末~5世紀 薬水里壁画古墳・・・・南壁入口桁の上で駆ける
5世紀末  双楹塚・・・2羽の朱雀が天上下の桁に描かれる駆けている。
6世紀 真坡里4号墳・・・飛ぼうとして駆ける。
    真坡里1号墳・・・駆けながら飛び立とうとしている。
江西中墓 飛び立つ瞬間
江西大墓 大空を飛び舞う。

https://core.ac.uk/download/pdf/196742704.pdf
朱雀の変遷についてはこの記事8pに写真が掲載されている。(少しわかりにくいが)
私は3の三宝塚古墳(5世紀初)の朱雀がキトラ古墳の朱雀に似ていると思った。

https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/topics/toku011.html
こちらの記事のほうがわかりやすいだろうか。


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