「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」のメモと感想を記す。
「世界遺産 高句麗壁画古墳の旅/全浩天」における全浩天の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
肝心の高句麗壁画古墳の画像が使えるものがほとんどなく、わかりづらい点はおわびします。
①東明王陵/図案化された蓮花紋のみ
・1974年に発掘調査され、高句麗時代の壁画古墳であることがわかった。文献に登場しない定陵寺という寺院跡も発見された。
・東明王は高句麗建国の始祖王・朱蒙のこと。40歳で紀元前19年に逝去(三国史)
・高句麗が強盛を誇ったのは、広開土王と子の長寿王(ちょうじゅさん)の時代
427年、長寿王は集安から平壌に遷都〈3回目)このとき東明王の陵を現在地に移葬した。
・楼閣には朱蒙の姿がある。(上の動画6:11あたりに出てくる絵のことだろうか。)
分官、武官の石人と石馬が並ぶ。
・王陵の高さ、8.15ⅿ 玄室の高さ3.9ⅿ、一辺4.20㎡の方墳
・四方の平面には図案化された蓮花紋のみ
・王冠には100余個の金銀の歩揺(金板や玉などをつらねて垂下した飾り)
残念ながら東名王陵の壁画の画像はネット上にみつからなかった。
②定陵寺/陵の隣に寺があるのは高句麗の影響?
・出土した瓦に「定陵」「陵寺」と刻まれていた。
・始祖王だけでなく真坡里古墳群に眠る高句麗王家の忠臣・功臣を供養する菩提寺でもあったのだろう。
・八角多層唐を中心に三金堂が配置される。高句麗独自の様式だが、飛鳥寺も一つの塔を中心に三金堂をもっていた。
飛鳥寺の最初の住職は高句麗出身の恵慈(慧慈)だった。
『書紀』596年)11月条「法興寺を造り竟(おわ)りぬ」
馬子の子の善徳が寺司となり、恵慈(高句麗僧)と恵聡(百済僧)の2名の僧が住み始めたと記す。
創建時の飛鳥寺伽藍の模型
・恵慈は聖徳太子の師
・恵慈は定陵寺の高僧だったのではないか。
・聖徳太子廟は叡福寺の境内にある。陵墓の隣に寺があるのは高句麗の影響だろう。
全浩天氏が「恵慈は定陵寺の高僧だったのではないか」とおっしゃっている理由は次のようにまとめられるだろう。
・東明王陵の隣には定陵寺があり、聖徳太子廟の隣に叡福寺があるのは、これに似ている。
・聖徳太子の師・恵慈は高句麗の定陵寺の僧侶であったので、陵の隣に寺を作るアイデアは恵慈が伝えたものであるかもしれない。
「もしかしたら、~かもしれない。」程度の仮説ということだ。
しかし、このような推察から深い考察につながることもあるので、意味のないことではない。
聖徳太子廟
室町時代の叡福寺境内図
絵の中央上に黒っぽい屋根が向かって右上に伸びているあたりが聖徳太子廟
陵の隣に寺をつくるのは、高句麗の影響なのか。これについては中国の寺や陵の例を探すことができず、わからなかった。
③真坡里1号墳/青龍も白虎も北向き。太陽には八咫烏、月には兎。
ネットに真坡里1号墳の画像がないかと探してみたがみつからなかった(涙)。
・真坡里古墳群は20基ある。
・高句麗古墳壁画は地表上または半地下に土を盛った石室封土墳に壁画が描かれている。
・1号墳は6世紀の中頃
・四壁には壁面いっぱいに四神が描かれがる。
・北壁 花吹雪、流れる雲、忍冬唐草のパルメット。玄武。松。
〘名〙 (palmette) 椰子(やし)の一種をかたどった装飾。棕櫚(しゅろ)の葉を放射状に配置したような植物文様。メソポタミア起源といわれるが、エジプトやギリシアの装飾にも見られる。
・北壁に描かれた世界は恵慈が聖徳太子に教えてた極楽(天寿国)。高句麗の理想世界の北の楽土。
聖徳太子の妃・橘大郎女は天寿国曼荼羅という繍張を侍女たちに作らせて、そこに聖徳太子が往生することを願ったのだろう。
本に北壁の写真があるが、小さくて花吹雪や玄武は確認することができない。松の木のみ確認できる。
全浩天氏が天寿国曼荼羅と書いておられるのは、中宮寺に伝わる天寿国繍張のことだろう。
天寿国繍張
紫羅、紫綾、白平絹の三種裂を下地裂として刺繡した断片を集め額装とする。
上中下の三段に分かれ、各段を左右に二分しているが、下地裂を混用し、図様も連続しない。
紫羅地には窄袖の異衣に褌の男子と裾広の褶の男子、衣裳の上に於須比をつけた女子、鳳凰、月兎、「部間人公」の文字のある亀形を表し、紫綾地には菩薩形、屋形、「干時多至」「利令者椋」の文字のある亀形二個、白平絹地には鴟尾をのせた入母屋造りの鐘楼と鐘を撞く僧、仏殿楼閣と男女、読経僧、仏像四躯を表す。
全浩天氏によれば、真坡里1号墳の北壁には、 花吹雪、流れる雲、忍冬唐草のパルメット、玄武、松が描かれているという。月と兎は天井に描かれている。
天寿国繍張には、月と兎、雲、パルメットは描かれているが、花吹雪、玄武(亀は描かれているが、玄武とは亀に蛇が巻き付く姿をしている。)松は確認できない。(欠落している部分があるので、もともとは描かれていた可能性はないとはいえない)
そして全浩天氏の説明によれば真坡里1号墳には描かれていないであろう、仏像、菩薩、屋形、鐘楼、僧侶、女子、男子、鳳凰などが描かれていて、真坡里1号墳とはかなり異なっているのではないかと思える。(真坡里1号墳は小さい写真鹿鳴く確認できないが)
「北壁に描かれた世界は恵慈が聖徳太子に教えてた極楽(天寿国)。高句麗の理想世界の北の楽土。」というのは全浩天氏の主観であり、客観的な根拠がない。
・白虎は北向きに疾走する。
白虎は南向きに描かれるのが一般的。キトラ古墳も真坡里1号墳と同じく北向きに描かれている。
キトラ古墳の北向き白虎は日本独自のものといわれることがあるが、それはまちがい。
・東壁に描かれた青龍も北向き。(通常は南向き)
↑ 高松塚古墳の白虎は南向き。
↑ 高松塚古墳 白虎 高松塚古墳の白虎は南に向かっている。
↑ キトラ古墳の白虎 キトラ古墳の白虎は北に向かっている。
↑ 高松塚古墳の青龍は南向き
キトラ古墳の青龍も南向き
・キトラ古墳と真坡里1号墳は関係が深いと思う。
たしかにキトラ古墳も真坡里1号墳も、通常は白虎は南向きで描かれるところ、北向きに描かれている。
しかし、青龍については、キトラは南向き、真坡里1号墳は北向きで異なっている。
白虎が同じ北向きであるからといって、影響を受けているといえるかどうか。
その後の文章で、真坡里1号墳は壁面いっぱいに四神が描かれていると全浩天氏は記しておられる。
『世界遺産 高句麗壁画古墳の旅』には真坡里1号墳東壁に描かれた青龍の写真が掲載されているが、確かに壁面いっぱいに描かれている。
これに対してキトラ古墳の四神は、下の動画1:52を見ればわかるように、そんなに大きく描かれているわけではない。
また、キトラ古墳の大きな特徴として、四神の下に十二支が描かれている点があげられるが、 全浩天氏の真坡里1号墳の説明に十二支は出てこない。
下はキトラ古墳壁画体験館四神の館の説明板を撮影したものである。(撮影可)
説明板の下のほうに、「韓国金庚信墓十二支像(拓本)」と記されている。
真坡里1号墳よりも、金庚信墓の影響のほうが強いといえるのではないだろうか。
ただし、金庚信(新羅の将軍/595年-673年)墓の十二支は壁画ではなく、円墳の周囲にめぐらされた護石である。
※金庾信の墓でないとする説もある。
西湖地区(長江中流域の湖北・湖南両省)
583年前後に出現していた可能性がある。
隋・大業年間(605-616)・・・供手した首の短い座像。腹部に縦帯が垂下するなどの共通点がある。
7世紀中庸・・・笏を持ち、方形台座にする。正座する。(桂子山墓、或嘉湖墓など。)
8世紀初・・・立像 頭部に比較して身部が長い。広袖の長袍 笏をもたない。(揚廟墓、司徒廟鎮墓、高郵車逞墓)
北地区(北京、遼西)
薜府君墓(則天武后期か)・・・窄袖の長袍 束帯をしめる。確実な立像として最古
鋁箔廠墓(734)・・・ 中国における最古の獣頭人身像壁画
両京地区(隋・唐代に都城のおかれた長安、洛陽)
開元年間(713~741)
獣頭人身像は、立像俑、線刻座像ともに、いずれも広袖の長袖、長杉を着て供手する。揚州様式のものと共通する。あるいは、それをもとに形成されたのかもしれない。
線刻座像は、両湖型のモチーフと一致した持笏し、方形台座上に盤座するものに転換する。
獣頭人身像の出現は隋・開皇(581年 - 600年)年間にさかのぽる。
この時期、十二支の動物像をもつ鏡や墓誌が流行した。
獣頭人身像による十二支表現もこの流行を背景にあらわれたものだろう。
獣頭人身像自体の出現は、仏教の盛隆と関係するか。
(十二支と十二神将の融合など)
南北朝期から初唐にかけては、十二神将が説かれる経が漢訳され、盛行した。
キトラ古墳は年代が7世紀末~8世紀初頭。立像。
獣頭人身像が出現していなかった両京地区や座像を基本とする両湖地区を除く地域、特に、長江流域以北の地域である可能性が高い。
十二支の護石がある金庚信(595年-673年)墓は、金庾信の墓でないとする説もあるが、673年ごろに作られた墓ということになるだろうか。
そして獣頭人身像の出現は隋・開皇(581年 - 600年)年間にさかのぽるということは、獣頭人身像のルーツは中国ということになりそうだ。
ただし、四神の館の説明板にあるように、中国の獣頭人身像は武器を持っていないが、新羅の金庚信墓の護石に刻まれた十二支は武器を持っており、キトラ古墳の十二支も武器を持っている。
キトラ古墳 寅像
そして、中国における最古の獣頭人身像壁画は鋁箔廠墓(734)であり、年代はキトラ古墳よりも新しくなるかもしれない。
ウィキペディアには高松塚古墳の築造時期は藤原京期(694年 - 710年)、キトラ古墳の築造時期は7世紀から8世紀と記されている。
そうではあるが、キトラ古墳と高松塚古墳の四神図は大変よく似ており、同時期に築造されたものと考えられるのではないだろうか。
するとキトラ古墳は、中国における最古の獣頭人身像壁画鋁箔廠墓(734)よりも時期が早いということになる。
そうではあるが、藤原京時代の情勢を考えると、獣頭人身像が日本から中国に伝わったとは考えにくい。
中国にはまだ発掘されていない獣頭人身像壁画があるか、破壊されるなどして消滅してしまったということも考えられるのではないか、と思う。
白虎の向きに意味があるとすれば、「キトラ古墳の北向き白虎は、高松塚の南向き白虎との関係を考えたほうがいいのではないか」と個人的にはそう思う。
・天井は平行三角持ち送り式
・高句麗壁画古墳では東に太陽(三本足の烏が描かれる)、西に月(ヒキガエルが描かれる)、
中国では紀元前2世紀の漢のころ、すでに日像に三本足の烏、月像にはヒキガエルが住んでいると信じられていた。
・『淮南子』という書物に、「日中に烏ありて、月中に蟾蜍あり」と記されている。
・陳寿は『三国志、魏書 高句麗伝』には「高句麗の人々は歌舞を好む、どの村も夜になれば男女が集まり、群がり相ともに歌い踊る・・・・人々は清潔で、多くはそれぞれが自分で酒を醸造し、家に置く。」とある。
・真坡里1号墳の日像には三本足の烏、月像には薬草を搗く兎。
本に掲載された写真、イラストを見ると太陽と月は離さず、並べて描かれている。
・6世紀になると高句麗では月の中に兎が描かれるが、ヒキガエルとセットになっていることもあるし、ヒキガエルのみ描かれることもある。
・真坡里1号墳の四神図は恵慈が聖徳太子に教えた天寿国。聖徳太子の妃,橘大郎女が聖徳太子の死に際して作らせた「天寿国曼荼羅」の世界とは、真坡里1号墳と同様のものではないか。
④長川1号墳/相撲、楽器、草花を楽しむ風流は高句麗から始まったとは考えられない。
・集安の長川1号墳を描いた高句麗の画師は、楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ人々を描く。
このような風流は高句麗から始まった。
集安は中華人民共和国吉林省通化市にある都市であるが、古の高句麗はこの付近から、北朝鮮にまたがって存在していた。
集安には高句麗壁画古墳が複数残されている。
・アメリカ大陸、アフリカ大陸でも月と兎についての話が多い。
・「楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ」などの風流は高句麗から始まった。
全浩天氏は「楽器を奏でる人、相撲を取る人、草花を楽しむ」などの風流は高句麗から始まった、と書いておられるが、その根拠を示しておられない。
・『礼記・月令』には、「初冬、周(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の天子は軍隊に対し、射御、角力を習うことを命じた」とある・
「角力」は、「手搏(素手による戦闘)」能力を競うことをいう。
・『漢書・刑法志』・・・戦国時代(前770年ー前221年)、秦は斉、楚、韓、趙、魏の六国を併合するため、角力を強化し、「手搏」を「角抵」と改めた。(前漢/紀元前206年 - 8年、後漢/25年 - 220年)
・しだいに、軍事から娯楽観戦のためのものとなっていった。
『漢書・武帝紀』には角抵の行事が2度記録されている。(紀元前108年、紀元前102年)
・唐代には『角力記』が記される。
・『太平御覧』巻七百十五の『江表伝』によると、「三国時代(184年ー280年)、呉の国主・孫皓が相撲をとらせた」とある。
・『夢梁録』では、「角抵なるものは、相撲の異名なり。(角抵とは相撲の別名である。)」と述べている。
※『夢梁録』は南宋((11271279)の地理風俗を記したもの。
・現在の中国では相撲競技は残っていない。
この記事は劉心明という方が書いたものである。劉という名字から中国の方なのだろうか。
そのため中国びいきなのかもしれないが、史料名を提示してその内容を書いておられる点に信憑性が感じられる。
(もし、記載内容が間違っていれば教えてくださいね。)
「高句麗古墳群」は、4世紀から7世紀の築造とされるが、中国では紀元前108年、紀元前102年に相撲観戦の記事があるので相撲の記録は中国の方が古いといえるだろう。
④真坡里4号墳/高松塚には北斗七星はなく、真坡里4号墳には大きな北斗七星がある。
・古墳群の中で最大の規模(一辺約23m、高さ約6m)
・墳丘の形態は方形
・墓室 長い羨道を持つ。長方形。長さ3.1m、幅2.5m
・壁面に四神や神仙(仙人)が描かれる。
・羨道には風景画
松、絶壁のある山に囲まれた蓮池と蓮花
・天井持ち送りには金箔で二十八宿(高松塚の二十八宿と対比され、議論された。)

高松塚古墳 星宿図
リンク先4ページのアスターナ古墳の星宿図の方が、高松塚古墳の星宿図に似ている。
高松塚古墳壁画には北斗七星は描かれておらず、梅原猛さんはその事をもって、高松塚古墳の星宿図は特別な星宿図であるというような意味のことをおっしゃっておられた。
真坡里4号墳の星宿図に大きく北斗七星が描かれているところを見ると、高松塚の星宿図は梅原氏がおっしゃるように特別な星宿図といえるだろうか。
アスターナ古墳の星宿図にも北斗七星のように見える星宿がある。
しかし、アスターナ古墳の北斗七星のように見える星座星の数が7つではなく8つあるように見える。
実は目のいい人であれば北斗七星は8つの星に見えるそうである。
持ち手の方から数えて2番目の星ミザール(腰布)の横にアルコル(微かなもの)という星があるのだ。
アスターナ古墳の星宿図は、このアルコルを加えて8つの星として北斗七星を描いたのかもしれない。
高松塚古墳やキトラ古墳の星宿と比較して、その位置から推定できるかと思って見比べてみたが、星座の形がまったくことなっていてそれはできなかった。
⑤真坡里7号墳/玉虫の羽根を用いた日像透彫金銅製装飾
・壁画はない。
・日像透彫金銅製装飾(5世紀)
上から4番目の写真
帯状 王冠に付けたものとする説、木枕の側面に着装する飾り金具説
三本足の烏が掘られている。
日像の外側には雲文、鳥。
・北欧の神話では烏は神の使い。道案内の鳥。
熊野三山(熊野坐神社、熊野速玉大社、熊野那智大社)のシンボルは三本足の烏(八咫烏)
・日像透彫金銅製装飾は、玉虫の羽根を用いている。玉虫の厨子はこれの影響をうけたか。
玉虫の厨子(法隆寺)
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