「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「古代の人物像の服飾―高松塚古墳人物像の理解のために 原田淑人」のメモと感想を記す。
「古代の人物像の服飾―高松塚古墳人物像の理解のために 原田淑人」における原田淑人氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
①中国の俑
・中国の明器(死者に備える副葬品)の中で、人形を俑という。殉死の代用。周末には四肢を動かす装置をもつものも。
儒家が殉死の流行をおそれ、孔子の言として「俑を作る者、それの地なからんか」と警告。
・唐代「近頃王公百官競って厚葬をなし、偶人像馬彫刻生けるがごとく、」(太極元年 官人唐紹の上奏文)
・漢・唐の宮中、貴族符号の家には次女を多く雇用したため、俑は婦人像が多い。
唐代の女子俑は豊満なもの、やせ形のものなど様々ある。
②倭の五王
ここで「倭の五王」について勉強しておこう。
「倭の五王」は『宋書』倭国伝・『梁書』倭国伝などに登場する。
倭の五王「讃」「珍」「済」「興」「武」(中国風の名前)は中国南朝に使者を派遣した。
その目的は「冊封」。
冊封とは「中国の皇帝が各地の王の地位を是認する」こと、冊封を得るために死者を派遣することを「朝貢」という。
「讃」(在位413?~)
候補者(『記紀』):応神天皇・仁徳天皇・履中天皇
高麗より南東の海上に「倭国」という島国があり、代々その王が中国に朝貢してくる。髙祖永初二年(421年)、皇帝は「倭王・讃は万里もの遠く離れた土地から朝貢してくる。その誠意に応じて官職を授けよう」と命じた。
「珍」(在位438?~)
候補者(『記紀』):仁徳天皇・履中天皇・反正天皇
「珍」は「讃」のあとを継いだ倭王で、「讃」の弟。
在位期間や「讃」の弟であるとの続柄から『記紀』の仁徳天皇・履中天皇・反正天皇のいずれかに対応するとみられているが定説はない。
讃が死んで弟の珍が倭王となった。
珍は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事安東大将軍倭國王」を名乗り、皇帝に対してその官職への任命を要求したが、文帝は要求をのまず、珍を「安東将軍・倭国王」に任じた。
珍はまた隋ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔國」のそれぞれの将軍職を授けるよう文帝に求め、文帝はこれらを全て認めた。
「済」(在位443?~)
候補者(『記紀』):允恭天皇
「済」は珍のあとを継いだ倭王だが、『宋書』倭国伝には珍との続柄が記されていない。
(『梁書』倭伝には珍の子との記載あり)。
在位期間や次代・次々代の興・武との続柄から、允恭天皇に比定される。
元嘉20年(443年)、倭王・済が使者を派遣して朝貢した。安東将軍・倭国王に任命した。
元嘉28年(451年)には、安東将軍に加えて、使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を与えた。
先代の珍は「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事・安東大将軍倭國王」を求めていたが、済に与えられた称号からは「百済」が除かれている。
また、同時に上表された23人を将軍・郡長官に任命した。
「興」(在位462?~)
候補者(『記紀』):安康天皇
「興」は済のあとを継いだ倭王で、済の子。また、『記紀』に残る安康天皇との説が有力。
孝武帝の大明6年(462年)、帝は「倭王・済の世継ぎ・興は中国の外縁の海を守る役割を果たし、丁寧に朝貢してきた。よって、興にも先代同様の安東将軍・倭国王の地位を授けるべきである」と命令された。
称号から「使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六國諸軍事」が消えている。
『記紀』によれば興=安康天皇は即位後短期間のうちに殺害されてしまったとされる。
『宋書』倭国伝における次代の倭王・武にかんする記述のなかにも、『記紀』に記された安康天皇の殺害をほのめかす表現がある。
「武」(在位462?or 477~)
候補者(『記紀』):雄略天皇
「武」は興のあとを継いだ倭王で、興の弟。
順帝の昇明2年(478年)、倭王・武は使者を派遣して上表文を送った。
「代々冊封を受けているわが国は遠い地にあり、中国外縁の海を守る役割を果たしている。
私の祖先は昔から自ら甲冑を着て山や川を越え、一か所にとどまることがなかった。東国においては毛人の55国を征し、西国においては衆夷の66国を服属させ、海を渡った北方の国では95国を平らげた。皇帝の威光は広くわが国に溶け込んでおり、わが国の国土は広大である。
わが国は先祖代々朝貢してきました。
私は愚か者ながら、祖先の偉業を継承し、人々を統率して天極である宋に従っている。
宋へ向かうにあたっては、百済を経由する航路を使っている。
ところが、非情な高句麗はその百済を征服しようとして両国の境界に住む人々に対する略奪や殺害を行っている。
そのため、わが国が朝貢するルートが遮断されることもある。
宋の臣下であるわが父・済は高句麗が朝貢ルートを遮ることに憤っており、100万の兵を率いて高句麗遠征を試みた。
しかし、相次いで父と兄が亡くなったため、成功しなかった。
(『記紀』によれば、興=安康天皇の跡を継いだ武=雄略天皇は、兄の殺害に関与した豪族を押さえつけたとされる。)
私は喪に服しているために兵を出せず、高句麗との戦には勝てなかった。
今こそ兵士を鍛え、父と兄の遺志を継ぐときである。
わが国の義士・勇士・文官・武官もともに力を発揮して敵と刃を交えようとも、命は惜しくない。
もし皇帝がわが国を支援していただけるならば、高句麗という強敵を倒し、朝鮮半島の乱れを収束させ、祖先の業績に並びたい。
勝手ではございますが、私はひそかに開府儀同三司を名乗り、その他の諸将も仮の職位を名乗って宋に忠義を尽くしている。」
以上の上表文を受けて、順帝は武を「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」に任命した。
その後、倭国と中国皇帝との対外交渉は厩戸王・推古天皇の時代まで150年ほど途絶える。
倭の五王の系譜は断絶、6世紀のはじめごろに即位した継体天皇から始まる王統は、倭の五王とはほとんどつながらない。
継体天皇は15代応神天皇の子・稚野毛二派皇子の5世孫。
③倭の五王(5世紀)ごろの埴輪の衣装は中国の衣装に似ていないと思う。
・倭の五王 (最後の倭の武王は雄略天皇と考えられている。雄略天皇の稚武尊と一致、日本書記には天皇が身狭村主青を宋に派遣したなど)
そのころの埴輪はズボンをすそのあたりで縛る男子像や、スカートを広げる女子像には中国の影響がある。
・中国の服装は男女ともに上衣下裳
人物像は朝服令服等盛装が多い。
男子も裳をつけている。
本にはこの埴輪の写真が掲載されているが、これは中国の衣装に似ているだろうか?
上の動画1:55あたりで唐代の永泰公主墓の女子群像がある。
「中国の服装は男女ともに上衣下裳」と原田氏はおっしゃっているが、たしかに女子群像は上衣下裳のように見える。
2:12辺り、中央の女性の衣装が分かりやすいかもしれない。
しかし、埴輪の女子像の裳はプリーツスカートのように見え、衣の打ち合わせなどを見ても、高句麗壁画古墳に描かれた女子像のほうがより似ているように思う。(ただし打ち合わせが逆)↓
男子はさまざまな服装をしている。
下の動画8:56あたりの人物は膝のあたりを紐でしばっているようにもみえるが、よくわからない。
唐の男性の服装は以下の動画13:56あたりにでてくるが、埴輪の男子の服装とは異なっている。
・中国古代人の服装
男子
頭に幞頭(絹織物の冠り物)前後に二脚の垂飾 前脚は左右の耳下に垂れ、アゴ下で結ぶ。後脚は後ろに垂らす。
女子
冠り者の制はない。高髻、垂かん(漢字が変換できませんでした。すいません。)など。
高松塚の女子像は垂かんの一例
・古来中国人は種々の装飾に日・月・星辰・霊鳥の図像を採用し、辟邪求服の祈願をこめた。
これが墳墓にもおよび、周囲の異民族にも影響を与えた。(高句麗、四神塚など)
④永泰公主墓
・永泰公主墓
女子・・・様々な髪型。上衣の上に帔(ストール)、下には長裙(令服のときは裳といい、平常は裙という)で靴をのぞかせている。
上の動画14:52辺り、スカートのすそから上向きに尖った靴のようなものがみえている。
男子・・・頭に幞頭をかぶり、衣袴の服装、上に長袍、履をはく。
袍
おそらく被葬者供養の行列だろう。
人物は杯盤、燭台、団扇,払子(はたきの様なもの。寺院の僧侶などが用いる)、如意などを持っている。
如意を手にした稚児文珠像
日・月・星辰・建築・樹木が描かれる。石槨にも男女人物の立像が線刻されている。
④高松塚古墳壁画
男子
頭に幞頭をかぶり、中国隋唐以降の上衣下袴の上に長袍
笠を上げ、供物をもつ。繖蓋(きぬがさ)牀机(折り畳みの椅子)をもつ。
リンク先にある唐の幞頭には垂飾があるが、日本の漆紗冠にも垂飾があるようにもみえる。
(下の写真、向かって左から2人目の人物)
原田氏は牀机(折り畳みの椅子)とおっしゃっているが、床几ともいうようである。
女子
冠を被らないで垂かんの髪型。明らかに中国風の上衣下裳
靴を蔽い隠している。
団扇、如意を持つ。
永泰公主墓のほか、蘇思勗墓の壁画に一婦人の後ろに如意を取って起立する一侍男が描かれている。
供養の行列を描いたものか。中国に起源をもつ風俗だろう。
・冠位十二階は隋のものとはずいぶん違っており、推古朝の官位十三階は唐制を踏襲していた。
朝鮮の影響かとおもったことがあった。
・海獣葡萄鏡は唐のもの。7世紀ごろ。高松塚もそのころ。
漢の植民地があった朝鮮半島の楽浪郡では漢代の漢式鏡が多数出土している。三国時代には少ない。
高松塚被葬者の国籍を察する尺度となる。被葬者は日本人。
高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡
朝鮮の三国時代とは、朝鮮半島および満州に高句麗(前1世紀頃 - 668年)、百済(4世紀前半? - 660年)、新羅(前57年 - 935年)があった時代のことである。
漢は中国にあった王朝の名前で、前漢(紀元前206年 - 8年)と後漢(25年 - 220年)がある。
海獣葡萄鏡はかつて漢代の中国で製作されたものと考えられていたが、
1897年に三宅米吉が、寺社に伝わる海獣葡萄鏡は推古朝以降に唐との交流で伝来したものではないか、海獣葡萄経は唐代(618年 - 907年)の鏡ではないかと疑問を呈した。
三宅がそう考えたのは、社寺に伝来する海獣葡萄鏡は古墳などからの出土品とは考えられない、というものだった。
日本に現存する海獣葡萄鏡は以下のとおりで、唐代に創建された寺社が多い。()は創建年
東大寺正倉院(756年)
東大寺三月堂(733年)
香取神宮(?)
大山祇神社(594年)
法隆寺(607年)
春日大社(768年)
原田淑人氏は高松塚古墳から出土した海獣葡萄鏡は唐のものであるとし、
朝鮮半島では漢代に漢式鏡が出土しているが、三国時代には海獣葡萄鏡の出土例が少ないので、
高松塚は朝鮮半島よりの渡来人を葬ったものではなく、日本人を葬ったものだと考えておられるようである。
・高松塚は墳墓の規模が小さい。壁画人物も少数。生前栄華を誇った人物とは思われない。
・唐代の中国文化に興味をもつが、政治的にはあまり頭角を現していない貴人ではないか。
これについては何度も述べたが、高松塚は石室の薄葬令《646年)以降の古墳と考えられるが、薄葬令以降の古墳の中では規模が小さいとはいえず、したがって生前栄華を誇った人物である可能性はある。
薄葬令以降で、高松塚古墳より大きい古墳(直径23m以上)は赤径11.5尋でしめす。
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長22m・高さ4m
※石敷・砂利敷部分を含むと32m
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方10m
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西58m・高さ9m
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長70m※上円下方墳と見做す場合・高さ48m
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長19.5m・高さ4m
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径23m・高さ5m
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径13.8 m・高さ3.3m
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・ ・・方18m・高さ10m
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ ・・方19.3m
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径20m・高さ4.3m
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・・・対角長30m
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ ・・方7.6m
※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・・径16m
・飛鳥の地にゆかりのある人物。服飾に飛鳥の古式を遺存したのではないか。
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