よりつづきます~
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」のメモと、感想を記したいと思う。
「唐代の壁画墓ー最近の中国の調査と発掘をふまえて/長広敏雄」上光貞 編」における長広敏雄氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
使える写真があまりなく、わかりにくいかもしれない点はお詫びします。
①唐の壁画墓
・壁画墓の被葬者は唐帝質の皇女、皇后の弟、その他の貴族、高官、その親族が多い。
・造営年代は658年~847年。7世紀から8世紀に多い。
・中国の帝陵は巨大だが発掘調査をおこなっていない。
”秦の始皇帝の墓の近くにある兵馬俑はたくさん出土していて、考古学者が発掘し、研究をされてきました。しかし、兵馬俑は発掘できても、始皇帝の墓は掘り起こせないと言われています。なぜなら、始皇帝の墓は約30Mの深さがあり、さらにそこに到達するまでには有毒な水銀の大海があると言われています。そのため、現在に至っても発掘を進めることができないと言われています。”
https://chisapo-academy-blog.jp/2016/04/01/%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%82%E7%99%BA%E6%8E%98%E3%82%92%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E7%A7%A6%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D%E9%99%B5%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%82%BE%E3%81%A8-2/ より引用
②唐代壁画墳
❶単室墓
山西省太原市南郊金勝邑5号墓
塼築(レンガ構造)の墓室。南面する。東西2.07m、南北2m、高さ2.1m。
方錐形天井(ピラミッド形)中国の伝統的な形
男女1対を合葬
海獣葡萄鏡(直径13cm)・開元通宝銭・サッサン・ペルシャ銀貨 三彩陶器はない。
築造は7世紀末
壁に3ミリの漆喰をぬって、1幅ごとに紅色の枠取りを描く。
壁画は墓室 馬夫、馬、駱駝(東)牛車(西)北にあり、樹下老人図(東、北、西にまたがる)全部で10幅。
人物は31~35cm
描法は稚拙
(と書いておられるが、本に掲載されている写真を見ると、稚拙にはみえない。高句麗壁画古墳のような荒いタッチではなく、高松塚古墳壁画のタッチに似ているように思う。)
山西省太原市南郊金勝邑4号墓
墓の構造、規模、壁画の構成、年代は5号墓と同様。
東、西壁の南端に侍女図が対照的に描かれている。
南壁墓紋に男侍像。
墓頂に四神図。
山西省太原市南郊金勝邑6号墓
頂点に紅蓮華紋、その下に四神、東西壁丈夫に日月星辰
李爽墓
規模が大きい。
長さ20.6mの墓道が傾斜して地下7.8mに達する。
甬道(石畳の小道)がある。
墓室は東西4.3m、南北3.9m、高さ6.5m
墓道・甬道・墓室に壁画
左右壁に侍衛官、朱色の楼門、腰をかがめ笏をささげた分官、侍女。
墓室の壁画・・・柱間の様に枠取りをして、4つの柱間を作る。柱間には一人の人物。
器物を捧げる婦人、笛や排管を奏する婦人 身長は1.3mから1.5m
墓道の人物蓮見筆の輪郭のみ。墓室の人物は彩色あり。
墓誌によれば埋葬年は668年。
初唐様式。
❷前後二室墓
韋泂墓
※韋泂は中宗皇帝の皇后韋氏の弟。16歳で死去。死後14年経過して淮陽王に追封(死後に爵位を与えること)された。
708年築造
前室・後室がある。
墓道(15.3m)・甬道(4.6m)・前室(3.3m✖3.4m✖5.4m)・甬道(4.7mの斜面と7.3mの平面)・後室(主室/4.3m✖4.2m✖5.5m)に壁画が施される。
壁画は朱色で描いたあと、墨筆で輪郭を描く。
墓道は枓栱・朱柱を並べて描く。
柱間には東壁北側に青龍、南部に朱雀、西壁北側に白虎、南部に朱雀をえがく。
本には図がないが、たぶん下図のようなレイアウトになっているのかな、と思った。(斗栱・朱柱はどのようになっているのか、長広氏の説明だけではわからないので図には描いていない。)
唐の単室墓は墓室天井に四神図を描くことが多いが、規模の大きい韋泂墓では玄武をのぞく青龍・白虎・朱雀を墓道東西壁に配置している。永泰公主墓でも青龍白虎は墓道東西壁に描かれている。朱雀、玄武は報告にない。
まとまった四神図として配置することが重要視されていない。
上の動画7:10あたりで、墓道壁に大きく描かれた青龍白虎が登場する。
墓門上部に楼閣図。永泰公主墓や李爽墓にもある。
永泰公主墓の例は、上の動画7:30あたりの建物の図がそれだろうか。
甬道は男侍の群像。壁上部に長方形の格子(斗栱かもしれない)、その中に花鳥図、下部に樹木、草花。人物像は不明。
後室への甬道には天井部に雲文と鶴。
後室壁画は斗栱と柱を描く。柱間には人物像。
北壁は三幅で侍女、男侍、侍女 生え際の毛髪も細かく描かれている。
永泰公主墓
乾陵の陪陵のひとつ
陵は皇帝や国君(世襲により国家を統治する最高の地位にある人のためのものと定められている。
諸王や公主(皇帝の息女)を陵とは呼ばない。
永泰公主と夫の武延は則天武后の治世中に女帝の怒りを買って死を賜ったため、父・中宗が復位したのちに公主に追封し特葬で乾陵に陪葬された。
動画11:16あたりに永泰公主墓の全体図が示されている。
へたくそな図を描いてみた。
南面
全長(水平距離)・・・約87.5m。
最も深いところ ・・・約16m。
上の動画で何分あたりのところにでてくるかを()内に示してみたが、まちがっているかもしれない(汗)。
墓道・・・・・・・・約23.35m(6:48)
5つの過洞、6つの天井の間・・・水平距離は約33m。
本調査対象の壁画は,墓の入口から遺体を安置した部屋(後室)に通じる通路のうち,図1に矢印で示した第二過洞の東壁に描かれたものである。
とあり、この記事のp2に図が示されている。
この図を見ると、スロープになった部分のことを過洞というのかもしれない。
第一甬道・・・約12.5m
前室・・・・・ほぼ方形(東西4.9m、南北4.7m、高さ5.35m)天井は尖頂。
第二甬道・・・約6.5m、中門に石門あり/動画16:49)を通って後室へ。
後室(17:29)はほぼ方形。東西5.4m、南北5.3m、高さ5.5m。尖頂。
前甬道・前室・後室 塼築構造 床にも方塼
後室西・・・高さ20cmの基壇、その上に石槨(縦3.9m、横2.8m、高さ1.4m)
侍者(男女)・草花・花喰鳥などの線刻画(19:21)
※石槨の線刻画は韋泂墓、韋頊墓(718)にもある。
この石槨の中に棺をおさめる。
壁画
墓道・・・残存壁画は20mほど
東壁・・・武士(7:00)
7m以上ある青龍図(7:09)
レンガ造りの門をもつ楼(7:29)
長い土塀・土塀越に山水、樹木(7:37)
5人づつ、5組の武士(7:34)
二人の馬夫(中央アジア人。目が大きく鼻が高い。)と馬、武器たて(8:03?)
西壁・・・剥落がひどい。白虎(7:09)
5つの過洞
第一、第二・・・宝相花(菱花文、複合バルメット花文)
第三・・・格子天井 十八の格間をつくり、各間に複合パルメット花文を描く。
第四、第五・・・雲鶴図、天井と側壁の接合部にパルメット花文
第五・・・・雲鶴図、天井と側壁の接合部にパルメット花文、荷を担ぐ人物
甬道
格天井 ・・・十八の格間をつくり、各間に複合パルメット花文を描く。(9:25)(10:59)
高松塚出土の透金具とほぼ同じデザイン
どちらも八弁 8つのC字形モチーフがある。
中心部は永泰公主墓の者は八弁蓮華紋、高松塚は車輪石風
同じデザインと書いておられるが、永泰公主墓のパルメット花文は四角で、高松塚出土の透金具は円形である。
墓誌石(10:10)の蓋石にも複合パルメット花文がある。
パルメット花文は埋葬年時である706年に近い時点にデザインされたのかも。
このデザインの下限は715年を下回らない。
上限は704年、武周の石塔婆、順陵の大石座獅の台座
順陵 則天武后の母・楊氏《670年死亡)の墓 689年民義陵と呼ばれ、690年に順陵と改称された。製作年不明。690年頃か?
第二甬道
天井 雲鶴図、左右壁 人物図 花草 仮山(築山)
前室(12:57)
斗栱 梁 柱
天井 天体図(13:20)
南壁二幅・・・男侍 白袍,笏をもつ。
東南壁・・・・婦人8人と男侍1人
向かって左端(率領/女官長か。公主という説もある)持ち物はない。
その脇や背後に女官たち。玉盤(皿)・燭台・団扇・宝台・高脚杯・払子・如意・袋物などを持つ。
生え際を克明に描く、眉も細筆をかさねている。
日本の天平美人の太い眉と違う。
下書きの淡い筆線が残る。
東壁北・・・人物群像
婦人6人、男侍1人
先頭は何も持たない。(向かって右)後の6人(5人では?)は小箱・燭台・袋物・団扇をもつ。
北壁・・・二侍女 率領と侍女 侍女は高脚杯、方形の箱をもつ。
西壁・・・9人の群像 男侍1人 8人は婦人
天井…天体図(13:20)、東に山岳と金鳥、西に月、東北隅から西南隅に書けて銀河 周壁に山岳図
主室壁画
南壁東・・・男侍1名 白衣 笏をもつ
南壁西・・・男女2人づつ 何れも男装する
東壁南・・・7人の群像
東壁北・・・7人の群像
北壁東・・・楽隊?6人群像
北壁西・・・三人
西壁・・・石槨に接して壁画の調査はできていない。
天井・・・前室と同じ 月像は残月(有明の月)(18:09)
次回へつづく~
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