今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「四神塚の系譜と高松塚古墳ー騎馬民族説との関連において 江上波夫」のメモと、感想を記したいと思う。
「四神塚の系譜と高松塚古墳ー騎馬民族説との関連において 江上波夫」における江上氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見はグレイの文字でしめす。
1⃣江上波夫氏の騎馬民族説「騎馬民族が大和朝廷をたてた」?
①「百舌鳥古墳群→纒向古墳群」ではなく「纒向古墳群→百舌鳥古墳群」
江上波夫氏といえば、騎馬民族征服王朝説〈以下騎馬民族説と記す)で有名である。
「四神塚の系譜と高松塚古墳ー騎馬民族説との関連において 江上波夫」という記事について記す前に、
彼の騎馬民族説について、見てみることにしよう。
・日本民族は弥生時代の農耕民族、支配者は騎馬民族
・ユーラシア大陸東北部に半農の騎馬民族が発生
↓
南下した一部が高句麗となる。
↓
高句麗の一部が「夫余」の姓を名乗り、朝鮮半島南部に「辰国」を建てた。
↓
辰国の一部が百済として残った。
辰国の一部は、加羅(任那)を基地とし、4世紀初めに九州北部を征服。
「任那日本府」を倭王の直轄地とする「倭韓連合王国」的な国家を形作した。
↓
九州に「倭韓連合王国」的な国家を形作した勢力は、5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出。巨大古墳を造営。
↓
大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立させた。
巨大古墳とは大阪にある百舌鳥・古市古墳群のことだろう。
百舌鳥古墳群
堺市役所21階展望ロビーにあった模型(見やすくするため一部加工しました。)
・古墳時代前期(4世紀中頃まで)の古墳
竪穴式石室。副葬品は鏡、銅剣のような呪術・宗教的色彩が強く、魏志倭人伝の倭と類似する弥生時代以来のもの。
後期(4世紀終わり頃から)の古墳
応神・仁徳陵など壮大。大陸系の横穴式石室。副葬品は武器や馬具、に男女や馬の形をした埴輪。
・古墳の壁画や埴輪に描かれた服装・馬具・武器は、大陸騎馬民族の胡族と同類。
大陸騎馬民族によってもたらされた朝鮮半島も同様(白い服をまとい帯を締め、馬を操った)
魏志倭人伝で描かれた邪馬台国(人は全身及び顔に入墨をした上に穴の開いた青い布を被っており、馬はいなかった)は全く異なる。
③前方後円墳の起原は高句麗の前方後円形積石塚?
・中国との国境に近い北朝鮮の鴨緑江中流沿岸の松岩里(ソンアムリ)、雲坪里(ウンピヨンリ)で、石積みの前方後円形の遺構が発見されたとの報告が1990年にあった、この石積みの前方後円形の遺構は、いずれも長さ20〜30mで計10基あり、出土した鉄器や馬具などから、紀元前2世紀から紀元前後のものと推定されている。
高句麗独自の積石塚の一種だが、江上は日本の前方後円墳の起源は北朝鮮にあるという説を述べている。
朝鮮半島南部にも前方後円墳はみつかっている。
5世紀後半から6世紀前半の築造とされる。
光州月桂洞1号墳(韓国光州広域市)向かって右が後円部、向かって左が前方部
しかし、江上氏がおっしゃっているのは、朝鮮半島南部の前方後円墳のことではない。
上記サイト「▶︎日本列島の前方後円墳の起源?」のところに「石積みの前方後円形の遺構」の写真と図が掲載されている。
仁徳天皇陵、箸墓などと比べると前方部が寸詰まりな印象があるが、このような古墳は日本にもあり、帆立貝形古墳と呼ばれている。
松岩里の「石積みの前方後円形の遺構」は1世紀~2世紀ごろに作られたものと考えられており、日本の前方後円墳の出現は3世紀ごろなので、こういうものの影響をうけて日本の前方後円墳が作られた可能性はあると思う。
私は江上氏がおっしゃっているように、
日本前方後円墳は松岩里など高句麗の「石積みの前方後円形の遺構」がルーツかもしれない、と思う。
しかし、前方後円墳の発生と広がりを考えると、次の江上氏の考える歴史の流れは、違っているように思える。
1.4世紀初めに半島の騎馬民族が九州北部を征服。「倭韓連合王国」的な国家を形作した。
↓
2.5世紀初めころに畿内の大阪平野に進出。巨大古墳を造営。
↓
3.大和国にいた豪族との合作によって大和朝廷を成立させた。
江上氏のこの考えでは、日本における前方後円墳の広がりは、九州→大阪平野→大和(奈良)ということになると思う。
しかし、大阪平野、百舌鳥古墳群は5世紀~6世紀に築造されたものと考えられており
纏向古墳群の箸墓古墳は3世紀後半とされ、畿内最古の古墳と考えられている。
つまり、順番としては、大和→大阪平野でなければおかしいはずだ。
九州最古の前方後円墳は石塚山古墳で、3世紀中頃~4世紀初頭のものとされる。
畿内最古の前方後円墳とされるのは箸墓古墳で3世紀後半される。
箸墓は卑弥呼の墓とする説があるが、もしそうだとすれば、卑弥呼が亡くなったのが247年なので、そのころのものということになる。
(江上氏が邪馬台国をどこにあったと想定しているのかは不明だが)
↑ こちらのサイトによれば、前方後円墳は奈良で発生し、その後全国に広がっていったとしている。
石塚山古墳が4世紀初頭につくられたものとすると、50年ほどで畿内から九州に伝わったということになるが、当時そんなに早いスピードで伝わったのだろうか?
神武は九州から東征して畿内にやってきているので、ふるさとである九州と同じ形の古墳を畿内に作った可能性もあるかもしれない。
南朝鮮にある前方後円墳はが5世紀後半から6世紀前半の築造とされるので、これは日本の九州辺りの影響をうけてつくられたものだろう。
④伝説・言語の類似点
・高句麗語のなかで現在に伝わっている語彙が、古代の日本語と似ている。(高句麗語がどういうものであったかは不明)
・記紀の天孫降臨説話や神武東征神話は、朝鮮半島からの九州征服と畿内進出を表している。
・クシフルのフルは漢語で村。クシフルは日本書紀ではソホリ。ソホリは朝鮮半島で国の中心・王都を表す。
ニニギが天下った場所が、古事記では「くじふるたけ(くしふる)」、日本書記第九段一書(六)では「そほりのやまのたけ(ソホリ)」になっている。
「フル」が漢語で村の意味かどうかはわからなかった。
ということだろう。
「서울(ソウル)」という地名があるが、ソウルは「みやこ」を意味する言葉だとされる。
つまり江上氏はソホリの語源は新羅語のソウルだと考えておられるのだ。
このような古代朝鮮語の借用語はたくさんある。
・ニニギや「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙の岬(現在の野間岬)まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国で良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住んだ。(古事記)
韓国を天神の故郷と解すれば文意が自ずと通じる。
・広開土王碑文・・・
高句麗は北夫余の出身の鄒牟(朱蒙)王が基礎を創った国で、王は天帝の子、母は河の神の女(むすめ)。卵から生まれた。葦と亀とで浮き橋を造らせて、王は向こう岸まで渡った。
神武東征神話・・・
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ/神武)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でから東征し、
豊国の宇佐・筑紫国の岡田宮・阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)・吉備国の高島宮をへて速吸門で亀に乗った国津神に会い、水先案内として槁根津日子という名を与えた。
浪速国の白肩津に停泊すると、ナガスネビコの軍勢が待ち構えていた。
亀が登場する点などが似ている。
・崇神天皇は、『日本書紀』では御肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)とあり、『古事記』では所知初国之御真木天皇(ハツクニシラスノミマキノスメラミコト)とあることから、崇神天皇は、ミマキ(ミマ(任那)のキ(城))に居住し、そこを出発点として国を創建したと解釈できる。
・応神天皇が畿内に進出し、後に大和朝廷が成立した。
・諸豪族に連(大伴、物部、中臣等)と地名をその氏とした臣(葛城、巨勢、蘇我等)の二重構造。
これは天孫天神系豪族と朝廷成立以前からそれぞれの地方に地盤を持っていた国神系豪族に対応するもの。
軍事は天孫天神系豪族、天皇家の姻族となるのは国神系豪族が多い。
これらは騎馬民族の征服王朝の特徴。
⑤史料からの推察
・長い年月朝鮮半島を支配し定住した民族が、長期間かけて日本列島を征服支配した。
・騎馬民族が農耕民族を征服支配した場合には、徐々に農耕民族に同化する。
・隋使裴世清の大和朝廷への紀行文・・・「倭国は言われていたような蛮族ではなく秦王朝あった。」
※辰韓を含めて、中国では辰を秦と記すので秦王朝とあるのは「辰王朝」であるとする。
『旧唐書』・・・「日本国は倭国の別種であり、もと小国の日本が倭を併合した」
『新唐書』日本伝・・・「神武以前の日本の統治者が「筑紫城」にあり、後に大和地方を治めた。」
隋や唐は、大和朝廷を古来の倭そのものではなく、朝鮮半島南部の辰王朝の末裔であり、大和地方を治める以前は筑紫にいたと見ている。
※一般的には旧唐書にある日本とは天武天皇朝、倭は天智天皇朝のことを指していると考えられている。
・倭王武は、中国南朝宋に対して、使持節都督倭・新羅・百済・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍と自称した。
当時存在しない秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)など過去の三韓の国名があり、弁韓がない。
弁韓は倭王が支配している任那そのものであるからあえて加える必要はないが、秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)は倭王がかつて三韓を支配したことを主張するために、加えたのだろう。
・過去に、三韓(辰韓・馬韓・弁韓)の一部を統治した「辰王」という扶余系の騎馬民族と考えられる支配者が存在した。また、上述したように、唐は、日本を辰王朝が倭を征服した国家だと見ている。
※『旧唐書』には「日本国は倭国の別種であり、もと小国の日本が倭を併合した」とある。
・農耕民族に見られるような禅譲による王朝の交替がないのは騎馬民族の特徴。
※禅譲・・・君主が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ること。
中国伝説では、堯が舜に禅譲し、舜が禹に禅譲したという伝説がある。
歴史上禅譲と呼ばれているものは、実際には簒奪に近い。王朝の正統性を保証する演出。
禅譲後に前帝や一族が殺害されるケースもある。
前漢 - 新、後漢 - 魏 - 西晋、東晋 - 宋 (南朝) - 斉 (南朝) - 梁 (南朝) - 陳 (南朝)など。
・白村江の戦いで敗れた日本は南部朝鮮保有を断念し、大和朝廷は古来からの伝統的王朝であると偽り記紀を編纂した。
※663年 白村江の戦い
朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍の戦争。日本大敗。
※『日本書紀』は「倭国は半島南部の任那を通じて半島に影響力を持っていた」と記すが、任那は562年以前に新羅に滅ぼされた。
百済は642年から新羅侵攻を繰り返していたが、660年に滅亡していた。
・男子の天皇と天皇をつなぐ女帝の存在は、大陸騎馬民族の王位継承のあり方そのもの。
たとえば、新羅の善徳女王(そんどくじょおう、? - 647年)、真徳女王(?- 654年)のことだろうか。
しかし、騎馬民族は5世紀ぐらいに大和朝廷を建てたとするのであれば、この二女王は時代が新しすぎる。
江上氏の『騎馬民族国家 日本古代史へのアプローチ』をよむと書いてあるかもしれない。
・平安時代初期に編纂された『新撰姓氏録』に収録された1182の氏のうち帰化人系統は326で、ほぼ30%。
農耕民族は他民族を蛮夷視したり蔑視したりする性癖が強く外国人の集団的移住を許容するものではない。
大量の集団移民を受け入れ、時には強制的に国内に移住させるのは騎馬民族国家に特有。
・『続日本紀』に、渤海の使者に与えた返書の中で、かつて高麗が日本に対し「族惟兄弟(族はこれ兄弟)」と表現したことにふれていること(江上は、天皇氏と新羅や任那の支配者層は同族であるとし、ともに天孫族と呼ぶ)。
・14世紀の北畠親房の『神皇正統記』に「むかし日本は三韓と同種といふことのありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」とある。
⑤江上説に対する反論
・古墳時代の前期(2世紀末葉-4世紀)と中・後期(5世紀以降)の間には文化に断絶がみられず、強い連続性が認められる。
具体例がほしい。
・「大陸から対馬海峡を渡っての大移動による征服」という大きなイベントにもかかわらず、中国・朝鮮・日本の史書いずれにも、その記載はない。
江上氏は騎馬民族が大勢で日本に渡来したと考えておられるのだろうか。それについては江上氏の本をよんでみないとわからないが、
古墳時代に多くの渡来人が日本にやってきたことは確かであり、その中で実力をつけたものが倭人と合同して大和朝廷をつくったのかもしれない。
・中国の史書では、日本の国家を、紀元前1世紀から7世紀に至るまで一貫して「倭」の称号を用いている。
上記記事には、次のように記されている。
『古事記』ではヤマトを「倭」とのみ示し、「日本」とは記さない。
『日本書紀』ではヤマトの大部分「日本」と記す。
『後漢書』……倭
『三国志』……倭
『宋書』………倭
『隋書』………倭
『旧唐書』……倭・日本
『新唐書』……日本
『宋史』………日本
『元史』………日本
『明史』………日本
唐代の700年ぐらいに日本と呼ばれるようになった。
江上氏は日本民族は弥生時代の農耕民族、支配者は騎馬民族だと考えておられる。
支配者が騎馬民族かどうかはわからないが、日本には弥生時代から渡来人が大勢やってきており
そのような渡来人は大陸の進んだ技術をもって、支配者階級となった可能性はあると思う。
そして、その支配者階級が少人数であれば、文化の分断はおきないのではないかと思う。
また、崇神天皇のミマキイリヒコイニエという和風諡号の中にある「イリ」とは「入り婿」のことで、崇神天皇は大和にあった政権の入り婿になったとする説を、飛鳥昭雄さんが唱えておられた。
記紀神話には、葦原中国に天下って葦原中国のオオヤマツミの娘と結婚したニニギ、龍宮に言って海神の娘と結婚したホオリなど、天皇家の先祖に入り婿になる話が多く、これはトンデモ説とは言い切れない。
神武天皇は大物主の娘を皇后としているが、大物主の物とは物部氏ではないかと思ったりする。
そして神武天皇よりはやく畿内に天下っていたのが物部氏の祖神ニギハヤヒとされる。
とすれば、神武は日向からやってきて、畿内にあった物部王朝に婿入りしたと考えられる。
このような場合でも文化の分断はおきないだろうし、外国からみれば、神武以前も神武後も同じに見えるのではないだろうか。
・騎馬民族であるという皇室の伝統祭儀や伝承に馬畜に由来するものがみられないこと。また、『記紀』において馬に乗って活躍する英雄の話がまったく出てこない。
・日本における乗馬の風習の開始は江上が騎馬民族の渡来を想定した4世紀までにはさかのぼらず、5世紀初頭が上限であり、以後、馬の飼養、馬具の国産化が軌道にのって騎馬の風習が一般化したのは5世紀末以降とみられる。
5世紀の古墳から出土する甲冑の多くは馬上での着用に適しない歩兵戦用の短甲を主とした組み合わせであり、また、初期の馬具は装飾的な要素が濃厚で実戦向きではない。
・日本列島の王墓とされる大規模な墳墓には高句麗や百済の王陵である積石塚や新羅地域の王墓である双円墳がほとんどなく、これらと日本の前方後円墳では形態等がまったく異なる。
※日本国内で双円墳と確認されたのは、「金山古墳」の1基のみ。
すでにのべたように高句麗の積石塚は前方後円墳の形をしている。
また最古の前方後円墳は箸墓とされている。
高句麗の積石塚をルーツとして、箸墓から前方後円墳が作られるようになったと考えることはできそうである。
・日本独自の古墳形式である前方後円墳は、3世紀後半に畿内で発生していることが明らかで、朝鮮半島や中国大陸にそれに相当する古墳は存在せず、4世紀から5世紀にかけて最盛期をむかえ、6世紀に至るまで墳形や分布にとくに際だった断絶がみられないことから、日本の王権が畿内を発祥とする土着の勢力である可能性がきわめて高い。
・弥生時代の日本に稲が伝わり、稲作と米食が始まったが、食用家畜はともなっておらず、その後も有畜農業がみられなかったこと。食用家畜を飼育することによってその肉や乳を利用したり、乳製品や馬乳酒を作るなどの食体系も欠落している。
・近世に至るまで日本では馬や羊のオスを去勢するなど家畜の管理・品種改良をおこなう畜産民的な文化や習慣がほとんど皆無。車の使用など、騎馬民族の多くに特徴的にみられる習慣・技術が欠如している。
・祈年祭・新嘗祭・即位式・大嘗祭など宮中の重要な祭儀に動物犠牲をともなった痕跡がない。
平安時代ごろ、血は穢れとする思想が生じたことが原因かもしれない。
・北方遊牧民のあいだでは馬上からの連射のため、短弓の使用が一般的であるが、日本では戦国時代に至るまで長弓であった。
刀剣も騎馬民族のものは馬上から振り下ろすため刀身に反りのある刀が一般的だが、日本列島の古墳から出土する刀はすべて直刀。
・馬は神経質な動物であり、当時の船による大量輸送は不可能であって、現に13世紀の蒙古襲来の際にもモンゴル・高麗連合軍は軍馬をまったく輸送していない。
・馬具や馬をかたどった埴輪の出土は関東地方や九州に偏在しており、ヤマト王権の本拠地である近畿地方からの出土が希薄であり、全体としても決して大量とはいえない。
・倭王武の上表文では、「…昔より祖禰みずから甲冑をつらぬき、山川を跋渉して寧処にいとまあらず…(中略)…渡りて海北を平らぐること九十五国…」と記しており、畿内大和を中心とした視点で四方に出兵したという観念が認められ、日本列島外部からの征服をまったく主張していない。
・遺伝子調査の点では、日本人固有で最多を占める遺伝子はD2系統であり、後から渡来してきたとされる(日本史上のいわゆる渡来人とは一致しない)O2系統遺伝子は江南系統と言われ中国南部地域に見られるが、どちらも騎馬民族系統とは言えない。(原文ママ)
「日本人固有で最多を占める遺伝子はD2系統」というのは誤解を与える書き方かもしれない。
・日本語の基本語彙の中には満州地域や朝鮮語の語彙はほとんどなく、わずかにみられる語彙も「羊」など本来日本にはないもので借用語の可能性の域を出ない。
征服が事実ならば当然征服者である大陸の新しい言語が導入されたはずなのに、そのような痕跡がみられない。
・『古事記』や『日本書紀』の神話は騎馬民族に特徴的なトーテム獣(トルコ・モンゴルでは狼、朝鮮では熊など)が見られず、比較神話学上別種に分類される。
また、神話諸要素は文化交流の結果から説明でき、必ずしも「征服」を必要としない。
神武の先祖のホオリの妻・豊玉姫はワニの姿で出産しているが。
・江上は、崇神天皇こそ「辰王」の後裔にして倭人の協力のもと北九州に侵攻した任那王であり、日本建国の王だと説くが、崇神天皇には任那(加羅)・北九州のおもかげを示唆するものはまったくなく、『日本書紀』『古事記』『和名抄』のいずれの史料にあっても王宮・陵墓が奈良盆地に所在すると記されており、実際の古墳分布もそれを裏付けている。
崇神に北九州をおもかげを示唆するものはない、というのはその通りだと思う。
しかし江上氏は「騎馬民族は長期間かけて日本列島を征服支配した。」と記しておられ、その長期間の間に任那のおもかげが薄れた可能性はあるかもしれない。
・「ハツクニシラス」の称号について、日本国の創始者の意味で使われているのは神武天皇。
崇神天皇の場合は疫病で人民が死に絶えようというとき、正しい祭祀をほどこしてこれを鎮めたり、四道将軍を四方に派遣して国内を太平に導いた、人民に調役を課し、天神地祇をよく祀ったので風雨順調で百穀がみのり天下太平となったなどの功績を称えて与えられた。
うーん、これはどうだろうか。そういう解釈もできるだろうが、神武と崇神は同一人物を示唆しているとも考えられるのではないだろうか。
・日本には弥生時代後期から古墳時代にかけて倭国と大陸や朝鮮半島との交易や戦火を契機に騎馬文化が流入したとはいえるものの、それは主体的・選択的なものであって、征服による王朝交代によって否応なく受容したものであることを示すような文献資料・考古資料は見つかっていない。
・『史記』などの記載によれば、濊族の地の一部に夫余族が入ってきて、そこに残った濊族を支配するようになった可能性もあって、征服王朝的性格が皆無とはいえないが、
『魏志』によれば、「その民は土着し」「東夷の地域でもっとも平坦で、土地は五穀に適している」「性格は勇猛であるが謹み深く、他国へ侵略しない」とあって、農耕主体の定住民であり、侵略も好まず、また実際にその後に南下したという記録も存在しない。
・夫余族が南下して高句麗を建国したという伝説も、近年の李成市の研究によれば、
北夫余を奪取した高句麗が、新附の夫余族との融合と夫余の旧領を占有することの正当性と歴史的根拠を主張することをめざした政治的意図によるものであったことが明らかにされ、夫余と高句麗の種族的系譜関係はないものと結論づけられている。
・考古学的知見においても、高句麗の墓制が積石塚主体であるのに対して夫余の墓制は土壙墓であり、同族関係である可能性はきわめて低い。
・百済における夫余起源説は、後進の百済が高句麗との同源を主張することによって高句麗との対等を主張した政治的主張であり、事実とは考えられない。
・百済、(4世紀前半? - 660年)はは、3世紀から4世紀にかけて高句麗族の南下を想定する余地はあるものの、その場合でも「辰王」に結びつくことは、年代的にも考えられない。
辰王は、朝鮮三韓の馬韓(朝鮮半島南部)の月支国を治所とし、弁韓の12国を統属していたという首長。
三上次男は、辰王は2世紀から3世紀頃に朝鮮半島南部に成立した一種の部族連合国家の君主であるとした。
つまり辰王は2世紀から3世紀の人物であるのに対し、百済が存在したのは4世紀前半? - 660年なので、時代があわないということだろうか。
・辰王は夫余とは無関係で、馬韓人。韓族全体に君臨した政治的君主であった記録もない。
・大林太良などは、神話に関しては、日本の神話伝説をベトナムや朝鮮半島、ミャンマー、スリランカなどの神話と比較して、その独立性を指摘している。
・「国生み神話」などにみられるように、記紀では、神話や王権の舞台として島々(大八島)を念頭に置いており、大陸に起源を求めていない。
たとえ騎馬民族がやってきたのが本当であっても、国生み神話はその国の地理をベースにするのは当たり前のように思う。
・ユーラシア・ステップのアルタイ系騎馬民族に高頻度にみられるY染色体ハプログループC-M86が東日本ではゼロであるが、九州と徳島でそれぞれ3.8%、1.4%確認されており、騎馬民族の小規模な流入があったことを支持する結果となっている。
⑥江上氏は反論にどう答えているか。
江上氏は反論に次の様に答えているようである。
・騎馬民族は農耕民族とは異なって柔軟で適応性が強く、日本の原住民の『歓迎』を受けて『平和的』に進駐し、征服地で被征服者の言語や墓制を取り入れたが、征服者の数は少数で、騎兵だけでなく歩兵をもともなっていた。
・騎馬民族のなかには去勢をおこなわない民族もあるから、日本にこういった習慣がのこらないのも不思議ではない。
7⃣騎馬民族説の江上氏は高松塚古墳をどう見たか。
ようやく「四神塚の系譜と高松塚古墳ー騎馬民族説との関連において 江上波夫」に進むことができる。(笑)
①
・天皇一族の墳墓(陵墓)とその他の人々の墳墓は、形制においてことなるのではないか。
この考えから騎馬民族説(扶余・高句麗系による日本征服、大和朝廷樹立)を発展させた。
・大和朝廷の樹立者が扶余・高句麗系の騎馬民族で、長く南韓にとどまったあとに日本に渡来したのではないか。
すると、天皇族の墳墓は高句麗王族の墓制の伝統にしたがっているのではないか。
または高句麗に同源と自称する百済王族に類したものであったかもしれない。
つまり、天皇族の陵墓は高句麗の壁画墳と同類のものではないか。
以前にも書いたが、天皇陵のいくつかは発掘調査されている。
天皇陵は江戸時代に適当に決めたものなので、考古学的には正しくないと考えられている古墳も数多くあり、
考古学的に天皇陵だと考えられているが、天皇陵とされていない古墳もある。
例えば継体天皇陵(450年? - 531年?)は大阪府茨木市の「太田茶臼山古墳」に治定されているが、築造時期は5世紀の中頃とされていて、時代があわない。
6世紀前半の築造と考えられている大阪府高槻市の今城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)が考古学的には本当の継体天皇陵と考えられているのだが、天皇陵とされていないため、発掘調査が行われている。
ところが発掘調査の結果、石室を作った石や石棺が発見されなかった。
盗掘で石室の石が失われたと考えられている。
石室がないので壁画が描かれていたかどうかは不明である。
奈良県明日香村にある牽牛子塚古墳を発掘調査をしたところ、天皇陵に多い八角墳であることがわかり、
二つの石室を持つこと、牽牛子塚古墳の横にもう一つ古墳が発見され
「斉明天皇と間人皇女を合葬した墓の前に大田皇女を葬った」という日本書記の記述にあうところから、斉明天皇陵にまちがいないとされている。
ウィキに石室の写真があるが、壁画はない。
ただし、牽牛子塚古墳は長年にわたり口があいていたので、退色、風化したかもしれないと、伊達宗康氏はおっしゃっている。
牽牛子塚古墳
同じく奈良県明日香村にある中尾山古墳も天皇陵に多い八角墳であり、文武天皇陵ではないかといわれているが、天皇陵に治定されておらず、発掘調査が行われた。
これもウィキの写真をみると石槨内部に壁画はない。
中尾山古墳
草壁皇子の墓は万葉集の挽歌などから真弓丘へ埋葬されたと考えられている。
しかし眞弓丘陵の近くにある束明神古墳は八角墳であり、地元には束明神古墳を草壁皇子の墓とする伝承が残るなどしており、束明神古墳が草壁皇子の真陵ではないかとする説が有力視されている。
ここも発掘調査がおこなれ、復元石槨が奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示されているが、壁画はない。
束明神古墳
束明神古墳横口式石槨(復元)開口部奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。
マルコ山古墳は発掘調査の結果、マルコ山古墳から30代とみられる男性の骨が見つかった。
川島皇子は34歳でなくなり、越智野に葬られたとされ、年齢はあう。
越智野は奈良県高市郡高取町の北部,及び明日香村西部の低丘陵とされる。
真弓はこの越智野に該当しそうで、場所もあいそうだ。
マルコ山古墳に壁画が描かれていたという話はきかない。壁画が描かれていたのなら、大きく報じられるはずだ。
そういうわけで、残念ながら「天皇族の陵墓は高句麗の壁画墳と同類のもの」とは言えないように思う。
高句麗にも壁画の描かれていない古墳はあり、こちらとの類似点はもしかしたらあるかもしれない。
・「雄略記」などを見ると、天皇の宮殿はその他の豪族の居宅とは建築様式が異なる。天皇の宮殿と同じようなものを建てることはタブーだった。
天皇の墓も模倣造営することはタブーだったのではないか。
天皇陵の大きな特徴としては八角墳が多いことが挙げられる。
但し、皇子クラスでは八角墳でないケースもある。(草壁皇子の墓が有力視されている束明神古墳は八角墳だが、川島皇子の墓が有力視されているマルコ山古墳は八角墳ではなく六角墳の可能性があるとのこと)
しかし、壁画は描かれていない。
・彩色壁画のある古墳は、北九州、茨木、福島などにあるが、これらの地域は大和朝廷から離れた場所にある。
大和朝廷の影響を受けにくかったため、はばかることなく彩色壁画古墳が作られたのではないか。
・大和朝廷支配が及ぶ畿内、瀬戸内、東海は彩色壁画がほとんどない。
・北九州の王塚、珍敷塚、竹原古墳には大陸系統の図柄や観念をしめすものがある。
・全体としては、日本に土着的な図文、観念を示すものが主流で、壁画古墳とは呼ばず、装飾古墳といっている。
これらは漢、高句麗の壁画古墳とは性格が異なる。
こういうものを作った人々は天皇族の陵墓の実態を知らず、似て非なる模倣をあえてしたのかもしれない。
・大陸系といえる高松塚古墳の年代が700年前後と意外に時代が新しい物であったのでショックだった。
私の騎馬民族説の支柱になり得ないからではなく、大陸系壁画墳の伝統が意外に遅くまで続いたということ
・高松塚は四神塚の系統
切石造りの横口式石槨、四神、日月星辰、男女の風俗を漆喰面に描いた。
・有光教一氏説
〇高句麗古墳の内壁画古墳は意外に少なく40基程度
〇風俗人物画のみ四神図がない A群
〇風俗人物画と四神図 B群 5世紀後半から6世紀
〇四神図のみ C群
A郡が最も古く、C郡が最も新しい
高松塚古墳はB郡にあたるが、高松塚の四神はC郡の中に近似する図形がある。
・有光教一氏の見解に基づけば高松塚古墳はBの時期まで遡る
高松塚古墳より1世紀以上年代の遡るB類的四神塚が日本であるかも❔
・男女群像の構図や高句麗風女性ファッションに襟元を紐で結ぶなど和風が観察される。
・5世紀後半から6世紀までの間に高句麗のB類的四神塚が日本に伝えられ、さらに高句麗・百済・隋・唐の影響、
和風要素も加わって高松塚のような四神塚が成立したのだろう。
これらの情報は参考になる。
しかし、天皇家の墓が壁画古墳とはいえないと思う。
・高松塚古墳の被葬者
長年にわたる日本における高句麗四神塚B類の墓制を受けて成立したものとすれば、
百済や高句麗が滅亡した年(663年と668年)の前後に多数の人が日本に渡来し、高麗若光の様な王族の墳墓と考えることはできない。
もしそうならC類のはず。
・高松塚の立地が檜前の地で、東漢氏や漢人の本拠であったことから、それらの首長の墳墓とすると説もあるが
壁画古墳の性格から言って肯定しがたい。
・壁画古墳は高句麗でも百済でも至って数が少ない。
高句麗・・・通溝平野に9、平安南道、平壌付近、黄海南道に30 全体で40ほど 高句麗でも特殊な墓制
通溝平野だけでも万ほどの高句麗時代の墳墓がある。(土墳と石墳/高松塚は土墳)
四神塚はとりわけ、堅固、荘重な切石造り、漆喰塗の壁面、三角墨重式の天井を持つ石室、多彩、秀麗な制作
四神塚は王族の墳墓だろう。
百済も同様
高松塚も陵墓(歴代の皇室関係の墓所)だろう。
・江戸時代まで高松塚は文武天皇陵とされていた。
・檜前の地に天武・持統合同陵や、文武陵、欽明陵が集中していることからみても、高松塚は陵墓だろう。
渡来人の首長ではない。
天皇陵の多くはこの時代八角墳だが、皇子クラスなら高松塚古墳の被葬者であり得るだろうと思う。
・中国式の李陵の宮殿址の例から、高松塚も帰化人、施設による文化の流入の結果とする説は問題外
李 陵(り りょう、? - 紀元前74年)は、前漢の軍人。匈奴と戦って敗北して捕虜となったが
匈奴の王である単于の娘を妻に与えられ官職にもついた。
そのため漢に反逆したと見なされ、漢の武帝は李陵の母親や妻など一族を皆殺しにした。
1940年代、ロシア領内のシベリア西部でに李陵の宮殿跡の遺跡が見つかり、宮殿跡から出土した瓦には漢の皇帝を称える言葉が記されていたとされる。
・騎馬民族が筑紫から畿内へ移住し、そこを征服したのは4~5世紀の間。高松塚は7世紀後半から8世紀前半に編年されている。征服と古墳築造との間に横たわる3世紀という長い年月をどう解釈するのか。(護雅夫氏)
・私(江上氏)の説が実証されるためには、第二、第3の高松塚出現が必要か。
次回へつづく~
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