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モースが見た明治期の日本④ 日本の役病について。(おわびと訂正)


このシリーズは前回で終わる予定だったのだが、
モースが見た明治期の日本① モースの勘違い😄  の中の疫病に関する記述に誤りがあったので(すいません!)
その部分については削除し、ここに書きなおすことにする。(お詫びして訂正します😴)

①標準化死亡率と、普通死亡率
”東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくないということを知って驚いた私は、この国の保健状態に就いて、多少の研究をした。それによると赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く、マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。”

モースは”東京の死亡率が、ボストンのそれよりもすくない”といっているが、何の死亡率についておっしゃっているのかがわからない。

調べると、
標準化死亡率と、普通死亡率があることがわかった。

”標準化死亡率
異なる人口集団間における死亡水準を比較する場合における年齢構成の違いによる影響を除去するため、年齢構成が一定であったときに予期される死亡率を推計したもの。国立社会保障・人口問題研究所においては、昭和5年の全国人口の男女別年齢構成を基準として、都道府県別に推計している。”

”普通死亡率
ある期間(通常1年間)の人口集団における人口1000人に対する死亡発生数をいう。死亡水準を示す指標として一般的に用いられているが、年齢構成の異なる人口集団間における死亡水準を厳密に比較する場合には、標準化死亡率(※)が用いられる。”


モースのいう死亡率が標準化死亡率なら、あまり問題余りはなさそうに思えるが、普通死亡率なら問題が残る。
ボストンの方が東京よりも高齢者が多ければボストンの方が死亡率は高くなるのはあたりまえだし
当時は出生時に死亡する子供も多かっただろうから、出生数も考慮する必用がありそうに思える。

ちなみに明治初期の乳児死亡率は出生数1,000に対して250,普通死亡率は27,平均寿命は男子32年,女子35年程度であったようである。(https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h17/danjyo_hp/html/honpen/chap01_00_01_06.html)

⓶日本での赤痢流行の記録は平安時代よりある。

”赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く” とモースは書いているが、

日本における「赤痢」の歴史は古く、以下のように史料に記録が残されているようである。

貞観3年(861年)  赤痢流行『三代実録』
延喜15年(915年)  赤痢流行『日本紀略』
正暦元年(990年) 一条天皇が赤痢にかかった。『小右記』
永延元年(987年) 藤原実資が発病『小右記』(藤原実資は『小右記』の作者)
寛弘8年(1011年) 冷泉院、赤痢によって崩御。『権記』『御堂関白記』
長和5年(1016年) 右大臣藤原顕光、大納言藤原道綱が赤痢にかかった。『小右記』
承保4年(1077年) 源俊房、疱瘡にかかり次いで赤痢にかかった。『水左記』(源俊房の日記)
承元3年(1209年) 藤原経家 赤痢で死亡
康元元年(1256年)九条頼経 死亡

”痢病とは主に赤痢のようです。「痢病」の「痢」は赤痢の「痢」ですね。原因は赤痢菌という細菌です。この痢病というのはたびたび流行したようで、雲雀沢村にも下市田村にも何度も出てきます(資料6~7頁と資料11頁)。死者も出ていますね。やはり子どもが多いようです。 ”
https://takamori-tokinoeki.com/wp-content/uploads/2022/09/r3-2.pdf より引用


上の記事は江戸時代の感染症について書いたもので、江戸時代にも赤痢は流行ったようである。

ただし明治のころのアメリカでは、日本の感染症の歴史は詳しく知られていなかったのかもしれない。
また日本においても、明治時代には感染症の歴史研究が不十分であった可能性もある。

赤痢は明治16~18年にも流行している。
このときの感染届け出数は5008人、死亡者は1511人だった。

モースが日本にやってきたのは1877年(明治10年)、1878年(明治11年)~1879年(明治12年)、1882年(明治15年)~1883年(明治16年)である。
明治16~18年の赤痢流行とモースの日本滞在時期が若干ずれていたのかもしれない。

③小児霍乱が何を意味するのかわからない。

次に、小児霍乱(コレラ)について。
小児霍乱とは何だろうか。

”霍乱は激しい下痢や嘔吐を伴う病気として理解されており、今日の急性腸炎・赤痢などを含む古い名称であるが、19世紀にはコレラの別名として用いられることが多かった。”

”急に倒れる日射病、あるいは真夏に激しく吐き下しする病気の古称である。現代でいう急性胃腸炎、コレラ、疫痢(えきり)などの総称に該当するものと思われる。”

とあるので、小児霍乱(コレラ)の意味としては、複数考えることができる。
1.子供のコレラ
2.日射病
3.急性胃腸炎
4.疫痢

”疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型で、循環不全(血圧の低下、意識障害など)を起こすなどで短期間に死亡します。”
https://katei-igaku.jp/dictionary/detail/250443000.html より引用

小児霍乱(コレラ)が「1.子供のコレラ」のことだとすると、明治期にもたびたびコレラは発生し多くの死者がでている。
当然、子供のコレラ患者もいたことだろう。

1877年(明治10年)死者13,816人、患者8,027人  ※この年、モース来日
1879年(明治12年)死者105,786人、患者12,637人 ※1878年(明治11年)~1879年(明治12年)モース来日
1882年(明治15年 死者33,784人、患者51,631人  ※1882年(明治15年)~1883年(明治16年)。モース来日
1885年(明治18年)死者9,329人、患者13,824人
1886年(明治19年)死者9,329人、患者155,923人
1890年(明治23年)死者35,227人、患者46,019人
1895年(明治28年)死者40,154人、患者55,144人
1902年(明治35年)死者8,012人、患者12,891人

死者数、患者数は ウィキペディア「コレラの歴史」による。

「死者13,816人、患者8,027人」のように、死者数が患者数を上回っているのは、
患者数は感染者数ではなく、死に至らず回復した人の数ということだろうか?ちょっとよくわからない。

ところが『JAPAN DAY BY DAY』をよみ進めていくと次のように記されている。

”横浜と東京とにアジア虎疫(コレラ)が勃発したという、恐しい言葉が伝った。この国の政府の遠慮深謀と徹底さとには、目ざましいものがある。この尨大な都会は、ニューヨークの三倍の地域を占め、人力車が五、六万台あるということだが、その各が塩化石灰の一箱を強制的に持たされている。毎朝、小使が大学の廊下や入口を歩いて、床や筵に石炭酸水を撒き散し、政府の役人は、内外人を問わず、一人残らず阿片丁幾アヘンチンキ、大黄、樟脳等の正規の処方でつくった虎疫薬を入れた小さな硝子瓶を受取る。これには、いつ如何にしてこの薬を用うべきかが印刷してあるが、私のには簡潔な英語が使用してあった。”
モースの『JAPAN DAY BY DAY』にはほとんど日付は記されていないが(日付のしるされている箇所もある。)、日記形式で記されているのかもしれない。
モースがやって来た時には、「コレラはなかった」ので「それによると赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く」と書いたが、
その後、「コレラが流行した」ので、「横浜と東京とにアジア虎疫(コレラ)が勃発したという、恐しい言葉が伝った。」とモースは書いたのかもしれない。

しかし、コレラはモースがやってくる以前、江戸時代にも流行している。

1822年、対馬、下関~大阪・京都 患者・死者数は十数万人(推計)
1858年~1,861年 安政コレラ。江戸の死者数12万3309人~30万人
1862年、江戸の死者数7万3000人。

小児霍乱コレラとは、子供のコレラという意味ではないのかもしれない。

”赤痢及び小児霍乱(コレラ)は全く無く” とモースが書いているところからみると、「4.疫痢」の可能性が高いかもしれない。

「疫痢は、小児にみられる細菌性赤痢の重症型」なのであった。

しかし「⓶日本での赤痢流行の記録は平安時代よりある。」のところに書いたように、江戸時代にも赤痢はある程度流行しているようであり、「全くない」とはいえない。

”リューマチ性の疾患は外国人がこの国に数年間いると起る。然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。これは、すべての排出物資が都市から人の手によって運び出され、そして彼等の農園や水田に肥料として利用されることに原因するのかも知れない。我国では、この下水が自由に入江や湾に流れ入り、水を不潔にし水生物を殺す。そして腐敗と汚物とから生ずる鼻持ちならぬ臭気は、公衆の鼻を襲い、すべての人を酷い目にあわす。日本ではこれを大切に保存し、そして土壌を富ます役に立てる。”
赤痢、コレラは糞便および汚染された手指、食品、器物、水などから感染する。
したがって、”然し我国で悪い排水や不完全な便所その他に起因するとされている病気の種類は、日本には無いか、あっても非常に稀であるらしい。”

という記述もまちがいである。

”し尿処理が不十分:かつてわが国において,し尿は貴重な肥料として利用されてきた.肥溜めの中では多数の嫌気性微生物が繁殖し,発酵熱によって病原体は死滅した.しかし戦後,し尿の農業利用が年々減り,一方で都市人口は急増した.結果として,し尿を山間部や海洋に投入するにいたって,環境の悪化を招く結果となった.”


とあるので、肥溜は赤痢菌、コレラ菌を死滅させるのに多少は効果があったかもしれない。
しかし、くみ取って肥溜に運ぶまでの間は糞便は便所にあり、それによって汚染されたのではないだろうか。

④マラリアは日本に古くからあった。

「マラリヤによる熱病はその例を見るが多くはない。」というのは、どの程度を多いといっているのかわからないが、
同時期に日本にやってきたシドモアはマラリアについて書いている。

”蓮”論争は、いまだ首都を二分して侃々諤々の様相ですが「蓮はマラリア発生源だ」と声高に責めたてられるのは、どうも理不尽です。壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです。”

「シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー /エリザ・E・シドモア 外崎克久 訳  講談社学術文庫」p116 より引用

マラリアはハマダラカに刺されて体内にマラリア原虫がはいることによって発熱・悪寒・頭痛・関節痛・筋肉痛・嘔吐・下痢などの症状を引き起こす。
しかし、シドモアの記事をよむと、どうも蓮の花が原因だと考えられていたらしい?
シドモアは「壕からの発生物であろうと、地表から流出した汚泥であろうと、マラリア発生地区・築地の土壌こそ最大の害毒のもとなのです」といっている。

つまり、シドモアは
・マラリアの発生は蓮には関係がなく、土壌に問題がある。
・マラリアの原因は濠からの発生物、または汚泥かもしれない。
というような認識をもっていたのだろう。

”1903年(明治36年)時には全国で年間20万人の土着マラリア患者があったが、その後は急速に減少し、1920年(大正9年)には9万人、1935年(昭和10年)には5000人に激減している。第二次世界大戦中・戦後に復員者による一時的急増があったが、減少傾向は続き、1959年に彦根市の事例を最後に土着マラリア患者は消滅した[29]。
しかし現在も海外から帰国した人が感染した例(いわゆる輸入感染症)が年間100例以上ある。
また、熱帯熱マラリアが増加傾向にある。現在第4類感染症に指定されており、診断した医師は7日以内に保健所に届け出る必要がある。”

それ以前の日本にもマラリアはあったようで、平清盛(1118年~1181年)、敦良親王(1036年~1045年)、藤原頼通(992年~1074年)はマラリアに感染していたと考えられている。

⑤どんな人の言うことであっても、うのみにするべきではない。

「どうもモースは日本の感染症について勘違いしているのではないか?」と私は思うが、日本語の分からない当時のアメリカ人の認識には限界があったとも考えられる。

これはモースの認識に問題があるのではなく、現代人である我々読み手の問題だろう。

人間は間違いをするものなので、どんな人の言うことであっても、うのみにするべきではない、ということである。


安政5年(1858年)のコレラ大流行による死者の棺桶で混雑する火葬場。『安政箇労痢流行記概略』

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