よりつづきます~
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「朝鮮三国時代の壁画古墳ー新発掘をふまえて 金元龍」のメモと、感想を記したいと思う。
今回は「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「朝鮮三国時代の壁画古墳ー新発掘をふまえて 金元龍」における金元龍氏の意見はピンク色の文字で、その他ウィキペディアなどネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見などは濃いグレイの文字でしめす。
使える写真があまりなく、わかりにくいかもしれない点はお詫びします。
①古代朝鮮半島の大雑把な歴史
金元龍氏の話の前に簡単に古代朝鮮半島の大雑把な歴史を確認しておこう。
これを確認しておかないと、金元龍氏の話が理解できないと思うので。
前190 衛満が衛氏朝鮮を建国する
前108 前漢が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に4郡をもうけて支配下に置く。4郡の一つが楽浪郡。
楽浪郡の位置は下記参照
313年 楽浪郡、高句麗に滅ぼされる。
朝鮮半島における中国の支配力が低下し、その後、馬韓は百済に、辰韓は新羅となった。
弁韓には統一王朝が存在せず、複数の王朝が存在していた。それらをまとめて任那(加羅・加耶)と読んでいる。
百済、新羅、任那の位置は下記参照
6世紀中頃、新羅、加羅諸国を滅ぼして配下に組み入れる。
660年、唐、百済を滅ぼす。
668年、唐と新羅、高句麗を滅ぼす。
670年~676年、唐・新羅戦争。新羅、唐の役所を襲撃して朝鮮半島の中南部を統一。
892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国。
901年、弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国。後三国時代に。
918年、後高句麗の将軍・王建、王に推戴され 国号を「高麗」とする。
935年、新羅、高麗に吸収合併される。
936年、後百済、高麗の攻撃をうけて滅亡、朝鮮半島は高麗によって統一された。
②高句麗壁画古墳は4世紀末から5世紀初頭に始まった?
●朝鮮の古墳壁画は三国時代に始まる 最も早かったのは高句麗
三国時代には、中国と朝鮮のふたつがある。
中国の三国時代・・・中国に魏・蜀漢・呉があった時代。184年~280年
朝鮮の三国時代・・・朝鮮半島および満州に高句麗(前1世紀頃 - 668年)、百済(4世紀前半? - 660年)、新羅(前57年 - 935年)
勿論、ここでは朝鮮の三国時代のことをさしている。
●高句麗の固有墓制は玄室が地上に造られる積石塚
積石塚のもっとも発達した形はピラミッド形の将軍塚(5世紀)
高句麗という国があったのは②にも記したように、前1世紀頃 - 668年である。
高句麗の積石塚がいつごろ発生したのかは調べたがわからなかった。
●高句麗壁画古墳は4世紀末から5世紀初頭にかけて始まったのではないか。
”高句麗古墳群は、4世紀から7世紀にかけて築かれた壁画古墳が中心。”
http://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/news/040707.htm より引用
という記事もあり、金氏の意見と一致している。
●5世紀頃より封土石室墳(土塚)が現れる。
中国の塼室墳または石室墳から発達したことが明らか。
石室の三角持送り天井は、中国では抹角藻井といい近東地方で誕生して中国に伝来されたもの。
・近東についてウィキペディアは「西ヨーロッパから見た文化の同一性や距離感によって、大まかに定義されるアジアの地域」と記している。
この説明ではアジアのどのあたりのことをさすのかわからないが、同記事の地図をみると
トルコ、グルジア、アルメニア、アゼルバイジャン、イラン、イラク、シリア、レバノン、イスラエルあたりの事を指しているようである。
・三角持ち送り天井は、下のYouTube動画「安岳3号墳壁画(日文)・・・」に映像がある。
●高句麗、313年に楽浪郡(漢朝によって設置され、紀元前108年から西暦313年まで存在した朝鮮半島の郡)を滅ぼした。その半世紀のちに楽浪の故地・大同江下流に南下してきたのは半世紀あと。
●369年高句麗、百済と戦う。これは五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌の5つの非漢民族)による中原(異民族から隔てられる文明の中心地)の分占が始まり、それに仲間入りそれにする可能性がなくなったため。
●楽浪滅亡から約半世紀間、楽浪の故地には楽浪以外の中国系民族が住んでいて、自治権を形成していた。
高句麗はこれを黙認。
●高句麗、これを統治させるため336年に冬寿を帯方郡の故地にすまわせた。
帯方郡の位置は下記サイト地図を参照 ↓
冬寿、357年に死亡。1949年、冬寿の墓が発見される。(朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳郡安岳面兪雪里 安岳3号墳)
●冬寿墓は三角持ち送り天井、中国系の墓であることは一目瞭然
●高句麗王とする説もある。
●銘文、行列図、主人夫妻肖像などは、他の高句麗壁画の平面的展開方式とは異なる。中国系ではないか。
被葬者の名前を書き残すこと自体が中国的
●石刻画・彩色画を含める装飾墳は漢代には多く造られた。
※前漢(紀元前206年 - 8年)後漢(25年 - 220年)
楽浪古墳にも彩篋塚(さいきょうづか)のように、騎馬図が残っている例がある。
(写真はなし)
●中国系古墳は前室に左右の側室・翼室が付く。壁画の内容は主人夫妻、侍僕、吏卒、車馬
後漢末~三国にかけて遼東一帯に広がっていた。
●平南順川郡龍鳳里の遼東城塚 4世紀 も中国系古墳
城郭、四神などの壁画あり
●高句麗が南下するまでの大同江地方には楽浪系中国人によって少数ながら中国式壁画古墳が造営されていた。
4世紀半ばごろの高句麗人は中国系壁画古墳と接していた。
そこから4世紀末から5世紀初頭にかけて、高句麗壁画古墳が発生した。
●中国の楊泓は高句麗壁画古墳の始まりを後漢末期(3世紀初頭)とし、その例を通溝の舞踊塚を上げる。
●楊泓の年代感、編年には高句麗古墳にみられる新古要素のうち古式要素のみをとった恨みがあり、仔細に調べると壁画発生年代をシカト上げ得ない諸要素が見られて、高句麗に仏教の伝来した372年を越えられる確かな壁画古墳の存在が革新を持って主張できない。(p270 原文まま)
「新古要素の内古式要素のみをとった恨みがあり」とはどういう意味だろうか?
↑ こちらの記事では舞踊塚を5世紀ごろのものとしている。
●高句麗の壁画には仏教的要素があるため、仏教伝来後と考える。
●将軍塚は413年に没した広海土王の陵、またはそのころの建造と考えられているが、玄室に壁画がない。
●壁画の風習が4世紀ごろ始まっていたとしても、5世紀の初頭には一般化していなかった。その発展は高句麗が平壌に遷都した427年以降だと思う。
●石塚が消滅したわけではない。土塚のすべてに壁画が描かれているのでもない。
壁画があるのは総数30ほど。土塚の一部。
③高句麗壁画古墳の変遷
・1期(4世紀末―5世紀)
中国を模倣し、古式要素も残すことから編年上誤解を生じさせる時期。
通溝(中国,東北部の鴨緑江中流域にある平野の名称)・平壌から離れた大同江口、海岸地方に多い。
・壁画封土塚は塊石で四壁を罪、天井部は壁面と並行もしくは斜交する数段の持ち送りを内方にせり出して、最後に壱枚の板石で頂上を塞ぐ。その後漆喰を厚く塗って壁画を描く。
・夫妻合葬用
・古新羅墓は単葬
・壁画は朱・暗赤・黄・黄土・緑青・輪郭用の墨
漆喰が乾きにくいのでフレスコ法
”フレスコは、まず壁に漆喰を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾きの間に水または石灰水で溶いた顔料で描く。やり直しが効かないため、高度な計画と技術力を必要とする。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法だった。失敗した場合は漆喰をかき落とし、やり直すほかはない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%82%B3 より引用”
”高松塚古墳壁画はフレスコ(ブオン・フレスコ)ではなく,白漆喰壁に絵が描かれている(フレスコ・セッコ)という印象をもった。イタリアなどの海外の壁画とは違うと感じた。〔保存修復〕
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kondankaito/takamatsu_kitora/hekigahozon_kentokai/14/pdf/shiryo_3.pdf より引用”
・絵具、墨色がむらのない一色になってる。
中国壁画のように、下絵をピンで壁に差し、その穴跡をたどってゆくとか下書きをしたような形跡はない。
・壁画の内容・・・中国古墳壁画同様、前室の側室に主人夫妻の肖像と、それを取りまく侍僕を描くのが基本。
・側室の廃止とともに肖像図は玄室の正壁に移る。梅山里四神塚・双楹塚の如く夫妻を牀上に列坐させた高句麗式。
「牀」は訓読みでは「だい・とこ・ねだい・ゆか」などと読む。「寝台・こしかけ・長いす」というような意味。
・人物は一列上に並ぶ平たい正面観。その前に横向きの履(靴)が並んでいる。
”肖像は4体あり、いずれも 正面を向いて牀の上に座る。右が被葬者の男性、左3人は彼の妻妾と推定される。3人のうち の右端の女性は単独の牀に座しているが、残り2人は同じ牀の上にいる。男性と左2人の女性の前には黒い靴が揃えて置いてある点も双楹塚と共通する。
https://www.occpa.or.jp/kenkyu/kaken/kaken_minami2005-2007_pdf/kaken_minami2005-2007.pdf より引用
とあり、金元龍氏が例としてあげておられる双楹塚にも同様の絵が描かれているのだろう。
また次の様にも記されている。
本書で取り上げる九つの古墳では狩猟塚と並んでもっとも新しく、主に四神図のみで構成される壁画古墳へ移行する時期のものである。
https://www.occpa.or.jp/kenkyu/kaken/kaken_minami2005-2007_pdf/kaken_minami2005-2007.pdf より引用
これは、双楹塚について述べたものなので、狩猟塚も金元龍氏のいう第Ⅰ期の壁画古墳ということになるだろうか。
・安城銅大塚・龕神塚・双楹塚・三室塚は
玄室の四隅に斗栱(ときょう)を具えた柱が描かれる。この意匠は二期につづく。
・漢代の怪雲文帯
・漢鏡に見られる神像の羽根状、火焔状突起・・・梅山里四神塚の人物にある。
・両手を前に重ねた格好・・・初期の中国仏像と同じ。
・日像、月像、四神が天井に。梅山里四神塚では人物の横に描かれている。
・三室塚・・・技巧,巧拙が違っている。(数人の画工が描いたか)
Ⅱ期(6世紀前半ごろ)
・通溝の舞踏塚・角抵塚・環文塚、平壌地方の大同郡鎧馬塚・龍岡郡星塚
・玄室正壁の主人夫妻を主題としている。Ⅰ期の様な静坐ではなく、生活・記録中の主人公として取り扱われている。(風俗画)
・舞踏塚
玄室(玄室を現世の再現、延長と見ている?)
四隅・・・木柱
北壁(正壁)・・・主人公が僧侶を接待する。
東壁・・・食物を運ぶ女性と歌舞団
西壁・・・狩猟図
南壁・・・樹木
天井・・・飛天、千人、四神、人面鳥、双鶏、星辰、蓮華
前室・・・馬厩、馬具、馬丁
画面は平面展開 飛翔する仙人の袴の裔(すそ)が反対の方向にはねているのも不合理
怪雲文帯はない。
粗雑な唐草文帯 側面視の蓮華
木柱の梁形の上にならぶ三角文は5世紀末、6世紀初頭の中国仏像の光背を表現
空を表す変化した鳥形文
Ⅲ期
・将軍塚のように大きな花崗岩を使う。
・百済の扶余陵山里壁画墳・・・片磨岩板石の壁面にじかに絵を描く形式も登場
・四神が壁に
・人頭唐草、飛雲、樹木
・蓮・・・花弁から条線が亡くなる(新形式)
・四神塚、十七号墳、内里一号墳、高山里一号墳
・壁画に隋・唐の影響が見られず、六朝(呉、東晋、宋・斉・梁・陳)にとどまっているのは何故だろうか。
理由は隋唐との戦争のため、装飾墳の造営が不可能だった?
高句麗の画工たちは古来の壁画法を墨守し続けた?
どちらも事実とは考えられない。
・まとめ
1.高句麗壁画古墳は中国の影響を受けて4世紀末~5世紀初頭ごろ発生した。
2.墓室は初期には横長の前室に方形の主室が付く凸字形。前室に両翼に側室が付くのは古式。
中期には前室の幅が短くなって主室のそれと同じくなる。後期には単室が流行。従来の塊石築造とちがい、加工された巨石が板石を以って築成される傾向
3、墓室は南北主軸を基本とし、夫妻合葬用
4.壁画は壁面に漆喰をぬり、その上にフレスコが法で描かれる。後期には石面に直接描かれる。
5.壁画の内容は初期は主人公夫妻の肖像、中期には主人公を中心とした生活記録ー風俗画、 後期には四神図が主になる。
6.画法は中国との接触が反映されているが、案牀などに見られる逆遠近法、画面の平面展開などの原始性は最後まで墨守(頑固に守ること)される。
7.前期 漢式怪雲文、中期は光背形三角文、鳥形文,後期は忍冬唐草文 唐系模様がない
8.壁画は壁面、天井に描かれる。青龍は全長2mのものがある。
9.仏教的色彩は前期よりある。ほかに道教、固有のシャーマン思想も。信仰・思想の混合、融合。
・百済古墳
百済は、京城の南方→475年公州→538年扶余
百済の古墳は公州・扶余に集まっている。
④百済古墳の分布
・百済古墳で壁画があるのは公州に1基、扶余に1基。
・公州錦城洞俗称宋山里6号墳(壁画古墳)はトンネル形の塼築墳
高句麗の平地墳と違い、斜面に掘り込んだ形式
https://ameblo.jp/snsreporter/entry-12561718924.html
トンネル式の塼築墳だが、塼築墳はとなりにある武寧王陵のみ。
揚子江南朝時代塼墓そのものだが、壁画は発見されていない。
画を描く部分のみを細土で塗り、その上に胡粉で四神を描く。
・扶余山里の壁画墳は石室墓。石室にじかに絵をかく。
四壁には四神図、天井には蓮華、飛雲など。高句麗の影響をうけている。
内里1号墳、真被里1,7号墳など高句麗後期の壁画と似ている。
https://www.konest.com/contents/spot_mise_detail.html?id=9318
金元龍氏は百済古墳で壁画があるのは公州に1基、扶余に1基と書いておられるが、なぜかここでは3基壁画古墳があるといっている。
⑤新羅・伽耶の古墳
・大伽耶の壁画古墳・・・慶北高霊邑右衛洞1基、栄州順興1基
・慶北高霊邑右衛洞
片袖形石室と百済のトンネル形を混同した石室
壁面に泥と漆喰を塗った上に壁画を描く。
剥落がひどく原型を残さないが、青・緑・紅・褐色で蓮華と草花文を描いたようである。
羨道天井石には高句麗式蓮華紋が点々と描かれる。(高句麗の影響)
・西北部九州の装飾古墳は、高句麗ー百済ー伽耶と伝わったのだろう。
具体的にはどの装飾古墳の事だろうか?
・新羅の壁画古墳・・・栄州の壁画古墳
石扉にはもと人物像が描かれており、羨道天井には七弁三重の蓮華が紅・黄・黒で描かれていた。
石扉には「乙卯年於宿知術千」とあり、6世紀後半ごろのものとされる。
⑥壁画古墳の終焉
・統一新羅には壁画古墳が存在しない。高句麗の滅亡とともに壁画古墳は消滅した。
①で記した年表を思い出してほしい。
668年、唐と新羅、高句麗を滅ぼす。
670年~676年、唐・新羅戦争。新羅、唐の役所を襲撃して朝鮮半島の中南部を統一。
金王龍氏が統一新羅とおっしゃっているのは、676年以降の新羅ということだ。
・917年に没した新羅の神徳王陵の内部が朱・白・黄・青・藍で長方形色塗り部を上下段6個ずつ配列しているが、壁画とはいえない。
・高麗時代には壁画古墳は少なくない。宋の刺戟を受けて起こった新しいアイデア。高麗時代で終了。李朝の墓は壁画を描く空間がなかった。
①の年表を確認しよう。
892年、半島西南部で甄萱が後百済を建国。
901年、弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国。後三国時代に。
918年、後高句麗の将軍・王建、王に推戴され 国号を「高麗」とする。
935年、新羅、高麗に吸収合併される。
936年、後百済、高麗の攻撃をうけて滅亡、朝鮮半島は高麗によって統一された。
・玄陵、正陵、水落岩洞、法堂坊に壁画がある。(星辰、十二支神像)
・慶南居昌付近の石室墓 飛天像
⓻高句麗壁画と高松塚
・天井に星宿、四壁に四神と日月を描くのは高句麗壁画の伝統。
・女性が頭に巾を被らず、右袵(衿)なのは高句麗と逆。

高松塚古墳女子群像
高松塚古墳女子群像の衿の合わせ方は一般的に左前(左を合わせてから右を重ねる)と言われるが、金元龍氏はこれを右袵とおっしゃっているのだろう。
上の動画をYouTubeの全画面で見ると衿の合わせ方は高松塚と同じように見えるのだが、下の水山里古墳は高松塚とは逆の右前になっている。
・スカートのすそに縁飾りをつけるという記録に符号している。
・人物の重なりは高句麗の平面展開とは違って唐式だが、落ち着きのある筆致と画面の効果は高句麗的。
(動いているようで顔にも体にも一種の静止がある。)
後半の「落ち着きのある筆致と画面の効果」というのは抽象的過ぎて意味がわからない。
・人物に関する限り、永泰公主墓壁画に似ている。
・女性の顔が四角い高句麗型ではなくてしもぶくれの唐型。
・史料によれば、7世紀前半ごろ、高句麗と百済の服装はほとんど同じだった。
・7世紀頃、奈良で活躍した画工たちは高句麗人。曇微、加西溢、小麻呂など
・狛竪部の小麻呂は659年同族一同を招宴したが、官から1枚60斤もする熊皮70枚を借用して客が羞じて退帰した。(日本書記)
・高松塚の画工は高句麗系だろう。
シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㉝唐の壁画墓 へつづく~。
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