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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。㉚高松塚壁画の眉、ひげ、黄文本実、ミゾひき などいろいろ 笑

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

これは「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編」の中に収録されている「シンポジウム2 高松塚古墳の出現」のメモである。
シンポジウムの参加者は松本清張氏、斎藤忠氏、井上光貞氏、伊達宗康氏である。

松本清張氏、斎藤忠氏、井上光貞氏、伊達宗康氏の意見はピンク色の文字で、その他ネットからの引用などはブルーの文字で、私の意見はグレイの文字でしめす。


・高松塚盗掘穴の石は残っていた。朱雀はないのではなく、漆喰がはがれている。(伊達宗康氏)
・絵を描くときには南側があいていたと思われるので暗くはなかった。(伊達宗康氏)
・床面に棺座とか棺台のようなものはなかった。(伊達宗康氏)
・高句麗壁画古墳には壁画に柱が描かれているものがあるが高松塚には描かれていない。(伊達宗康氏)
・高句麗とはちがった簡素な棺室。(伊達宗康氏)
・墳丘基底部の切石には文字はなかった。(伊達宗康氏)
・羨道(えんどう)はない。(伊達宗康氏)
・終末期には羨道が短くなったり、なくなっていく。(松本清張氏)

羨道、墓道、玄室の意味は下記イラストがわかりやすい。

横穴各部の名称

柏原私立歴史資料館 説明板より

・高句麗、百済、扶余、公州には高松塚のような横口式石槨はない。(斉藤忠氏)
日本には薄葬令の規定があったため、簡素な石室となったのではないだろうか。

・島根県には横口式の石棺でありながら、石室のような恰好を示したものがある。大阪の横穴式石室で奥の方にああいうものを特に設けて棺を設置しているが、そういうものの影響をうけているかもしれない。(斉藤忠氏)
・高松塚の様な横口式石槨に羨道をつけたものは河内にある。
羨道がなくて似ているのは、平城宮跡のカラト古墳。

石のカラト古墳 墳丘

石のカラト古墳

石のカラト古墳は上円下方墳で7世紀終り~8世紀初頭に造られた古墳と考えられている。
被葬者は天武天皇の皇子で、長皇子(?~715年。弓削皇子兄)6月4日薨去や穂積皇子(?~715年)ではないかと考えられている。

・鬼のまな板、厠は石をくりぬいて石槨にしている。これは飛鳥と法隆寺付近にでているだけ。(伊達宗康氏)

鬼の厠

鬼の厠

鬼の俎

鬼の俎

牽牛子塚古墳も巨石をくりぬいて2つの石室を作っている。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳 図

法隆寺付近にある石をくりぬいて石槨にした古墳と何という古墳だろうか。

・岩屋山式と呼ばれる切石の横穴式石室では羨道部の端を外に出していたと考えられるるものがある。扉はある。(西宮古墳、ムネサカ古墳、岩屋山古墳など)(伊達宗康氏)

岩屋山古墳

岩屋山古墳

・中尾山古墳は規模が小さくて棺が入らないので蔵骨器が入っていたのではないか。
中尾山古墳で古墳と火葬墓の接点になる。古墳でないとはいいきれない。(伊達宗康氏)

この本が出版された昭和47年当時はわかっていなかったのかもしれないが、中尾山古墳は八角墳であり、火葬墓であることから真の文武天皇陵とする説が有力視されている。

中尾山古墳

中尾山古墳

・墳丘のマウンドの築き方が版築工法で寺院の基壇の築き方と共通する。
版築工法は前期、中期でも普通にあるが後期のものは前期、中期のものとは異なる。
最近の鍬で掘ったら固くて鍬先がまがるほど。(伊達宗康氏)

・漆喰を塗った古墳は壁画を描く前提のようなかんじがする。(井上光貞氏)

・畿内で漆喰を塗った古墳は30例ほどある。
間隙を詰めるための漆喰、壁画を描くための漆喰の2種類がありそう。
阿武山古墳は壁画のためではなく、間鍬を詰めるものだと思う。もし壁画があれば色はそのまま残ると思う。
聖徳太子廟は間隙を漆喰で詰めている。描くという発想ではなく、壁面をきれいにするという詰め方。寺院建築で壁画が描かれ、その後古墳に壁画を描くという発想になったのではないか。(伊達宗康氏)

阿武山古墳-石室

阿武山古墳  今城塚古墳歴史観にて撮影(撮影可)

・九州辺りにも装飾古墳以外でも漆喰を塗った古墳はある。(斉藤忠氏)

・牽牛子塚や文殊院西にはなかったとはいいきれないかもしれない。古くから口があいていたので、退色、風化したかもしれない。(伊達宗康氏)

・棺台は聖徳太子廟、天武持統合同陵(阿不幾乃山陵記による)にはある。高松塚にはないが、そのかわり床面を漆喰で固めている。

・九州の装飾古墳は6世紀から7世紀。(斉藤忠氏)
王塚古墳は6世紀中ごろ。


・九州の装飾古墳は高句麗の影響があると言われるが、絵柄に高句麗の影響はないと思う。
龍ヤガマの絵はあるが形がそれらしいと言うだけで、ほとんど自由画。シロウトが描いたもの。
高松塚の者は専門の画家(高句麗系の黄文連集団の画師?)が描いた。
畿内のほうは朝鮮からの直輸入、北九州はそうではなかったという気がする。
九州のは武人、高松塚は風俗画でまったくちがう。(松本清張氏)

しかし、以前にもご紹介した竹原古墳は、高松塚古墳壁画に描かれているようなさしばを持つ人物、四神図などが描かれており、高句麗の影響を受けているようにも思われる。


・線刻の壁画は大阪のほか、鳥取、香川(太刀をさした人物像)、埼玉(地蔵塚)でもでている。
北九州のは民間人による直接の交流、畿内のは正常な国際ルートの基で発達した絵画(斉藤忠氏)

鳥

柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画

騎馬人物

柏原私立歴史資料館 説明板より 高井田横穴墓 壁画

高井田

高井田横穴墓 説明版より

レプリカ

柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)

レプリカ

柏原私立歴史資料館 高井田横穴墓 壁画(レプリカ)

高井田2

高井田横穴墓 説明板より 照明が暗くてよく見えなかった。

・原田大六氏が次の様に言っている。
磐井の墓が反乱軍の対象ということで、それまで外にあった石人、石馬が壊された。それ以降、筑紫では外部の装飾が地下の壁画になった。(松本清張氏)

・原田氏のように簡単に言い切れるかどうか。
ただ磐井でも見られるように、北九州あたりに新羅などと交渉をもって畿内に対抗する意識を持つものはあったかもしれない。(斉藤忠氏)


岩戸山古墳は 6世紀前半に築造された前方後円墳で、被葬者は筑紫君磐井と考えられている。
磐井は527年(継体天皇21年)に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を妨害し、翌528年(継体天皇22年)11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱である。
磐井は物部麁鹿火によって斬殺されたと伝わる。

松本氏がおっしゃっている石人石馬は上記動画7:45辺りに登場する。
墳丘・周堤・別区から出土した100点以上の石製品が100点以上出土しており、人物・動物・器財などが実物大で作られている。

原田大六氏はこれら出土した石人石馬を、破壊されたものだと考えたということだろう。

岩戸山古墳 石製品 (模造品)

:岩戸山古墳 石製品 (模造品)

・法隆寺に壁画があるが、飛鳥寺にはない。飛鳥寺は法隆寺とは格がちがうからでは。
たとえば塼仏は官の大寺ではやらない。古墳に壁画を描くのも異端である。
斎藤氏は皇族以外に考えられないというお考えだが、私は中央政府の遺志に高速されずやれると思う。
特に都が奈良に移ってからは。(松本清張氏)

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)

夏見廃寺跡 塼仏壁 (復元)部分

夏見廃寺跡_塼仏壁_(復元)部分

・私は松本清張氏のような考え方はしない。(井上光貞氏)

・山口県萩の見島古墳には平安時代の貨幣が副葬されていた。この辺りは平安時代まで古墳が存続していた。

調べたら貞観永宝のようである。

・牽牛子塚古墳、中尾山、菖蒲池など時代差はなさそうだが個性を持っている。(伊達宗康氏)

・後期古墳は6世紀末。七世紀の前半に切石が登場する。(伊達宗康氏)

・石舞台や聖徳太子墓は内部がきちんとした切石。(松本清張氏)

石舞台古墳

石舞台古墳


聖徳太子廟

聖徳太子廟 ※明治時代にコンクリートで塞がれたので中に入ることはできない。

https://www.rekishijin.com/11948 (内部 近つ飛鳥博物館再現展示)


・丸山古墳、石舞台、水泥古墳などは7世紀おわりまで。その後は墓室が小さい古墳になる。
地方では金鈴束、観音塚など大型前方後円墳が残っている。(斉藤忠氏)

丸山古墳

丸山古墳

・高松塚の被葬者は皇族ではないか。
天武持統陵の天武は乾漆棺に安置されて、瑪瑙石で切石の様に築いている。(阿不幾乃山陵記)
金箔・銀箔を用いるのは東アジアの壁画古墳の中でも珍しい。(斉藤忠氏)

・高松塚は8世紀をかなり下っていると思う。
永秦公主墓の壁画は初唐(706年)だが高松塚の壁画の顔は盛唐期にかなり近いのではないか。
樹下美人図や吉祥天図のように太っていない。また群像を描いているのが似ている。
永秦公主墓系壁画が日本にきてから和様化されるまでに期間を考えると、720年~730年ごろではないか。(松本清張氏)

薬師寺吉祥天

薬師寺 吉祥天図

・奈良時の墳墓は元明・元正陵、石のカラト古墳、黄金塚しかない。これからもでる可能性は薄いのではないか。

・南京の登県で、6世紀中ごろの壁画がある。玄武も描かれている。四神や日月星辰は北魏、唐などにもいろいろある。高句麗だけでなく、百済を背景にした南朝も考えてみてはどうか。
百済にも壁画古墳はある。公州では四神が描かれている。扶余にもある。日月星辰の信仰は中国にずっとあり、後代まで続いている。(斎藤忠氏)

・石槨の切石は百済っぽく、画の内容は高句麗っぽい。(伊達宗康氏)

・永泰公主墓の図柄が高松塚のものににている、さしばも描かれている。高松塚は永泰公主墓を手本にしている。髪型は国籍不明だといわれるが。(松本清張氏)

・永泰公主墓を粉本にしたのではんく、前からこういう粉本があって永泰公主墓にも高松塚にも応用されたのではないか。

・群像は永泰公主墓に似ているというよりは、藤原京時代の左右均整を重んじた風潮によるのではないか。(伊達宗康氏)

・永泰公主墓と違い、高松塚はやまと絵風。眉の書き方など。

カメラ目線の飛鳥美人


確かに眉がちがう。

・高松塚壁画には仏教の影響がない。寺がたくさんあり、持統天皇が火葬、仏教の最盛期になぜ地下の墳墓は仏教の影響がないのか。
記紀に登場する黄泉の国のような暗い印象もない。(松本清張氏)

このシンポジウムが行われたとき、キトラ古墳はみつかっていなかったが、キトラ古墳には十二支が描かれており、中国の仏画にも十二支が描かれていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

この仏画はウィキペディアにあったものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94#%E4%B8%AD%E5%9B%BD
製作年代、作者などわからないのが残念なのだが、いわゆる地獄絵のようである。
中央に閻魔大王が描かれている。
閻魔は、仏教における冥界の王である。

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものがほとんどだと思うが、ここでは獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。

するとキトラ古墳は仏教における冥界で獣面人身の者たちが、キトラ古墳の被葬者を責めるの図のようにも思えてくるのだが、どうだろう。

西福寺 地獄絵

西福寺 地獄絵

日本の地獄絵も撮影可能で撮影させていただいた写真をじっくり見てみると、動物が描かれているものがいくつか見つかった。
長くなるのでまたあらためてご紹介することにして、1枚だけここに張り付けておく。

西福寺 地獄絵 

西福寺 地獄絵 これは牛のようにみえるがどうだろうか。

・高句麗、東アジアでも壁画は仏教関係は少ない。
6世紀の水泥古墳に蓮華文が入っている程度。九州の装飾古墳にも仏教色がない。(斉藤忠氏)

・万葉集にも仏教の影響は少ない。(井上光貞氏)

水泥古墳

水泥古墳 石棺に蓮華文がはいっている。

・日本の古典を見ると、高松塚壁画に描かれた女性の服装のイメージが浮かんでこない。
この服装は高句麗式。
続日本紀をよむと、文武・持統あたりから、色についてはやかましくいっている。色物をきてはいけない、公式の場面呑み官位に応じた色の衣服を着けよなどとある。
高松塚の様なカラフルなファッションはありえただろうか。持統、文武朝には結髪の令がしばしばでているが高松塚女性の髪型は結髪の令によるものか。
また絵空事を描いた可能性もある。(松本清張氏)

古典に記されたファッションとはどのようなものだろうか?

・高松塚の男性にはヒゲがある。(伊達宗康氏)

高松塚 髭2

向かって左から2番目の人は顎髭を生やしている。
高松塚 髭

向かって右の人は顎髭を生やしているように見える。

・推古12年(604年)、黄文の画師を定む、とある。動乱におわれて高句麗の技術者があの頃きたのは事実。
高句麗の人は中国に行けなかったとも考えられる。隋と高句麗は好戦し、結局土井らも亡びた。初唐期では高句麗の亡人を受け入れられなかったのではないか。(松本清張氏)

亡人とは死者のことだが、どういう意味だろうか。

・黄文連は新撰姓氏録では高句麗の画師となっている。(井上光貞氏)

黄文連の連は「むらじ」とよむのだと思う。

ヤマト政権は、5世紀〜6世紀にかけて氏姓制度と呼ばれる支配の仕組みを作った。
豪族たちは血縁や政治的な関係を基準に構成された氏(うじ)と呼ばれる組織に編成され、氏単位でヤマト政権の職務を分担し、大王は彼らに姓(かばね)を与えた。
大和政権の中枢は、臣(おみ)・連(むらじ)の姓を与えられた氏が担い、臣・連の中でも特に有力な豪族を大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)と言った。

『新撰姓氏録』山城諸蕃によれば、黄文連は、高句麗の久斯祁王の後裔とあるそうである。
『日本書紀』『聖徳太子伝暦』などによれば、604年に黄文画師(きふみのえかき)、山背画師(やましろのえかきが制定されたとある。

天武天皇元年(672年)の壬申の乱当時、黄書大伴というものが大海人皇子(後の天武天皇)の舎人で、のちに山背国(山城国)国司に就任、正四位を賜っている。天武12(683年)、黄文造は連(むらじ)姓を賜った[3]。

・黄文本実は後に文武家事等の山造師(葬送儀礼に関わっている。)(井上光貞氏)

・黄文連造大伴が画師の大将。
702年、申正月、黄文本実が殯官の事を司るとある。黄文連は葬送事務、儀礼執行に関係がある。
黄文系集団の主張が配下の画師を動員して墳墓の壁画を描かせたのかもしれない。(松本清張氏)

黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際しては、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤めている。
文武天皇の真陵は火葬墓であること、八角墳であることなどを理由に中尾山古墳が確実視されているが
中尾山古墳を発掘調査したところ、石室に壁画はなかった。

・百済の画氏は早くから渡来してきている。黄文画師の高句麗系技術集団で遅れてやってきたが、新しい技術を携えてやってきて、百済系画氏を圧倒したのかもしれない。
法興寺の丈六の大仏を入れたとき止利は技術をほめられている。
鳥羽の表では王辰爾だけが解読した。(松本清張氏)

止利とは鞍作止利の事だと思う。
605年、推古天皇は一丈六尺の金銅仏と繡仏を各1体ずつの制作を命じ、止利をは造仏の工(担当者)に任じた。
606年、仏像は完成したが、金銅仏の高さが法興寺(飛鳥寺)の金堂の戸より高く、戸を破壊しないと堂内に入れられなかったが、止利の工夫によ って、戸を壊さずに安置することができたという。

具体的にどのような工夫をしたのかについては記されていないようだが、ネットを検索すると光背をはずしたのではないか、というものがあった。

この功績により止利は大仁の冠位に叙せられ、近江国坂田に水田20町を与えられた。
またこの仏像の制作を聞いて、高句麗王が黄金300両を貢したと、日本書記にはある。
このことから、止利は高句麗系と考えられているのかもしれない。

王辰爾の話は「鳥羽之状事件」と呼ばれる。
570年、上表文を携えた高句麗の使節がやってきたが、誰もそれをよむことができなかったが
572年、王辰爾が解読した。
上表文はカラスの羽に書かれており、羽の黒い色に紛れて読めなかったが
王辰爾って羽を炊飯の湯気で湿らせて帛に文字を写し取ることで、解読し、敏達天皇と大臣・蘇我馬子から賞賛された。(日本書記)

上表文を以ってきたのは高句麗の使節だが、王辰爾は第16代百済王・辰斯王の子・辰孫王の後裔である。
松本清張氏は、なぜ高句麗からの帰化人が新しい技術を携えてやってきて、百済系画氏を圧倒した例として王辰爾をあげているのか、わからない。

・黄文は姓が同一系かどうかを決めるのに問題が残る。造とか連とか。(井上光貞氏)

・松本清張氏は百済が古いというが、そうでもない。天智天皇代、白村江で敗れて以降もかなり入ってきている。
僧侶では百済僧、高句麗僧の両方が飛鳥にいる。
黄文にこだわりすぎないほうがいい。(斉藤忠氏)

・広く考えると問題が絞れなくなる。かなり憶測があっても絞ったほうがいい。(松本清張氏)

松本氏は作家らしい、斎藤氏は考古学者らしい意見だな、と思った。
(斎藤忠氏は、この記事の方だと思う。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%BF%A0

これについては、私は松本氏の意見よりも斎藤氏の意見に同意する。
先ほども書いたが、黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際し殯宮の行事を勤めている。
文武天皇の真陵は火葬墓であること、八角墳であることなどを理由に中尾山古墳が確実視されているが
中尾山古墳を発掘調査したところ、石室に壁画はなかった。

「殯宮の行事を勤めている」という事は、古墳造営に関わっているということだが、彼がかかわった中尾山古墳(真の文武陵)には壁画はなかったので、
黄文本実や黄文氏が高松塚古墳壁画を描いたという証拠がないということになる。
勿論広く見ると焦点は絞れないが、絞った焦点が間違っていれば、結果がちがってきそうだ。
分からないものは分からないとしておくのも科学的な態度ではないかと思う。
ただし、黄文本実や黄文氏が高松塚古墳壁画を描いたと仮定してみると、どうなるかと考えることは有意義かもしれない。
多くの点で辻褄が会えば、高松塚古墳壁画を描いたのは黄文氏である可能性は高くなるかもしれない。

・高松塚の横雲の線はフリーハンドではない。ミゾひき。太陽と月はコンパスを用いている。(松本清張氏)



高松塚 日像

高松塚 日像

高松塚 月像

高松塚 月像

・日・月の大きさはどちらも7.5cm(斉藤忠氏)

・九州の装飾古墳の円文や同心円文はコンパスを使っているが、円の中心にコンパスの脚をたてたあとがある。(松本清張氏)

・高松塚は金箔、銀箔をはっているのでコンパスの跡はわからない。(伊達宗康氏)

・天武持統陵は高さは50m。(井上光貞氏)

・高松塚は5m。(伊達宗康氏)

・文武天皇陵も大きい。同時代でありながら墳墓に大小があるのは階級の差ではないか。(松本清張氏)

下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m                
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m)    
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、真の文武陵は中尾山古墳である可能性が大きい)径14尋(28m)、高さ1尋(2m)

井上光貞氏は天武持統陵の高さは50mとおっしゃっているが、高さは9mである。
伊達宗康氏が高松塚を5mとおっしゃっているのはそのとおり。
松本清張氏は文武天皇陵も大きいとしておられるが、高さは2mである。

ただ、私も実際にこれらの古墳を見に行ってみて、天武持統陵や文武天皇陵は大きく、高松塚は小さく感じた。
その理由は天武持統陵や文武天皇陵には木が生い茂っていることが関係していそうだ。
また、もしも中尾山古墳、高松塚古墳のように丘陵の上に築かれているとすれば、木が生い茂っていることもあって、高さをどこからはかっていいのかがわからない。

・高松塚古墳は決して小さくない。(伊達宗康氏)

これは上の比較表を見れば一目瞭然で、伊達氏のおっしゃるとおりである。

・年代で決定的なのは鏡だと思う。少なくとも上限はわかる。
海獣葡萄鏡は初唐ぐらいから作られている。
高松塚のものは法隆寺の五重塔から出たものよりタイプが古い。(井上光貞氏)

・日本で出土したもので高松塚と同形のものはない。中国に照会してもらうことになっている。(伊達宗康氏)

高松塚古墳出土鏡の年代については中国の墳墓から出土した海獣葡萄鏡との比較などから、樋口隆康は8世紀初頭、王仲殊や長広敏雄は7世紀末頃、勝部明生は680年前後などとしている[27]。


このように高松塚出土の海獣葡萄鏡の年代については、現在でも諸説あって定まらない。

同型鏡が中国の7世紀末の古墳(独弧思貞(どっこしてい)墓(689年)・十里鋪337号)から出土しているので、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものではないかとする意見もあるが
689年に築造された古墳から出土したからといって、689年に近い年代に製作されたとは言い切れないと思う。
例えば、500年ごろに製作され先祖代々伝えられていた海獣葡萄経を副葬品として689年におさめるなんてことも考えられないでもない。
また、独弧思貞墓が689年に築造されたものだとしても、同じ鋳型をつかって689年以降に造られた可能性が排除できないもちろん704年に遣唐使が持ち帰った説については、朝鮮半島の人々が献上物として、日本にもたらせた可能性もあるとの反論がある。

・岸俊男氏は「天武持統陵が藤原京の朱雀大路の線上にのる」とおっしゃっている。(聖なるライン)
直木孝次郎氏は「線ではなく、ゾーン」だとおっしゃっている。(ホーリーライン)

1969年に岸俊男は、日本の藤原京遺跡のメインストリートである朱雀大路の延長線上に、檜隈前大内陵、菖蒲池古墳、中尾山古墳が存在することを指摘した[8]。1972年に発見された高松塚古墳の壁画をもとに直木孝次郎がそれぞれの古墳の被葬者を推測したところ、マスコミはその直線を「聖なるライン」と名付けて報じて世間の注目を集めたが「聖なるライン」説の意義は学術的には評価されなかった[8]。その後、藤堂かほるが藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があることから、その造営時期を文武天皇の時代とする説を発表したところ、猪熊兼勝がそれを承けて「聖なるライン」説に大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳を加えた、新しい「聖なるライン」説を提唱した。猪熊によれば、それらの遺跡は、すべて東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内に収まることから「聖なるライン」は意識的に作られたものであり、計画したのは天武天皇だと主張している[8]。

ゾーンとは「地域」や「区域」という意味である。
直木孝次郎氏のホーリーラインについては調べたりないせいか、わからなかったが、「古墳が線上に並んでいる」のではなく「古墳がある区域があるにまとまってある」という印象をもっている。
というのは、聖なるラインから外れた所にも古墳は多く、また聖なるライン上から中尾山古墳、高松塚古墳、キトラ古墳などは若干ずれているからだ。(これについては誤差のうちだという反論はあるとは思う。)

・中国では、これは(古墳の立地の事をおっしゃっていると思う。)あくまで北。南に墓を作ることはほとんどない。なので藤原京の南の線上というのは疑問。
高句麗の輯安(集安)も南の開けた土地にというのはない。新羅の慶州にもない。(斉藤忠氏)

・藤原京の場合は、北が低く平地になっていて、南が山という立地条件もある。藤原京の地勢から見て墳墓の地は北には求められない。(伊達宗康氏)


地図むかって右に藤原京跡とある。どういうわけか、藤原京跡を中央にもってくることができなかった。(すいません)

・藤原京は四神相応のちに造られている。北は耳成山、西は飛鳥川。北は山、東は道、西は川(井上光貞氏)

・藤原京の西も東も川はある。(伊達宗康氏)

・北に山(玄武)、東(青龍)と西(白虎)に丘陵があり、南(朱雀)の平坦地を抱えるようにつきでている。(松本清張氏)

・松本清張氏がオッ射程るのは四神の思想。風水ではない。
風水とは風を蔵し水を得るということ。三方山に囲まれて南で水を得る。(斉藤忠氏)

四神相応の地は、北に丘陵、東に川、西に大路、南に湖沼のある地のことをいうのだと思っていた。
藤原京の北には井上氏がおっしゃっているように耳成山、東には米川、西には紀路(現在の近鉄橿原線、橿原神宮前駅から線路沿いに南へ、飛鳥駅に向かう道)がある。
南にも石川池などいくつかの池が存在している。

しかし、諸氏の発言を聞いていると、私の認識の方が間違っているかもと心配になってきた(汗)

中国や韓国における風水の四神相応は、背後に山、前方に海、湖沼、河川の水(すい)が配置されている背山臨水の地を、左右から砂(さ)と呼ばれる丘陵もしくは背後の山よりも低い山で囲むことで蔵風聚水(風を蓄え水を集める)の形態となっているものをいう。この場合の四神は、背後の山が玄武、前方の水が朱雀、玄武を背にして左側の砂が青龍、右側が白虎である。
どうもこれを読むと、東西南北は関係ないようだ。

・朝鮮では現在でも築墓は、風水によっている。前方後円墳の向きがバラバラなのは、風水によって築造されたからではないか。(松本清張氏)

・九州の装飾古墳はいたるところにある。そうすると高松塚古墳のような古墳がもっとあってもいいような気がする。(松本清張氏)

・古墳かなと思って掘ったら山だったというケースが多い。(伊達宗康氏)








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