1⃣金達寿氏の説
①文武陵(中尾山古墳)には壁画はなかった。
・奈良・中宮寺の天寿国曼荼羅繍張の下絵は高麗加西溢が書いた。百済系東漢末賢、漢奴加己利らとの合作。
・今井啓一氏 高松塚古墳壁画を描いたのは高句麗系絵師の黄文本実と断定
文武陵も黄文本実が手掛けたので高松塚古墳と同様な装飾がなされているはずといっている。
黄文本実は707年の文武天皇の崩御に際して、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤めている。
しかし、文武陵は発掘調査の結果、火葬墓で八角墳の中尾山古墳が有力視されており、中尾山古墳には水銀朱が塗布されていたが壁画はなかった。
中尾山古墳
中尾山古墳 石室内部
・樋口清之氏、長谷川真氏、高松塚の女性像は朝鮮高句麗と同質としている。
高松塚女子像
09:09あたりの人物像は高松塚古墳壁画の女性のファッションににている。
⓶帰化人史観
・小林幸雄氏 画家が粉本(手本)を忠実に再現したもの・高松塚古墳の発見のニュースは、すでに韓国において異常な反響をまきおこしているとつたえる。今後、日本の学界が、この壁画の系統観について、高句麗説から唐説へ動くことを予想すると、それがまた政治的にとりあつかわれることを恐れる。はじめに高句麗説を出した人は、おそらくそこまでは考えなかったのであろう。しかし、慎重さを欠いていたことになろう。(小林幸雄氏)
・ところが、婦人の衣服は唐のものよりも高句麗に近い。
同時にそれは日本の女子埴輪の衣服とも似ている。そこで、この壁画田粉本を忠実に再現したものだとすると、その粉本は中国でも北方の服装を描いたものにしなければなるまい。』(小林幸雄氏)
・中国か高句麗か、どちらの影響を受けているか、という点で論議が高まっているが、私は中国説をとっている」(樋口隆康氏)
・小林氏からこういう説が出るのは、その裏に皇国史観・帰化人史観があるからではなかろうか。
帰化人史観という言葉は初めてきいた。
近代には外国人が日本国籍を取得することを法律上帰化というが、日本史上で帰化人といえば、主として平安時代初頭までの人々を指すのが普通である[1]。日本語の帰化人という言葉は「古代にあって、国家統一以降に渡来した人の男系子孫」という意味以外に使われることは誤用を別にすればない[2]。「帰化」の語はもとは中華思想から出た語であるが、日本では中国の慣例に従って用いたにすぎず、とくに王化を強調する意図はない[1]。「帰化」という用語は長らく、日本国家に朝貢・奴隷化した人々を指す用語とされた[3]。こうした通説を批判した上田正昭は、「日本人の一部にはいまだに『帰化人』を特殊視したり、あるいは極端に差別されていたかのように考えたりしている人々がある。しかし、そのような見方は不当な認識にもとづくものであり、民族的差別を合理化する結果になる。こういう考えは、古代の支配者層が抱いていた蕃国の観念や近代日本の為政者がつくりだした民族的偏見にわざわいされているものである」として、「帰化」の用語にまとわりつく差別性が近代の産物であることを指摘した[4]。金達寿は、帰化人を在日朝鮮人のイメージに投影した張本人と目されているが、実際は、古代の帰化人と近現代の在日朝鮮人とが無関係であることを指摘しており、古代の帰化人は日本人の祖先である可能性はあっても在日朝鮮人の思想ではないと主張し、帰化人を在日朝鮮人に投影する思考の在り方を根本的に批判した[5]。また金達寿は、日本国家が成立する以前と以後で、渡来人と「帰化人」の用語を使い分けることを提案おり、帰化人の用語を使用するべきではないと主張したことはない[6]。一方、こうした渡来人観・帰化人観に対しては、「渡来」は単に来たという意味が強く、日本に定着して在来の日本人の一員となった人々という意味が弱いという批判がある[7]。
a日本史上で帰化人といえば、主として平安時代初頭までの人々を指す。
b日本語の帰化人という言葉は「古代にあって、国家統一以降に渡来した人の男系子孫」という意味。
c「帰化」の語はもとは中華思想から出た語であるが、日本では中国の慣例に従って用いたにすぎず、とくに王化を強調する意図はない。
d「帰化」という用語は長らく、日本国家に朝貢・奴隷化した人々を指す用語とされた。
e日本人の一部にはいまだに『帰化人』を特殊視したり、あるいは極端に差別されていたかのように考えたりしている人々がある。しかし、そのような見方は不当な認識にもとづくものであり、民族的差別を合理化する結果になる。こういう考えは、古代の支配者層が抱いていた蕃国の観念や近代日本の為政者がつくりだした民族的偏見にわざわいされているものである」(「帰化」の用語にまとわりつく差別性は近代の産物)
f金達寿(このコラムの著者)は、帰化人を在日朝鮮人のイメージに投影した張本人と目されている。
g実際には、金達寿は
・古代の帰化人と近現代の在日朝鮮人とが無関係であることを指摘している。
・古代の帰化人は日本人の祖先である可能性はあっても在日朝鮮人の思想ではないと主張
・帰化人を在日朝鮮人に投影する思考の在り方を根本的に批判した。
・日本国家が成立する以前と以後で、渡来人と「帰化人」の用語を使い分けることを提案している。
・帰化人の用語を使用するべきではないと主張したことはない
i「渡来」は単に来たという意味が強く、日本に定着して在来の日本人の一員となった人々という意味が弱いという批判がある。
このウィキペディアの金達寿氏の記述はおおむね正しい思われる。
金達寿氏はこのコラムで、次のように書いておられるからだ。
・かりにそうして「略奪されて連れてこられた」として、では彼らを「略奪」し、「連れて」来たのはいったいどこにいた、どういうものであったのか。
~略~
「いわゆる朝鮮からの帰化人」といわれるもののほか、そんなものはどこにもいはしなかったのである。(p238より引用)
・今日にみられるような「日本人」「朝鮮人」など、その当時はまだどこにもいはしなかったのだ。人種。種族というものと、それから歴史的に形成された民族・国民戸を混同していることから来た初歩的な誤りであるが、しかし、にもかかわらず、これまでそれを積極的にただそうとした歴史学者や考古学者は一人もいないといっていい。(p238より引用)
・日本の原住民は貝塚時代の住民はとにかくとして、扶余族(高句麗族)が北鮮まで南下して以来、1600~1700年前から朝鮮からの自発的な、また族長に率いられた家族的な移住者は陸続としてつづき、彼らは貝塚人種と違って相当の文化を以って降り、数的にも先住民を追い越す程度の優位を占めたものと思われる。(坂口安吾氏)
まず日本には縄文人が住んでいて、そこへ 紀元前14000年頃渡来系弥生人がやってきたとするのが近年の定説になっている。
渡来系弥生人は半島ではなく、大陸からやってきた人々が多かったようで、彼らは稲作技術のおかげで人口を増やした。
しかし、縄文人と弥生人はどちらか一方が相手を滅ぼすということはなく、混血して原日本人を形成したようである。
ところが、現日本人の形成は古墳時代かも、と思える記事がある。
(1)Y染色体ハプログループD1a2aの縄文系』と『(2)ハプログループO1b2の弥生系』を起源とする東京大学名誉教授埴原和郎が唱えた「二重構造モデル」が主流であったが、最新のゲノム解析で『(3)ハプログループO3a2cの古墳系』からなる「三重構造モデル」であることが証明された。
現代の日本人は縄文人、北東アジア、東アジアの三つの祖先集団を持つことが遺伝情報の解析で判明したとする研究成果を、金沢大などのチームが発表した。弥生時代、古墳時代と進む間に縄文人と大陸系の渡来人が混ざった可能性があるという。論文が米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」に掲載された。
富山市の小竹貝塚から出土した縄文土器(左)と人骨(金沢大学の中込滋樹客員研究員提供)
金沢大の 覚張(がくはり )隆史助教(考古分子生物学)らのチームは、縄文、古墳時代の人骨計12体の遺伝情報を解読し、既に報告がある縄文、弥生時代の人骨計5体の結果と共に解析した。
その結果、長崎県佐世保市で出土した弥生時代の人骨2体は、遺伝情報の約6割が縄文人由来で、約4割は中国・ロシア国境などの北東アジア由来だった。金沢市の古墳時代の人骨3体は東アジア由来が6割以上で、縄文人は15%まで下がり、現代の平均的な本州の日本人に近いという。
チームは、縄文~古墳時代に大陸から複数回の集団の渡来があり、古墳時代以降は渡来が少なかった可能性があると分析している。
・高句麗と百済と新羅の勢力争いは、日本の中央政権の勢力争いにも関係があったろうと思われる。なぜなら、日本諸国の豪族は概ね朝鮮経由の人たちであったと目すべき根拠が多く、日本諸国の古墳の出土品等からそう考えられるのであるが、古墳の分布は全国的であり、それらに横のツナガリがあったであろう。(坂口安吾氏)
へつづく~
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