①聖なるラインは天智天皇陵まで延びている。
高松塚・キトラ古墳は「聖なるライン」上にあるといわれる。
「聖なるライン」とは北から南へ、藤原京ー菖蒲池古墳ー天武持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳
とほぼ一直線上に古墳が並んでいる状態をさす。
しかし、この聖なるラインをさらに北へ伸ばしていくと、南から北へ、平城京、天智天皇陵もほぼ同一ライン上にのっている。
現在では「聖なるライン」というとき、平城京、天智天皇陵も含めることが多い。
聖なるライン
天智天皇陵ー平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳
ただ、きれいに一直線上に並んでいるわけではなく、若干のずれが生じている。
また聖なるラインから少しずれた場所にも多くの古墳が存在している。
これらの古墳がひとかたまりとなって、天智天皇陵ー平城京ー藤原京の南に連なることを意図した物であるかのようにも思える。
⓶なぜ天智天皇陵は聖なるラインの最北にあるのか?
しかし、不思議だと思うのは、天智天皇陵が聖なるラインの最北にあることだ。
天智天皇の大殯(おおあらき)の時の歌
かからむとかねて知りせば大御船泊(は)てし泊に標結(しめゆ)はましを(万2-151)
【通釈】こんなことになると、以前から知っていましたなら、陛下が船遊びをなされたあの時、お船が停泊した港に、標縄を張り巡らしておきましたものを。
【語釈】◇大殯 殯(あらき)の尊敬語。埋葬までの間、天皇の遺体を柩におさめて安置しておくこと。◇標結はましを 標縄を張ることで、大君の魂をそこに留めておけばよかった、ということか。または、悪霊などの侵入をふせぐことを言うか。
【補記】歌の脚注として作者名「額田王」が記されている。山科の御陵より退り散(あら)くる時に、額田王の作る歌
やすみしし 我ご大君の 畏きや 御陵仕ふる 山科の 鏡の山に 夜はも 夜のことごと 昼はも 日のことごと
哭(ね)のみを 泣きつつありてや 百敷の 大宮人は 行き別れなむ (万2-155)
【通釈】我らが大君の、畏れ多い御陵にお仕え申し上げる、山科の鏡山で、夜は夜通し、昼はひねもす、声をあげて泣いてばかり――こんなままで、宮廷にお仕えする人はみな、散り散りに別れてゆくのだろうか。
【語釈】◇やすみしし 「我ご大君」に掛かる枕詞。「平らかにお治めになる」の意であろうという。◇鏡の山 京都府山科区の天智天皇御陵のある山。
この二つの歌は番号が2-151と2-155とたいへん近い数字になっている。
2-151のほうは「大殯のときの歌」とあるので、2-155も殯の時の歌なのだろうか。
とすれば天智天皇の殯は山科の、現在天智天皇陵がある場所と同じ場所で行われたということになるだろうか。
「天子南面す」という言葉があり、最北は天子がいるべき場所である。
そんな場所に天智の殯宮をつくり、天武の陵はそのはるか南にあるのはなぜなのだろうか。
天智崩御後、天智の子の大友皇子vs天智の弟の大海人皇子(天武天皇)が皇位をめぐって争った。(壬申の乱)
天智自身は、弟の大海人皇子(天武)よりも子の大友皇子に皇位を継承させたいと考えていた。
つまり、天智と天武は敵対関係にあったといってもいい。
それなのに天武の陵は何故天智陵の南に造られたのだろうか。
③聖なるラインの立地
聖なるラインは、檜前と呼ばれる土地にあり、渡来人が多く住み着いた場所だと考えられている。
それは史料に次のような記述があるためである。
・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他制のものは一割~二割程度。(続日本記)
・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」(応神20年紀)
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。
・「阿智王が応神朝に七姓の漢人を率いて渡来し檜前郡郷にすんだ。」(姓氏録逸文)
・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀」にも見える。(直木孝次郎氏)
なぜそのような渡来人が多く住む土地に天皇陵をふくむ古墳が数多く作られたのだろうか。
それについては不明だが、門脇禎二氏は677年、東漢直氏が叱責された事件に注目されている。
「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。是を以て、小墾田御世より近江朝に至るまで、常に汝等に謀るを以て事とせしも、今朕が世に当たりては、将に汝等の不しき状を責め、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大恩を降して原したまふ」
この後、東漢氏は宮廷への出仕から排除され、檜隈氏に代わって東漢氏の中心にたった坂上氏たちさえ、平安時代初めまで「下人の卑姓」者の扱いを受けることになった。
それで、地位挽回のため、進んで墳墓造営の地と仕事を提供した可能性があるのではないか、というのである。
門脇氏の説は、一つの説として記憶にとどめておくことにして、聖なるライン上にある古墳(高松塚・キトラ古墳以外)について、みてみることにしよう。
④野口王墓は天武・持統合同陵であることが確実視されている。
天武・持統合同陵(野口王墓)
聖なるライン上に存在する野口王墓は、八角墳であり、現在天武・持統陵に治定されているが、これはおそらく間違いがないものと見られている。
明治13年、京都の高山寺で『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』という古文書の写本が発見された。
『阿不幾乃山陵記』は1235年におこった「野口王墓盗掘事件」で検非違使が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書である。
そこにはこう記されていた。
「墓の奥に一体の骸骨があった。手前には台の上に立派な金銅製の箱があり、その中に銀の大きな壺があった。
その壺を盗んだが、中に入っていた灰は溝に捨てた。」
持統天皇は火葬され、骨灰を銀の骨壺に収納して天武天皇の大内陵に合葬されていた。
また、石室内の状況も『日本書紀』の記述と一致していたのだ。
⑤真の文武陵は中尾山古墳
文武天皇陵(栗原塚穴古墳)
聖なるライン上には、中尾山古墳と文武天皇陵もある。
現在文武陵は栗原塚穴古墳に治定されているが、真の文武陵は中尾山古墳ではないかと考えられている。
中尾山古墳
その理由のひとつは、火葬墓であることである。
持統天皇が皇族としては初めて火葬されたのち、文武天皇も火葬されている。
そして中尾山古墳が天皇陵に多い八角墳であることである。
天皇陵に八角墳が多い例は先に述べた野口王墓(天武・持統合同陵)があるが、そのほかの例をあげておこう。
牽牛子塚古墳
八角墳の牽牛子塚古墳は巨石をくりぬいて2つの墓室を設けてあり、斉明天皇と間人皇女合同陵とみられている。
手前に越塚御門古墳が発見されている。
『日本書紀』には斉明天皇の御陵は、娘・間人皇女との合葬墓でその前に孫の大田皇女を葬ったとあり、越塚御門古墳は大田皇女の墓である可能性が高い。
草壁皇子陵は眞弓丘陵に治定されている。
『日本書紀』には草壁皇子の墓についての記述がないが、万葉集の挽歌などから真弓丘へ埋葬されたと考えられている。
しかし眞弓丘陵の近くにある束明神古墳は八角墳であり、地元には束明神古墳を草壁皇子の墓とする伝承が残るなどしており、束明神古墳が草壁皇子の真陵ではないかとする説が有力視されている。
束明神古墳
束明神古墳横口式石槨(復元)開口部奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示
束明神古墳 横口式石槨(復元)内部
その他、舒明天皇陵(段ノ塚古墳)、天智天皇陵(御廟野古墳)も八角墳である。
⑥菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓?
聖なるライン上にある古墳のうち、高松塚、キトラ古墳を除く古墳、天武持統陵、中尾山古墳、文武陵についてみてきた。
残るは菖蒲池古墳であるが、その前に、菖蒲池古墳からほど近い場所で発見された小山田古墳についてみてみよう。
小山田古墳は東西72m(北辺)・80m超(南辺)という大型方墳で、明日香養護学校の敷地内にある。
出土土器から7世紀中頃(特に640年代)の築造と推定されている。
古墳の下層には6世紀後半の集落跡が発見されている。その集落を壊して古墳を築造したのだろう。
ところが7世紀後半にはすでに石積みが壊されていたとされる。
小山田古墳 羨道跡
被葬者は舒明天皇の初葬地説、蘇我蝦夷の墓説がある。
そういえば蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我稲目の墓ではないかとされる都塚古墳も方墳である。
蘇我氏の墓は方墳が多いのかもしれない。
そして、日本書記は蘇我蝦夷と入鹿親子が今来の双墓を築いたと記す。
今来の双墓は御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳ではないかと長らくいわれてきたが、近年の研究の結果、水泥古墳・水泥塚穴古墳は築造年代が蘇我蝦夷・入鹿の死去よりも早いとされるようになり、今来の双墓はこれではないと考えられるようになった。
「③聖なるラインの立地」のところで私は次の様に書いた。
・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀」にも見える。(直木孝次郎氏)
高市郡は古くは今来郡といったのだ。
すると、今来の双墓のうちのひとつがこの小山田古墳である可能性はある。
そして双墓というからにはもう一つ同じような古墳があるはずだ。
菖蒲池古墳がそれだと考えられている。
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳
菖蒲池古墳は一辺30mの方墳とされる。
7世紀中頃の築造と推定されたが、7世紀後半にはすでに、墳丘の一部が破壊されている。
小山田古墳と菖蒲池古墳は築造時期も破壊された時期もほぼ同じである。
私は小山田古墳と菖蒲池古墳が今来の双墓であり、小山田古墳が蘇我蝦夷を葬った大陵、菖蒲池古墳が蘇我入鹿を葬った小陵とする説を支持したい。
その理由は小山田古墳を舒明天皇初陵とした場合、舒明天皇は移葬されたので初陵のほうは壊したとみることができるだろうが、移葬されたとはいえ、天皇陵であったものを破壊するかどうか。
また同時期に壊された菖蒲池古墳は誰の墓なのかが、説明できないのではないか、と思うからである。
私は二つの古墳を訪ねてみたが、その際、車は甘樫丘駐車場に止めた。
菖蒲池古墳、小山田古墳は甘樫丘から近い場所にあるのだ。
甘樫丘にはかつて蘇我蝦夷と入鹿の邸宅があったとされる。
蘇我蝦夷と入鹿は権力をほしいままにしていたが、645年乙巳の変で蘇我入鹿は中大兄皇子に斬殺された。
翌日には蘇我蝦夷が自宅に火を放って自殺した。
改新政府は蘇我蝦夷と入鹿の屍を埋葬することを許可しているが、豪華な今木の双墓に葬ったとは思えないという意見がある。
「小山田古墳の被葬者をめぐって 小澤毅 」 p13
それはたしかにありそうだ。
現在我々が見る古墳は年月が経って草木が生い茂っているが、造った当初は敷石が敷き詰められるなど豪華な外観であったはずである。
蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳や蘇我稲目の墓とされる都塚古墳はピラミッド型の古墳であった可能性もあり、
すると今来の双墓もピラミッドであったかもしれないと思ったりする。
のちに天武陵を作るにあたり、天武陵の真北にあるのはけしからん、として遺体を掘り出し、古墳を破壊したのかもしれない。
後に天武天皇陵をつくる際、天武天皇陵の北に今来の双墓があるのはけしからんという事で、古墳は破壊されたのかもしれない。
このように見たとき、高松塚・キトラ古墳が聖なるライン上にあるからといって、被葬者を天皇の皇子だと決めつけて考えるのは少し危険なことの様に思える。
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