返却期限が来てブログ記事の参考にさせていただいていた本は全て図書館に返したので、今手元に本がない。
(予約を入れたので、また借りられるはず。)
そこで、長々と書いた記事を自分自身が復習する意味をこめて、まとめ記事を書いていこうと思う。
従って、過去記事と重複する内容となるが、ご容赦いただきたい。
①装飾古墳
日本の古墳のうち、内部の壁や石棺に浮き彫り、線刻、彩色などの装飾のあるものの総称(以下略)。
とするならば、高松塚・キトラ古墳は装飾古墳に含まれると思うのだが、ウィキペディア「装飾古墳/主な装飾古墳一覧」に高松塚古墳、キトラ古墳は含まれていない。
ウィキペディア古墳の項目をみると、
その他、墳丘を石で構築した積石塚、石室に線刻、絵画などを施した装飾古墳、石室の壁に絵画を細越した壁画古墳(高松塚古墳・キトラ古墳)、埋葬施設の一種である横穴などがある。
とある。
細越という言葉の意味がわからないが、繊細なタッチで描いた壁画ということだろうか。
確かに九州の装飾古墳と高松塚・キトラ古墳は絵のタッチが違う。
⓶四神が描かれた竹原古墳
しかし、装飾古墳のひとつである、竹原古墳の壁画には
動画3:18あたりから、「さしば」と呼ばれる団扇に似た日よけが描かれている。
高松塚古墳の女子群像が手に持っている団扇も「さしば」であるという。
高松塚古墳壁画 女子群像
さらに、竹原古墳には高松塚古墳・キトラ古墳に描かれているのと同様の四神(玄武・白虎・青龍・朱雀)も描かれている。
(高松塚古墳は玄武・白虎・青龍、竹原古墳は玄武・朱雀、青龍のみ)
玄武(キトラ古墳) キトラ古墳四神の館似て撮影
白虎(キトラ古墳) キトラ古墳 四神の館にて撮影
青龍 高松塚古墳 高松塚壁画館似て撮影
朱雀 (キトラ古墳)キトラ古墳四神の館にて撮影
竹原古墳の絵のタッチは高松塚のものよりも荒いが、抽象絵画のようなチブサン古墳の壁画とも違う。
四神図が描かれているあたり、明らかに中国か朝鮮の影響を受けていると思われる。
そのほか、佐賀県武雄市北方町大渡字永池の永池古墳には、翳(さしば)を持つ人物が描かれていた。
(リンク先には杵島群北方町大字芦原字永池となっているが、2006年に合併して現在は武雄市)
⓶キトラ古墳と隼人石は関係がある?
聖武天皇皇太子那富山墓に隼人石があるという。
那富山墓(なほやまばか)は聖武天皇の第1皇子基王(727年-728年)の墓と伝えられる。方墳の可能性があるとのこと。そこに獣頭人身の像が描かれているという。
キトラ古墳には獣頭人身の像が描かれており、キトラ古墳との関係をうかがわせる。

虎像
キトラ寅像
もともとは12石存在した可能性があるとされるが、現在は4石のみ残されている。
江戸時代から「犬石」や「狗石」「七疋狐」と呼ばれていたそうで、江戸時代には7石あった可能性が指摘されている。
先日この那富山墓へ行ってみたのだが、周囲は策がめぐらされていて、中に入ることはできず、隼人石は確認することができなかった。
第1石:墳丘北西隅にある。短い耳のネズミ(子)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、直立して胸元で拳を組んだポーズをとり、杖を持っている。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「北」と彫られている。
第2石:墳丘北東隅にある。耳の間に2本の角を持つウシ(丑)と見られる獣頭人身像。やや雑だが全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。
第3石:墳丘南西隅にある。長い耳のイヌ(戌)と見られる獣頭人身像。下半身の表現がなく、胸元で拳を組んだポーズをとる。
第4石:墳丘南東隅にある。長い耳のウサギ(卯)と見られる獣頭人身像。全身が表現され、跪いて胸元で拳を組んだポーズをとる。衣服はなく、下腹部に褌のような表現がある。頭上に「東」と彫られている
大阪府羽曳野市の杜本神社にも「隼人石」2石(同じ図像を左右対称にした石造物」があり、那富山墓の第1石(ネズミ)に似ているとのこと。

杜本神社 隼人石
③

杜本神社は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦を与える神社?
先日、杜本神社を参拝してきた。
隼人石は本殿の左右にあるとのことだが、本殿前の拝殿が閉まっており、社家さんにお願いして開けてもらう必要があるようだった。
ところがどの家が社家さんなのかわからず、残念ながら隼人石見学はあきらめた。(写真はウィキペディアからお借りした。)
しかし、収穫はあった。
境内に藤原永手(714-771)の墓碑なるものが存在していたのだ。
という事は、この墓碑の後ろにある土の盛り上がった所が藤原永手の墓なのだろうか。
藤原永手の墓碑
上の方の文字は読めない。一番下の文字は墓だろう。その上は「藤原永手」の「手」のようには見えず「王」「里」のように見える。
藤原永手は766年、称徳天皇(孝謙天皇の重祚)・法王道鏡政権下で左大臣となっている。
770年、称徳天皇崩御。吉備真備は天皇候補として文室浄三・文室大市を推すが、藤原永手は藤原百川とともに白壁王を推し、結果白壁王が即位して光仁天皇となっている。
日本霊異記紀にこんな話がある。
藤原永手は生前に法華寺の幡を倒したり、西大寺に計画されていた八角七重の塔を四角五重塔に変更したなどの罪で、死後に地獄へ堕ちた。
もしも杜本神社の境内に藤原永手の墓があるとすれば、杜本神社は藤原永手を慰霊するための神社なのかもしれない。
いや、藤原永手に地獄の責め苦を与える神社といったほうがいいかもしれない。
その理由は、この中国の仏画である。
地獄の法廷を描いた中国の仏画
この仏画はウィキペディアにあったものでhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94#%E4%B8%AD%E5%9B%BD、
製作年代、作者などわからないのが残念なのだが、いわゆる地獄絵のようである。
日本の地獄絵は鬼が亡者を責めるものがほとんどだと思うが、ここでは獣面人身の者が地が亡者を責めている。
絵が小さいのでわかりにくいが、羊、牛、馬、虎、鶏、辰のような顔をした人(神?)が確認できる。
杜本神社本殿の左右におかれた十二支のネズミの像は地獄に堕ちた藤原永手に責め苦をあたえているようにも見えてくる。
すると、キトラ古墳の十二支像もまた、被葬者に地獄の責め苦を与える目的で描かれているのではないか、と思ってしまう。
中国の十二支像は手に武器をもっていないが、高句麗の十二支は手に武器をもっている。
しかもそれは、上の中国の仏画野の獣面人身のものたちが手に持っている道具によく似ている。
韓国金庚信墓十二支像(拓本)キトラ 四神の館にて撮影(撮影可)
キトラ古墳の十二支は手に何か持っているのがわかるものもある。
来村多加史氏によれば、子像が持っているのは鉤鑲(こうじょう)と呼ばれる盾であるという。
鉤鑲は漢の時代に登場した兵器で、盾の上下に弓なり状のフックがついている。
この上下のフックで相手の武器を搦めとるのだという。
寅像が手に持っているのは鉾で、鉤鑲、鉾とも房飾りがついているので実践用ではないと来村氏は述べておられるが、どうだろうか。
キトラ古墳 子像、丑像、戌像,亥像。キトラ古墳 四神の館にて撮影。
⑥聖武天皇皇太子とは阿部内親王のことでは?
隼人石のある那富山墓は何故聖武天皇皇太子墓とされているのだろうか。
近くに聖武天皇陵、聖武天皇の皇后・光明皇后陵があるからかもしれない。
ウィキペディアに宮内庁治定陵墓の一覧があり、那富山墓の被葬者の項目に次の様に記されている。
「記載なし(基王)」
被葬者の記載がないとはどういうことなのだろうか。正史に基王を葬った記録がないということだろうか。
陵墓名の記載もない。
陵墓名は、天武・持統合同陵の桧隈大内陵の様に、正史に記載のある名前を記してあると思う。
陵墓名の記載もないということは、やはり正史に記録がないということではないかと思う。
基王は聖武天皇の第一皇子で生まれてすぐに皇太子にたてられた。
しかし生後1年ほどで亡くなってしまった。
那富山墓には獣面人身の像を描いた隼人石があるのだったが、隼人石とは被葬者に地獄の責め苦を与える十二支を描いた石だとすると、生まれてすぐ亡くなった基王もまた地獄に堕ちたのだろうか?
1歳になるかならないかぐらいの赤ん坊に罪を犯せるとは思えない。
そうではなく、聖武天皇皇太子とは阿倍内親王(孝謙天皇、重祚して聖徳天皇)のことではないか?
彼女は女性だが、基王の死後、聖武天皇の皇太子にたてられているのだ。
彼女の陵、高野陵は佐紀高塚古墳に比定されている。
しかし、この古墳は4世紀ごろに築造されたとみられる前方後円墳で、時代が合わない。
称徳天皇は独身で即位したため結婚が許されず、子供がなかった。
そして寵愛していた弓削道鏡を次期天皇にしようとしている。(宇佐八幡神託事件)
その後、称徳天皇は急病を煩って崩御し(暗殺説もあり)、杜本神社に墓誌がある藤原永手、藤原百川らが光仁天皇を擁立している。
聖徳天皇は、道鏡を天皇にしようとした罪で、地獄の責め苦を与えられているのではないか?
藤原永手は西大寺の八角七重塔を四角五重塔にしたことなどが原因で地獄に堕ちたと言われるが、その西大寺を建立したのが、称徳天皇である。
藤原永手と聖徳天皇は関係が深いのだ。
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