「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
本は返却期限がきて図書館に返したのだが、再び借りることができたので、再開する。
1⃣尾崎喜左雄氏の説-2
⑪35センチ尺
・墳丘・・・尋・・・192cm・・・晋尺一尺24cm✖8
175cm・・・35cm✖5
石室・・・尺・・・唐尺一尺30cm
・尋の175cmを墳丘に使用していると同時に、35cmを単位とする尺度を石室に使用している。
墳丘は尋、石室は尺でつくった。
35cmのほか、石室に30cmの基準数も求めえている。
・30cmは正倉院所蔵の物指の長さに合わせたのだろう。唐尺とみられる。
・関野貞博士は、法隆寺の建物から曲尺(建築土木用の尺)一尺一寸七分六厘という単位数を検出されて、これを高麗尺(高麗尺による測地用の尺)一尺と見られた。これは唐尺一尺を曲尺九寸八分と見ての唐尺1尺2寸分であり、令の雑令にいう大尺である。したがって、高麗尺は令の大尺であるとされたわけである。唐尺をなお三〇センチとした場合は、大尺は三六センチになるのであって、これを高麗尺とするならば、三五センチの基準数は高麗尺とはいえないことになろう。(p224より引用)
数回読み直してみたが、全く理解できない文章だった。(汗)
仕方がないので、
「大尺(高麗尺による測地用の尺)=36cm」であるならば、35cmの基準数は高麗尺ではない」ということのみを理解して次に進もう。(汗)
・長谷川輝夫氏・・・曲尺一尺一寸七分3厘(四天王寺の研究から)【30.3cm✖1.173=35.5419cm】
藤島亥次郎氏・・・曲尺一尺一寸七部六厘(韓国皇龍寺の研究から)【30.3cm✖1.176=35.6328cm】
曲尺一尺一寸五分六厘(皇龍寺の塔から)≓35cm 【30.3cm✖1.156=35.0268cm】
米田美代治氏・・・曲尺一尺一寸五分八厘(韓国の石製層唐から)≓35cm【30.3cm✖1.158=35.1874cm】
後の文章に、尾崎氏はこのように書いておられる。
「35cmすなわち曲尺一尺一寸五分五厘」
つまり、35cm=曲尺1尺1寸五分五厘ということだ。
曲尺1尺の長さは、35cm÷1.155≓30.3cm
曲尺1尺=30.3として計算したのが【】内の数値である。
ちなみに関野貞氏説の曲尺一尺一寸七分六厘の計算は【30.3cm✖1.176=35.6328cm】で、藤島氏説と同じになる。
・試みに高句麗の古墳で玄室が曲尺一尺一寸四分を基準数としていることを検出してみた。狩谷棭斎は高麗尺は東魏尺から転訛したもので、東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分に当たるということからである。この結果、東魏尺が高句麗に入ったことはほぼ推定されるのであるが、この長さが曲尺一尺一寸五分六厘になったものであるか否かははっきりしない。(p224より引用)
狩谷棭斎(1775年ー1835年)は江戸時代後期の考証学者である。
その狩谷棭斎氏の説が
a.高麗尺は東魏尺から転訛したもの
b.東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分
という事だと思う。
そして尾崎氏は高句麗の古墳の玄室を計算して、曲尺1尺1寸4分という基準数を検出したので、
狩谷棭斎氏の説「a.高麗尺は東魏尺から転訛したもの」「b.東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分」は正しいといえるが
「b.東魏尺の一尺はほぼ曲尺一尺一寸四分」が「藤島亥次郎氏が検出した曲尺一尺一寸五分六厘(皇龍寺の塔から)」へ変化したかどうかまではわからない。
こういうことだろう。
・一尺一寸五分六厘(≒35cm)という単位数は百済にも新羅にも存在している。百済や新羅の支配者はその単位の尺度を採用していたのだろう。
・この一尺一寸五分六厘(≒35cm)に近似な数値が群馬県の古墳から検出されている。
・飛鳥寺では曲尺一尺一寸六分、曲尺一尺一寸七分が報告されている。
時代とともにだんだん長くなったのではないかと思えるが、これが高麗尺であるという確証はない。
晋尺と唐尺の中間の尺度があったということで、これが高麗尺であろうと考える。
「⑥晋尺」のところで、私は次のように書いた。
「既にのべた石室の設計は新来尺で1尺=35cmだったが、墳丘は在来尺でつくられているのだった。
つまり在来尺とは晋尺だということだ。
検索すると西晋 1尺=24.2cm、東晋 1尺=24.5cmと出てくる。
尾崎氏は一尋=192cmと説明されている。
192cm÷24cm=8尺となるので、晋尺では8尺を一尋としていたということだろうか。
これについてはここで尾崎氏は言及しておられない。」
つまり、群馬県の古墳の設計について、尾崎氏は次のように考えておられるということだろう。
石室・・・新来尺・・・1尺=35cm・・・高麗尺か?
墳丘・・・在来尺・・・1尺=24cm・・・1尋8尺=192cm・・・晋尺
・群馬県横穴式古墳石室で方形のものを、長さと幅の比の値は4(細長い)から1(正方形)までほぼある
この比1.5を境として、これより大きい物は未加工の石材使用が多く、35cmの単位数が検出される。
1.5以下のものは切組積みで精巧なものが多く、30cmの単位数が検出される。
・左右壁下の線が両方とも外〇(漢字よめず。すいません)の弧で対照的に設計されているものはほとんど30cmの単位数。
・方形の平面の物は巨石を使用する傾向。
・外〇の弧のものには小型の石材で積み上げたものが多い。
高句麗の古墳と百済の古墳との差をもったもののよう。
高句麗の古墳と百済の古墳の差を持つとはどういう意味だろうか。ちょっとわからない。
・6世紀末から7世紀前半の飛鳥の仏教文化の主流は北(北魏、朝鮮半島経由)から伝わった。
法隆寺金堂の釈迦、薬師三尊像は北魏式。聖徳太子の仏教の師は高麗僧・恵慈で高句麗から伝えられた傾向が強い。
・群馬県の横穴式石室の出現は一峰二ツ岳爆裂以前。
爆裂による噴出降下した厚さ2mの浮石層に埋没した古墳、破壊された古墳の石室から35cmの単位数が検出されている。
その爆裂は七〇〇年前後と推定しているが、『日本書記』には文武三年(六九九)に全国的な大地震があった由を記しており、その地震の原動力を火山活動に求めるならば、二つ岳の爆裂もその一環であり、天智八年(六六九)のことであるかもしれない。(p225より引用)
尾崎氏は669年に何があったのかについては記しておられず、検索しても地震の記録はわからなかった。
・従って、35cmの単位数をもった尺度は高句麗文化の影響をもったもので、高麗尺といえるだろう。
・大宝律令に規定されている尺度の1尺2寸を大尺とするが、大尺と高麗尺は根本的に異なるもの。
「⑨唐尺の曲尺(30cm弱)・大尺(36cm)」のところに、私はコトバンク大尺の記述のまとめとして次の様に書いた。
〇令は、大尺は測地尺として用い、他は小尺を使うと規定した。
〇小尺一尺二寸=大尺一尺
〇大尺は、令制以前から存在したとみられる高麗尺
〇和銅六年(七一三)令が改定されて、小尺を大尺とした。(天平尺)
〇和銅の大尺(天平尺)は、のちの曲尺の源流となった。
ただし、天平尺は曲尺よりもやや短い。天平尺一尺=曲尺の九寸八分(二九・七センチメートル)程度。
コトバンクは大尺を高麗尺だとしているが、尾崎氏は根本的に異なるというのだ。
その理由はどういうものだろうか。
・ただし、高麗尺受容時の長さははっきりしていないが、35cmの単位数がでており、新羅にも百済にも近似の数値がでている。35cm近似の数値で受容されたのだろう。
これはこの記事の「⑪35センチ尺』に書いた、次の内容をさすものと思われる。
藤島亥次郎氏・・・曲尺一尺一寸五分六厘(皇龍寺の塔から)≓35cm 【30.3cm✖1.156=35.0268cm】
米田美代治氏・・・曲尺一尺一寸五分八厘(韓国の石製層唐から)≓35cm【30.3cm✖1.158=35.0874cm】
・35cm近似の数値で受容された高麗尺だが、飛鳥寺では曲尺一尺一寸六分【30.3cm✖1.16=35.148cm】
および一尺一寸七分【30.3cm✖1.17=35.451cm】になっている。
35cm=曲尺一尺一寸五分五厘【30.3cm✖1.155=34.9965≓35】から曲尺一尺一寸六分【30.3cm✖1.16=35.148cm】ないし七分【30.3cm✖1.17=35.451cm】に変化したのだろう。
これがやがて大宝律令制定頃には、曲尺一尺一寸七部六厘【30.3cm✖1.176=35.6328cm】に近い寸法になっていたのではないか。
・681年に造られた山ノ上古墳は石室構築に唐尺を使用している。
の「⑨唐尺の曲尺(30cm弱)・大尺(36cm)」のところに、尾崎氏の発言として次のように書いた。
・高崎市山名町 山ノ上古墳(隣接して墓碑があり、681年に造られた古墳とみられる。)
石室全長 5.40m (30cm✖18=540cm)
玄室長さ 2.70m (30cm✖9=270cm)
幅 1.80m(30cm✖6=180cm)
長さと幅の比 270:180=1.5:1
・本薬師寺の塔の心礎も薬師寺の西塔の心礎も唐尺を使用している。すでに680年代、唐尺が使用されていたことが推定される。
薬師寺は680年、飛鳥の藤原京にで造営がはじまり、8世紀初めに現在地の西ノ京へ移転した。
本薬師寺東塔跡の心礎
薬師寺 中央が西塔
本は1972年初版だが、このとき西塔は再建されていなかった。薬師寺西塔が再建されたのは1981年
・薬師寺は唐の様式の伽藍配置、山ノ上碑は放光寺僧の建立なので、山ノ上古墳も僧が作った?
仏教関係者は律令規定以前に唐尺が使用されていた傾向がある。
他方では高麗尺が使用されている。(群馬県多野郡吉井町大字多比良 35センチを単位数とした高麗尺でつくった石室がある。)
・高麗尺一尺を曲尺一尺一寸五分六厘とみるか、曲尺一尺一寸七分六厘と見るかは議論のあるところだが
曲尺一尺一寸七分六厘とするのは、雑令の「一尺二寸を大尺とする」と定めたことから出発している。
曲尺一尺一寸五分六厘は藤島亥治郎氏によって新羅の慶州の皇龍寺塔(645年)で検出されている。
日本でも645年以前に存在していたかもしれない。
⑫高松塚の尺度
・高松塚石室内法の長さ 2.655m
幅 1.035m
高さ 1.134m
高麗尺使用ともいう。現地(現地とは何を指すか?調査チーム?)では唐尺と考えられている。
・実測値のみで考えるのは資料が少なくて危険。長さ、幅、とも各三様の実測値が望ましい。
a.設計と経始と用石の設置の段かいにおいて誤差が生じる可能性がある。
b.故意に一方をゆがめて作り上げている傾向がある。
・長さ2.655mは35センチの整の倍数は求められない。
30センチの9倍(270cm-4.5cm=265.5cm)にはやや小さいがその差は4.5センチ。
4.5cmを9等分すると5ミリ。(4.5÷9=0.5cm)
これは一尺を30cmとした場合の一尺における差
29.5cmを一尺とした場合は、2.655mは9尺。
・幅1.035mは30センチでは整の倍数は求められない。
同じ石室を築造するのに異なった尺度を用いることはないだろう。
103.5cm÷30cm=3.45
(29.5cm✖3.5)+0.25=103.5cm
幅は29.5cmの3.5倍とみていいだろう。
・高さ 1.134m
29.5cm✖4-4.6=118cm-4.6cm=113.4cm
高さは床面によって差がある。
床面が凸凹している、ということだろうか。そういうことであれば、確かに何か所かはかってみるのがよさそうに思える。
・高松塚は29.5センチを一尺とし、長さ9尺、幅3尺5寸、高さ4尺として作られたと推定する。
・正倉院の御物では、29.5cm一尺の物指の存在がある。惟も唐尺と呼んで差し支えない。
・横穴式石室は奥壁の石の両端に側壁側の端をかけて作るのが一般的で、石室の幅は狭くなる傾向がある。
たぶん、こういう事だと思う。↑
・松本楢重氏によれば、正倉院の御物には次の様な物指があるという。
29.50cm
29.55
29.60
29.69
29.70
30.00
30.20
30.25
30.40
物指の実長の変化
高松塚 29.50cm
29.55
29.60
法隆寺 29.69 和銅年間(元明天皇)
29.70 和銅年間(元明天皇)
多胡碑 30.00 和銅年間(元明天皇) 和銅4年の紀年あり
30.20
30.25
30.40
30.70
大宝律令制定前後に使用された一尺は29.5cm?
高松塚は7世紀終末~8世紀初頭に造られた?
- 関連記事
-
スポンサーサイト