「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので(つまり私は後だしじゃんけんをしていることになる 笑)、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣尾崎喜左雄氏の説
➀物指があったことを物語る古墳たち
・高崎市倉賀野の浅間山古墳と大鶴巻古墳は、前方後円墳の中軸長、前方部前幅、後円部直径が一致する。
太田市内ケ島の天神山古墳と伊勢崎市安堀の御富士山古墳は、中軸長に対する前方部幅と後円部径との%が同じで同じ形。
前橋市文京町の二子山古墳の2分の1のサイズで、不二山古墳が作られている。
藤岡市白石の皇塚と群馬県勢多郡粕川村の薬師塚は玄室が同じ
勢多郡大胡町の堀越古墳、安中市東上秋間の磯貝塚、新田部薮塚本町の北山古墳も玄室が同じ
これらの例は、古墳の構築にあたって物指が用いられたことを示す。
・文献では、日本書記 大化2年(646年)薄葬令の記述は物指が使用されていたことを示している。
「それ王より上つ方の墓は、そのうちの長さ九尺、ひろさ5尺、その外の域(めぐり)は方九尋、高さ五尋、(中略)、上臣の墓は、その内の長さ、ひろさ、高さは皆上になぞらえ、その外の域は方七尋、高さ三尋・・・」
・内部構造・・・「長さ九尺と広さ五尺の平面をもつもの」と「長さ九尺、高さ・幅が4尺」の2通り。
墳丘・・・「方九尋・高さ五尋」「方七尋・高さ三尋」「方五尋・高さ二尋半」「墳丘なし」の4通り。
薄葬令の規定をまとめると次の様になる。
王以上・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 9尋 高さ5尋)
上臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 7尋 高さ3尋)
下臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 5尋 高さ2.5尋)
大仁・小仁・・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
大礼から小智・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
庶民・・・・・・・地に収め埋める
古墳のサイズの一致や同じ形であることは、遺物からの考察で、確かに同じサイズや同じ形につくるためには物指が必要であるように思われる。
一方、日本書記の薄墓令の記述は史料からの考察である。
古墳のサイズを規定するためには物指が必要であり、物指の存在を示すといえるだろう。
⓶薄葬令は日本書記編集者が作為した?
・薄葬令の内容は、内容自体に矛盾があるので、本当に644年に作成されたのか、日本書記編集者が作為(創作)したのか疑問がある。後者だと考えている。
矛盾とはたとえば、どのような点なのかについて、説明がほしかった。
薄葬令以降の古墳を調べてみると、一辺が規定の大きさを超えるものがほとんどで、高さは規定に及ばないものがほとんどである。
それを矛盾とおっしゃっているのかもしれない。
・墳丘は尋、石室は尺でつくるということは日本書記編纂時に伝承されていたのだろう。
薄葬令の規定が、墳丘は尋、石室は尺になっており、尾崎氏は「薄葬令は後世の作為」と考えておられるのでこのように書いておられるのだろうが、ここでもやはり「日本書記編参時に伝承されていた」と考えられる理由についての説明がほしかった。
③尋=8尺、5尺、6尺(時代によって異なる)
・中国では王朝ごとに物指がきめられた、周尺、漢尺、普尺、東魏尺、唐尺などがある。
また使用している間に尺が変化している。
周令は人長=尋=八尺とするが、のちの時代には、「五尺の男」「六尺の丈夫」などの言葉がある。
・人長=尋(160cm~180cm)
竪穴式古墳の単独葬用の小型石槨の長さも、ほぼその範囲に納まる。
・加藤常賢氏によれば、漢字の尋は左右の手を伸ばした形。日本語の「ひろ」も左右の手を広げた状態をさす。
④尺は新しい物指の単位、尋は古くからの物指の単位
・「あた」「つか」という単位もあったことが日本書記や古事記の記述から推定されている。
但し、記紀編修時期に伝承されていたものであろうが、その使用期間をどこまで遡らせることができるかは不明。
・「八咫」は「いやあた」といわれる。「あた」は手のひらの幅、または手首から指の先までの長さとされる。
掌の幅は約10cm。
・「いやあた」は「弥あた」で、あたをふたつ合わせたもの。20cmほど。鏡は20cm位のものが多い。
・八咫鏡は伊勢神宮ご神体の固有名詞として用いられているが、もともとは普通名詞であったらしく「日本書記」景行天皇の巻で髪夏磯媛が降参してきた条にも「八咫鏡」とでてくる。
・八握剣などの「握(つか)」は握りこぶしの長さだろう。掌の幅とほぼ同じ。
・景行天皇の巻に「七掬脛(ななつかはぎ)」とあり、「掬」をあてているが、「握」と同じ。
七掬脛は景行天皇40年、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の際に、膳夫(かしわで/食膳係)に任命された人物。久米直(くめのあたい)の祖とされる。
・「さか」は「尺」の音の転訛。
・「やさか」は尺を重ねている。「や」は数が多いことをあらわし、八の漢字があてられる。
・日本には「ひろ」という言葉がすでにあり、大陸から技術や漢字を導入した際、「尋」を「ひろ」とよみ、長さを測る単位として受け入れられたのだろう。
・「つか」「ひろ」「あた」は人体の部分を基準にした単位で自然発生的なもの。「尺(さか)」は外来語。
「人長=尋=八尺」「五尺の男」「六尺の丈夫」などの言葉があるということだった。(③)
人長=尋=180cmとすれば、一尋=八尺ならば、一尺は22.5cm(180÷8)、一尋=5尺ならば一尺は36cm(180÷5)、一尋=六尺ならば、一尺は30cmとなる。
尺(22.5~36cm)は体の部分を基準にしたものではないので、自然発生的なものではない、したがって外来語であろうと尾崎氏は推測されたのだろうか。
しかしウィキペディアには次のようにある。
漢字の「尺」は親指と人差指を広げた形からできた象形文字で身体尺であったと考えられている[4]。
尺も体の部分を基準にした単位だったのだ。
しかし「しゃく」という発音は中国語っぽく、日本語的ではないと感じる。
尺は音読みが「しゃく」であり、訓読みでは「さし」「ものさし」「わず(か)」とよむ。
訓読みの「さし」「ものさし」「わず(か)」などが長さを測る単位として用いられていないということは、中国からやってきた言葉で外来語と考えられる、ということになるだろうか。
・あた・・・八咫鏡(やたのかがみ)は身に着けたものではなく神秘性が強調されたもの。
つか・・・・八握剣(やつかのつるぎ)は武器として〇用されたもの。
さか(尺)・・・・八尺瓊(やさかに)は瓊を連ねて装身具としたもの。
・瓊は玉と考えられる。「に」という言葉は既に八世紀には一般に用いられなくなり「たま」が用いられるようになる。
「に」は「たま」より古い言葉だろう。
・糸で束ねた「たま」が古墳の出土品の年て出土するおは6世紀から7世紀中ごろまで
・「に」は古くから存在して珍重されたのだろうが、頸飾りとして一般に用いられたのは6世紀から7世紀中ごろまでで、
そのころ「やさか」という言葉が加わったのだろう。
・「やさかにのまがたま」の「の」は「つ」にかわって用いられた助詞なので「の」の使用が始まってから以降の表現
「の」は「つ」にかわって用いられた助詞なので「の」の使用が始まってから以降の表現』とおっしゃっているが、
「やたのかがみ(あた)」や「やつかのつるぎ(つか)」も同じように「つ」ではなく「の」が用いられている。
⑤薄葬令はなぜ尋と尺、ふたつの単位を用いたのか。
・薄葬令の墓制度は、「尋」と「尺」の物指の単位で、墳丘と内部構造の構築を区別している。
・薄葬令が日本書記編纂時に作為されたものとしても、日本書記編纂時に「尋」と「尺」という単位が存在し、これを遡らせて表現したものであろうが、実際にも在来尺と新来尺があったものと推定される。
・薄葬令は「墳丘は在来尺」によって、「内部構造は新来尺によって」構築するように指示したと考えられる。
・墳丘の形は竪穴式古墳においてすでに成立(在来尺)
薄葬令では墳丘は尋で規定されている。
私は上に記事のタイトルとして「③尋=8尺、5尺、6尺(時代によって異なる)」と書いた。
竪穴式古墳の時代、1尋が何尺であったかわからないが、
尾崎氏は「竪穴式古墳を作っていた時代に用いられていた尺」を在来尺、「新しく導入した尺」を新来尺と表現されているのだろう。
しかし、同じ尺という単位で長さが異なっているのは問題があるので、
薄葬令は尺ではなく、「在来尺の長さ(cm)✖エックス=尋」と表現したのではないか。
尾崎氏はそう考えておられるのだと思う。
例/
●墳丘の大きさをあらわす尺(在来尺)の長さを求める。
在来尺の長さ・・・・1尺=24cm
1尋・・・・・・・・・8尺 (この場合は、エックス=8)
のとき
「在来尺の長さ(cm)✖エックス=尋」
1尋=24cm✖8=192cm
●石室の大きさをあらわす尺
新来尺の長さ・・・・一尺=35cm
・内部構造は横穴式石室という新しい様式を新来尺で作るよう指示したのだろう。
⑥晋尺
・竪穴式古墳の墳丘を利用して横穴式石室を作り込んだもの。
群馬県玉村町「上毛古墳総覧」記載芝根村第7号墳、第1号墳、高崎市下他T機滝川村大1号墳、前橋市山王町の上村第15号墳など
・芝根村第7号墳の横穴式石室は、玄室の長さ4.20m、最大幅1.40m 35cmを基準単位としている。
つまり、1尺=35cmであり、玄室の長さ4.20cm÷35cm=12尺、最大幅140cm÷35cm=4尺ということだ。
墳丘は稲荷神社鎮座地であったため破壊されてはっきりしないが、
発掘調査の結果、葺石、埴輪配列が重複し、また埴輪の形・製作に違いがあることなどから、古い墳丘を利用して横穴式石室をつくったことが明らかになっている。
旧墳丘も破壊されているが、後円部の直径23m、前方部前幅13m、1尋=192cmとして、
23m(2300cm)・・・12尋×192cm-4cm=2304cm-4㎝=2300cm(23mは12尋に4cm不足)
13m(1300cm)・・・7尋×192cm-44cm=1344cm-44cm=1300cm。(13mは7尋に44cm不足)
晋尺の尋とみて妥当。
ここに「晋尺の尋とみて妥当」とある。
尺は時代によって長さが異なるという説明があったが、中国の晋(265年 - 420年)の時代に用いられていた尺が晋尺であろう。
既にのべた石室の設計は新来尺で1尺=35cmだったが、
墳丘は在来尺でつくられているのだった。
つまり在来尺とは晋尺だということだ。
検索すると西晋 1尺=24.2cm、東晋 1尺=24.5cmと出てくる。
尾崎氏は一尋=192cmと説明されている。
192cm÷24cm=8尺となるので、晋尺では8尺を一尋としていたということだろうか。
これについてはここで尾崎氏は言及しておられない。
44cmも不足していても、妥当といえるというのは、素人には「えっ?」と思えてしまうが。
⓻35cmは群馬県の横穴式古墳構築の期間に共通に用いられた
・同じ実長で、尋と尺を使い分けているもの(下の例から、石室1尺35cm、墳丘1尋=35cm✖5=175cmが導かれる。)
さきほどの芝根村第7号墳は石室は新来尺(1尺=35cm)を用い、墳丘は在来尺(1尺=24cm? 1尋=24×8?=192cm)を用いた令であったが、
今度は石室・墳丘ともに同じ尺を用いた例である。
❶高崎市八幡町 観音塚古墳 横穴式石室をもつ前方後円墳 ※()内は1尺35cm、1尋=5尺=35cm✖5=175cmとして計算。
石室全長 天井部14m(1400cm÷35cm=40尺)、同床部で15.3m(1530cm÷35cm=43.71428571尺、43尺+25cm)
玄室長 7m(700cm÷35cm=20尺)、玄室幅3.5m(350cm÷35cm=10尺)、
墳丘中軸長105m(10500cm÷175cm=60尋)
後円部径 70m(7000cm÷175cm=40尋)
前方部105m(10500cm÷175cm=60尋)
❷群馬県勢多郡粕川村 鏡手塚古墳 横穴式石槨をもつ前方後円墳
石室全長7m(700cm÷35cm=20尺)
玄室長さ2.8m(280÷35cm=8尺)
幅1.4m(140÷35cm=4尺)
墳丘中軸長28m(2800÷175cm=16尋)
後円部径 17.5m(1750÷175cm=10尋)
前方部幅13m(1300÷175cm=7.4258571428尋=8尋) ※正確には7尋と68cm
・沼田氏奈良町 奈良古墳群 近接した4基の石室が、いずれも
玄室の長さ 約2.1m(210÷35cm=6尺)
幅1.4m(140÷35cm=4尺)
共通の長さの単位数は70cmおよび35cm
70cmを単位としても210÷70=3、140÷70=2と計算できる。
・上にあげた古墳の墳丘、石室の寸法野いずれからも35cmという共通の数値を求め出すことができる。
さらに墳丘の寸法からは175cmを共通にふくんでいる。
仮に35cmを一尺の実長とすれば一尋は一尺の何倍か。
一尋は人長なので、160~180cmくらいが妥当。
一尋の長さを尺の長さに合わせて定めるならば、160~180cmに含まれる数値で、35cmの数倍が望ましい。
在来尺と新来尺とをよみ替える必要があるので、尋は尺で除して完全数の出るように定められる。
「在来尺と新来尺とをよみ替える」という言葉の意味がわからない。
周尺は一尋=八尺。
35cmを新来尺の一尺の長さとすれば、新来尺に対する一尋の長さは5尺=35cm✖5=175cmが妥当。
墳丘を尋、内部を尺で作っている(薄葬礼に相応)
・35cmという数値は群馬県の横穴式古墳構築の期間に共通に用いられたのだろう。
・❶は中軸長と前方部幅は同じ長さ
❷は前方部幅は中軸長の半分
前方後円墳の墳丘の変化・・・長めの形から寸詰まりの形へ変化している。
❷鏡手塚古墳は山の一峰二ツ岳の爆裂によって崩れている。この爆裂は7世紀初頭。鑑手塚古墳は爆裂以前の6世紀後半の構築。
❶観音塚古墳は鏡手塚古墳よりもかなり後に造られた。石室は巨石を利用している。
35cmを1尺とした場合、玄室の幅は10尺、長さは20尺
石舞台古墳と比較すると、玄室の長さに2尺の差があるのみ 石舞台と同じ傾向の築造。
石舞台と同じ傾向の築造。7世紀前半から7世紀中ごろ。
⑧竪穴式古墳は晋尺でつくられた?
・竪穴式古墳は横穴式石室需要以前のもので尋でのみ造られたのか。
・伊勢崎市安堀町の音富士山古墳
中軸長 125m
前方部前幅80m
後円部径80m
前方部発掘調査 葺石の根石部分での墳丘前幅76m ※根石の線の一端が破壊されているので正確な数値ではない。
(晋尺 =24cmだと1尋が何尺なのかはっきりしない。)
1尋・・・5尺・・・120cm(5×24) 7600÷120=63.3333333尋
1尋・・・6尺・・・144cm 7600÷144=52.7777777尋
1尋・・・7尺・・・168cm 7600÷168=45.23809523尋
1尋・・・8尺・・・192cm 7600÷192=39.58333333尋
・周尺では八尺としてある。
周尺では一尋=八尺という意味だろうか?
・周尺と晋尺は一尺が同じ実長ではない。従って、周尺での1尋は晋尺での一尋と同じ実長ではない。
・試みに192センチを単位として、御富士山古墳の戦法部前幅の76mを測ると。40尋と不足80cmとなる。
7600cm÷192cm=39.5833333尋 192cm✖40尋ー80cm=7680cm-80cm=7600cm
・76m(7600cm)+80cm=7680cm=40尋
80cmは前方部前幅の欠損部復元の長さに相当し、誤差としても1尋の2分の1(192cm÷2=96cm)より小さい。
・群馬県勢多郡大胡町『上毛古墳総覧』記載 大胡町第5号、第六号古墳は、単独葬用の小型石槨各3個宛(づつ)を持つ小円墳
A郭最大長 A郭最小長 B郭最大長 B郭最小長 C郭最大長 C郭最小長
大胡町第5号 198cm 192cm 192cm 190cm 196cm 194cm
大胡町第6号 202cm 196cm 190cm 187cm 176cm 175cm
太字の5つは192㎝を、細字のひとつは175cmを基準にしたようである。
墳丘の直径は葺石の根石で測って14.40m
192cm単位では7.5倍(1440cm÷192cm=7.5、192cm×7.5=1440cm)
180cm単位で8倍(1440cm÷180cm=8、180cm✖8=1440cm)
175cm単位は8倍で40cmあまる。(175cm✖8+40cm=1400cm+40cm=1440)
晋尺7尺5寸を1尋としたか。晋尺7尺5寸は180cm。
つまり1440cmは192cmでも180cmでもきれいに割り切れるのだが、
晋尺の7尺5寸は180cmになるので、1尋=晋尺の7尺5寸=180cmを物指として用いたと尾崎氏は推定されたということだろう。
晋尺7尺5寸=晋尺の1尋=180cm
晋尺の一尺=180cm÷7.5=24㎝ となる。
私は「⑥晋尺」のところでも、「晋尺の1尺は24cmではないか」、と書いたが、尾崎氏は晋尺の1尺が24cmだとはいわずに、晋尺7尺5寸は180㎝という書き方をされておられる。
何か理由があって、このような書き方をされているのだろうか。
しかし、本を読み進めていくと、このあとに晋尺1尺24cmとでてくる。
・渋川市東町 台形の方墳
方形埴輪円筒列の四隅および各辺の中央に朝顔形埴輪が配列されていた。
布留遺跡出土の朝顔形埴輪と円筒埴輪・土師器(天理大学附属天理参考館蔵)
・朝顔型埴輪の一辺の芯心の間隔は5.90m
192cmで割ると3倍で14cm余る(590cm=192cm✖3+14cm=576cm+14cm)
・前橋市朝倉町の方形墳は葺石の根石の線では3.80m。
192cmの2倍で4cm不足(380cm=192cm✖2-4cm=384cm-4cm)
・朝倉二号墳(仮称)は墳丘の直径が葺石根石間で23m。
192cmであたると12倍で4センチ不足(2300cm=192cm✖12-4cm=2304cm-4cm)
180cmでは12倍で1.40mあまる。(2300cm=180cm✖12+140cm=2160cm+140cm)
175cmでは13倍で25cmあまる。(2300cm=175cm✖13+25cm=2275cm+25cm)
192cmが誤差が少ない。
・この古墳の内部構造は粘土槨
長さ5.73m、192cmの3倍で3cm不足。(573cm=192cm✖3-3cm=576cm-3cm)
内法の長さ4.88m 192cmの2.5倍に8Ⅽm多い。(488cm=192cm✖2.5+8cm=480cm+8cm)
192cmを基準にしたか。
端数の付かない尺数のことを、で完数というそうだが、きっちり割り切れなくても、1尺を何センチとすれば一番誤差が少なくなるか、を考えておられるようだ。
・前橋市の前橋天神山古墳、太田市の朝胡塚古墳、高崎市の大鶴巻古墳、前橋市の八幡山古墳、太田市の宝泉茶臼山古墳なども墳丘の構築に192cmを単位として使用されたと考えられる。
竪穴式の石槨の長さは人長と思われるもの、180cm前後のもの、192cmのもの、その前後のもの、280~290cmのものなどある。
だいたいが晋尺7尺5寸(24cm✖7.5=180cm)と8尺(24cm✖8=192cm)の1.5倍(192cm✖1.5=288cm)なので、主として192cmを基準としている。
・192cmは晋尺一尺24cmとしての8尺分。(192cm=24cm✖8)
192cmは普通人の人長(尋は人長の長さとされている)とはいえない。
「5尺の男」「6尺の丈夫」というように、5尺、6尺が人長とされる。
しかし周尺では一尺の実長が短かったため、(ウィキペディアによると周尺の1尺は20cm)
8尺を尋とした。(20cm✖8=160cm)
その人長8尺を尋とするということが、晋では尋とは8尺と考えられ、1尋=晋尺1尺24cm✖8=192cmとされたのだろう。
・薄葬令は墳丘は尋、内部は尺で規定した。
墳丘は尋で従来通りに造った。
尺も従来晋尺があったので、存在はしていたが、薄葬令でことさらに尺と規定したのは、それまで存在していなかった物指を規定したということ。
⑨唐尺の曲尺(30cm弱)・大尺(36cm)
・大宝律令で唐尺の規定が採用され、大蔵省、諸国の国司は標準尺をたまわっている。
唐尺一尺の長さは曲尺で9寸八分ほど。30cm弱。
曲尺で検索すると「直角に折れ曲がった物差し」とでてくるが、これのことではなく、「土木建築に用いる尺」という意味だろう。
「鯨尺」・・・着物など和装に用いる布類を測る際に用いられる単位
「曲尺」・・・土木建築に用いられる単位
鯨尺の由来は、その名の通り鯨の髭から来ていて、ものさしの材料に鯨の髭を用いていたことが始まりでした。
曲尺の由来は、中国に始まり、曲=金というのが関係しています。
いずれも1958年(昭和33年)の尺貫法の廃止に伴い法定単位としては使われなくなりました。
・正倉院の御物の尺には、29.55cm、29.6cm、29.7cm、30.2cm、30.25cmなどがあり一定でない。
・大尺(36cm)
令義解 巻10
「凡そ度は、十分を寸と為(せ)よ、十寸を尺と為よ」十
「一尺二寸を大尺の一尺と為よ」
「(大尺は)凡そ地を度(はか)り、銀鋼殻を量(はから)んば皆大を用いよ、このほかは官私〇(漢字がよめず。すいません)に小なる者を用いよ」
とある。
① 令制の長さの単位。令では尺を大尺と小尺に二分し、大尺は測地尺として用い、他は小尺を使うと規定した。小尺一尺二寸が大尺一尺に相当する。この令の大尺は、令制以前から存在したとみられる高麗尺(こまじゃく)のことであり、小尺は和銅の大尺となった。〔令義解(718)〕
② 和銅六年(七一三)改定された長さの単位。令の小尺を改めて大尺とした。令の小尺すなわち和銅の大尺が天平尺で、のちの曲尺の源流となった。ただし、天平尺は曲尺よりもやや短く、曲尺の九寸八分(二九・七センチメートル)程度とみられる。
上のコトバンクの文章をまとめておこう。
〇令は、大尺は測地尺として用い、他は小尺を使うと規定した。
〇小尺一尺二寸=大尺一尺
〇大尺は、令制以前から存在したとみられる高麗尺
〇和銅六年(七一三)令が改定されて、小尺を大尺とした。(天平尺)
〇和銅の大尺(天平尺)は、のちの曲尺の源流となった。
ただし、天平尺は曲尺よりもやや短い。天平尺一尺=曲尺の九寸八分(二九・七センチメートル)程度。
なんともややこしい~~~
・横穴式石室のうち、加工した石材を用い,玄門、羨道(せんどう)を持つものには、30cmの基準数を持つものが多い。
・高崎市山名町 山ノ上古墳(隣接して墓碑があり、681年に造られた古墳とみられる。)
石室全長 5.40m (30cm✖18=540cm)
玄室長さ 2.70m (30cm✖9=270cm)
幅 1.80m(30cm✖6=180cm)
長さと幅の比 270:180=1.5:1
山ノ上古墳
・前橋市総社町 宝塔山古墳 福室の横穴式石室をもつ方墳
墳丘はかなり削り取られていて原型寸法は不明。壁面に漆喰を塗った痕跡がある。
玄室長さ 3.03m (30cm✖10尺+3cm=300cm+3cm=303cm)
幅 3.01m(30cm✖10尺+1cm=300cm+1cm=301cm)
30cmは共通基準 10平方の基準数
平方とは整数の自乗(二乗)で表される数。
「10平方の基準数」とは、「正方形の土地の基準となる数字」ということだろうか。
⓾長さ=幅×√2
・群馬県北群馬郡吉岡村 南下A号古墳(仮称)の玄室
長さ 3.27m (3727=30cm✖10.9尺)
幅 2.40m(240=30cm✖8尺)
平面図はシンメトリカル(左右対称)ではなく、長さは幅の√2とする矩形。
幅8尺、長さは幅の√2。(8尺✖√2=11.2尺)
平方根は中学の数学で習ったが、ほとんど忘れていたので復習してきた。(汗)
2 乗すると A になるような数のことを、A の平方根という。
4 の平方根は、2 乗すると 4 になる数。
2✖2=4 -2×―2=4 4の平方根は2、またはー2
ある数 A (A > 0) の平方根のうち負でないものを√A(ルート A )」という。
√3の2 乗= 3
0 以上の整数 n に対し、√n² を計算する
中身が平方数でない場合 √18
ルートの中身を素因数分解(正の整数を素数の積で表現)する。
18 を素因数分解すると、2✖3×3
√18=3√2
3√2×3√2=9×2=18
√2を計算機で計算すると、1.414213562となる。
語呂合わせで「一夜一夜に人見ごろ(ひとよひとよにひとみごろ)」と覚えるらしい。(笑)
8尺✖√2=8尺✖1.41=11.2尺
この古墳がいつごろ作られたものか、記載がないが、7世紀末~8世紀ごろのものだろうか。
そのころから平方根の計算をしていたというのはすごい。
・前橋市総社町の蛇穴古墳玄室
長さ・・・3m(300cm=30cm✖10尺)
幅・・・・2・52m 幅は完全数にはならない。
当初長さ10尺、幅6尺で企画され、正方形に近づけるため、6尺の√2にしたのだろう。
6尺=30cm✖6=180cm 180cm✖√2=180cm✖1.41=252cm(2.52m)
本では2.52mとなっているが、2.538mが正しいと思う。
つまり6尺✖√2=2.538 となるが、実際の玄室の幅は2.52mなので、6尺✖√2に1.8cm足らないということになる。
しかし、1,2cmは誤差のうちだろう。
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