「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。
基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣門脇禎二氏の説
①渡来した諸集団がしだいに共通の祖先伝承で結ばれた?
・応神天皇20年(記紀の記述をそのまま信用すると応神天皇20年は290年になるが、記紀の初期の天皇は100歳を超える長寿であるなど、実際よりも古いように描かれているとする説がある。実際には応神天皇は4世紀末から5世紀初めの人物と考えられている。)
東漢氏の祖先、阿智使主(あちのおみ)とその子の都賀使主(つかのおみ)が党類十七県の民をひきいてきた。
・772年、坂上大忌寸苅田麻呂(東漢氏の後裔)の上表文に、「檜忌前寸や右の十七県の民には大和国高市郡檜前村画与えられ、以来この地は他姓の者は十のうち一,二であった」とある。
・東漢直氏の実在人物は、592年の東漢直駒~677年の東漢直一族が叱責をうけたという記述のある期間に限られる。
阿智使主が民を率いてやってきてから、6世紀ごろより分裂、直の姓をもつ坂上、川原民、書など20近い小氏を生じていたと考えられている。
・しかしそうではなく、渡来した諸集団がしだいに共通の祖先伝承で結ばれたのではないか。
・坂上系譜『新撰姓氏録』逸聞は日本書記と異なり、二波に亘る渡来を伝える。
応神紀には「漢人七姓の子孫として14の民が渡来した」・・・檜前調使、檜前村主、阪合部首の祖
仁徳紀には「30の氏族が渡来して今来郡をたてた。」・・・飛鳥村主、牟佐村主、今木村主の祖
・上に挙げた氏族に含まれない別の渡来伝承をもつものが、檜前や檜前周辺では最も早く渡来定着したと考えられる。
乃ち、檜前の地に住んだ檜前村主、檜前調使の人々が最初の定着者だっただろう。
これは理由がしるされていない。
・ついで、身狭村主青、檜前民使い博徳が機織の公認を呉国の使いとともにつれ帰り、呉の使者らを檜隈のに住ませた。ここが呉原(現在の檜前東南型の栗原)の地名になった。
日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とあることを根拠とされているのだろう。
・檜前、呉原に早い時期での定着があり、桃原(渡来人を住まわせた場所)、真神原とともに渡来人の拠点となったのだろう。
②ヒノクマの地名は紀州の日前神からくる?
・檜前にやってきた人々はどこからやってきたのか。
一般的には河内の石川や飛鳥から東にむかってやってきたといわれる。
・古くからの河内と倭の貫通は龍田道で、葛城→平群→物部→蘇我の順で龍田道をおさえた。
大坂道(穴虫道、竹内道)は葛城大麻氏が抑えていたが、龍田道を物部氏がおさえてから、これに対抗して蘇我氏が抑えた。
おさえるとは具体的にどういうことだろうか。またこれを示す一次資料の提示がほしい。
・南大和から西へ向かう道は、檜前または曽我川に沿って古瀬に抜け、御所から着た道と五條で合祀て橋本、吉野川、紀の川へ通じる道が主道。
・川原民直宮という人の話も、上のルートが利用されていたことを思わせる。また川原あたりにも人が住み始めていた様子がうかがえる。
門脇氏のいう「川原民直宮という人の話」とはこの話の事を指していると思う。
・檜前と地名をつけた人々は紀の川河口の名草あたりからやってきた可能性もでてくる。
名草郡は渡来人が多い。紀国造は日前(ひのくま)、国懸神を祀り続けた。
和歌山県和歌山市に日前神宮(ひのくまじんぐう)・國懸神宮・くにかかすじんぐう)が同じ境内に祀られている。紀伊国一宮。
・ヒノクマの神は現地の溝を守る農業神で、日前と記されるようになったのは伊勢神宮祭祀の整備とのかかわりであった。紀伊のヒノクマという名前が大和にもちこまれた可能性は大きい。
ヒノクマの神が溝を守る守護神であるというのは、わからなかった。
また「日前と記されるようになったのは伊勢神宮祭祀の整備とのかかわり」とはどういうことなのか、もよくわからない。日前神宮の祭神・日前大神は天照大神の別名であるとして、朝廷は神階を贈らない別格の社として特別な信仰をよせていたらしい。
・高田皇子(宣下天皇)の宮が檜前廬入野に営まれ、「檜前天皇」などとも記された。
「檜前五百野宮」と記す関連資料もあるのでその史実性を疑う必要はない。
檜前五百野宮は於美阿志神社に比定される。
檜前に宮が作られたのは蘇我稲目と関係がある。
宮の記述があるとなぜ史実性を疑う必要がないのか、この説明ではちょっとわからない。
宣下天皇は継体天皇の子で欽明天皇とは異母兄弟にあたる。
③蘇我満智と木満致は同一人物説
・蘇我氏が東漢氏、その中核の檜前氏と結びついたのは、5世紀~6世紀初に大王であった雄略天皇(倭王武)の時代ではないか。
・雄記紀に「唯愛寵(めぐ)みたまふ所は、史部の身狭村主青、檜前民使博徳らのみなり。」とある。
・雄略天皇の時代、百済の官人・木満致(木刕満致)が渡来し、曽我川に沿う南大和の曽我(橿原市曽我町)に定着の土地が与えられた。
蘇我鞍作(入鹿)は林太郎鞍作ともいわれ、林氏は「百済国人木貴の後なり」という言い伝えがあったことも傍証になる。
河内の石川に定着した渡来人が大和に入り、蘇我氏を形成した。
わかりにくい文章なのだが、門脇氏は、木満致が蘇我氏の祖であると考えられているのではないかと思う。
5世紀後半頃、蘇我満智(そがのまち)という人物がおり、木満致と音が通じることから同一人物とし、木満致が日本に渡来して蘇我氏を興したとする説がある。
その説の概要は
応神天皇25年を干支3運繰り下げると西暦474年となって蓋鹵王21年(475年)にほぼ等しい。
木満致の日本への召し出し=文周王・木刕満致の「南」への派遣ではないか。
というものである。
これに対する批判としては、
〇応神天皇紀は通常干支2運を繰り下げる。
〇木満致・木刕満致や蘇我満智の所伝年代に開きがある。
〇大姓の「木」を捨てる根拠がない。
〇秦氏・漢氏が渡来系を称するので当時の情勢として出自を偽ることは不可能
〇文周王は新羅に向かったと読める。
などがあげられる。
⓻継体天皇の謎
・6世紀半ば、北陸から迎立された継体天皇は531年の辛亥の政変で倒れる。
記紀は継体天皇を応神天皇の5世の子孫(来孫)とする。垂仁天皇の女系の8世の子孫(雲孫)とも、(日本書記)
450年頃に近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)で誕生し、幼い時に父が死亡。
母・振媛の故郷・越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)で育ち、「男大迹王」として越前地方を統治した。(日本書記)
しかし古事記には、振媛が越前国に連れ帰るまでは詳細に記しているが、その後約50年の記録がなく、次に記述があるのは57歳ごろとなっていて、越前の名前は出てこない。このことから、継体天皇はずっと近江に板のではないかとする説もある。
506年、暴君・武烈天皇が後嗣を定めずに崩御。
大連・大伴金村、物部麁鹿火、大臣・巨勢男人ら有力豪族が協議し、丹波国桑田郡(現京都府亀岡市)の14代仲哀天皇の5世の孫である倭彦王を天皇にしようとしたが、倭彦王は迎えの兵を見て山の中に隠れ、行方知れずとなってしまった。
そこで大伴金村が「男大迹王に皇位を継いで頂こう。」といい、男大迹王を迎えにいった。
しかし男大迹王は群臣を疑って即位を拒む。
群臣のひとりで男大迹王の知人であった河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)は、使者をおくってり、男大迹王を説得させた。
507年、58歳にして河内国樟葉宮(くすはのみや、現大阪府枚方市)で即位。

樟葉宮跡
511年に筒城宮(つつきのみや、現京都府京田辺市)、518年に弟国宮(おとくにのみや、現京都府長岡京市)を経て526年に磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現奈良県桜井市)に遷った。
512年、 百済から要請があり、救援の軍を九州北部に送る。
527年新羅と通じた筑紫君・磐井が朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍を阻む。
528年、磐井の乱は物部麁鹿火によって鎮圧された。
531年、皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位し、即位の同日に崩御した。(古事記は継体の没年を527年とする。)
日本書紀注釈は百済本記の辛亥の年に天皇及び太子と皇子が同時に亡くなったという記述を引用している。
継体の後継者・安閑・宣化と、即位後に世子(世継)とされた欽明との間に争いが起こったとする説がある。
しかし「天皇」が誰を指すのか不明であり、百済の歴史書の信憑性を疑問視する意見もある。
『上宮聖徳法王帝説』(弘仁年間成立)と『元興寺伽藍縁起幷流記資材帳』(天平19年成立)によれば、
「欽明天皇7年の戊午年」に百済の聖明王によって仏教が伝えられたと記されている。
しかし欽明朝に戊午年は存在しない。
継体崩御の翌年に欽明が即位したとするとちょうど7年目が戊午年に当たる。
真の継体陵と目される今城塚古墳には三種類の石棺が埋葬されていたと推測されている(継体とその皇子の安閑、宣化の石棺か)
今城塚古墳復元石棺 今城塚古墳歴史館にて撮影(撮影可)
辛亥の年は531年ではなく60年前の471年とする説もある。
記紀によれば干支の一回り昔の辛亥の年に20代安康天皇が皇后の連れ子である眉輪王に殺害される事件があり、混乱に乗じた21代雄略天皇が兄八釣白彦皇子や従兄弟市辺押磐皇子を殺して大王位に即いている。
「辛亥の年に日本で天皇及び太子と皇子が同時に亡くなった」という伝聞を『百済本記』の編纂者が誤って531年のことと解釈したのではないかとする説もある。
⑧蘇我氏と継体・安閑・宣化天皇の関係
・勾皇子(安閑天皇)、檜隅高田皇子(宣化天皇)の名の勾(橿原市曲川町)や高田大和高田市が宮の所在地や生母の住地に関係しているとすれば、曽我氏の本拠地(前述の曽我川に沿う橿原市曽我町のことをさしている?)に近い。
勾皇子(安閑天皇)、檜隅高田皇子(宣化天皇)は継体天皇の子であり、継体天皇大和迎え入れに蘇我氏の力が働いていたのではないか。
・蘇我氏は大王高田皇子(宣化天皇)と姻戚関係を結んでいた形跡もある。
古事記には欽明天皇の息子に宗我の倉王の名前がある。母は春日糠子郎女。
同母兄弟は、春日山田郎女、麻呂古王なので、倉王だけが宗賀の倉主というのは不可解。
父親が欽明天皇ではないか、糠子郎女の子ではないと見るのが自然。
日本書紀には倉皇子があり、母親は日影皇女。日影皇女は欽明紀に宣下天皇皇女とあるが、宣下紀には記述がない。
倉皇子を生んだ日影皇女の母后の姓は宗賀臣ではないか。
・このような経緯を経て蘇我氏は東漢直氏の主要氏族である檜前村主氏の住地に大王高田皇子(宣化天皇)の宮を営ませたのだろう。
・蘇我稲目の政治・・・対新羅関係の悪化に備えて、瀬戸内の要塞と北九州の防備を固めている。
百済に遣わしていた日羅を大伴金村を通じて償還しようとしたのも、現地の情報を得るためだろう。
檜隅廬入宮の警衛も固めた。
警衛は東漢直氏や檜隅村主氏のほか、地方から徴発された。
舎人や名代、子代の称は上番出仕した宮号にちなんでつけられたらしい。
檜前舎人造のもとに檜前舎人や舎人部が指定されたのも、この宮号によるものだろう。
檜前舎人、檜前君を称した人々は、上総国海上部や上毛野佐位郡、檜前舎人部は遠江、武蔵、上総などの国に指定されており、檜隅の名前が広まった。
・大伴氏の勢力が弱まり、蘇我馬子と、物部守屋が権力を握り、対立する。
物部氏が龍田道を抑えていたのに対し、曽我氏は竹内峠、穴虫峠の確保を急いだ。
(抑えるとは具体的にどういうことなのかな?)
蘇我氏は二上山東山麓の葛城当麻氏を配下にして、大阪路の通行権をおさえ、朝鮮渡来の人々を積極的に迎え入れた。
・坂上氏系図には忌寸の姓をもつ東漢氏を構成した多くの氏族がいる。大阪道から渡来した者だろう。
都賀使主(=東漢直掬(やまとのあやのあたい つか)を祖とし、高松塚の所在地の字名・平田氏も登場する。
⑨今木の双墓はどこにある?
平安時代の興福寺今木御庄から逆推して、三条里地区(檜前・呉原条理、高市郡西城条里、曾我川をこえた国見山塊東部の条里)と葛上郡南郷(御所市南部)まで含んで今木郡と称された時期があったのではないかと指摘されている。(秋山論文)
今木の双墓の所在地から考えても支持したい。檜前直と称する一族が葛上郡にいたことも傍証になる。
国見山塊西の葛上郡南郷(今の御所市南部)も今木郡だった可能性があり、蘇我蝦夷・入鹿の墓とされる水泥古墳は御所市にあるので、これが今木の双墓の可能性がある、ということだろう。
今木の双墓とは、蘇我蝦夷、入鹿が生前に作らせた二人の墓である。
1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと言われていた。
門脇氏がおっしゃる「今木の双墓」とは御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳を指すものと思われる。
しかし水泥古墳・水泥塚穴古墳について、ウィキペディアはつぎのように記している。
近年では蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。
蝦夷・入鹿の死よりも20年早いというのはどのようにして判断されたのだろう。
これについては調べたりないせいかわからなかった。
形状 方墳
規模 東西72m(北辺)・80m超(南辺)南北約70m
小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。
段ノ塚古墳は上八角下方墳であり、八角墳は天皇陵に多い形であるため、舒明天皇(天智・天武天皇父)陵である可能性は高いと思う。
小山田古墳は八角墳ではなく、方墳であるが、天皇陵として最初の八角墳が段ノ塚古墳であるならば、小山田古墳は舒明天皇の初葬地の滑谷岡である可能性はある。
↓こちらの記事に現地説明会のようすなど詳しく説明されていた。
見つかった土器や瓦片から、橿考研は築造時期を640年ごろと推定。石舞台古墳石室(全長約19メートル)を上回る全長30メートルクラスの大石室がつくられていた可能性もある。
日本書紀によると、舒明天皇は641年に崩御。翌年、飛鳥の「滑谷岡」に埋葬され、崩御から2年後に現在の押坂陵(おしさかのみささぎ)(段ノ塚古墳、奈良県桜井市)に改葬された。菅谷文則・橿考研所長は「今回の調査で、築造年代や墳丘規模など『舒明天皇の初葬墓』説を補強する新たな材料がたくさん出てきた。舒明天皇の初葬墓であるという考えはゆるぎないものになったと思う」としている。
今尾文昭・元橿考研調査課長も「周辺では西側の谷を埋めて高い盛り土をするなどすごい造成工事をして築造している。大王家(天皇家)の力をみせようと、飛鳥の目立つ場所に造った大古墳だ」とみる。
一方、猪熊兼勝・京都橘大名誉教授は濠(ほり)の遺構が見つかった平成27年には「被葬者の第1候補は舒明天皇」としていたが、「蝦夷の大陵の可能性の方が大きい」と見解を変更。今回、蘇我氏ゆかりの豊浦(とゆら)寺(明日香村)出土の瓦と同タイプの瓦が見つかったことなどを理由にあげた。「石室は全長30メートルぐらいの規模だろう」と推理する。
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長は「7世紀の中ごろに飛鳥のど真ん中に墓をつくることができるのは蘇我氏の族長以外に考えられず、被葬者は蝦夷とみるのが常識的な理解」とし、「舒明天皇の初葬墓は、埋葬翌年に改葬している。あんな立派なものを造ってすぐに改葬したと考えるのは無理がある」と語る。
一貫して「蝦夷の大陵」説を唱える泉森皎・元橿考研副所長は「日本書紀が『大陵』と伝えるにふさわしい大きさだ。当時使われていた高麗尺(こまじゃく)で考えると、一辺は約200尺。ピラミッドのような段築(だんちく)構造の方墳だったと思う」としている。
小山田古墳の被葬者が誰なのか、ということは高松塚古墳の被葬者について考える上で重要である。
小山田古墳の被葬者が蘇我蝦夷であるとすれば、近くにある方墳・菖蒲池古墳は、今木の双墓(蘇我蝦夷の大陵と、蘇我入鹿の小陵)のうちの小陵、蘇我入鹿の墓の可能性が高くなる。
そして菖蒲池古墳は、聖なるライン(天智陵ー平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵ーキトラ古墳とほぼ一直線に南北につながるライン)上にあるからだ。
つまり、秋山論文が指摘する「葛上郡南郷(御所市南部)まで含んで今木郡と称された時期があった」がまちがいであっても、檜前・呉原条理、高市郡西城条里、曾我川をこえた国見山塊東部の条里が今木郡であった可能性は高く、
その檜前の地にある小山田古墳は蘇我蝦夷、聖なるライン上にある菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓であるかもしれない、ということである。
⓾東漢直氏
・東漢直氏と高市県主との関係
古くから高市県主の名がみえ、壬申の乱でも高市郡司として高木県主・許梅(こめ)の名がみえる。
高木県主が祀っていた高市社は高市御県座事代主社(橿原市雲梯町)
地域的には高市県主と東漢直氏(や檜前氏〉との競合関係はみられない。
むしろ、東西にひろがっていた今木郡のうち、曾我川東岸のヒノクマも含めた地をのちに高市郡の南部に加え,西岸は葛城上郡に加えて行政区としたのだろう。
檜前の人々は今木郡の人々と結合が強かっただろう。
檜前は今来ではないという事だろうか?
しかし「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)とあり、
『和名類聚抄』(931年 - 938年ごろ、源順が編纂した辞書)には高市郡の郷として、巨勢・波多・遊部・檜前(比乃久末)・久米・雲梯・賀美とあると言う事なので、檜前は今木郡にあったのではないかと思われる。
・今来郡に分住した渡来人諸集団が6世紀末ごろ、東(倭)漢氏年て総称的氏族を称し、直の姓を与えられたのだろう。
そして東漢直氏は蘇我氏を支える最大の力になった。
・東漢直氏の力を用いて、蘇我馬子は物部守屋を倒す。
蘇我馬子が物部守屋を滅ぼした587年の丁未の乱において、東漢直氏は具体的にどのような活躍をしたのか。
・570年、東漢直糠児は越に渡来した高句麗使を迎えにいっている。
・572年ごろ、東漢坂上直子麻呂、高句麗使の接待を行う。
・592年東漢駒(姓は直)が馬子に命じられて崇峻天皇を殺害し、馬子の娘・河上娘(崇峻天皇の嬪)を奪らの妻として馬子に殺害されている。
・高松塚のある平田に人々が定着したのは6世紀末から7世紀初ではないか。
612年に渡来した百済人・味摩之(みまし)より呉の伎楽舞を学んだ二人の弟子のうちひとりは新漢斉文といい、彼が
辟田首(さきたのおびと)らの先祖とされている。辟田は平田、枚田とも書かれた。
・蘇我馬子は檜前坂合陵の上に砂礫をしき、氏ごとに柱を競立させたが、東漢坂上直氏が特に大きな柱をたてた。
・中尾山古墳、高松塚、文武陵、墓山古墳(吉備姫王墓のことか?)は何故檜前の地にあるのか。
⑪檜前はいかにして国家権力の統治を受ける地となったか。
・蘇我蝦夷、入鹿のころより東漢氏は分裂状態になったと思われる。
厩戸皇子の舎人・調子麻呂は山背大兄が蘇我入鹿に責められて一族もろとも自殺するまで上宮王家に従った。
蘇我本宗毛滅亡の時、高向氏の国押は蘇我討滅派。
東漢氏の諸反族も蘇我本宗家滅亡に際して四散した。
檜前氏のその後の動きはしばらく正史にみえない。
東漢坂上氏の系譜には、檜前忌寸はみえない。
平田氏は兄腹の山本直に、呉原氏は中腹の代2子志多直に、川原氏は同弟三子の阿良直に結ぶ系譜となっている。
壬申の乱では、坂上直熊毛は近江朝側だったが、一族は大海人皇子側につく。
ところが大海人皇子=天武天皇は他氏の関与を拝して王権を拡大させた。
・677年、東漢直氏は叱責される。
「汝等が党族、本より七つの不可を犯せり。是を以て、小墾田御世より近江朝に至るまで、常に汝等に謀るを以て事とせしも、今朕が世に当たりては、将に汝等の不しき状を責め、犯の随に罪すべし。然れども頓に漢直の氏を絶さまく欲せず。故、大恩を降して原したまふ」
このときより後、東漢氏は宮廷への出仕から排除され、檜隈氏に代わって東漢氏の中心にたった坂上氏たちさえ、平安時代初めまで「下人の卑姓」者の扱いを受けることになった。
・東漢直氏が犯した「7つの不可」を明確に示す史料はない。
この檜前の地は国家権力の直接的統制を受ける地となり、住民は下人とされた。
⑫檜前の人々は墳墓造営の地と仕事を提供した?
・中尾山古墳、高松塚は厳密には「聖なるライン」に乗らない。
檜前・呉原の中にはいる。
「檜前・呉原」の中にはいるという表現はわかりにくいが、「聖なるライン」は存在しないという意味かもしれない。
私も何度も飛鳥の地図を眺めるうちに、聖なるラインは存在しないのではないかと思うことがあった。
しかし全く関係がないというわけではなく、ライン上の古墳がのっているというよりは、飛鳥地域の古墳群が一塊になる形で、天智天皇陵ー平城京ー藤原京に繋がっているのではないかという思いが頭をよぎった。
・檜前の人々は地位挽回のため、進んで墳墓造営の地と仕事を提供した可能性もある。
・東漢坂上直氏は叱責を受けるどころか、坂上姓をえて坂上大忌寸として栄進している。(坂上直熊毛、国麻呂ら)
彼らは同族諸氏族の勢力挽回にもつとめた。
・枚田忌寸安麻呂は740年、外従五位下にのぼった。
・729年、民忌寸 志比ら、先祖・阿智使主の応神朝に聞かせるを上申。(?意味がわからず)
731年、蔵垣忌寸家麻呂、高市郡少領に任ぜられる。
739年、蔵垣忌寸家麻呂、高市郡大領に転じ、蚊屋忌寸子虫が同少領。
765年、文山口忌寸公麻呂、高市郡大領に任ぜられる。
772年、檜前忌寸を高市郡司に任ずべきことを上申。檜前氏、下人から宿祢に。
・橿原考古学研究所の中間報告では高松塚造営は7世紀末~8世紀初に絞られている。677年(東漢直氏が叱責された年)以降と言ってもいいのではないか。
・宮門警備の下人の住地に貴人の墓地が作られた。
・平田氏は東漢氏の中でも坂上氏と結んでいった。坂上氏は壬申の乱の功臣として地位を保持。配下の平田忌寸氏とともに王族の陵墓造営の地を提供したのかも。
・下人の地位におとされたが、新しい葬礼を創出しようとしたのかもしれない。この場合、高松塚は王族に限らない。
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