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シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉔ 日本には墓碑の習慣があったかも?

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。

「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものなので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
本を読みながら、研究の進歩は著しく、すばらしいものだと思ったが、それも先人の研究あってこそなのだと実感した。

基本的には執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。


1⃣秋山日出雄氏の説
②飛鳥の古墳

・喪葬令 皇陵の兆域内には葬埋、耕牧を禁止。

・石舞台古墳 昭和8年、末永氏によって調査が行われ、濠をめぐらせた一辺50mの方形古墳。

石舞台古墳

・高松塚古墳は石舞台古墳と対照的。

高松塚古墳

高松塚古墳

・石舞台・・・底石はない。玄室奥の側石が建てられてから両側石がたてられ、天井石は奥のほうにおく。
・高松塚・・・底石がある。底石を敷き、両側、奥が組まれ、天井石で覆い、棺を入れたのち、手前の側石で封鎖する。
(最後に閉鎖することを考慮して石が組まれる。)石を矩形に伐る。

高松塚 解体実験用石室

高松塚古墳石室 展開模式図(飛鳥資料館にて撮影)

・鬼の厠、牽牛子塚古墳は、三方の側石と天上石を一石で切り出している。

鬼の厠

鬼の厠

牽牛子塚古墳 図

牽牛子塚古墳 埋葬施設(牽牛子塚古墳 説明版より)

図をみると牽牛子塚古墳石槨を囲うのは切石だが、石槨は一枚岩で作られているようである。
「横口式石槨は、約80トンの重量をもつ1個の巨大な凝灰角礫岩をくりぬいて、約70トンの埋葬施設をつくったもの」
とウィキペディアは説明している。

・岩屋山古墳は石の表面は平滑になってきているが、稜角が直角になっていない。

岩屋山古墳

岩屋山古墳

岩屋山古墳 石室内部

岩屋山古墳 石室内部

③高松塚は薄葬令や浄御原令以降に作られた?

・持統5年以降、日本書記に賻物(ふもち/ふもつ 死者に贈る品物)の記事がある。
賻物の初見が持統5年以降。直前の持統3年に浄御原令が出されている。
浄御原令に喪葬令賻物条があり、それに従って葬送を実施していたのだろう。
古代葬制史上、浄御原令(689年)の影響は大きい。

・大化の薄葬令(646年)には王以上には轜車(きぐるま/棺を運ぶ車)を用いると規定されている。
養老喪葬令葬具条には、親王・一品・太政大臣には轜車を用いると規定されている。
木棺(たぶん石棺では車で運べないということだと思う)実例から考えると漆棺を運んだのだろう。

・高松塚の古墳の規模は大化薄葬令にあっているし、出土した棺は漆棺であるので、薄送令(薄葬令の誤りと思われる)や浄御原令以降に作られたものだろう。

以前の記事でも書いたが、高松塚の古墳の大きさは薄葬令にはあっていない。

下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
薄葬令よりも広さが大きい古墳を赤で示してみよう ※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m                
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m)    
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)

このように薄葬令の基準を上回る古墳のほうが断然多いが、高さは薄葬令の5尋を上回るものはない。
力学的に広さ9尋に対して、高さ5尋はムリということなのではないかと思うのだが、どうだろう?

仁徳天皇陵古墳の陪塚に源右衛門山古墳がある。
仁徳天皇陵がつくられたのは5世紀前期から中期とされているので、その陪塚とされる源右衛門山古墳も同時期のものだと考えられるが、その大きさは直径34m、高さ5.4mである。
これは上にあげた終末期古墳のサイズと同程度であり、古墳のサイズだけで時代を出すことは難しそうだ。
高松塚の場合は、石室のつくりや、壁画に描かれたファッションなどが築造時期特定の参考になると思う。
副葬品の海獣葡萄鏡なども年代特定の参考になるが、鏡の製作年代と、それを副葬品として納めた年代が同じとは限らないので、決定打にはなりにくいと思う。

④日本に墓誌の習慣はあったのかも?

・薄葬令では大仁以下は封土の築造が禁止されているが、封土のない古墳の被葬者は墓誌名から大仁以下であることがわかる。考古学的調査と令の制度が一致している。

「ウィキペディア金石文 墓誌・墓碑・墓誌銘」の頁に、日本で発見された墓誌は18例あると説明がある。

〇船王後 (?ー642年)大仁 /大阪府柏原市 出土地は不明。
〇小野毛人 (?ー677年)大錦上(たいきんじょう 26階中7位)/https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=675
〇文禰麻呂(?ー707年) 従四位下 /奈良県宇陀市文祢麻呂墓(奈良県宇陀市)

文祢麻呂墓(奈良県宇陀市)

〇威奈大村(707年) 正五位下 / 奈良県香芝市 江戸時代、二上山麓・葛下郡馬場村の西にあった「穴虫山」より出土
〇下道国勝・国依の母 (?ー708年)  岡山県小田郡矢掛町/下道国勝は吉備真備の父。http://geo.d51498.com/qbpbd900/simotumiti.html
伊福吉部徳足比売 (?ー708年)従七位下 / 鳥取県鳥取市文武天皇の采女https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1096974936984/index.html
〇太安麻呂 (?ー723年) 従四位下/奈良県奈良市 https://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_kiki/k05/
〇山代真作 (?ー728年)従六位上/ 奈良県五條市  大阿太小学校付近とされるも不明
〇小治田安万侶 (?年ー729年)従四位下 蘇我稲目の後裔/  奈良県奈良市 

小治田安萬侶墓

小治田安萬侶墓

〇美努岡万(661年ー730年) 奈良県生駒市 /https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0789.html
〇楊貴氏 (墓碑製作739年) 奈良県五條市 (非現存)吉備真備の母/五條西中学校の敷地に墓碑がたてられているが、大正時代にたてられたもの。所在地不明。記録から墳丘や盛土による古墓ではなかったと考えられる。
〇行基 ((668年ー749年)  奈良県生駒市

行基墓

行基墓 竹林寺

〇石川年足 (688年ー762年)正三位/  大阪府高槻市  https://blog.goo.ne.jp/tottuan310920/e/0a65371d291a73544f11f9ef4d12b211
〇宇治宿禰 (墓誌製作年768年?)/  京都府京都市 
〇高屋枚人 (墓誌製作年776年)/ 大阪府南河内郡太子町 高屋連枚人墓誌  叡福寺
〇紀吉継 (?ー784年/ 大阪府南河内郡太子町)紀広純の娘/二上山麓
〇日置(郡)公(?)/  熊本県玉名郡和水町 (非現存) 

画像がみつからないものも多いが、画像がみつかったもののみでは、封土はないか、あっても大変小さいもののように見える。

それはともかく、私は今まで、日本には墓碑を残す習慣がないと思っていたのだが、確認されているだけで18例あるということは、「日本には墓碑を残す習慣がない」という認識は変える必要があるのではないかと思った。

船王後の墓誌の様に銅などの金属で作られた墓碑は錆びて朽ちてしまったり、文字の判別が不可能な状態になってしまったのかもしれない。
あるいは盗掘されてしまった可能性もある。

また威奈大村のように、骨蔵器に墓碑が刻まれたものもある。
そこで思い出すのが、持統天皇の骨を入れた銀の骨壺である。
この骨壺は盗掘されてしまって現存しないのだが、もしかしたら、墓碑のようなものが記されていたのではないか、と思ったりする。

また、シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。 ㉒様々な終末期古墳 において
奈良豆比古神社に元明天皇の墓誌の拓本が保存されていること、群馬の山ノ上の采女氏塋域碑(うねめしえいいきひ)について記したが、これについては、ウィキペディアの18例には含まれていない。

天皇陵はほとんど発掘調査が行われていないが、調査すると墓碑がでてくる可能性があるのではないか、と思った。

そしてやはり気になるのは「高松塚から石(墓碑)を運び出したという土地の伝えがある。」という岸俊男氏の発言である。




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