よりつづきます~
※「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」というタイトルを「シロウトが高松塚古墳・キトラ古墳を考えてみた。」に変更しました。
「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えてみる。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものであるので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。
なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。
執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。
1⃣義江彰夫氏の説
①高松塚男子群像は褶を着用していない。
・高松塚の服装と持物は朝鮮・中国の風俗ではなく、日本の風俗、大宝令で定めらっれた重要祭祀用式服「礼服」と「持物」である。
・大宝令(701)の注釈書「古記」
男子・・・「褶(ヒラミまたはヒラオビ)は袴の上に顕出して着用する」
女子・・・「裳の一首で上衣の下に着用する」
義江氏は「すべての人が男も女も、上衣と袴(女は裳)の間に、厚めの襞(図1)がついた独立した衣服を着用していることがわかる。ところが『大宝令』によれば、この独特な衣服に当たると思われるものが、「褶(ヒラミまたはヒラオビ)という名で令服の一部として記されているのである。(p77より引用)」と書いておられる。
褶を説明したものが、高松塚壁画館に展示されていた。
上衣のすそからちらっとみえているものが褶のようである。
本p78の図1をみると、女子像でこの褶の部分はトリミングされて写っていなかった。
そして男子像には褶は描かれていないと思う。
また、次の様に記した記事がある。
男子群像 漆紗冠の着用 天武11(682)年6月6日 ~ 持統元(687)年
白袴の着用 天武11(682)年6月6日 ~ 朱鳥元(686)年7月
持統4(690)年4月 ~ 大宝元(701)年3月
慶雲3(706)年12月 ~
褶の未使用 天武11(682)年6月6日 ~ 大宝2(702)年1月
女子群像 結髪の実施 天武11(682)年4月23日 ~ 朱鳥元(686)年7月2日
慶雲2(705)年12月19日 ~
襟の左前 ~ 養老3(719)年2月3日
上の記事があげる項目のうち、漆紗冠・白袴・結髪・左前は、高松塚壁画の人物像に描かれているので、
「褶の未使用 」という項目があるのは、高松塚男子像が褶を着用していないということだと思う。
上のイラストに「袍のすそつき(漢字に変換できなかった。すいません。)」とあるが、義江氏が見られた絵が不鮮明で、これを褶だと見間違えたのではないだろうか。
上3枚 全て高松塚壁画館で撮影
褶をどのように着用するかは、こちら ↓ の記事に説明がある。
・大宝令の礼服
男子・・・冠、上衣、條帯(くみのおび)・褶(ひらみ)・襪(しとうず)・鳥河舃(とりかわのくつ)
笏はもたない。
・大宝令の礼服
女子・・・宝髻(ほうけい)・上衣・帯・褶(ひらみ)・裙(も)・〇・緑〇(〇は読めず。すいません)
宝髻を調べると、いろいろな意味があるようだが、その中に
① 仏語。仏菩薩や天部の仏像が頭上に結んでいるもとどり。
とでてくる。高松塚女子像は後ろで髪を束ねているように見える。
これが宝髻ということか。
・高松塚壁画人物は大宝令規定の礼服を描いている。
このように義江氏は結論づけているが、高松塚壁画男子は褶(ひらみ)をつけていないので、義江氏の結論の正しさについては疑問が生じる。
⓶高松塚人物像のファッションは、682年~686年頃のもの?
さきほどもご紹介した記事↓ についての検証は大変すぎてやっていないが(汗)こちらの記事の表の方が正しいのかもしれない。
男子群像 漆紗冠の着用 天武11(682)年6月6日 ~ 持統元(687)年
白袴の着用 天武11(682)年6月6日 ~ 朱鳥元(686)年7月
持統4(690)年4月 ~ 大宝元(701)年3月
慶雲3(706)年12月 ~
褶の未使用 天武11(682)年6月6日 ~ 大宝2(702)年1月
女子群像 結髪の実施 天武11(682)年4月23日 ~ 朱鳥元(686)年7月2日
慶雲2(705)年12月19日 ~
襟の左前 ~ 養老3(719)年2月3日
この絵はいつの時代を描いたものだろうか。
私は算数が苦手で頭の回転が鈍いので(汗)、項目をふたつづつ突き合わせて,重なる時期をだしてみることにする。
漆紗冠の着用 682年6月6日 ~687年 ❶
白袴の着用 682年6月6日 ~686年7月
690年4月 ~701年3月
706年12月 ~ ❷
❶と❷が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❸
褶の未使用 682年6月6日~702年1月❹
❸と❹が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❺
結髪の実施 682年4月23日 ~ 686年7月2日
705年12月19日 ~ ❻
❺と❻が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❼
襟の左前 ~ 養老3(719)年2月3日❽
❼と❽が重なる時期は、682年6月6日 ~686年7月❾
❾の682年6月6日 ~686年7月の時期は、男子「漆紗冠の着用」「白袴の着用 」「褶の未使用」 女子「結髪の実施」男女とも「襟の左前」が行われていたということになる。
この表が正しいとすると、高松塚人物像のファッションは、682年~686年頃のものだということになりそうだが、
記事は
高松塚古墳では副葬品として海獣葡萄鏡(両槻会第3回定例会レポート参照)が発見されており、同型鏡が中国の7世紀末の古墳(独弧思貞(どっこしてい)墓(689年)・十里鋪337号)から出土しているので、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものではないかと推測されています。
この推測が正しいとすると、築造されたのは704年以降となり、中に描かれている人物像が、左襟となっていることから719年(養老3年)までの間に作られたものと考えられます。(続日本紀 養老3年2月「初めて天下の百姓をして襟を右にせしむ」)
そうすると被葬者はその間に亡くなった人かと限定されてしまいそうですが、「遣唐使が持ち帰ったかも」なので、断定は出来ません。朝鮮半島の人々が献上物として、日本にもたらせた可能性もあります。
と記している。
海獣葡萄鏡と左襟だけに注目して、わざわざ記した漆紗冠、褶の未使用は無視してしまった??
あるいは、壁画の人物のファッションは682年6月6日 ~686年7月のものだが、古墳が作られたのは704年~719年という意味なのか、とも思ったが、
高松塚築造時期を704年~719年とはじきだした理由のひとつに「襟の左前」があり、これは壁画に記された人物のファッションなので、やはり「漆紗冠の着用」「白袴の着用 」「褶の未使用」は無視しているように思える。
私が何か勘違いしているだろうか?
2⃣能田忠亮氏の説
①二十八宿図に北斗七星を描かないことは普通にある❔
・中国、周初のころ、太陽暦の季節を定める方法として二十八宿が草案された。
・三日月が西の空に見え始めてから数日間、月の恒星間における位置の変化を観測し、その二日行程だけを、三日月の位置から逆に遡ると、日月合朔の時における月の位置=太陽の位置を示す。
恒星間における太陽の位置は、太陽暦の季節を示す。
月が恒星に対して黄道を一周するのは、二十七日余りなので、月の恒星間における位置の変化を知りやすくするために、いちじるしい星象を目標として黄道方面の一周天を二十八の不等な部分にわけて、これを二十八の月の宿と称えた。
うーん、意味がわからない。(汗)
ウィキペディアは簡単に次の様に記しているだけである。
皇帝二十八宿(にじゅうはっしゅく[注 1])とは、天球を28のエリア(星宿)に不均等分割したものであり、
高松塚古墳 星宿図 (高松塚 壁画館にて撮影。撮影可)
高松塚の星宿図には北斗七星が描かれていないと梅原猛氏はおっしゃっていた。
しかし、今画像検索してみると、北斗七星の描かれていない星宿図は他にもみつかる。
図7 二十八宿の天上表現(HP4)は高松塚と同じように、中央部は四輔と北極になっている。

高松塚 星宿図(キトラ古墳 四神の館にて撮影 撮影可)
記事には「よく古墳の天井に描かれているものである。」とあるので、高松塚の星宿図を参考にして描いた星宿図かもしれない。
自動翻訳して読むと、二十八宿の説明のようで、高松塚という名前はでてこない。
トルファン・アスターナ古墳で発見された星宿図には、四輔と北極も描かれていない。
これをどう考えるべきだろうか。
・高松塚星宿図は朝鮮を経て日本に渡来したもの。
・553年6月、内臣を朝鮮につかわし、医・易・暦の博士をかわるがわる来朝させるよう詔されたので、その翌年に易博士王道良、欲々年には暦博士王保存などが来朝した。
・602年、百済僧観勒が来朝し、暦本、天文、地理書、遁甲方術書を貢した。
書生、3~4人に命じて観勒にまなばせた。
陽胡史の祖・玉陳が暦法を習得、大友村主高惚が天文遁甲を学び、山背臣日立が方術を学んだ。
・604年甲子の年の正月朔から初めて暦日を用いた。
・日本で歴法施行が決定したことが国史に登場するのは、690年。
・被葬者は推古天皇~持統天皇代にかけての天文博士、暦博士、易博士のいずれか、またこれらの博士たちを支配した地位の高い人。
・北極五星は太子・帝・諸子・妃宮・紐星
このうちの帝星(子熊坐β星)が天の北極に最も近かったのは周初のころ。(紀元前1100年ごろ)
・觜宿 参宿 の位置が正しいのであれば明代で、未来を予想したことになる。
・紐星付近が北極とみられ、高松塚の二十八宿図は漢代以降のものだろう。
北極五星が太子・帝・諸子・妃宮・紐星の順なのはわかったが、どちらから数えるのかがわからなかった。
下の図はもしかしたらまちがっているかも。
高松塚 星宿図「(キトラ古墳 四神の館似て撮影。撮影可。)赤文字は筆者が書きいれた。
3⃣伊達宗康氏の説
①漆塗の棺について
・脱乾漆の手法を用いたもの・・・夾紵棺(きょうちょかん)
木心乾漆・・・乾漆木棺
木棺に漆だけを塗る・・・漆木棺
石棺に漆を塗ったもの
1.石棺に漆が塗られているもの・・・菖蒲池古墳
2.陶棺に漆が塗られているもの・・・恩坊山三号墳
3木棺に漆が直接塗られているもの・・・御嶺山古墳
4.木棺に布を張り漆塗り・・・・・・・・高松塚古墳
5.炭化物に布を張り漆塗り/・・・・・・塚穴山古墳
6.布を漆で張り合わす夾紵棺・・・・・牽牛子塚古墳・阿武山古墳・天武陵・聖徳太子陵・安福寺蔵品
菖蒲池古墳
阿武山古墳 夾紵棺 今城塚古墳歴史館にて撮影(撮影可)
4⃣網干善教氏の説
①副葬品について
同様のことは以前にも書いたと思うが、先日高松塚壁画館で写真を撮影してきたので(撮影可)改めて書いておく。
写真があると読んでくださる方にも、わかりや水と思う。
・高松塚古墳出土の刀装金具は正倉院金銀鈿装唐太刀、東大寺大仏殿須弥壇下出土の金平脱珠玉装太刀に似ている。
・冑金と石突がある。山形金物は古墳出土遺物には他にない。
(香取神宮 太刀)
3枚とも高松塚 壁画館で撮影
・盗掘にあっているが、盗掘者は刀身のみ持ち去った。
わざわざ金物をはずして刀身のみ持ち去るなどということがあるだろうか。
もしかすると盗掘に入った際、壊れて金物が外れていたのかもしれない。
しかし、その場合でも美しい細工を施した金物も持ち帰りそうなものだ。
梅原猛氏が指摘されるように、最初からなかったと考えるのが妥当なように思うが、断定はできない。
・石突は正倉院黄金装太刀・横刀、東大寺大仏殿出土の金鈿装太刀、助戸新山国府出土の方頭太刀の外装具鞘尾金物などに似ている。
網干氏は本の中で「高松塚出土の大刀外装具と共通点がみられる」として、聖徳太子像と王子像のこの写真を掲載しておられた。
ウィキペディアから画像をお借りして、本と同じようにトリミングし、文字をいれた。
興福寺 阿修羅像 服飾の模様
・109pには新羅臨海殿出土の塼(立方体あるいは直方体の煉瓦)の写真を、高松塚出土金銅装透金具の写真と並べておられる。
・金銅製花文座金具の類例は、牽牛子塚古墳出土のもの、御嶺山古墳出土のものがある。
高松塚古墳出土 座金具(高松塚 壁画館にて撮影)
牽牛子束古墳出土 金銅製八花形飾金具
・座金具は半島から日本に及ぶが、いずれも夾紵棺(きょうちょかん)または漆塗り木棺に付着している。
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