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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑳高松塚のある高市郡は今来郡だった!

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑲ 現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのか? 

 よりつづきます~

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


今日から「高松塚古墳と飛鳥/末永雅雄 井上光貞 編 中央公論社」(昭和47年)を参考資料として、考えていきたいと思う。
この本は多くの執筆者によって記されたものをまとめたものであるので、「1⃣〇〇氏の説」の様にタイトルをつけて感想を書いていこうと思う。

なお、出版年が古いので、現在の私たちなら得られる情報が得られていないことは当然あるので、その点は考慮しながら読んでいきたいと思う。

執筆者の意見はピンク色、その他、ネット記事の引用などは青色、私の意見などはグレイで示す。

1⃣直木孝次郎氏の説

①高松塚の場所

・高松塚の西南7~800mのところに大字檜前の集落がある。
古代の檜前はもっと広域で高松塚もその中にあったと考えられる。
・大字檜前の東南7~800mのところにある栗原は、日本書記14年に「呉人を檜隅野に安置し、因りて呉原と名づく」とある呉原の転訛と考えられる。


・北は欽明天皇が檜隅坂合陵に葬られた(日本書記)
欽明天皇陵は明日香村霜平田の梅山古墳に比定されているが、見瀬丸山古墳が有力。
天武・持統天皇陵は檜隅大内陵と呼ばれた。
鎌倉時代、盗難にあった際、内部の様子を記した阿不幾乃山陵記によって、檜隅大内陵であることは確実視されている。



・現欽明陵の梅山古墳は近鉄吉野線沿いに吉備姫王墓の東。濠が確認できる。さらにその東に檜隅大内陵の名前がある。
吉備姫王墓のその南東に飛鳥歴史公園館、高松塚古墳があり、先ほどの栗原は高松塚古墳の南。
・檜前の西には佐田の丘陵地帯があり万葉集に名前がみえるが檜前という地名がついているものはないので、佐田は檜前ではないだろう。
・檜前は明日香村大字栗原・檜前・御園・上平田・中平田・霜平田・立部・野口、橿原市の五条野、見瀬あたり。(直木孝次郎氏)

⓶高松塚のある高市郡は今来郡だった!

・坂上忌寸や檜前忌寸の祖・阿知使主は、応神朝に十七県の人夫を率いて帰化し、高市郡檜前村に住んだ。
高市郡はその子孫と十七県の人夫で満ちて、他制のものは一割~二割程度。(続日本記)
・「倭漢直の祖・阿知使主、その子都加使主、己が党類十七県を率いて来帰す」(応神20年紀)
坂上氏や檜前氏が倭漢氏に属することがわかる。
・「阿智王が応神朝に七姓の漢人を率いて渡来し檜前郡郷にすんだ。」(姓氏録逸文)
・「仁徳朝に今来郡をたて、これがのち高市郡と称された。」(姓氏録逸文)
仁徳朝に郡を建てたことは信じられないが、今来郡の名は「欽明7年紀にも見える)
後に渡来した新漢(いまきのあや)人などの中には今来に住む者も多かったのではないか。
・朝鮮系渡来氏族、倭漢氏の本拠地が檜前。(直木孝次郎氏)

蘇我蝦夷、入鹿は「今来(いまき)の双(ならびの)墓」を建てたそうだが、その今来とは高市郡のことではないだろうか。
高市郡がかつては今来と呼ばれていたのであれば、檜前村のある飛鳥に今来の双墓は存在していたのではないかとも思えてくる。

1734年の大和志には「葛上郡今木双墓在古瀬水泥邑、与吉野郡今木隣」と記されており、御所市大字古瀬小字ウエ山の水泥古墳と、隣接する円墳水泥塚穴古墳が今木の双墓ではないかと言われている。
しかし御所は飛鳥からは遠く、時代も逢わないという記事をよんだことがある。

ウィキペディアには次のように記されている。

蘇我蝦夷・入鹿の死去に20年先行することが判明しているため否定的である[2]。

蝦夷・入鹿の死よりも20年早いというのはどのようにして判断されたのだろう。
これについては調べたりないせいかわからなかった。

それは奈良・明日香に蘇我蝦夷・入鹿の「今来の双墓」が発見されたようだとの知らせである。

642年、皇極天皇の時代に蘇我蝦夷は、何か期するところでもあるかのように、葛城の高宮に先祖の廟を新設し、中国の王家の舞である八併舞(やつらのまい)を奉納する。

さらに引き続き、全国から大勢の人夫を徴発、今来の地に自分と息子(蘇我入鹿)のために双墓を造営し、蝦夷の墓を大陵と呼び、入鹿の墓を小陵と呼んだ。

蘇我蝦夷は、墓の建設は自分の死後人に苦労を掛けないためだと言ったが、

上宮王家(聖徳太子一族)の春米女王は「蘇我臣は国政を我がものとし、非道な行いが目に余る。天に二日なく、国に二王なしと言うのに、なぜ全国の民を勝手に使役するのだ」と非難したと伝えられる。

来年早々には報道されるようである。

場所が奈良県立明日香養護学校の敷地内のようであるため、慎重な扱いが必要である。


個人ブログだが、気になる記事である。

実は私は先日、明日香養護学校を訪れたばかりだった。
菖蒲池古墳を訪れ、そこにあった説明版の「菖蒲池古墳と主な古墳等の位置図」をみると小山田古墳というのがあり、どうも飛鳥養護学校の敷地内にあるようだった。
校門の前でインターホンを鳴らしたが、日曜日だったためか、どなたも出られず、見学はかなわなかった。

形状 方墳
規模 東西72m(北辺)・80m超(南辺)南北約70m

小山田古墳の実際の被葬者は明らかでないが、一説には第34代舒明天皇(息長足日広額天皇)の初葬地の「滑谷岡(なめはざまのおか[7]/なめだにのおか[8])」に比定される。『日本書紀』によれば、同天皇は舒明天皇13年(641年)[原 1]に百済宮で崩御したのち、皇極天皇元年(642年)[原 2]に「滑谷岡」に葬られ、皇極天皇2年(643年)[原 3]に「押坂陵」に改葬された(現陵は桜井市忍坂の段ノ塚古墳)[4]。この舒明天皇の初葬地に比定する説では、本古墳が当時の最高権力者の墓と見られる点、墳丘斜面の階段状石積が段ノ塚古墳と類似する点が指摘される[4]。

一方、本古墳を蘇我蝦夷が生前に築いた「大陵(おおみささぎ)」に比定する説もある[5]。『日本書紀』によれば、蘇我蝦夷は皇極天皇元年(642年)[原 4]に「双墓」を今来に造り、蝦夷の墓を「大陵」、子の入鹿の墓を「小陵」と称したほか、皇極天皇3年(644年)[原 5]に「甘檮岡(甘樫丘)」に邸を建て、皇極天皇4年(645年)[原 6]に滅ぼされて屍は墓に葬られた(乙巳の変)[4]。この蘇我蝦夷の墓に比定する説では、蘇我蝦夷が当時に天皇と並ぶ権勢を誇った大豪族である点、当地が甘樫丘に近い場所である点、西隣の菖蒲池古墳が入鹿の「小陵」と見なせる点が指摘される[5][4]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%8F%A4%E5%A2%B3 より引用

菖蒲池古墳

入鹿の「小陵」ではないかとの説があがある菖蒲池古墳。
ほとんど参拝する人もないらしく、道はあったのかもしれないが、雑草が生い茂ってどこを歩いていいのかわからない。
生い茂る雑草をかきわけて進んでいく。
右手の小屋の下に菖蒲池古墳はあった。小屋の手前には黒い遮光シートがかけられている。
遮光シートをめくると、小屋の扉を開くことができるようになっていた。

菖蒲池古墳2

扉を開けると柵になっている。その柵の隙間から家形石棺が見えた。

菖蒲池古墳 周辺図

菖蒲池古墳 説明版より

小山田古墳 羨道跡

小山田古墳 羨道跡 これはウィキペディアからお借りしたもの。

滑谷岡の伝承地は明日香村冬野字天野の出鼻の岡だという。

③檜前は倭漢氏だけが住んでいた土地ではない。

・檜前は倭漢氏など朝鮮系渡来者の勢力が強い土地だったと考えられるが、「他姓のものは10に1、2」は「倭漢氏の一族を高市郡司に任用されることを願う文中にあり、誇張があるだろう。

・天皇家の勢力は檜前に及んでいた。
6世紀中の宣化檜隅高田皇子という名前で、檜隅蘆入野に都した。
欽明天皇は檜隅坂合陵に葬られた。
皇極・孝徳両天皇の母の吉備姫王の墓は、檜隅陵の域内にあった。檜隅陵は欽明陵だろう。

・檜前の歴史的環境からすれば高松塚の被葬者は倭漢氏などの渡来者である可能性もあるが、他の氏族、天皇家の可能性もある。

高松塚古墳の被葬者は天武、持統、文武の近親者の可能性が高い?

・聖なるライン上にある菖蒲池・天武持統陵・中尾山・高松塚・文武陵は石室の形式に差があり、築造年代に若干の差があるが、いずれも終末期古墳。
文武天皇陵は内部の状態がわからないが、他の4つの同時期の古墳がほぼ一直線に並んでいるのは偶然ではない。

・被葬者は藤原京時代に死去した人である可能性が高い。
但し、藤原遷都の持統8年以降と見るのではなく、藤原京都市計画が出来た時期以降と考えるべき。
聖なるライン上に天武陵があることから考えると、686年崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていたと思われる。
藤原京時代の下限は平城京遷都の行われた710年。
天武、持統、文武の近親者の可能性が高い。

・壁画中の人物が着用している下着は褶(ひらみ)だろう。
褶は682年に着用が禁止され、702年以降着用復活するので、壁画年代の上限は701年。

ひらみ

高松塚壁画館似て撮影(撮影可)

褶・・・682年~701年まで着用禁止
高松塚の築造年代・・・686年以降。686年に崩御した天武天皇代、すでに藤原京プランはできていた。)
ゆえに、高松塚の築造年代…701年以降
ということだろうか。

しかし、藤原京プランは天武天皇崩御以前に計画していたとも考えられ、すると天武天皇が即位したのは:673年なので
673年から682年の間に高松塚は建造されていたとも考えられるかもしれない。

・襟の打ち合わせは左前。
719年2月に「氏姓を持つものは全て右前にせよ」と令が出された。
つまり、壁画製作年代は701年から719年まで。

・令の制度では蓋から房を垂らすことができるのは、
皇太子・・・四品以上(親王・内親王)一位、二位以下は大納言以上

・被葬者は人骨の鑑定から男性とされているので、女性は省かれる。

・義江氏は被葬者の可能性のある人物として三品・忍壁親王(没年705年)、大納言・紀朝臣麻呂(没年705年)、一品・長親王、一品・穂積親王をあげる。

・海獣葡萄鏡は朝鮮での出土例がほとんどないので、唐から持ち込まれた可能性が高い。

・長・穂積両親王はともに一品、天武の皇子。
長は693年に叙位、穂積は691年にすでに位階を持ち封戸を賜っていて、このときいずれも20歳前後。
708年の死亡時には40歳以上。しかし707年に崩御した文武が火葬なので、彼らも火葬の可能性がある。

・紀朝臣麻呂は705年になくなっているが、天武の近親者とはいいがたい。

・草壁は28歳、大津は24歳で死亡していて年齢があわない。
草壁皇子の墓は高市郡真弓丘とあり、檜前の高松塚にあてはまらない。
大津は二上山に葬られたとあって、やはりあてはまらない。

・弓削皇子は年齢不詳だが、693にはじめて叙位、このとき20歳前後とすれば死亡した699年は26、7歳で年齢があわない。

・高市皇子は43歳で死亡しているが、大和国広瀬郡の三立岡に葬られたとある。

・川島皇子は35歳で亡くなり、越智野(高市郡高取町超智あたりか)に葬るとある。

・文武天皇は火葬なので高松塚被葬者ではない。

・705年に死亡した忍壁皇子。死亡時の年齢は不明だが、672年の壬申の乱のとき、天武に従って東国へ行き、674年に廃止上神宮に使いとなって赴いているので、天武3年には15~6歳にはなっていただろう。死亡時の705年には46、7歳以上で最有力候補。
704年、30年ぶりに派遣された遣唐使が帰国している。海獣葡萄鏡はこの時唐からもたらされたのかも。
しかし断定はできない。長、穂積の可能性もあり、延喜式の記載が誤りであれば高市の可能性もある。(直木孝次郎氏)

梅原猛氏もそうだが、この直木孝次郎氏も、史料に記された墓地の記述を無視していない点が、個人的には好感がもてる。
(梅原氏は被葬者の年代の考証でつまづかれたように思えるが)
墓地の記述がまちがっているはずがない、などというつもりはないし、天皇陵は発掘調査できないので史料が正しく記載されているかどうか確認できないものが多いのだが、
やはり安易に史料の誤りと判断するのは避けるべきだろう。

ただ、聖なるライン、藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統合同陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳のうち、
菖蒲池古墳は蘇我入鹿の墓とする説がある。
もしもその菖蒲池古墳に近い小山田古墳も聖なるライン上にあるとみなせるならば、小山田古墳の被葬者は第34代舒明天皇説、蘇我蝦夷説があって、いずれも天武天皇の皇子ではない。
菖蒲池古墳は他の古墳より規模が大きく、築造時期が他の古墳より古いという可能性もあるが、なぜ菖蒲池古墳が聖なるライン上にあるのかという事も考える必要がありそうだと思う。

そして聖なるラインをさらに北へ延長すると、平城京、京都府山科区の天智天皇陵に達する。
つまり聖なるラインは
天智天皇陵₋平城京ー藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統合同陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳
と続いているのである。
天子南面す、という言葉から考えると最北の天智を最も上位においた配置だとも考えられそうである。
そう考えたとき本当に高松塚・キトラ古墳を天武の関係者に限定してしまっていいのだろうかという疑問が生じる。



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