fc2ブログ
2024 031234567891011121314151617181920212223242526272829302024 05

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑲ 現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのか? 

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①高松塚の星宿図に北斗七星を描いていないのは、被葬者が天皇であることを否定するため?

・民間では北斗七星は生と死を司る神。(窪徳忠氏)
・高松塚に北斗七星が描かれていないのは、被葬者が天皇であることを否定すること。

前回、深緑色の蓋は一位をあらわし、高松塚古墳の被葬者は一位であって、天皇ではない(天皇に位階はないと思う)という説をお話しした。
そうではあるが、北斗七星は天皇の乗り物だと言う話を聞いたこともあり、北斗七星と天皇の関係は強いと思う。
なので、「高松塚に北斗七星が描かれていないのは、被葬者が天皇であることを否定すること。」という小林氏の意見は記憶にとどめておくことにしよう。

⓶天武は青龍?

・風水思想
龍・・・大地の起伏の千形万様をあらわす。
龍脈・・・龍身にしたがって陰陽の生気が感応流行するところ
穴・・・龍脈の中で最も生気が集中するところ
砂・・・穴の周囲の大地の形勢
局・・・穴と砂によって構成される小界。陰宅、陽基いずれの場合も局の善悪によってその穴を占拠する死者・生者の未来永劫に亘る吉凶禍福が決定されると考えられていた。
ひとつの穴の左右前後(東西南北)にある山岡流泉を青龍、白虎、朱鳥、玄武とみなし、中央の穴を守護すると考えられた。
四神砂・・・穴の四方を囲む形勢
玄武と朱鳥はもっとも重要、両者があいまって陰気の中和生気の醇化(手厚く教え導く)を致す。
高松塚古墳は玄武の亀蛇の頭部が削られており、四神の中の最も重要なものが破壊されている。
(牧夫良海氏)

・玄武は北、水徳だが、新羅は秦人の後と称したことがあり、秦が祖としているのは水害を治めた顓頊高陽氏(水徳)
このことから新羅は水徳とする説がある。

水徳というのは、万物は木火土金水の5つからなるとする五行説からくる考え方である。

・「三国志」から「二十八宿の配当では虚宿は日に配され、玄武を神とするが、その虚宿と角宿の光が金庚信に下垂した」のは、新羅と高句麗を暗示している。(鎌田茂雄氏)

・金庾信(きむ ゆしん、595年 - 673年。新羅の将軍)の時代、新羅には玄武水徳意識があったということ。
高松塚の壁画の中で玄武が最も傷つけられているのは、被葬者が親新羅、築造者がアンチ新羅をあらわす。

四神は五行説に基づくものである。上の小林氏の意見は、次のように考えればすんなり理解できると思う。

北・・・水・・・黒・・・玄武・・・・・・・・新羅
東・・・木・・・青・・・青龍
南・・・火・・・赤・・・朱雀
西・・・金・・・白・・・白虎
中央・・土・・・黄・・・黄龍または麒麟

・天智系の残党が報復のため天武系要人の墓を暴いた可能性がある。(牧尾良海)
・一番粗末に描かれている白虎は西方、金を意味するが、再三のべるように天智は金、白、白虎で表現されると思うので被葬者は天智系ではない。築造者は半新羅で天智系とすると、高市以外いない。

「再三述べる」とあるが、どこに「天智は金、白、白虎で表現される」と書かれてあっただろうか。(汗)
ぶっ飛んだ内容に心がくじけて(笑)読み飛ばしてしまった、第一章に書いてあったのかもしれない。

ネットで検索すると、次のような記事があった。

天武と五行思想
天武は本来、木徳
天智は金徳
金徳の次の大友朝は水徳のはず。
そして水徳の次が木徳だから、順番からして天武は木徳のはず。
 壬申の乱の時、近江朝が合言葉を「金」にしているのは、天智が金徳の人だったからだが、もう一つの理由は「金は木に剋(か)つ」という五行思想による。それを予想した天武は金に勝つ火徳の色の赤を旗にしたのである。(小林、同書、p39より抄) 漢朝は火徳だったので高祖(劉邦)は赤旗を用い、高祖に擬する天武も壬申の乱の時、赤旗を用いた。(小林、同書、p48)
※頁数は「白虎と青龍:中大兄と大海人 攻防の世紀(小林惠子) 文藝春秋 1993年」

つまり、壬申の乱(天智天皇の子・大友皇子vs天智天皇の弟・大海人皇子)のとき、近江朝(天智天皇の子、大友皇子側)は合言葉は金であった。その理由を小林氏は次の様に推理しているということだろう。

・天智が金徳の人だったから。
・「金は木に剋(か)つ」という五行思想

陰陽五行説には『相生説』と『相克説』がある。
『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

『相剋説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

そして大友側(近江朝)に対して、「天武側は金に勝つ火徳の色の赤を旗にした。」これは「火剋金」である。

・朱雀が描かれなかったのは、天武の赤帝意識と、天武崩御後、一時期実権を握った大津の朱雀好みへの高市の否定。

赤帝とは古代中国の道教における五方上下の守護を司る七帝、黄帝、白帝、赤帝、黒帝、青帝、天帝、地帝の一人。
黄帝、白帝、赤帝、黒帝、青帝の名前に用いられる色は、五行説からくるものだろう。
大津皇子が朱雀好みというのは、何か理由があるのだろうが、ちょっとわからない。

・青龍は天武を表象する。 
あれあれ、「天武は赤帝で、朱雀じゃないの?」と混乱するが、すでに述べたように、小林氏はつぎの様に推理されているように思われる。
壬申の乱の時、近江朝が合言葉を「金」にしているのは「金は木に剋(か)つ」という五行思想によるのではないか。
つまり、天武は「東・・・木・・・青・・・青龍」なので、
「『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。」で近江朝は合言葉を金にした。
そこで天武は近江朝を金とみなし「『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。」から、赤い旗を用いた。
しかし、もともと天武は「東・・・木・・・青・・・青龍」である。

・高松塚の青龍には首に✖印があるが、天武の追悼寺であり薬師寺台座にも同じマークがある。天武を象徴する青龍には✖印をつけたのだろう。
・✖マークは五行思想から四方と中央を意味しているのだろう。

青龍✖印

高松塚 青龍

薬師寺 青龍

薬師寺 薬師如来台座 青龍

たしかに同様のマークが認められる。そして薬師寺が天武の追悼寺であることも事実である。
しかしこの✖マークには別の意味があるのかもしれず、これだけで天武=青龍であるとは言い切れないだろう。

・青龍は雷雨をもたらす雲と結びつき「青雲」という言葉ができたのだろう。
北山に たなびく雲の 青雲の 星離り行き 月を離りて(持統天皇の天武への挽歌)
青雲は天武をさしている。

・高松塚の日月像の下にある朱線上の緑と青の雲は天武をあらわす。

高松塚 日像

高松塚 日像

高松塚 月像

高松塚 月像

朱色の線は海だとか、雲だもいわれており、青と緑で描かれたものは山または島と解釈されている。
小林氏は青と緑で描かれたものを雲だとおっしゃっているが、このような形の雲はあるだろうか。
入道雲だと言われればそうかもしれない。

これと同様の日・月像は法隆寺の玉虫厨子にも描かれている。

玉虫厨子2

法隆寺 玉虫厨子に描かれた日像

玉虫厨子には高松塚古墳と同様の島または山状のもの(小林氏の言う青雲)が描かれている。
法隆寺は聖徳太子の建立と伝わり、天武とは直接的なつながりはないと思う。
したがって、玉虫厨子に描かれた島または雲状のものは天武とは関係がなく、高松塚古墳に描かれたものも天武を示すとは言い切れないと思う。

・壁画の侍者が持つ蓋の色が緑色で赤い房飾りがついているのは、位階を示すものではなく、天武を示している。

高松塚古墳壁画 男子像

これについては前回も述べたように、養老令に「縁の蓋は一位」と記されている。

こちらの記事には、
養老令(718)蓋条(きぬがさじょう)で深緑が一位でありと「てっぺんと四隅を錦で覆い房を垂らす」との記述があり絵と見事に一致しています。
と記されている。

小林氏の主張は全く通らなくもないが、やはり「緑色の蓋=一位をあらわす」をひっくり返せるほどの力がないと感じる。

③高松塚女性像は西壁が相生、東壁が相克を表す?

・五行における相生・相克を高松塚女性像にあてはめると、西壁が相生、東壁が相克を示しているように思われる。(吉野裕子氏)

西壁女性群像に見る五行順理

西壁赤の背後に「虚位〇」をおき、これを水とすれば、五行の相生、木→火→土→金→水の並びになる。

先ほども書いたが、おさらいしておこう。

『相生説』とは、五行が対立することなく、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を生じていくという説。
『木生火』・・・・・・木は摩擦により火気を生ずる。
『火生土』・・・・・・火は燃焼して灰(土)を生ずる。
『土生金』・・・・・・土は金属を埋蔵している。
『金生水』・・・・・・金属は表面に水気を生ずる。
『水生木』・・・・・・水は植物(木)を育てる。

東壁女性群像にみる五行逆理

東壁女性群像は赤の背後に虚位〇を想定し、水とすれば、五行の相剋、木→土→水→火→金 の並びになる。

『相克説』は五行同士が相互に反発し、木火土金水の順で、五元素が順送りに相手を剋していくとする説。
『木剋土』・・・・・・木は土中の栄養を奪う。
『土剋水』・・・・・・土は水の流れをせきとめる。
『水剋火』・・・・・・水は火を消す。
『火剋金』・・・・・・金属は火に溶ける。
『金剋木』・・・・・・金(斧など)は木を切り倒す。

・西壁は白虎、天智を表すので相生、東壁は青龍、天武を表すので相克になっている。
・水は胎児の死者=被葬者をあらわすので描かれていない。(吉野裕子氏)
・半新羅の意図によって描かれていないと推定する。(⓶で「新羅は水徳とする説がある」と書いた。)
・4人づつのグループで書いたのは四✖四・・・死✖死を意図している。

虚位の水を設定する!?素直に同意できないが、うーん??

⓸現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのか?

・江戸時代の天武・持統合葬檜前大内陵(野口王墓)は所在不明
1880年、阿不幾乃山陵記が発見され、野口村の王の墓(現大内陵)が天武・持統陵であることが明らかになったとされる。

・1235年、現大内陵盗掘される。
・藤原定家の明月記の記録
4月22日、盗掘があり、白骨、白髪が少々残っていた。
5月23日、石清水八幡宮と興福寺配下の庄民との間に用水をめぐる争いがおき、六波羅より武士が出動。
6月4日、朝廷では山陵使を(現大内陵に)派遣する話が出ていたが、興福寺の僧が蜂起して延期になった。
6月30日、比叡山の僧侶が蜂起する。
10月になっても騒動おさまらず。
10月6日、「忠成宿祢訪来。坂本近日狼藉殊甚、恒例神事皆依衆徒制止、無骨云々」。
忠成宿祢がやってきて、恒例の神事はすべて坂本の僧侶の狼藉によって中止された。(小林氏による現代語訳)
・「無骨」とは現大内陵に骨がなかったということではないか。
・衆徒のさわぎの原因は、現大内陵に骨がなかったことではないか。

これは明月記を読んで内容を確認してみないとわからないが、残念ながらネットには名月記の原文、現代語訳がない。
とりあえず、小林氏の説明に沿って考えてみよう。

恐らく、興福寺や延暦寺の蜂起というのは強訴のことだ。
強訴とは平安時代中期以後、寺社勢力が仏神の権威と武力を背景に、集団で朝廷・幕府に対して行なった訴えや要求のことで、興福寺は春日神木を担ぎだし、朝廷に要求を迫ったという。
朝廷は神仏の権威の前にたいてい寺社の要求をのまざるを得なかったという。

ウィキペディアの強訴のページに1235年の強訴についても記されていた。

 1235年 7月23日 延暦寺 佐々木信綱の子・高信による日吉社宮仕殺害に抗議して、神輿を奉じて入洛。武士と交戦。8月8日、朝廷、高信を豊後に配流 吾妻鏡
7月27日 興福寺 寺領について訴えるため、神木動座 大宮文書
12月22日 興福寺 石清水神人との水利争いを訴えて、神木を奉じて入洛。朝廷、六波羅探題に命じて制止 明月記

4月22日、現大内陵に盗掘があり、白骨、白髪が少々残っていた。
5月23日、石清水八幡宮と興福寺配下の庄民との争いがおき、六波羅より武士が出動した。
その原因は用水をめぐる対立であった。
6月4日、興福寺の僧が蜂起しているが、これに5月23日の石清水八幡宮vs興福寺配下の庄民の争いが関係しているかどうかはわからない。
この興福寺の蜂起を抑える必要があったので、朝廷は山陵使を派遣する計画を急きょ取りやめた。
山陵使の派遣など、興福寺の蜂起を鎮めてからでいいと、そういう判断だろう。
この山陵使の派遣について、小林氏はどこへ派遣するかを明確にされていないが、4月22日に盗掘があった現・大内陵へ派遣するということだと思う。
6月30日、比叡山の僧侶が蜂起しているが、これが石清水八幡宮vs興福寺配下の庄民、興福寺の争いと関係があるかどうかもわからない。
ウィキペディアによると、7月23日 延暦寺 佐々木信綱の子・高信による日吉社宮仕殺害に抗議して、神輿を奉じて入洛。武士と交戦。8月8日、朝廷、高信を豊後に配流とある。 
10月になっても騒動おさまらず、というのは、「石清水八幡宮vs興福寺配下の庄民、興福寺」との争いがおさまらなかったということかもしれない。
その結果、12月22日 興福寺 石清水神人との水利争いを訴えて、神木を奉じて入洛につながったのではないだろうか。
朝廷、六波羅探題に命じて制止したという。

少し戻って、10月6日、「忠成宿祢訪来。坂本近日狼藉殊甚、恒例神事皆依衆徒制止、無骨云々」。
忠成宿祢がやってきて、恒例の神事はすべて坂本の僧侶の狼藉によって中止された。(小林氏による現代語訳)

忠成宿祢とは大江忠成のことだろうか。
彼は1220年に辞していたが、熱田神宮大宮司であった人物なので、神社の神事などに口を出せる人物であったのかもしれない。
文章の流れからみて、忠成が恒例の神事を中止させたように読める。
恒例の神事とは石清水八幡宮の神事のことだろう。

 「無骨」の意味は、
1 骨ばってごつごつしていること。また、そのさま。「節くれだった―な手」
2 洗練されていないこと。無作法なこと。また、そのさま。「―な振る舞い」
3 役に立たないこと。才のないこと。また、そのさま。
「我―なりといへども…君王の死を救ひ」〈曽我・五〉
4 都合の悪いこと。また、そのさま。
「(御遊ぎょゆうノ興ヲ)さましまゐらせんも―なるべしとて」〈平治・上〉


「無骨とは現大内陵に骨がなかったということではないか」、と小林氏はおっしゃるが、
ここでいう無骨とは、「2洗練されていないこと。不作法なこと。」ではないかと思う。
坂本とは比叡山延暦寺の山麓にある延暦寺の門前町である。
比叡山延暦寺「坂本)の僧の強訴によって伝統的な祭が中止になったことが、洗練されず、不作法だということだろう。

「衆徒のさわぎの原因は、現大内陵に骨がなかったことではないか。」と小林氏はいうけれども、
現大内陵に骨がないことで、なぜ比叡山延暦寺の僧が強訴を行う必要があるのかがわからない。

⑤現大内陵の遺存品は橘寺へ移送された。そのリストを正確に記すのは当たり前では?

・橘寺の僧侶が「阿不幾乃山陵記」を書いているが、遺骨を測定して記しているが、噂を否定するためにこれを書いたのではないか。

『阿不幾乃山陵記』は1235年におこった「野口王墓盗掘事件」で検非違使が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書と次の記事には書いてある。

こういう記事も見つかった。
 
侵入後の実検記録の書写本が、京都市右京区にある高山寺の方便智院に所蔵されていた「阿不幾乃山陵記」です。山陵の形状や規模、墓室.棺の構造と材質、遺骸の状態、遺物の種類や数量を記します。また、遺存品の橘寺への移送や「御念珠」を多武峯の法師が持ち帰ったことなども書かれています。

どうやら盗掘後、盗掘されずに残った品々を、場所的にも近い橘寺に移送したらしい。
その遺品の中に遺骨があったのだろう。
そして橘寺の僧侶が、預かった遺品のリストを作ったということで、私には何ら不審な点は感じられない。
寺宝のリストを作るようなものではないだろうか。

・1293年に再び賊が(原大内陵に?)入り頭骨を持ち出したという記録がある。

「頭骨だけを持ち出すとは不思議な泥棒だ」と小林氏は書いているが、頭骨、すなわち髑髏は呪術の道具として盗掘されることがあったということを何かの本で読んだ記憶がある。
真言立川流では髑髏に漆と和合水を塗り重ねて髑髏本尊を作って信仰していたようである。
その髑髏本尊をつくる髑髏は高い身分の人のものほど効果があるとされていたとのこと。
真言立川流は、蓮念(仁寛、?–1114年)と見蓮によって創始されたとされるので、現大内陵が盗掘にあった1235年、1293年にはすでに存在していた。

⑥高松塚は天武持統陵の南にある。

・山陵の盗掘は史料を見る限りすべて僧侶によって行われている。

そうであるとすれば、僧侶が髑髏本尊を作る目的で古墳を盗掘したのかもしれない。
真言立川流は江戸時代に邪教であるとして迫害され消滅したが、かつてたいへん流行った流派であったという。
1235年の現大内陵盗掘も僧侶によって行われたのだろうか?

・日本書記によると、688年11月4日条に、天武の殯宮のことが記されているので、この時点まで天武の棺は殯宮にあり、
11月11日の「祭事が終わって大内陵に葬る」とある時に大内陵は完成していたと考えられている。
持統は702年12月に崩御し、火葬されて大内陵に合葬されたとある。

・続紀707年7月5日「有事〇大内陵」。
続紀755年10月「遣使於山科(天智)、大内東西(天武・持統)・安占(文武)・真弓(草壁)・奈保山東西等山陵(元明・元正」
730年9月25日「遣使以渤海信物、令献山陵六所、併祭」
元正が崩御したのは748年なので、元正陵は六所から省かれるので、大内陵は2カ所ある。その1か所が天武陵の高松塚ではないか。

六所は、山科(天智)、大内東西(天武・持統合同陵)・安占(文武)・真弓(草壁)・奈保山東陵(元明)に、斉明天皇陵が加わるとも考えられると思う。

斉明天皇陵は藤原京ー菖蒲池古墳ー天武・持統陵ー中尾山古墳ー高松塚古墳ー文武陵―キトラ古墳と南北に延びる「聖なるライン」からそんなに遠くない場所にある。
天武持統陵からは西南西に500mほどの距離である。
またもうお気づきの方も多いと思うが、高松塚古墳は天武・持統陵の南(正確にいえば南南西)にあるので、高松塚古墳もまた大内陵と呼ばれていたならば、「大内東西陵」ではなく「大内北南陵」と表現されるのではないだろうか。
しかし続紀755年10月の記述は「大内東西」なので、それは天武持統陵と高松塚古墳を指すものではないと判断できる。

小林氏は地図を確認されていなかったのか?いや、彼女は地図を確認している。
そして、次のような理屈で大内東西陵を定義している。
・藤原宮から南北に垂直線を下すと南からみて西140mのところに高松塚がある。

つまり、現大内陵から高松塚を見るのではなく、聖なるラインからみて高松塚は西にあるから大内西陵であると主張されているのである。
申しわけないが、これは納得できない。
二つの古墳があり、140mほどのずれはあるにしても、ほぼ南北に並んでいた場合、それは東西とは言わず、南北というのがふつうではないだろうか。

菖蒲池古墳 周辺図

菖蒲池古墳案内板より 大内陵は野口王墓。その南、少し西にずれた場所に高松塚古墳がある。
この大内陵(野口王墓)と高松塚古墳の位置関係で、高松塚古墳を大内西陵というのは違和感がある。
言うのなら、大内陵南陵だろう。

この時点で彼女の意見はつまづいていると思うが、彼女は高松塚=大内西陵という視点でものを見始める。

・嵯峨天皇が魏武帝の西陵をテーマにしてよんだ歌は、実際には高松塚をよんだ歌
・日本書紀が完成した720年は続紀707年7月5日の「有事〇大内陵」から13年で日本書記編集者は高松塚(日本書記は有事があったのは大内陵としているが、大内西陵=大内陵と決めつけておられる。)の情報は知っていたはずで
現大内陵が完成したのは11月11日と記録があり、そこからで、高松塚の祭が11月16日と定められた。

そもそも、現大内陵が完成したのは11月11日なのに、なぜその祭が11月11日ではなく、16日なのだろうか。

・持統6年、大内陵造営に功のあった直丁8人に官位を与えているが大内陵が完成したのは持統2年で、官位を与えたのが陵完成から4年後は期間があきすぎ。
衣縫王は文武3年に超智山陵(斉明天皇陵)造営使となっていて山陵造営の専門家。
高松塚造営の責任者も衣縫王ではないか。持統6年の褒章は高松塚完成に対する褒章ではないか。

当時褒章を4年後に与えるのが異例だったかどうかもわからないし、すでに述べたように大内西陵というものがあったとしても、それは高松塚のこととは考えられない。
先ほども述べたように、高松塚が大内陵とすれば、天武持統合同陵を大内北陵、高松塚は大内南陵となると思う。

・持統7年2月、造京司衣縫王に命じて掘り出した屍をおさめさせたとあるが、呪術思想が強い時代に新京を設置する場所を墓地の上に設定するはずがない。掘り出したのは大内陵の天武の屍ではないか。

人が生活している場所に屍や墓地があるのは当たり前のことである。
私が住んでいるところは住宅街だが、やはり墓地は存在する。
富士山の樹海のようなところには、出口がみつからないまま死んだ人の屍はあるだろうが、墓地はないだろう。
藤原京がある場所は多少土地を削ったりはしたかもしれないが、平地であって古くから人が住んでいたのではないだろうか。
そうであれば墓地があるのはむしろ当たり前ではないかと思ったりする。

奈良時代につくられたとされる奈良市の頭塔は仏塔と考えられているが、、6世紀の古墳を破壊してその上に築造されている。
墓を壊して仏塔をつくるのに、なぜ墓のある場所には都を作らないと言い切れるのだろうか。

頭塔

頭塔

高松塚造営の責任者が衣縫王とするのも、小林氏の想像によるものであり、根拠らしい根拠はないといえそうである。

⓻推理というよりは創作?

大津皇子が捕らえられたのは朱鳥元年9月24日。殯宮を南庭に建てた祭の日。
大津が天武に謀反を計画したとすると、天武11年8月の時点で高市も反天武であったので同罪。

高市が反天武とするのは、小林氏が次の様に考えたことによる。

卑母のうまれとはいえ年長の高市が天武の第一子とされていないのはおかしい。天智の子の大友も卑母の生まれだが第一子とされている→高市は本当は天智の子

しかし前回述べたように、天智には身分の低い女性が産んだ男子しかいなかった、厳密にいえば建皇子は夫人の蘇我遠智娘が産んだのだが、彼は夭折してしまっている。

一方、天武の方は身分の高い大田皇女・鸕野讚良皇女(持統天皇)※どちらも天智の娘で母親は夫人の 蘇我遠智娘
が産んだ大津皇子、草壁皇子があり、
天智の第一子大友が卑母の生まれだからといって、天武の年長の子とされる高市が第一子とされていないのはおかしい、とはいえない。

天武が高市に『自分には幼少の子供しかいない」と言ったことを小林氏は疑問視しておられ、これは確かにおかしいが、
ここから導かれるのはせいぜい「高市は本当は天武の子ではない」までで、「高市は天智の子」とまでもっていくことはできなくはないだろうか。

・高市が大津だけを罪に陥れる方法は、死者への冒涜。
天武は11年8月5日に崩御して現在の長野市善光寺あたりに殯宮が営まれた。
その後、朱鳥元年9月に南庭へ殯すと在り、祭が行われているので、その前に善光寺から棺は移されていたと考えられる。
高市はこの移動の間に遺骨を盗み出したのではないか。そして殯宮に空の棺を置いた。
殯宮の祭に大津が出席した際、高市は棺をあけ、遺骨のないことを大津のせいにして死者への冒涜の罪で捕えたのではないか。
その後、高市は密かに高松塚を築造した。高市にとって高松塚の築造は天武・大津親子に対する復讐であった。
高松塚に朱雀が描かれていなかったのは、南が帝位を表すと同時に、大津をイメージさせるためである。

南が帝位をあらわすというならば、なぜ都の宮殿は北につくるのだろうか。
天子南面す、とは天子は北にいて、南をむくということだと思うのだが?


藤原京は平城京に比べて宮が北ではなく中央によっているが、天皇の棲む内裏は藤原宮の北に位置している。
平城京

・以上は完全に推理だが、様々な角度からみて、現在のところこれ以外の結論はありえない。

小林氏は推理といっておられるが、推理というのは根拠をベースに行うものである。
特に小林氏の最後のこの結論には、ほとんど根拠がなく、推理というよりは、創作に近いと思ってしまった。

かなり批判めいたことを書いてしまったが、小林氏が細かく資料を調べておられる点については、私など足元にも及ばないと思った。







関連記事
スポンサーサイト




コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/tb.php/1165-dcb044f3