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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑱深緑色の蓋は被葬者が天皇ではないことを表している。※一部書き直しました。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①神として祀られた高松塚古墳

・秋山日出雄「高松塚は形は小さいが、木を伐ると祟りがあり、常ならぬ所として文武陵と推定し、周囲に竹垣をつくった。」

江戸時代までに伝えられていた伝承によると、村人たちによって皇陵として奉祀りは続けられていたようである。

これについて、『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』は次のような内容が記されている。

古来より上平田の村人の中で、橘の家紋を持つ家々が祭典をおこなっていた。
その村人の集まりを古宮講といい、旧暦11月16日に高松塚古墳所在の古宮で宮座行事をおこなっていた。
いつしか平田八坂神社の大宮講と合併されて高松塚古墳での祭典はなくなった。(秋山日出雄氏)

梅原猛氏も次のような内容を述べておられる。

飛鳥村には多くの古墳があるが高松塚だけ神として祀られていた。
この古墳は古宮と呼ばれ、字上平田に住む橘の紋をもつ九軒の家の人々によって代々祀られてきた。祭の日は1月16日。
戦前まではこの古墳の前で祀りをしたが、戦後は各家で行っている。
古宮の講の代表者である前田忠一氏を訪ねるとこんな話をしてくださった。
「昔は木がうっそうと生えていて不気味なところだった。祭の日以外は近寄る人はなかった。」

中間報告と梅原氏の文章は、祭の日が違っている。
年2回祭があったのか、またはどちらかが間違っているのかもしれない。

⓶高松塚に大木は育たない?

・平田村の庄屋三郎右衛門らが提出した覚書には「高松塚は立木もない芝山」
与力玉井与謝衛門らが現地報告した報告書「松が15本ある」
同時代の地図 大きな松が一本書かれている。
下が版築では大木は育たないのでは?

小林氏は上の発言の意図を明確にされていないが、その後中尾山古墳、野口王墓、高松塚古墳などの混同がみられることを指摘されているので、三郎右衛門の報告は高松塚古墳のものだが、玉井与左衛門の報告は高松塚古墳のものではない(玉井氏は高松塚とまちがって中尾山古墳を調査したなど)と考えられたのだろうか。

小林氏は「下が版築では大木は育たないのでは?」と書いておられる。
版築とは板などで囲った枠の中に土をいれ、たたき棒で土を突き固める工法のことである。

↑ こちらのブログ記事に木の生えた高松塚古墳の写真が掲載されている。ただし松ではなく竹のように見える。

版築

↑ これは高松塚壁画館で撮影した(撮影可)「高松塚古墳の墳丘版築層実物標本」 である。
竹の根が生えているだけで大木が根をはった跡がない。
小林氏がおっしゃるように、版築には大木は生えないのだろうか。

調べてみたところ、纏向型古墳は版築に近い方法で作られているということである。
奈良県桜井市の箸墓古墳も纏向型古墳だが、木が生い茂っている。
版築といっても、箸墓古墳はつき固め方が甘いなどの原因があるのかもしれない。

箸墓古墳

箸墓

③古墳の向きと北枕

・蒲生君平は南面していることを陵墓(皇室関係の墓)のひとつの条件としてあげる。
喜田貞吉は「後期古墳の横〇(漢字がよめない 汗)が南面して開口しているのは、天子南面からくるものか」としている。
しかし中国では「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」とし、北向きに葬る。

円墳、方墳、八角墳などは、外から見ただけでは、古墳の向きはわからない。
高松塚を発掘調査したところ、羨道(えんどう/の玄室と外部とを結ぶ通路部分)が石室の南につけられていたことがわかった。
おそらく石室から羨道が南に伸びている方向を南向きといっているのだろう。

小林氏はなぜ「しかし」という言葉を用いているのだろう。
「しかし」というのは、「 今まで述べてきた事と相反することを述べるときに用いる」言葉である。

小林氏は「南面していることが陵墓のひとつの条件である、しかし中国では北向きに葬るので、南面していない。」と言っておられるのだろうか。

「北方に葬り、北首(北枕)するは、三代の禮なり。」ということは、
被葬者を北枕で葬るということで、北枕で被葬者を寝かせれば、南を向くことになると思うのだが。

北枕

↑ 知恵袋だが、質問に次のようにある。

「中国歴代の帝王の陵墓は多くが南向きに作られていて、生前に王として南面していたことを示しているんですよね?でも秦では始皇帝に至るまでの陵墓は東向きに作られていて始皇帝の陪葬墓群、兵馬俑によって構成された陣形もすべてが同じく東を向いています。」上記記事より引用

小林氏は「中国では北向きに葬る」とおっしゃているが、知恵袋の質問者さんは、「中国歴代の帝王の陵墓は多くが南向き」とおっしゃっている。
私は知恵袋の質問者さんの認識のほうが正しいのではないかと思うのだが、どうだろう。
たぶん小林氏は南枕で葬ることを南向きと勘違いされていると思う。
北枕にすれば、被葬者は南を向くことになる。
北枕は「天子南面す」という状態を作って葬ることになる。

(私のほうが勘違いしていれば教えてくださいねー)

⓸高松塚は北枕?南枕?

・高松塚の場合は「天子南面」の意識があったかもしれない。
高松塚の遺骨は散乱してどちら向きとは確定できないが、壁画の従者たちがすべて南向きに歩いていく様子から、南向きに葬られた可能性がある。

高松塚古墳 レイアウト図

高松塚古墳 壁画館で撮影(撮影可)

高松塚古墳壁画の人物像は、朝賀の儀式を著したものとする説が支持されている。

朝賀(ちょうが)とは、律令制において毎年元日の朝に天皇が大極殿において皇太子以下の文武百官の拝賀を受ける行事。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B3%80


平安神宮の社殿は平安京・大内裏の朝堂院を縮小して復元している。
その平安神宮の大極殿を見ると南に広場がある。



朝賀の儀式のとき、広場には大勢の人が集まるのだろう。
そして天皇は大極殿にいて、広場にいる人々の拝賀をうけるのだから、南向きに座していることになる。
広場にいる人々は北向きにたって、大極殿を望む。
これは「天子南面す」である。

ところが、高松塚の壁画に描かれた人々は南を向いているので、被葬者が天皇で、壁画に描かれた人々の群臣のほうをむいているとすると天皇は南枕で北を向いていることになる。
「天子南面す」とはならない。

「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」で岸俊夫氏は次のようにおっしゃっている。※()内はブログ主の注釈

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられるが、もしそうなれば屏繖の下にみえる口髭・顎髭を生やした男子人物像はさきに舎人を率いて先頭の屏繖に立つとされた官人に相当するものと推定され、また円〇(漢字が読めませんでした。すいません。たぶん翳(さしば)の事だと思います。) を持つ女子像もともに東西相対して女子群像の先頭にくることとなり、壁画群像の多くが南の入口の方向に向いていることも相まって、一応壁画全体が無理なく理解できる。

「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

、壁画に描かれている男子像は、「舎人を率いて先頭の屏繖に立つ官人」であり
また丸い翳(さしば)を持つ女子像も女子群像の先頭にたっており
人物像は南の入口の方向に向いている。
そして、被葬者は南枕の可能性があるという。
ということは、被葬者は人物像に対面するような形で、北を向いているわけである。



(リンク先は、朝賀ではなく大嘗祭の様子だが、参考までにはっておく。)

⓸松は陵墓を示す木?

中国では陵墓には必ず木が植えられ、その中に松があった。陵墓の松についての詩は多い。
『御漢書』(陶遺伝75)に「高句麗は金銀財宝を増やして厚葬をし松柏を植える」とある。
王陵といわれる高句麗の中和真坡里第一号墳の玄室北壁の玄武像の左右に松が描かれている。高松塚と同じく南に羨道がある。
元明天皇の違勅に「常緑の木を植えよ」とある。
高松塚は南面と松から高句麗の王朝との関連をうかがわせる。
 
『松柏』
〘名〙 (「柏」は、側柏(このてがしわ)・扁柏(ひのき)・円柏(びゃくしん)などの常緑樹をいう) 松と柏。また、四季に緑を保つ常磐木(ときわぎ)の総称。転じて、節を守って変わらないこと、また、変わらずに永く栄えることのたとえ。

松は被葬者の魂に対して永遠であれ、という願いをこめて植えるのかもしれない。

滋賀県君ヶ畑には惟喬親王が創建した金龍寺があり、人々はそこを「高松御所」と呼んだという伝説もある。
金龍寺の隣には惟喬親王の墓もある。

金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

金龍寺高松御所の隣にある惟喬親王の墓

惟喬親王は世継争いに敗れて御霊(怨霊が祟らないように慰霊したもの)として各地の神社に祀られている。
御霊や墓と高松には何か関係があるのかもしれない。

「高句麗の王朝との関連をうかがわせる」と小林氏が書いておられるのは、
・高句麗の中和真坡里第一号墳の玄室北壁の玄武像の左右に松が描かれている。
・高松塚と同じく南に羨道がある。
という二つの理由だけでなく、小林氏が「中国の墓は北枕なので、天子南面ではない。」と考えて「南向きに羨道のある高松塚と違う造りになっているので、中国との関連は薄い」と考えたためかもしれない。
しかし、すでに述べたように、北枕だと「天子南面」になると思う。

⑤高松塚の墳丘は小さくない。

・墳丘の規模が小さいため、高松塚は下級貴族の墓とする説もあるが、薄葬令の王以上は方9尋高さ5尋・
高松塚の広さはそれを超えている。高さは薄葬令そのものが不可能な数値。

小林氏のこの意見は完全に同意する。
下は梅原氏の「1尋=2m」で換算した古墳の大きさである。
薄葬令よりも広さが大きい古墳を赤で示してみよう ※被葬者の名前は参考までに書いたが確定しているわけではない。

薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m                
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
阿武山古墳(中臣鎌足/669)・・・・・・・・・封土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域
御廟野古墳(大田皇女/672)・・・・・・・・・下方辺長35尋(70m)※上円下方墳と見做す場合・高さ4尋(8m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m) 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・対角長15尋(30m)    
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)

このように薄葬令の基準を上回る古墳のほうが断然多いが、高さは薄葬令の5尋を上回るものはない。
力学的に広さ9尋に対して、高さ5尋はムリということなのではないかと思うのだが、どうだろう?

⑥副葬品は三種の神器?天武は渡来人?

・高松塚の副葬品、鏡、刀、玉について梅原猛氏は「三種の神器」とされている。
これに対して高橋三智雄は「高松塚出土の玉は勾玉ではなく三種の神器ではない」と反論している。
しかし、三種の神器の玉は公開されたことがなく、勾玉かどうかわからない。

三種の神器のうちの玉は、「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」と呼ばれることから、高橋氏は三種の神器の玉は勾玉だと判断したのだろう。

・三種の神器意識が高松塚の時代にあったかどうか。
令集解(868年頃)には神器が鏡と剣の2種と記されている。
古語拾遺《807年)には三種の神器として最初に「八尺瓊勾玉」があげられている。
・中国の即位儀礼には玉は用いられなかった。
・渡来人系の天武は土着勢力を懐柔するために日本古来の伝統である「玉」を尊重したのではないか。
天武以降に実験をもった大津・高市は、すでにそういうことを考える必要がなく、中国式の即位儀礼をおこなったと思われる。

なんだかぶっ飛んだ話になってきた。(笑)
定説では天武の父は舒明天皇、母は斉明天皇であり、日本人だとされているが、小林氏は天武を渡来系と考えているわけだ。
さらに、定説では天武の子である大津、高市が即位した事実はないとしているが、小林氏は即位したとお考えのようである。

白状すると「高松塚被葬者考(小林恵子)」の第1章は「ぶっ飛んだ内容」がでてくることもあって読む気になれず、飛ばして第2章から読み始めたのだが(汗~)
第一章を探してみると、その理由が簡単に記されてあった。

・日本書紀は、「斉明天皇が舒明天皇と結ばれる前に、高向王との間に漢皇子を生んだ」と記しており、
漢皇子を天武と同一人物とした。

・「秋月系図」に「後漢孝霊帝の孫・阿智王の子孫・高貴王が斉明と結婚し、三子をもうけた」とあり、高貴王を孝徳朝の重臣で大化の改新の推進者・高向玄理と同一人物とした。
高貴王=高向王=玄理とすれば、天武は玄理の子となる。

小林氏はこれだけの理由で天武を渡来系、高向玄理としたわけではないだろうが、それについては彼女の別の本を読んでみないとわからないだろう。

さらに小林氏は高市皇子は天智の子で、はじめ近江朝側についていたのを、寝返って天武側についたと考えておられるようである。
小林氏はその理由をたくさんあげておられるが、その中からいくつか書きだしてみる。

・高市は天武と胸形君徳善の娘で第三子と記されているが、公卿補任によれば壬申の乱のとき19歳で、11~12歳と思われる草壁・大津より年長。
高市は卑母の出だが、大友は卑母の出であっても天智の第一子となっている。

天武の妻には天智天皇の娘の大田皇女・鸕野讚良皇女など身分の高い女性がいて、彼女らは男子を生んだのだが、
天智の妻で身分の高い女性は男子を生まず、夫人の蘇我遠智娘は建皇子を生んだが夭折してしまっている。
天智の妻で建皇子以外の男子を生んだのは采女身分の女性ばかりだったようである。

「ようである」と書いたのは、史料によって子の記載がちがっているためである。
日本書紀は天智の皇后を倭姫(子供なし)、他に八人の妻があったとし、大友・建・川嶋・施基の四皇子と、太田・鸕野讚良(持統天皇)・御名部・阿倍(元明天皇)ら十人の皇女があったとする。

ところが『続日本紀』は施基を第七皇子とし、『扶桑略記』は子女を男六人・女十三人とし、他書にも大友皇子の弟妹について伝える記事があるという。

小林氏が高市を天智の子と考えた背景にはこのようなことも影響していそうではあるが、
健皇子は夭折し、後は采女が産んだ男子しかいなかったので
天智の皇子は、采女の伊賀宅子娘が産んだ大友を第一子とし、
天武の皇子は鸕野讚良皇女の子である草壁を第一子とするのは、ありそうなことで、別におかしなことではないと思う。

・大海人は挙兵後高市に『自分には幼少の子供しかいない」と言っているが、高市は19歳で当時としては大人。

・高市は天武に対して「なんで天皇の霊に逆らうことがあろうか」と言っているが、生存者に対して霊という言葉を使っているのはみたことがない。天皇とは天武のことではなく、天智のことではないか。

・「扶桑略記」金勝院本 天智条に「三人即位一人不載系図」とある。
三人のうち二人は大友と元明だろう。残るひとりは高市ではないか。

・大友吹負が高市になりすまして叫んだところ、近江軍は声を聞いただけで逃げ去ったとあるが、(見方の)高市だと思って引き下がったのではないか。

・近江朝側の穂積百足が高市の命令によって素直にやってきたのは、高市が近江側であることを疑っていなかったのではないか。

・二万の兵を率いて大海人側に参加した小子部 鉏鉤(ちいさこべ の さひち)は軍功があったのに自殺し、大海人は陰謀蛾あったのか、と不審に思っている。
これについて、
大海人は鉏鉤の軍を寝返らせたとみるべき。
鉏鉤は乱後高市が帝位につくと思って大海人に協力したのに、大海人が皇位についたので自殺したのでは?

これについては、まあそういうこともあるかもしれない、とは思わなくもないが、決定打にかけているようにも思われる。
ともかく、小林氏がこのような考えを持っているということだけ抑えておいて、次に進もう。

・「高松塚の場合、持統朝以前の三種の神器意識をもって、被葬者の天皇という身分を表明するために三種の品を入れたと推量する。」(原文まま。『高松塚被葬者考』109pより引用)

つまり、小林氏は高松塚の被葬者は天武天皇であり、天皇という身分を示すため、また渡来人である天武が日本古来の風俗を尊重し、三種の神器として、海獣葡萄鏡、刀、玉を副葬品としていれたと考えておられるのだ。

⓻深緑の蓋は一位をあらわす。

・原田淑人氏は壁画の内容を「供養行列ではないか」とするが、岸俊男は「葬送には鼓吹が伴うが、高松塚壁画にはない」と指摘する。
・斎藤忠は葬送の際に歌舞奏楽する埴輪像があると指摘する。
・柿本人麻呂の高市の挽歌に「御門の人も白袴の麻衣着・・・」とあり、葬送であれば白い衣装を着ているはず。
・従者を壁画に描くことによって、被葬者の身分を明らかにしている。

上は「歴史ヒストリア/ 飛鳥美人 謎の暗号を解け 高松塚古墳の秘密」について記したものである。
面白い記事なので、別途内容をとりあげて考えてみたいが、ここでは「従者を壁画に描くことによって、被葬者の身分を明らかにしている。」とする小林氏の考えと対立する内容のみを記しておこう。

男子群像が手に持っている深緑色の蓋は天皇が持つものではなく、一位の身分の者が持つというのである。
もしもこの蓋を被葬者にさしかけているならば、高松塚の被葬者は天皇ではないことになる。

⑧頭蓋骨のない遺骨

・高句麗、百済では壁画古墳は王族に限られていた。(江上波夫氏)

・昔の墓荒しは、墓を荒すことによって死者の霊を亡きものにすることを目的としていた。
高松塚も権力闘争とかかわり合った天皇家の人物の墓ではないか。(江上波夫氏)

・律では塚を暴くものは従三年、棺槨を開くものは遠流。

・刀身が無く、刀の金具のみ残っているが、狭い石室内で外す作業は難しい。梅原猛氏も指摘されているように最初から刀身はなかったのだろう。

・鏡は遺骸の顔面か胸の上に鏡面を上にして置くのがふつう。(斉藤忠)
日本では、古墳から完全な遺骨が発見された例は数が少ないと思うが、なぜそれが普通だといえるのかの説明がほしい。

・高松塚は東壁に漆喰に淵がめり込んだ形で発見され、最初から棺外に置かれていたと推定されている。
漆喰が生乾きの内にたたきつけたのだろう。
鏡は東壁ではなく、東壁に接する床で発見された。

・玉は槨内に散らばり、遺骨も棺外に散乱している。
なぜそんな骨の折れることをして金銭的価値のある玉や鏡を持ち帰らなかったのか。

・着衣の切れ端も見つかっていない。棺材に残った麻布や鏡の紐は残っているので、最初から衣はなかったのだろう。
着衣もなく葬るというのはありえない。死者を冒涜するために初めから破壊されていたと推定される。

・高松塚の遺骨から、筋骨発達し、腕が長く、足が大きい。大柄。大腿筋が発達している。乗馬の習慣があったか。慢性疾患はなく急死の可能性が高い。推定死亡年齢は熟年者(40~50歳)

・28歳でなくなった草壁、24歳でなくなった大津は除外される。残るのは高市と天武。

天武の皇子は、他に長、弓削、穂積、忍壁、舎人、磯城などがいる。
そうであるのに小林氏が被葬者を草壁、大津、高市、天武の4人に絞っているのは、高松塚の被葬者を天皇クラスの人物と考え、草壁、大津、高市は即位したと考えておられるからだろう。

・顎部以下の諸骨は残存しているのに、頭蓋骨は小破片すら残存しない。
顎骨があるので、骨になる前に斬られたとは考えられない。(島五郎氏)
白骨になってから頭骨を引き抜いた。

・律によれば、謀反人は斬首。計画した者は絞首。斬首の方が罪が重く、首と胴体が離れる未来永劫に亘る死刑に処される。
斬首も絞首も同じと考えるのは現代人の感覚。






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