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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑰  キトラ天文図は中国で描かれたものだった。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①高松塚に最もふさわしい被葬者は天武天皇?

・小林氏は次の有坂隆道氏の次の発言をとりあげておられる。
高松塚の星宿は正確。
高句麗の古墳にも星宿はあるが北斗七星が主で二十八宿すべてを描いたものはない。
したがって高句麗からの影響はない。
天武4年《675年)正月に「占星台を立つ」とあり、天武朝、持統朝に作られたのではないか。
特に、持統4年(690)11月の「元嘉暦(げんかれき)と儀鳳暦を行う」の頃までに描かれたのではないか。
最もふさわしい被葬者は天武天皇。(有坂氏)

・中国の天井画は銀河のみ。(小林氏)

元嘉暦は中国の南北朝時代の南朝宋の天文学者・何承天が編纂した暦法。
『日本書紀』によれば、554年に百済から日本に伝えられた。
持統天皇6年(692年)から(持統天皇4年(690年)説もある)、中国から新しい暦・儀鳳暦と元嘉暦を並用した。
686年10月1日文武天皇元年(697年)からは元嘉暦は廃され、儀鳳暦が正式に採用された。

小林氏の本には、有坂氏の発言として「元嘉暦と儀鳳暦を行うの頃までに描かれた感が深い。」と記されていて、意味がわからなかったが、「元嘉暦と儀鳳暦を行う」とは「元嘉暦と儀鳳暦を並用する」という意味だったのだ。(笑)

有坂氏はなぜ「元嘉暦と儀鳳暦を並用することになった年までに描かれた」と考えられたのか。
その理由は「持統朝以降では星宿図を描くことはできなくなっただろうから」という事だと思うが、
なぜ持統朝以降では聖縮図を描くことができなくなったと考えられるのか、そのあたりの説明もほしいと思った。
有坂氏の著書『高松塚の壁画とその年代』をよめばその理由について説明されているかもしれない。

686年、天武天皇は重態となり、皇后・鸕野讚良と、息子で皇太子の草壁皇子に大権を委任した。
同年、天武天皇は崩御され、2年3ヶ月に及ぶ葬礼を経て688年に大内陵に葬られたとされる。
草壁皇子はすぐに皇位にはつかず、689年病を煩って亡くなってしまった。
690年、鸕野讃良は草壁皇子の子で当時7歳だった軽皇子(後の文武天皇)を皇位につけるため、中継ぎの天皇として自ら即位し、697年に軽皇子に譲位している。

有坂氏は「最もふさわしい被葬者は天武天皇」とおっしゃっている。
日本書記によれば、「天武天皇は天文や遁甲(とんこう/式占)の術をよくされた」とあり、そういう意味では星宿図が描かれている高松塚古墳は天武天皇にふさわしいといえるかもしれない。

しかし、天武天皇の大内陵は明日香村の野口王墓に治定されており、これは確実視されているのだが。

明治13年、京都の高山寺で『阿不幾乃山陵記(おうぎのさんりょうき)』という古文書の写本が発見された。
『阿不幾乃山陵記』は1235年におこった「野口王墓盗掘事件」で検非違使が盗掘犯を捕らえて取り調べをした供述調書である。

そこにはこう記されていた。
「墓の奥に一体の骸骨があった。手前には台の上に立派な金銅製の箱があり、その中に銀の大きな壺があった。
その壺を盗んだが、中に入っていた灰は溝に捨てた。」

持統天皇は火葬され、骨灰を銀の骨壺に収納して天武天皇の大内陵に合葬されていた。
また、石室内の状況も『日本書紀』の記述と一致していたため、ほぼまちがいないとされているのだ。

とはいえ、高松塚が天武の墓である可能性はゼロではない。
小林氏の本を読み進めていくと(全部読んでからブログを書いてるのではない 汗)、有坂氏がなぜ高松塚を天武の墓と推理されているのか、その理由が説明されているかもしれない。

⓶当時の日本で星宿図や天文図を作るのはムリ?

有坂氏は、「持統朝以降では、おそらくあのような星宿図を描くことはできなくなったであろうし」と述べておられる。
天武天皇が作った占星台で天文観測をし、その結果、日本において、高松塚の星宿図は作成されたと考えておられるようにも思える。

高松塚古墳とキトラ古墳は白虎図など左右反転しているが全く同じと言ってよく、両者はセットで語るべきだと思うが
(ただし、小林氏が『高松塚被葬者考 天武朝の謎』を著したとき、キトラ古墳はファイバースコープで玄武像が発見されていただけの状態だったので、彼女が高松塚・キトラをセットで語っていないのは仕方がない。)

白虎

高松塚古墳 白虎

白虎

キトラ古墳 白虎

キトラ天文図について、来村多加史氏は次のようにおっしゃっている。

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。

・日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)なので、当時の日本で星宿図や天文図を描くのはムリ。

誤解がないように書いておこう。
小林氏は「中国の天井画は銀河のみ」と書いておられるが、それは「古墳壁画に星宿図が描かれていない」というだけであって、
中国では天文学が発達していたのである。それは小林氏も分かっておられると思う。

明時代の渾天儀のレプリカ
     
明時代の渾天儀のレプリカ

キトラ古墳 天文図

キトラ古墳 天文図

キトラ天文図を読み解く上で重要になってくるのは図に描かれた赤い4つの円である。
これについて来村氏は次のように説明してくださっている。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道

③キトラ天文図は高句麗の夜空を描いたものではなかった。

来村氏は次のようにも述べておられた。
赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。

来村氏は名前はあげておられないが、これは宮島一彦氏の説である。

ネットで「キトラ古墳天文図の解析  相馬 充 (国立天文台) 」という記事が見つかり、その中で宮島氏の説についてもう少し詳しく記されていた。

それによれば、
・1998年、宮島一彦氏(同志社大学)は超小型カメラで撮影したキトラ天文図画像から、大まかな解析を行った。
その結果、キトラ天文図の内規と天の赤道の半径の比から、キトラ天文図は北緯38.4度の空を描いたもので
平壌の緯度(39.0度)に近いが、日本の飛鳥(34.5度)や中国の長安(34.2度)・洛陽(34.6度)は該当しないとした。
宮島氏はまた、1998年撮影の画像から天文図の星の位置を解析し、2つの異なる方法を用いて観測年代を紀元前65年と紀元後400年代後半と求めた。
2004年、宮島氏は緯度の推定値を37~38度に修正した。
ただし、宮島氏が用いた画像は不鮮明なので、星の同定や位置に誤りがありえるとした。

平壌は高句麗の都があったところである。

記事には、2004年高精細デジタルカメラで撮影されたキトラ天文図をもとに、相馬氏が解析を行った結果が記されている。
その結果、キトラ天文図は正確なものではなかった。

①黄道の位置が大きく異なる。
②昴宿(プレヤデス星団),畢宿(ヒアデス星団),觜宿(オリオン座の頭の3星 λ,φ1,φ2 Ori)などがかなり拡大されている 
③天津(はくちょう座 Cyg の翼)の向きが大きく異なる
④軫宿(からす座 Crv)の四角形の位置と形や向きが異なる
 ⑤翼宿(距星は α Crt)と張宿(距星は υ1 Hya)の東西位置が逆転している。
⑥張宿の距星の南北位置の誤差も大きい 
⓻北極という星座は 5星のはずだが,6星あり,曲がり方も逆。北極という星座でない可能性がある.

天球上の星の位置は赤経・赤緯で表す。
赤経・・・春分点から東向きに測る。
赤緯・・・天の赤道を基準に南北に測る。北向きを正とする。

地球の自転軸は約26,000年を周期に首振り運動をしている。(歳差運動)
そのため、各星の赤経・赤緯、天の北極や天の赤道近くの星も変化する。

各星座の星と天の赤道の位置関係、太陽の通り道である黄道などが正確であれば年代の推定が可能だが、キトラ天文図は正確でないので年代の推定ができない。

それは残念だ。
しかし相馬充氏は「天の赤道や内規などが書かれていることから、いくつかの星はそれらの線を頼りにして描き、残りの星は目分量で書いたのではないか」と考えた。
そしてキトラ天文図に描かれた二十八宿の距星(星宿の中で代表的な星)を測定し、理論値との比較を試みられた。

「西暦400年ごろに赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。」
上記記事より引用

この文章は少し意味がわかりにくいのだが、こういう意味だと思う。

相馬氏も説明してくださっているように、地球は歳差運動をしているため、年代によって北極星(天の北極に位置する星)も変わるし、星々の赤経・赤緯も変化する。
西暦400年ごろの理論値と、キトラ天文図を比較すると、赤道近くの9星のうち、おとめ座α、オリオン座δ、ペガスス座α、ペガスス座γ、うみへび座αの5星の誤差が2º以内になる。

9星のうちの5星もの星の誤差がこれほど小さくなるというのは偶然とは考えにくい。
天の赤道に近い距星の中でもこれらの明るい5星を、天の赤道に対して正確に描こうとしたと考えられる。
そこで、これらの5星の位置の誤差が最も小さくなる年代が観測年代だとして、最小二乗法により観測年代を求めた。
その結果は西暦384年±139年となった。
 
最初に「400年ごろ」と書かれているのは大雑把に見積もった年代で、さらに正確な観測年代を求めたところ、西暦384年±139年となった、ということだろうか。

内規・・・1年中地平線下に没しない北天の星 (周極星) の範囲を示す線
外規・・・南天の観測限界の範囲を示す線。
内規と外規の位置は観測地緯度によって決まる。
内規の赤緯は〔90度-緯度〕、外規の赤緯は〔緯度-90度〕。
内規や外規の赤緯が求められれば観測地緯度が得られる。
大気中で光が屈折することから、星の位置は真の位置より浮き上がって見える。(大気差)
地平線上の星の大気差は角度の約35分。
 キトラ古墳天文図では内規に接するように描かれている星が6星ある。
文昌の2星と八穀の4星(図2参照)で、東から、おおぐま座θ、おおぐま座15、やまねこ座15、やまねこ座UZ、きりん座TU、やまねこ座β。
北緯34°とした場合で,星と内規の位置関係がキトラ古墳天文図のものとよく一致する。
6星の位置を計算して観測地緯度を最小二乗法で求めると33.7±0.7度となった.  

 天の赤道と内規の近くの星を総合した解析 上の2節で赤緯が正確に描かれたと考えられる星が天の赤道近くで5星、内規近くで6星の計11星あることが判明した。
内規の近くの星も使って解析をやり直したところ、観測年:300年±90年、観測地緯度:33.9±0.7度 となった。
この緯度に当たる地点としては中国の長安や洛陽。日本の飛鳥もこの緯度に当たるが、日本ではまだ天文観測が行われていなかった。

細かい計算が正しいかどうかはわからないが、どのようにして計算をしたのかは何となく(笑)わかる。

つまり210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高いということだ。

これに該当する中国の王朝は次のとおり。

後漢(東漢) AD23〜AD220
魏(曹魏) 220〜265
呉(孫呉、東呉) 222〜280
蜀(漢、蜀漢) 221〜26
西晋 265〜316
東晋 317〜420
桓楚 403〜404

一方、日本では邪馬台国の卑弥呼が死亡したのが247年。
その後の日本の状況については不明で空白の4世紀と呼ばれる。
来村氏は著書の中で「602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。」と書いておられた。

⓸二十八宿を描いた天井壁画はアスターナ遺跡でも発見されている。

来村氏は「キトラ天文図は正確ではない」とおっしゃっているが、有坂氏は「高松塚の星宿は正確。」とされた。
天文図と星宿は別のものである。
キトラ天文図は正確でなくても、高松塚星宿は正確ではないとは言い切れないかもしれない。
(そもそも、何をもって正確というのかという問題もあるが)
しかし、高松塚の星宿図は一見して、夜空を忠実に写し取ったものというよりは、四角で囲んだ周辺部に星宿を並べたものである。

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

ちなみに同様の星宿図はトルファン・アスターナ古墳でも発見されている。
画像はこちら→古星図に見る歴史と文化 - 大阪工業大学 

アスターナ古墳群は中国新疆ウイグル自治区・トルファン市高昌区にある。
麹氏高昌・唐代618~907年の貴族の墓地とのこと。

高松塚古墳は6世紀末から7世紀はじめごろの古墳と考えられており、どちらが古いものなのかわからないが
来村氏がおっしゃるように、当時の日本で行われた天体観測をベースに高松塚の二十八宿が作られたとは考えにくい。

高松塚と同時期に築造されたと考えられるキトラの天文図は、相馬氏の研究から、210年~390年ごろの長安、洛陽あたりで観測した天文図である可能性が高い。

すると星宿図も中国で作成され、それがトルファンや日本に伝わったと考えるのが妥当ではないかと思う。

高松塚古墳の星宿図が発見されたばかりのころは、類似した天文図が知られておらず、日本で独自に天文学が発展したとする説を多くの人が唱えていたそうである。

⑤壁画の画師は黄文本実説には根拠がない。(来村氏)

全ての研究者が壁画を描いた画師について、黄文造本実をあげる。
日本続紀によれば、本実は持統崩御時、作殯宮司になったとあり、文武朝になっても活躍していた。

これについても、来村氏が、「黄文本実説には根拠がない。」として、その根拠を次の様に述べておられる。

・この説の根拠は、❶高松塚、キトラの築造時期と同時期の人物であること ❷他の絵師の名前が伝わらないこと
・しかし本実が描いたと伝わる絵は一点もなく、説には根拠がない。

本実は持統崩御時、作殯宮司になっており、そうであれば高松塚古墳にもかかわっていそうに思えなくもないが
やはり根拠が薄いと感じる。







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