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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑯高松塚古墳人物像のファッションから年代を考える。※追記あり 2023.12.25

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


前回に続き、 『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』を参考にさせていただいて、考えてみる。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

①壁画の顔料

・壁画顔料は黄色は密陀僧を使用していないが、あとは法隆寺と同じ。
装飾古墳の壁画顔料とは全く異なり、法隆寺などの上代寺院壁画顔料と同時代と考えられている。

・柳沢孝氏は、高松塚・法隆寺の顔料の比較から、高松塚古墳が描かれた時期を7世紀半ば、持統朝(687~697)とする。

法隆寺

法隆寺

法隆寺を創建したのは聖徳太子(574~622年)だと伝えられている。
日本書紀には「670年、一屋余すことなく消失した」とあり、法隆寺再建論と非再建論が対立していた。
しかし、1939年に発掘調査が行われた結果、一度消失し、その後再建されていたことがわかった。
従って、法隆寺金堂の壁画は670年以降のものとなる。

『法隆寺資財帳』によれば持統7年(693年)に法隆寺で仁王会が行われており、693年には伽藍の中心である金堂は再建されていたと考えられている。
711年には五重塔初層安置の塑像群、中門安置の金剛力士像が完成しており、この頃には、五重塔、中門など西院伽藍全体が完成していたのだろう。
※法隆寺は西院伽藍(金堂・五重塔など)と東院伽藍(夢殿)に分けられる。

つまり、法隆寺の金堂壁画は持統朝の693年ごろに描かれていた可能性は高いといえるが、金堂完成後に描いた可能性もありそうだ。

「柳沢孝氏は、高松塚・法隆寺の顔料の比較から、高松塚古墳が描かれた時期を7世紀半ば、持統朝(687~697)とする。」
と小林氏は結果のみを記して、比較の詳細を記しておられないが、ぜひその比較の詳細を知りたいものだと思う。

・考古学的出土物全体から総合的に年代を推定すると、高松塚古墳は天武13年(684)~持統11年(697)に築造されたという結論に達する。(p79)

申しわけないが、これは説明不足だなあ、と感じる。
考古学的出土物全体から総合的に年代を推定すると、なぜ天武13年(684)~持統11年(697)に築造されたという結論になるのかの説明がないからだ。
p79以前に記した内容が「天武13年(684)~持統11年(697)」を示しているという意味なのかもしれないと思って
前回の私の記事(小林氏の『高松塚被葬者考』79pまでをまとめて、私の感想などを記したもの)を読み直してみたが
「高松塚古墳は天武13年(684)~持統11年(697)の築造」と決定づける内容にはなっていないと感じた。

上の記事をできるだけ短くまとめてみる。

唐尺(1尺=29.5cm)/石槨の長さ・幅は唐尺で完数(端数の付かない尺数)が得られるが、高さは完数は得られない。
高麗尺(1尺=35cm)/石槨の長さ・幅・高さとも完数が得られない。
周尺(1尺=20.2cm)/石槨の長さ・幅・高さとも完数が得られないが、木棺の長さ・幅は完数が得られる。
高松塚の木棺に周尺が用いられているので、701年の大宝令の尺度決定以前に造営されたと推測される。

上の結果は、周尺2勝、唐尺2勝で「引き分け」と見るべき。高松塚が唐尺で用いられた可能性は排除できない。

●木棺に貼られていた布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。

●海獣葡萄鏡は西安独孤墓出土のものが高松塚と同一の鏡(同笵鏡。同一の鋳型または原型を使用して鋳造した複数の鏡)西安独孤思貞は697年に没し、698年に銅人原の墓に遷葬されたことが墓誌に記されている。
ここから高松塚海獣葡萄鏡の製作は698年より以前と考えられる。

「海獣葡萄鏡の製作は698年より以前」には根拠がない。
独狐思貞墓の墓誌が698年であっても、当然、その後に高松塚出土の海獣葡萄鏡がつくられた可能性もある。

●高松塚出土の透金具は、唐・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文に似ている。
そのデザインの最古例は則天の母楊氏の順陵の大石の坐獅子の台座線刻模様。
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、それ以後のもの。
透金具は臨海殿出土の塼(せん)に似ている。
臨海殿は文武14年〈674年〉2月に作られたと「羅記」にあるが、文武王20年( 681年)の銘文のある塼が出土している。
この模様の起原は670年まで遡るといえる。

史料に臨海殿がつくられたのが674年とあり、出土した塼が681年であれば、遡ることができるのは674年である。
そうではあるが、高松塚の透かし金具のデザインと似たものが、則天の母楊氏の順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」にあり、
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、670年に遡るとされているのだろうか。
しかし、この順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」は690年に作られたものであり、楊氏が死亡した670年にその模様があったと断言することはできない。

●墳丘基底面・下層から須恵器(古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。青灰色で硬い。)の杯身と蓋の破片が発見された。これらの土器は藤原京時代かそれ以前のものと考えられている。

このように見直してみると、小林氏が高松塚築造時期を天武13年(684)~持統11年(697)と結論を出された根拠は、上にあげた5つだが、そのうち3つは「必ずしもそうとは断定できない」ものである。

「発見された須恵器が藤原京時代かそれ以前のもの」と、
「柳沢孝氏は、高松塚・法隆寺の顔料の比較から、高松塚古墳が描かれた時期を7世紀半ば、持統朝(687~697)末までには描かれていたとする。」
の時代特定については詳しい説明はない。

「高松塚古墳の築造時期が、天武13年(684)~持統11年(697)におさまる可能性はある。」とはいえるだろうが。

それにしても、小林氏はなぜ684年をもちだしたのだろうか。そのあたりがよくわからない。
(もしかしたら私が説明を読み落としたところがあるかもしれない。汗)

⓶四神はいつから日本で信仰されていたか。

・壁画について、ファイバースコープで調査したものに玄武像が描かれているものがあるが、本格的に発掘調査されていないので比べようがない。

これはキトラ古墳のことをおっしゃっていると思う。
キトラ古墳は1983年にファイバースコープによる石槨内部調査が行われて、玄武の壁画が発見された。
その後、1998年3月、小型カメラによる石槨内部の再調査がおこなわれ、青龍・白虎・天文図も発見された。
2001年3月には朱雀も発見された。

小林氏がこの本を著されたのは1988年なので、当時、玄武のみ発見されていたということになる。

・高句麗の初期の壁画古墳には、人物・風俗を描いている。
5世紀半ばから四神像がみられるようになり、人物・風俗と混在するようになる。
7世紀後半には、雄大な四神像のみ描かれるようになる。

・唐の壁画古墳は10数基のみ。四神像が描かれているのは2基のみ。多くは人物像。
漢代には星宿が描かれていたが後期には天漢(銀河)に変わっている。

・橿原市河西町新沢126号墳出土の円形の漆盤に四神が描かれていた。

これはネットで検索しても画像が出てこないが、そういうものが出土したという記事はある。



竹原古墳にも四神とおぼしきものが描かれていた。
竹原古墳が築造されたのは 6世紀後半とされている。

・小野毛人墳墓(天武五年在銘墓誌)、文禰麻呂墓、宇治宿禰墳墓など四神相応の地に造営されている。

四神相応の地とは、北に玄武が棲む丘陵、東に青龍が棲む清流、南に朱雀が棲む湖沼、西に白虎が棲む大道がある土地のことだ。


小野毛人の墓は北に西明寺山があり、東には川がある。
南に湖沼はないが、大きな川が流れている。西の大道はどこにあるのだろう。
古と現在では道も変わっているだろうし、ちょっとわからない。


文禰麻呂墓はそれらしい地形はみつけられない。
宇治宿禰墳墓はグーグルマップで検索してもでてこない。

③高松塚古墳壁画は北魏の影響をうけている?

・薬師寺台座の青龍と高松塚の青龍の首に✖印がある。

青龍✖印

高松塚 青龍 高松塚壁画館で撮影(撮影可)

薬師寺 青龍

薬師寺薬師如来台座(レプリカ) 青龍

・長広氏は、高松塚の四神像・薬師寺台座の四神像は永微元年の四神像より古式、日月像の下に朱線をひくのは、隋・唐・高句麗には見られない。より古い北魏の石棺にみられるとおっしゃっている。
高松塚の四神像のルーツは北魏だろう。

こちらに北魏の石棺画の画像が掲載されている。
参考文献として
「魏晋南北朝壁画墓の世界 絵に描かれた群雄割拠と民族移動の時代」 蘇哲 2007年 白帝社アジア史選書008
をあげておられる。(読んでみたいので、メモしておこう♪)

高句麗壁画古墳の青龍はこちら→https://gendai.media/articles/-/93945?page=4
唐や高句麗の壁画もたくさん見て見ないと、高松塚の四神図のルーツが北魏であるかどうか判断ができなさそうだ。
これは宿題にしておこう。

ただし、小林氏がこの本を出版したのち、キトラ古墳から玄武だけでなく青龍・朱雀・白虎像も見つかり、さらに武器を持った十二支像が発見されている。
武器を持った十二支像は中国にはなく、朝鮮にはあるということであった。
ということは北魏には武器を持った十二支像はないのではないかと思われるが、どうなんだろう。
そして、キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎と左右反転しているだけで、そっくりであることから
高松塚とキトラは同一人物または同一グループによって描かれたと考えられている。
すると、高松塚は北魏の影響を受けているとは断言できないのではないか。
北魏・唐・朝鮮など様々な文化の影響を受けているとはいえるかもしれないが。

④飛鳥時代の人々は唐風の衣装を身に着けていた?

・日野西資孝は、当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になったと指摘されている。


上の記事に、天武・持統朝女官朝服の説明がある。
その中で「襴(らん)/公家の袍や半臂の裾の前後に共裂を横にあてたもの。裳と同義。」と説明がある。
女性を象った埴輪はこちら。


日野氏の主張は、私の理解力が不足しているのかもしれないが、言葉の意味がわからない。

高松塚古墳 女子群像

※追記(2023.12.25)
日野西資孝の「当時の女子の服装は垂領(うちあわせの衿)の短衣に上から胸高に裳をつけていたので、前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」というのは、こういう事だろう、と思いいたった。
上の高松塚女子群像は上着をスカートの上に出している。これは埴輪と同じである。
しかし、実際にはこの時代、上着をスカートの中に入れて着ていた。
養老の衣服令による命婦礼服
上の写真を見ると、上着をスカートの中に入れて着ている。
4位の命婦(みょうぶ)=女官の礼服と説明がある。
養老の衣服令は718年。

はにわ



日野氏は「前代の埴輪に見られるのと裳の付け方が外見上逆になった」のは、隋唐の服装の影響とし、法隆寺摩耶夫人像、女子塑像を例にあげる。

塑造塔本四面具(五重塔安置)のうち東面侍者像

法隆寺五重塔の女子塑像

・日本でも同時代の唐とほとんど同じ服装をしていた。
高松塚の女性像は一昔前の古墳時代の服装で、儀式用あるいは公用ではないか。

うーん、これはどうだろうか。

言葉の意味がわかりづらいので勘違いしているかもしれないが、たとえば漫画などで外国を舞台にしたものがある。
当然、その漫画に登場する町並みや衣装が現在の日本を反映したものとはいえない。
その漫画がアラブ世界を舞台としたものだとしよう。
漫画の中にヒジャブ・ニカブなどを身につけた女性がでてくるので、日本の女性もヒジャブ・ニカブを身に着けているとするのがおかしな論であることは、いうまでもない。

法隆寺の摩耶夫人像、女子塑像は唐を舞台として創作されたものであって、当時の人々の姿を映したものとは断言できないのではないだろうか。

そうではあるが、儀式用、公用という小林氏の意見はありえると思った。
現代でも皇族方は儀式の際に平安時代の装束を身につける。

⑤人物像のファッションから古墳築造年代を考える。

・高松塚女子群像の髪型について
井上光貞氏・・・高句麗舞踏塚(4世紀末)と関係がある。
三上次男氏・・・高句麗にも中国にも見られない。日本独自の髪型。結髪令(682年~686年)によるものではないか。
原田淑人氏・・・結髪令ではなく、垂髪令(686年~705年)のものではないか。
五味充子氏・・・垂髪令(686年~705年)のもの。無造作にひっつめた髪は便宜上のもの。        
小林氏・・・・・五味氏に同意。垂髪令(686年~705年)のもの。
        垂髪では仕事をする際に不便なので、このような髪型にしているのではないか。
横田健一・・・・高松塚女子像は肩布(ひれ)をつけていないので采女クラス。
        采女の肩布が禁止されていたのは天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)。
        垂髪令(686年~705年)の時期とかぶる。

上記記事で高句麗舞踏塚の壁画が紹介されている。
絵のタッチは違うが、後ろで束ねた髪を上にはねあげるのは、高松塚女子群像の髪型に似ていると思う。
また、原田氏、五味氏、小林氏が主張されるように垂髪令の時代の髪型だが、不便なのでひっつめているというのは、ありえそうだと思った。

五味充子氏・・・男女の上着にある横線を襴とする。
        天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
        高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの。

↑ こちらのページで「天武・持統朝女官朝服」について説明がされている。
襴(らん)は「公家の袍や半臂の裾の前後に共裂を横にあてたもの。裳と同義。」と説明がある。

高松塚 男子像2

高松塚 女子像1

男女とも上衣の下のほうに横線が描かれているが、これが襴(らん)だろう。

・女性像だけでいうと
髪型・・・・・垂髪令(686年~705年)天武11年(682年)以前、または朱酉元年(686年)~慶雲2年(705年)
       垂髪令の期間は686年~705年だが、小林氏はなぜ「天武11年(682年)以前」ともしているのだろうか?
肩布禁止・・・・・・天武11年〈682年)~慶雲2年〈705年)
襴・・・・・・・・・天武13年(684)の「会集の日には襴衣を着て長紐をつけよ」との詔が出されている。
          高松塚は天武13年以後の朝服を描いたもの
髪型・肩布・襴の条件がそろうのは、朱酉11年(686年)~慶雲2年(705年)

・秋山光和・・・男子像が持つ緑色の蓋は重圏連珠模様(重圏/二重丸)法隆寺金堂の木製天蓋の彩色装飾と関係がある。
・上原和・・・野中寺の仏像の腰裳にある円環連珠文に似ている。
これはどの仏像をさしているのかわからない。

法隆寺金堂木製天蓋はこちら。↓

三上次男氏・・・男子の冠 聖徳太子が被っているものと同種

↓ これのことだろうか。
聖徳太子とも推定されるが描かれた肖像画『唐本御影』

秋山光和氏・・・男子像の冠は天武11年6月条にある、『うるしぬりのうすはたのかうぶり』で、高松塚築造は天武11年6月以降だとする。
五味充子氏も同意見

上田正昭氏・・・帯が大宝令の皮でなくヒモなので大宝令(701年)以前のものではないか。
秋山氏、高田大和男氏も同意見。

すなわち、高松塚古墳の築造時期は持統4年(690年)4月14日の詔「身分の上下を通じて綺(組紐)の帯と白袴を用いよ」とある期間から大宝元年まで。

石田尚豊・・・大宝元年、禁止されていた脛裳(はばきも/脚絆、ゲートルのようなもの)を再度着用することになる。
       持統4年(690年)、白袴を用いよ。
       慶雲2年(705年)、完全に脛裳をなくして白袴となる。
その他の資料
(その他の資料とは?)から、高松塚は慶雲2年(705)以降に造営されたとは考えられないので(その理由は?)持統4年(690年)から大宝元年(701年)までの衣装

ここでも小林氏の説明は不十分だと感じる。
690年以降とするのは、「持統4年(690年)の詔」以降だということなのはわかる。
しかし、「705年以降に造営されたとは考えられない理由」「705年以降造営されたとは考えられないのであれば、造営時期は704年までとなりそうなのに、701年までと限定した理由」がわからない。




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