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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑮高麗尺、唐尺は年代特定に使うことはできるか。

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


今回の参考書籍は『高松塚被葬者考 天武朝の謎/小林恵子(現代思潮社)』。
小林氏の意見はピンク色、別の記事などの内容は青色、私の意見などはグレイで示す。

高松塚古墳

高松塚古墳

①高松塚の墳丘指数は特別高いということはない。

・高松塚古墳の墳丘は大きさのわりには背の高い封土を築いている。(直径18~20m、高さ5.6m)

発見当時、高松塚古墳の直径は18mとされていたようであるが、ウィキペディア高松塚古墳を確認すると、
「直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳」となっている。
調査が進んで、当初発表されていた18mよりも直径が大きいことがわかったのではないかと思う。

・掘田啓一氏は、墳丘指数を勘案した。
墳丘指数=高さ÷直径✖100

実際にいろいろな古墳の墳丘指数を計算してみよう。。

※()は被葬者と没年で、没年が早い順に並べた。被葬者が確実視されていないものは、緑色で示した。
※高さがわからないものは?とした。わかりしだい追加で書き入れる。
                                         墳丘指数
塚穴古墳(来目皇子/ 603 )・・・・・・・・・・辺53m・高さ10m          18.87
叡福寺北古墳(聖徳太子墓/ 622)・・・・・・・ 南北43m・東西53m/高さ11m      20.75  ※53mで計算
石舞台古墳(蘇我馬子/626) ・・・・・・・・・方80m・高さ不明(封土が失われているため)          
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方16.2m・高さ9m         55.56
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方19.3m・高さ?
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長22m・高さ4m          18.18
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m       12.5            
越塚御門古墳(太田皇女/667)・・・・・・・・ 10m・高さ?
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径20m・高さ4.3m           21.5
野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西58m・高さ9m           15.5
御廟野古墳(天智天皇/672)・・・・・・・・・下方辺長70m・高さ8m         11.43
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・ ・・・・対角長30m・高さ? 
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・径16m・高さ?
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長19.5m・高さ4m        20.51
梨本南2号墳(長屋王/ 729 )・・・・・・・径15m・高さ1.5m               10.00
岩屋山古墳・・・・・・・・・・・・・・・・辺45m、高さ12m                26.67
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・・・・径23m、高さ5m              21.73
菖蒲池古墳・・・・・・・・・・・・・・・・30m、高さ7.5m                 25.00
栗原塚穴古墳・・・・・・・・・・・・・  径28m、高さ2m                   7.14
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径23m・高さ5m             21.73
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・・径13.8 m)・高さ3.3m                               23.91

このように比較してみると、高松塚古墳は直径が変更されたせいもあって、さほど墳丘指数が大きいということはないと思う。

⓶高麗尺、唐尺は年代特定に使うことはできるか。

・高松塚石室内の寸法は、長さ265.5cm、幅約103cm、高さ113.4cm
梅原氏は高松塚古墳の石槨の大きさについて、長さ2.655m、幅1.035m、、高さ1.134mとされている。
ほぼ同じ数値だが、幅の数値がわずかに違う。

下は『壁画古墳 高松塚 調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』29pで伊達宗泰氏が示されている石槨計測値表の数値だが、やはり幅の数値が若干違っている。

幅・・・北壁103.25cm
    南壁(外法)137.0cm.
長さ・・東壁 265.5cm、
    西壁 265.5cm
高さ・・113.4cm

・年代推定で問題になるのは尺度。

701年の大宝律令で唐尺(約29.7㎝)が導入された。
701年以前は高麗尺を使っていたとする主張があり、高麗尺を用いているか、唐尺を用いているかで
701年以前か、701年以降かが判断できると、小林氏はおっしゃっているのだ。
しかし、建造物の基準尺として確認されておらず、高麗尺は存在しなかった、とする意見もある。

・伊達宗泰、網干善教え、尾崎喜左雄ら、実際に調査された方、岸俊夫は唐尺(1尺=29.5cm)を用いたという意見。
唐尺では長さ9尺、幅は1尺を29.57cmに変更して、ほぼ3.5尺で完数(端数の付かない尺数)が得られる。
しかし、高さに関しては岸氏も指摘されているように完数が得られない。

『壁画古墳 高松塚 調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』29p 石槨計測値表の横には唐尺換算値が記されている。

唐尺換算値 幅3.5尺、長さ9尺、高さ3.8尺、(1尺=29.50cm)
とある。

計算式は下のようにして行ったのだろう。

幅・・・北壁103.25cm÷29.5cm=3.5尺
    南壁(外法)137.0cm.
長さ・・東壁 265.5cm÷29.5cm=9尺
    西壁 265.5cm
高さ・・113.4cm÷29.5cm=3.844067796≓3.8尺

小林氏がおっしゃるように、高さ113.4cmを(1尺=29.50cm)で割ると、3.844067796となって完数にはならない。

また小林氏は「幅は1尺を29.57cmに変更して」とおっしゃっているが、なぜ1尺=29.5cmをⅠ尺=29.57に変更して計算するのだろうか?

岡本太郎氏は周代に日本に入った和(周)尺(20.2cm)とする。
これで計算すると、高さは5.6尺として完数に近いが、奥行と幅が合わなくなる。

コトバンクによれば、周尺は一尺を18.18cm、または23.03cmとあるが20.2cmで換算してみよう。

       調査中間報告                小林氏            梅原氏

幅/北壁103.25cm÷20.2cm=5.1113886138   幅約103cm÷20.2=5.0990099 幅103.5cm÷20.2=5.123762376
  南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷20.2cm=13.14356435尺 長さ265.5cm 左に同じ     長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷20.2cm=5.613861386尺    高さ113.4cm 左に同じ    高さ113.4m 左に同じ

このような結果となって幅、長さ、高さとも完数が得られないが、なぜ小林氏は「和(周)尺」を用いると、高さは完数を得られると書いておられるのだろうか?
何か私が勘違いしているのかもしれない。

・井本英一氏は周(和)尺を19cmとする。

 調査中間報告                小林氏が提示する数値   梅原氏が提示する数値

幅/北壁103.25cm÷19cm=5.434210526  幅約103cm÷19=5.421052631 幅103.5cm÷19=5.447368421
    南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷19cm=13.97368421尺 長さ265.5cm 左に同じ   長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷19cm=5968421052尺    高さ113.4cm 左に同じ    高さ113.4m 左に同じ

このようになってやはり完数にはならない。

・木棺の長さと幅は出版物によって1cm前後の誤差があるが、199.5cm✖57cmとするものがあり、1尺=19cmでは
10.5尺✖3尺となって完数になる。

・再建法隆寺の塔や金堂、群馬県古墳寸法は高麗尺(一尺=35cm)だが、これでもない。

高麗尺で石槨を換算してみると

調査中間報告                 小林氏が提示する数値    梅原氏が提示する数値

幅/北壁103.25cm÷35cm=2.95尺      幅約103cm÷35=2.942857142 幅103.5cm÷35=2.957142857
    南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷35cm=10.44285714尺 長さ265.5cm 左に同じ    長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷19cm=5968421052尺    高さ113.4cm 左に同じ    高さ113.4m 左に同じ

たしかに高麗尺でもなさそうだ。

高松塚が周尺を用いられているとすれば、周尺が用いられていた時代と地域を調べる必要があるが、そういう文献を知らない。
ただ、701年の大宝令の尺度決定以前に造営されたと推測される。

小林氏は高松塚は周(和)尺(1尺19cm)で造営されたと考えているのだろう。
小林氏がそう考えたのは、「井本英一氏の周(和)尺を19cm説であれば、木棺のサイズは完数になる。」からだろう。

ちなみに調査中間報告には次のような内容が記されている。
「棺の長さ2.02m、幅57cm、側板の立ち上がり残部15cm~10cm程度」

すでに見たように石槨のサイズは周尺(1尺19cm)では完数にならず、唐尺(1尺29.50cm)では長さと幅は完数が得られる。

       調査中間報告          小林氏            梅原氏

幅/北壁103.25cm÷29.5cm=3.5尺     幅約103cm÷29.5=3.491525423 幅103.5cm÷29.5=3.508474576
  南壁(外法)137.0cm.           
長さ/東壁 265.5cm÷29.5cm=9尺    長さ265.5cm 左に同じ    長さ265.5cm 左に同じ
   西壁 265.5cm
高さ/113.4cm÷20.2cm=5.613861386尺  高さ113.4cm 左に同じ     高さ113.4m 左に同じ

つまり、木棺の長さ・幅は周尺(1尺19cm)で完数になるが、木棺の高さはわからない。
しかも、長さが完数になるのは木棺の大きさを199.5cm✖57cmとした場合で、
調査中間報告の202cm、幅57cmでは、長さは10.63157894尺となって完数にならない。

一方、石槨の長さ・幅は唐尺(1尺29.5cm)で完数になるが、高さはあわない。

この結果は、周尺2勝、唐尺2勝で「引き分け」と見るべきではないか。

私は高松塚が唐尺で用いられた可能性は排除できないと思う。
したがって、小林氏の「701年の大宝令の尺度決定以前に造営された」という結論には納得しかねる。

また、周(和)尺、高麗尺、唐尺は、1尺を何センチとするかも研究者によってまちまちで、
これらのうちどれを用いたかによって時代を推定する目安にはならないと思う。

③木棺について

・漆喰純度は95%で、中尾山古墳と高麗(任那地方)の壁画古墳と一致。新羅系、旧任那刑の漆喰技術が用いられたと考えられる。
但し、高松塚は鉛含有量が0.28%で高い。(他の古墳は0.01%)

・漆塗木棺は檜とされていたが、昭和52年12月に杉と訂正された。
板の厚さは1.6cm、底・両側板・両木口板共、一枚板。銅釘で止める。
内、外とも板に麻布を二枚重ね、木糞漆で固めた上に鉛白を下地にして朱を塗り、外面には漆を3,4回塗った上に全体に金箔が貼られていた。
布は飛鳥、白鳳時代の中間の時代の物と考えられる。

・漆塗木棺の出土例は多い(大阪府茨木市初田二号墳、大阪府羽曳野市御嶺山古墳、マルコ山古墳など)

・猪熊兼勝は百済王家との慣例を指摘。(扶余にある百済末期の陵山古墳のほとんどの石室から棺に用いたと思われる金箔辺と棺飾金具が出土しているため)

④海獣葡萄鏡

・海獣葡萄鏡は南壁面より奥87cmの東壁側に漆喰で塗りこめられていた。

これについて、『壁画古墳 高松塚 調査中間報告』では、次のような内容を記している。

・南壁面、内側より奥83CMの東壁面に接した床面の漆喰に食い込むようにして出土した。鏡面が上向きになっていた。

「食い込むように」というのは鏡が動かないようになっていたのか、それとも動かせる状態だったのか、この説明ではわからない。
出土状況を撮影した写真を見ると、床面に浅い窪みがあるように見える。

・海獣葡萄鏡は、縁の部分が高いので、模様の部分が空洞となっていたので錆が少なく、鈕(下の写真の鏡中央部。緒=ヒモが通せるようになっている。)に通した緒も残っていた。

高松塚古墳出土_海獣葡萄鏡

高松塚出土 海獣葡萄鏡

たぶん、こういう状況だということだと思う。↓

海獣葡萄鏡 出土状況

・石槨に緒が密着した状態では緒は腐食が進んでいたと思われる。すると、移動されていないか、腐食が進んでいない時期に移動されたかどちらかだと考えられる。

・おそらく鏡は棺の外に置かれていた。その理由は東壁に鏡が密着しており、棺の厚みが東壁と鏡の隙間に挟まる余裕がないため。
(↓ たぶん、こういう事だと思う。)

鏡の位置①

鏡の位置2


・同一の鏡(同笵鏡。同一の鋳型または原型を使用して鋳造した複数の鏡)は5例あり、西安独孤思貞は則天のときに朝議太夫となり、697年に没し、698年に銅人原の墓に遷葬されたことが墓誌に記されている。
ここから高松塚海獣葡萄鏡の製作は698年より以前と考えられる。

これについて、ネットにこんな内容を記した記事がある。

・独狐思貞墓の墓誌によれば、その墓が作られたのは698年ということがわかっている。
中国で鋳造され、遣唐使によってもたらされたものだとすれば、この年号の前後、おそらく後に古墳が築かれたことが推定できる。

・このタイプの海獣葡萄鏡が698年よりも大きく古い時期に鋳造されたとは考えにくいので、遣隋使を除外し、630(舒明2)年から始まった遣唐使でも668(天智7)年に帰国した事例以後になるだろう。
これ以後の遣唐使としては、704(慶雲元)年、718(養老2)年、734(天平6)年、754(天平勝宝6)年、761(天平宝字5)年、778(宝亀9)年、781(天応元)年、805(延暦24)年、806(元和元)年、839(承和6)年がある(いずれも帰国年、20回説より)。

・663(天智2)年、白村江の戦いで敗れ、その後は壬申の乱が起きたり律令制への過渡期であったなど、遣唐使を派遣する環境になかったと考えられている。

・朝鮮半島からの献上品の可能性もあるが、高松塚古墳の海獣葡萄鏡が遣唐使によってもたらされたとするならば、
独狐思貞墓の墓誌(698年)により、704年の遣唐使帰国後に亡くなった人物が被葬者の候補になる。

しかし墓が作られた時期と、副葬品の作られた時期が必ずしも一致するとは限らない。
親が使っていたものを受け継いで、墓に治めたなんてことも考えられる。
また、土淵氏も
「朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。」

とおっしゃっていたように、別ルートがないともいえないので、「高松塚と同型の海獣葡萄鏡が副葬品として出土した独狐思貞墓の墓誌(698年)」も年代特定のものさしとしては使えないと思う。

小林氏が指摘される「海獣葡萄鏡の製作は698年より以前」というのも、根拠がない。
独狐思貞墓の墓誌が698年であっても、当然、その後に高松塚出土の海獣葡萄鏡がつくられる可能性もある。

高松塚と同笵鏡と思われる海獣葡萄鏡が中国で出土しているので、日本で製作したものではなく、唐でつくられたものである可能性が高いとはいえるだろう。

⑤透金具

・透金具について、長広敏雄と五味充子は、唐・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文との共通点を指摘。
長広氏はそのデザインの最古例として則天の母楊氏の順陵の大石の坐獅子の台座線刻もようをあげる。
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、それ以後のもの。


・永泰公墓の墓誌石蓋の宝相華文よりも臨海殿出土の「塼(せん)」に似ている。
臨海殿は文武14年〈674年〉2月に作られたと「羅記」にあるが、文武王20年(の銘文のある塼が出土している。
この模様の起原は670年まで遡るといえる。

https://www.narahaku.go.jp/collection/1066-0.html (宝相華文塼 慶州付近出土)

史料に674年とあり、出土した塼が681年であれば、遡ることができるのは674年である。
そうではあるが、高松塚の透かし金具のデザインと似たものが、則天の母楊氏の順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」にあり、
楊氏は670年死亡、690年順陵に改葬されているので、670年に遡るとされているのだろう。
しかし、この順陵「大石の坐獅子の台座線刻模様」は690年に作られたものであり、楊氏が死亡した670年にその模様があったとはいえなくはないだろうか?

・網干善教氏は高松塚古墳と新羅の関係が深いこと、東大寺出土の金鈿装太刀、法隆寺玉虫厨子の造金具に似ていると指摘している。

・源豊宗氏は興福寺十大弟子と八部衆の服飾、東大寺三月堂の不空羂索観音の光背の模様に似ていると指摘。

不空羂索観音の画像はこちら ↑

興福寺 八部衆

興福寺 八部衆 向かって左・畢婆迦羅像、向かって右・沙羯羅像

興福寺 阿修羅像 服飾の模様

興福寺 八部衆 阿修羅像の服飾

・法隆寺心礎舎利容器、妙心寺梵鐘文、大官大寺出土隅木金具などの対葉華文と似ているとの指摘もある。
7世紀末から8世紀にかけてアジア全体に流行した模様だといえる。

⑥土器

・盗掘の際持ち込まれたと思われる土器が石槨内に流入した土の中や上、墳墓頂上部の攪乱土中から出土した。
これらはすべて燈明皿と推定されている。

・墳丘基底面・下層から須恵器(古墳時代から平安時代にかけて日本で生産された陶質土器。青灰色で硬い。)の杯身と蓋の破片が発見された。これらの土器は藤原京時代かそれ以前のものと考えられている。






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