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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑭中国の地獄絵は十二支が亡者を責める?


トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、他の資料からの引用は青色文字で、私の感想などはグレイの文字であらわす。

①漢代、猫はペットとして飼われていなかった?

・子は鼠、丑は牛、寅は虎、卯は兎、辰は?(読めないのだろう。)巳は虫(蛇)、午は鹿、未は馬、申は環(猿に通じる)、酉は水(雉に通じる)、戌は老未、亥は豚。(秦代行政官の墓に副葬された巻物「日書」)
秦(紀元前905年 - 紀元前206年)の時代、干支は現在のものとちがっている。

・後漢(25年 - 220年)時代の『論衡』に記されている干支は現在と同じ。

・辰は貝、巳は蛇をあらわす漢字。

・干支の虎,辰以外は身近な動物。

・干支が整った漢代に猫は身近な存在ではなかった。猫がペットとして飼われるのは早くても南北朝時代。


・中国中央部の遺跡である泉湖村では、約6,000年前から人間が定住していた。
・考古学者らは泉湖村で、住居や貯蔵穴、陶器、そして植物や動物などの痕跡を発見した。
・見つかった骨は約5,300年前のもの。
・食生活の分析から、イヌ、ブタ、ネズミは穀類を食べており、ネコは、穀類を食べる動物を狩っていた。
・遺跡の発掘で、ネズミが貯蔵穴の近くに住んでいたことがわかった。
・狩りよりも穀類で栄養を得ていたことを示すネコの骨、老齢まで生き延びたネコの骨も見つかっている。(人間がネコに餌を与えていた。)

「漢代に猫が身近な動物でなかった」というのは疑問である。
私の友人に之を話したところ、「猫と虎はどちらもネコ科の動物でかぶるので、猫は省いたのではないか」と意見をいただいた。

⓶干支は人を仙境へ導いてくれる?

・山西省右玉県大川村で発見された銅温酒樽(河平3年の紀年銘文がある。河平3年は紀元前26年)
上段には虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁など。朱雀がはばたいている。(上空をあらわす)
下段には地穴から龍が顔をだし、足を踏ん張る虎がいる。仙人が山岳を駆ける。(低い位置をあらわす。)
伝統的な昇仙図。動物たちが人を仙境へ導く。
虎、羊、鹿、駱駝、猿、鼠、雁が上段にいるのは、人を上段の仙境へ導いているからだと来村氏はおっしゃりたいのだろう。

しかし、そうであるならば、なぜ上段には人が描かれていないのだろうか?

・山西省離石氏午茂省 三号墓
前室から奥に、向かって左側の壁に馬車に乗って昇天する被葬者が描かれる。
その下には龍にのる仙人、さらにその下には戟をつく鶏頭人身の門番がたつ。
右側の壁には婦人を乗せた車、その下には笏を持つ牛頭人身の門番がたつ。
・天鶏が毎朝太陽のカラスを呼ぶという伝説がある。
牽牛は牛に助けられて天に上ったという伝説がある。
そういった伝説から天の門番に抜擢されたのかも。

日本では、鶏は伊勢神宮の神使いとされる。
伊勢神宮は太陽神・天照大神を祀る神社である。
太陽と鶏が結びついたのは、鶏が朝一番にコケコッコーとなくところから、鶏が朝(=太陽)を呼ぶと考えられたのではないかと思う。

牽牛はその名前のとおり、「牛を牽く若い男」という意味だろう。これは「牛を牽く童子」と言ってもいいと思う。
967年施行の日本の延喜式には次のように記されている。
「大寒の日、宮中の諸門に『牛を牽く童子の像』をたて、立春の前日=節分の日に撤去する。」
なぜこのようなことをするのだろうか。
牛は干支の丑を表すものだと思う。丑は12カ月では12月を表す。

干支

そして童子は八卦で艮(丑寅)をあらわす符である。
丑は12月、寅は1月なので、艮(丑寅)は1年の変わり目をあらわす。
つまり、『牛を牽く童子』は、『丑(12月)を艮(丑寅/1年の変わり目)』で、目には見えない冬の気を視覚化したものなのではないかと思う。

・婁叡墓〈570年)のドーム天井壁画
上部 天体
その下 十二支
    十二支の動物たちは右に向かって進んでいる。
    十二支のほかに描かれている聖獣は人の悪い心を読み取る「カイチ」か。
その下 雷神四神、10個の太鼓をたたく雷神も描かれる。
その下 被葬者を載せた牛車

・十二支は人を仙境に導くお供であり、方位の鎮守でもある。

③十二支は地獄で亡者を責める?

来村氏は「十二支は人を仙境に導くお供」だと仰るが、本当にそうだろうか。
婁叡墓は570年ごろつくられたものだが、そのころの中国にはすでに仏教が伝えられていた。

地獄の法廷を描いた中国の仏画

地獄の法廷を描いた中国の仏画

上の絵は ウィキペディア「閻魔」にあったものである。

画像が小さくて確認しづらいのだが、閻魔大王の向かって右には羊の顔の人がいる。
向かって左の人は牛の顔をしているように見える。
針の木の下にいる人は馬の顔、釜の向かって右にいる人は龍だろうか。
釜の向かって左の人も動物のような耳がある。
その下には虎の顔をした人が死者を運んでいる。テーブルの上の人を料理している人は鶏の顔だ。

そして獣頭人体のものたちが手に持っている武器は、韓国金庚信墓十二支像が手にもっている武器と同じようなものがある。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

日本の地獄絵は鬼が亡者を責めているが、中国の閻魔庁に仕えるのは鬼ではなく、動物の顔をした人(神)のようである。

上は朝鮮の地獄絵だが、泰廣大王の下にやはり動物の顔をした人がいる。

もしかして、これは十二支ではないか?

しかも獣頭人体の姿はキトラ古墳や韓国金庚信墓のものと同じである。

タイトルは「地獄の法廷を描いた中国の仏画」とあるだけで、描かれた時期、場所、作者などは示されていない。
なので、古より十二支が地獄の亡者を責める、という信仰があったかどうかわからないのが、もどかしい。

キトラ古墳の壁画に描かれた十二支はもしかして地獄の責め苦を行う役割を担う神なのだろうか?

中国に仏教が伝わったのは、紀元67年とされるが、前漢の時代(BC2年)には伝わっていたという話もある。
いずれにしても、唐(618年 - 907年)代の中国に仏教は確実にあった。
問題は、十二支が地獄の亡者を責めると言う信仰がいつごろからあったかである。

④四天王、十二神将は四神、十二支に対応する?

薬師三尊像

薬師三尊像〈薬師寺)

薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置するものである。

左右は薬師如来からみた場合の左右である。
なので、拝観者からみれば、向かって右が日光菩薩、向かって左が月光菩薩となる。

薬師三尊像を上から見た図

陰陽道では東を太陽の定位置、西を月の定位置、中央を星とするそうである。
すると薬師三尊像の中央に安置される薬師如来は星を神格化した仏ということになり、陰陽道の宇宙観にあっている。

また記紀によればイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
イザナギの顔は宇宙空間に喩えられているのだろう。
すなわち、スサノオは星の神ということである。
船場俊昭氏は「スサノオ(素戔嗚尊)とは輝ける(素)ものを失い(戔う/そこなう)て嘆き悲しむ(鳴/ああ)神(尊)」という意味で、はもとは星の神であったのではないかとおっしゃっている。

薬師本尊を中心とした仏教の世界は、日光・月光菩薩、四天王のほかに十二神将が周囲を取り巻くもので、願興寺にはこの十二神将も一体もかけることなく現存している。

上の記事に記されているように、薬師如来の周囲に四天王や十二神将が安置されることがある。

そして十二神将は十二支を神格化した仏だと考えられる。

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神

十二神将像 京都府・浄瑠璃寺伝来 鎌倉時代(13世紀) 重要文化財 東京国立博物館及び静嘉堂文庫美術館分蔵 上段左から子神、丑神、寅神、卯神、辰神、巳神。下段左から午神、未神、申神、酉神、戌神、亥神。

すると、仏教の薬師如来を中心とする世界は陰陽道の宇宙観を示したものだと考えられる。
また、それは中国の神と次のように対応しそうである。※()内は中国の神

方角       如来・菩薩(星・日・月) 四天王(四神)   十二神将(十二支)

中央・・・・・・・薬師如来(星)
北・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・多聞天(玄武)・・・亥神(亥)・子神(子)・丑神(丑)
東(左)・・・・・日光菩薩(日)・・・・・・持国天(青龍)・・・寅神(寅)・卯神(卯)・辰神(辰)
南・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・増長天(朱雀)・・・午神(午)・未神(未)・申神(申)
西(右)・・・・・月光菩薩(月)・・・・・・広目天(白虎)・・・酉神(酉)、戌神(戌)、亥神(亥)

中国や朝鮮はどうか知らないが、日本では神仏は習合して信仰されていた。
そして梅原猛氏によれば、古には神と怨霊は同義語であったという。
現在でも怨霊を祀る神社は多数存在している。
各地に御霊神社という名前の神社があるが、御霊とは怨霊が祟らないように慰霊されたもののことでもともとは怨霊出会った人々を神として祀っているのである。

陰陽道では怨霊(荒魂)は、神として祀り上げると、人々にご利益を与えて下さる和魂に転じると考えたという。

そして仏教の神々は、そういった怨霊である神々に「恨み」や「祟ってやる」という煩悩を捨てさせ、悟りを開いて「人々にご利益を与える存在」と考えられたのではないかと思う。

すると陰陽道の神と考えられる星、日、月、四神、十二支などは陰の存在、
仏教の薬師如来(星)、日光菩薩、月光菩薩、四天王、十二神将は陽の存在と考えられないだろうか。

日本に仏教が伝来したのは552年説、538年説などがあって、舒明天皇代(629- 641年)には百済大寺が、6世紀末には飛鳥寺や四天王寺が創建されたとみられている。

高松塚・キトラ古墳は646年の薄葬令以降に作られた古墳である可能性が高い。
つまり、すでに仏教は伝わっていたが、高松塚・キトラ古墳は仏式ではなく、神式(陰陽道)で祀られた墓だと考えられそうである。

そして仏教=陽、神道=陰と考えると、少なくとも日本においては、墓に描かれた十二支は被葬者を守護する目的で描かれたとは言い切れないように思う。

もしかすると、被葬者を守護するというよりは、被葬者の霊魂が迷い出ないように、十二神将が被葬者の霊魂を見張っているのかもしれない。

⑤高松塚・キトラの被葬者は南枕だった?

先ほど、私は次のようなことを述べた。

・記紀にイザナギの左目から天照大神(日神)が、右目から月読命(月神)が、鼻からスサノオが生まれたという記述がある。
・イザナギの顔は宇宙空間に喩えられており、イザナギの顔の中心にある鼻からうまれたスサノオは星の神。
・薬師三尊像は中央に薬師如来、薬師如来の左手(向かって右)に月光菩薩、薬師如来の右手(向かって左)に日光菩薩を安置する。
左右は薬師如来からみた場合の左右。
・薬師如来は星の神

星の神とはキトラ古墳天文図の中央に描かれた赤い円(内規/1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲)の中にある、北極星(地球の自転軸は歳差運動といって独楽がぶれるような動きをしているため、北極星は時代によって異なる。地球の歳差運動の周期は約25800年。)または北辰(天の北極)の神だと思う。

高松塚星宿図では図の中央にある星宿「北極(星宿名であり、天の北極の意味ではない。)」「四輔」、または北辰の神だろう。

つまり、北極星または北辰からみて左が東、右が西ということだ。
キトラ高松塚
キトラ天文図 高松塚古墳星宿図 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

高松塚の星宿図やキトラの天文図は、石室に眠る被葬者が北枕で寝かされた状態で、空を見上げたときに、向かって右が月、向かって左が日がくるようなレイアウトになっている。

天井に描かれている図の側からみれば、左に月、右に日があるという状態になり
これでは「イザナギの左目から天照大神(日)が、イザナミの右目から月読命が(月)が生まれたという記述とあわなくなってしまう。

キトラ 被葬者は北枕?

上の図は「キトラ古墳 四神の館」で展示されていたものである。
被葬者は北枕で寝かされている。
この状態であれば、被葬者が見上げた空は上のキトラ天文図のように、被葬者の右手(向かって左)に月、被葬者の左手(向かって右)に日が見える。

キトラ古墳は木棺も朽ちてしまったのかほとんど残っていない状態だった。
人骨と歯は10点(4点は歯、6点は頭の骨の破片) http://www.asahi.com/special/kitora/OSK200406180048.html
のみ発見されているが、盗掘にあっており、その際に動かされた可能性もある。

北極星や北辰からみれて、左手に太陽、右に月がある状態にしようと思ったら、南枕にする必要があると思う。
高松塚、キトラ古墳の被葬者はもしかしたら南枕だったという可能性も考えてみた方がよさそうに思える。

あるいは、地下の石室内で北枕で左手側を日、右手側を月とし、
これを反対側の地上から見下ろしたときには右手側が日、左手側が月になるように天文図・星宿図を描いているのは
何か意味のある呪術なのかもしれない。

高松塚星宿図についてだが岸俊男氏が次の様に言っておられることにも注意しておきたい。

高松塚古墳の被葬者の遺骸は棺の金銅製飾り金具が1個石槨内の南壁付近から検出されており、阿武山古墳のケースと同様南枕であったのではないかと考えられる。
もしそうだとすれば、朝賀の儀式の詳細を記した貞観儀式に男子人物像は「舎人を率いて先頭の〇〇に立つ」とに規定された官人だと考えることができる。(「壁画古墳 高松塚 調査中間報告」p167より引用)

唐や高句麗の壁画古墳にも日月が描かれたものは多いと思うのだが、被葬者の向きはどうなっているのだろうか。
どうやらこれを調べてみる必要がありそうである。

⑥壁画を描いたのは黄文本実説には根拠がない。

・高松塚、キトラの壁画を描いたのは黄文連本実(きぶみのむらじほんじつ)だとする説がある。
・黄文氏は高句麗系氏族。
・669年の第七次遣唐使で渡唐し、671年、土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)を天智天皇に献上した。
・薬師寺の仏足石は本実が唐の普光寺で転写した図面をもとにしたとする記録がある。
・この説の根拠は、❶高松塚、キトラの築造時期と同時期の人物であること ❷他の絵師の名前が伝わらないこと
・しかし本実が描いたと伝わる絵は一点もなく、説には根拠がない。
・キトラ古墳の四神図は7世紀半ばから8世紀初頭にかけての唐墓壁画の四神図に最もにている。

来村氏はこのように述べているが、白虎の前足比較図が掲載されているだけなので、キトラが唐、キトラ古墳の四神図は7世紀半ばから8世紀初頭にかけての唐墓壁画の四神図に似ているかどうかは今のところ判断できない。
唐や高句麗の壁画古墳についての書籍などを調べてみた上で判断したい。

⓻十干・二十四方位・二十八宿

・十干 (甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)は万物は木火土金水から成るとする五行説からくる。)
 甲(きのえ)・・・木の兄
 乙(きのと)・・・木の弟
 丙(ひのえ)・・・火の兄
 丁(ひのと)・・・火の弟
 戊(つちのえ)・・・土の兄
 己(つちのと)・・・土の弟
 庚(かのえ)・・・金の兄
 辛(かのと)・・・金の弟
 壬(みずのえ)・・・水の兄
 癸(みずのと)・・・水の弟

・二十四方位

二十四方位




上の記事で
「『史記』『封禅書』によれば、人界五帝のうち、青帝・赤帝・白帝・黒帝の四帝を祀る檀を築いたが、中央に祀るべき黄帝太一の祭壇を避け、未の方角で祀られた。」
「黄帝に配属される麒麟も未の方角に描かれるべきと考えた孫機氏は、多くの鏡が未の方向に描かれていることを発見した。」
とする来村氏の発言について記した。

なぜこのような祀り方をしたのかについての来村氏の説明

五帝壇配置図
図1

帝    色   五行  方角  二十四方位
黒帝・・・黒・・・水・・・北・・・壬亥
青帝・・・青・・・木・・・東・・・甲寅
赤帝・・・赤・・・火・・・南・・・丙巳
黄帝・・・黄・・・土・・・南・・・丁未  ※本来、土は中央だが、中央を避けて未丁の位置に祀った。
白帝・・・白・・・金・・・西・・・庚申

方格規矩四神鏡

方格規矩四神鏡は上の図をデザインしたもの(孫機氏 説)

・二十四方位・二十八宿・四神の相関図

二十四方位・二十八宿・四神の相関図


図2

⑧黄龍は天、麒麟は地?

・五神は、北=玄武、東=青龍、南=朱雀、西=白虎、中央=麒麟だが、麒麟があまり描かれないのは
図1のような偏った配置でなく、図2のように四神(玄武・青龍・朱雀・白虎)を中央においたためではないか。

私はこの来村氏の意見には納得できない。
麒麟は置き換えられていない。図1、図2は平面図だが、本来は立体であるべきで、上が黄龍、下が麒麟なのではないか。
(五神のうち中央は黄龍または麒麟とされる。)

高松塚・キトラ古墳にあてはめて考えれば、天井(上)にある星宿図または天文図が黄龍に置き換えられたと考えられるのではないか。
また下にいると考えられる麒麟は被葬者ということになる。

なぜ麒麟が下なのか。
来村氏は麒麟のモデルは鹿だとおっしゃっていた。
そして「鹿は謀反人の比喩」とする説があり、私はこれを支持している。

日本書紀に「トガノの鹿」という物語がある。
雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢をみた」というと、雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩であなたは殺されて全身に塩を振られているのです」と答えた。
雌鹿の言葉通り、雄島は猟師に射られて死んでしまったという。
古には謀反の罪で死んだ人は塩漬けにされることがあったというのだ。

雄鹿の全身に霜が降る、というのは、鹿の夏毛の白い斑点を塩に喩えたものだろう。
そして動物のキリンは五行説の土を表す黄色をしており、白ではなく茶色だが、斑点がある。
ここから、鹿は麒麟という想像上の聖獣へと変化していったのではないか。

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