fc2ブログ
2024 02123456789101112131415161718192021222324252627282930312024 04

高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑬ キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


今回も前回にひきつづき、『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』を参考資料として考えてみる。
来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、他の資料からの引用は青色文字で、私の感想などはグレイの文字であらわす。

①キトラ古墳壁画の十二支像の顔の向きは一定ではなかった。

高松塚古墳のような女子群像、男子群像はキトラ古墳にはなく、十二支像が描かれていた。

このうち「十二支」を人をかたどった姿で描いた壁画はこれまで6体が確認されていましたが、今回、文化庁が泥に覆われている部分を蛍光エックス線を使って分析したところ、「十二支」の「辰(たつ)」と「巳」、それに「申(さる)」にあたる場所に顔料の成分とみられる水銀や銅の反応が検出されたということです。
データをもとに可視化すると、このうち「巳」とみられる像では衣装をまとった姿や顔の部分から伸びた舌が2つに割れている様子などほぼ全身が確認できました。
~略~
このうち十二支の像は、▼東の壁に描かれた「寅(とら)」のほか、▼南の壁の午(うま)と▼西の壁の戌(いぬ)、▼それに北の壁の亥(い)、子(ね)、丑(うし)のあわせて6体の像が肉眼で確認されています。
残り6体のうち、▼東の「卯(う)」、▼南の「未(ひつじ)」、▼西の「酉(とり)」の3体については、それぞれ描かれていたと考えられる場所のしっくいがはがれ落ちていてすでに失われているとみられています。
一方、▼東の「辰(たつ)」、▼南の「巳(み)」、▼西の「申(さる)」が描かれていたとみられる場所は、しっくいが泥に覆われた状態だったため文化庁などはこの部分をはがしとって保存し、壁画が残っていないか科学的な方法で調査を続けていました。
リンク先には新たに見つかった辰・己・申像の映像もある♪

キトラ古墳石室に十二支すべてが描かれていたと仮定してみる。
「キトラ古墳 四神の館」で確認したところ、寅は「東壁、向かって左」に、午(うま)は「南壁、中央」に描かれていた。
すると、十二支の配列はたぶん、下図のようにこうなっているのだと思われる。

方角を表す十二支

虎像

寅像 キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

キトラ古墳の石室でこれまでに確認された十二支などの壁画は、古代中国の思想を背景に、東の方角は「青」、西は「白」、南は「赤」、北は「黒」と、それそれ異なる色で塗り分けられていた可能性が高いと考えられています。

とあるので、退色しているが、たぶん寅は青い着物をきていたのだろう。

午像

午像 キトラ古墳 四神の館にて撮影

午(うま)像は南に位置しているので赤い着物をきている。
「逆像ながら現れた十二支 午の姿です」とあるのは、絵の上に泥がへばりついていてとりのぞくことができなかったが
絵の保存のため、漆喰を剥がしたところ、裏から漆喰の上に塗った赤い顔料が見えていたので、泥ではなく、漆喰の方を丁寧にはがしていった。
そうしたところ、逆像として午像の姿が現れたということである。
研究者の方々や作業をされた方の感動が、私にも伝わってくるように感じられる。

上の絵は向かって右を向いているが、実際の像は寅像と同じく向かって左をむいていたということになる。

さきほどもご紹介したこの記事に登場する己像は、寅像、午像と違って左(向かって右)向きになっている。

韓国金庚信墓十二支像(拓本)

↑ これは韓国金庚信墓十二支像/拓本(キトラ古墳 四神の館にて撮影)である。
金庚信墓十二支像は墓石室の壁画ではなく、墓の周囲にめぐらした石に刻まれたものである。

十二支の顔は、キトラ古墳の寅像、午像と同じく全て右(向かって左)を向いている。
ところがキトラは十二支の顔の向きが全て同じではなく、異なっているものもあるということになる。

金庚信墓十二支像はほとんどの像が両手に武器を持っているように見えるが、巳像のみ、右手だけに武器を持っているように見える。

キトラの巳像は右手に何かを持っていることはわかるが、手元が不明瞭で左手に何かもっているかどうかはわからない。
キトラの辰も右手に武器を持っているのが確認できるが、左手、顔の向きはわからない。
申は顔の向きも武器の有無も確認できない。

寅・午のほか、肉眼で確認されている子・丑・戌・亥の画像を下に示す。
キトラ  子丑戌亥

子は右向きで左手はわからないが右手には武器をもっていそうである。
丑は右手に武器を持っているのはわかるが、顔の向き左手はわからない。
戌亥は着用している着物しかわからない。

⓶高松塚・キトラ古墳は新羅の影響を受けている?

①で手に武器を持っていたと書いたが、これについて来村氏は次のようにおっしゃっている。

・子像・丑像は赤い棒状の盾(鉤鑲/こうじょう)をもっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%A4%E9%91%B2 に鉤鑲の写真、説明あり。
・鉤鑲は後漢時代に流行した武具で、湾曲した太い鉄の棒で敵の刀を受け止める。
・キトラに描かれた鉤鑲は房飾りがついているので、実用ではないだろう。舞人舞踏に用いられたか。(来村氏)
・寅像は房飾りのついた鉾をもっている。

キトラ古墳 四神の館にあった説明版には
「手に武器をもっている点は中国の意匠ではみられない特徴ですが、仏教の影響とも鮮半島の影響とも言われています。」と書いてあった。

十二支像があるのは金庚信墓である(墓の周囲の護石に浮彫として刻まれている。)

金庚信(きむ ゆしん、595年 - 673年)は、伽耶王家の血を引く人物で、三国時代の新羅の将軍である。
660年、新羅は高句麗と百済の麗済同盟に対抗して、唐と組んで百済へ進軍、百済を滅ぼした。
663年(天智2年)、百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍vs唐・新羅連合軍との間で戦争がおこる。
唐・新羅連合軍はこれに勝利し、さらに668年に高句麗も滅ぼしている。
金庚信はこれらの戦いで活躍した。

唐での十二支像は西安出土の加彩十二支俑がある。
http://www.hitsuzi.jp/2011/10/1911sheep.html
「12体の俑を各方角へ配置することで、墓内に侵入する邪気を払う役割を果たしていたと考えられる。」と
「大唐皇帝陵」展カタログ には記されているようである。
この方のブログはその他にも、
四川万県唐墓出土 青磁十二支俑新羅の十二支像(景徳王陵)なども紹介してくださっている。

ここで思い出すのは土淵正一郎氏の見解である。
土淵氏は、次のような内容を述べておられた。

❶・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。


❷高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。

❸高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。新羅文化の影響をうけたものではないか。

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。


キトラもまた新羅の影響を受けているといえるだろうか。

③キトラ十二支は右前、高松塚群像は左前

・子像、丑像、寅像は右前で襟をあわせる。

右前とは着物の襟の右を先に合わせることである。

右前

上は北野天満宮の節分会で撮影したものだが、舞妓さんは右前で着物を着ている。

左前

高松塚古墳の女子群像をみると、左前のように見える。
右前で着物を着るのは、719年の「衣服令」で定められたという。
高松塚古墳の女子群像が左前になっていることから、719年までは左前で着物を着用していたと考えられているようである。

A.その中で着物の着方について庶民は右前、高貴な人は左前と決められたのです。しかし、亡くなったときのみは庶民も高貴な人と同じように左前で着ても良いと法令で定められました。

また奈良時代は人が亡くなると神様や仏様となるために、現世とは違う左前の服装をするという発想もありました。

黄泉の世界で良いことがあるようにという願いを込めた風習という説も存在します。

上の記事で書いてあることは事実だろうか。
衣服令の規定を読んでみたいと思ったが、残念ながら見つからなかった。
しかし、こう書いてある記事はあった。

なお元正天皇の養老三年(719)二月三日、「初令天下百姓右襟」と定められ、今までの左前(左袵・さじん)が右前(右袵・うじん)となりました。

「百姓」とは、現在では農業従事者のことをさす。
しかし、本来は「a天下万民」を指す語であった。
しかし、古代末期以降に「b被支配者階級」をさす言葉となり、明治ごろになって「c農業従事者」を指す言葉になったとされる。
もちろん、「初令天下百姓右襟」の「百姓」は「a天下万民」の意味だろう。
Aの記事はこれを、bcの意味だと誤認してしまったのではないだろうか。

高松塚、キトラ古墳に似ているといわれる高句麗壁画古墳、唐の壁画古墳の人物像をいくつか確認したところ、右前だった。

それでは右前になっているキトラ古墳は719年以降に築造されたのだろうか。
あるいは、何か理由が会って右前になっているのだろうか。 >
関連記事
スポンサーサイト




コメントの投稿













管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

この記事のトラックバックURL
http://arhrnrhr.blog.fc2.com/tb.php/1156-a5be2f5f