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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑫ キトラ古墳の天文図、四神 ※追記有8月18日

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?


図書館で『キトラ古墳は語る/来村多加史(生活人新書)』という本を借りることができたので、今回はこれを参考史料として考えてみることにした。

読んでみると、この本は「キトラ古墳は語る」というタイトルではあるが、中国の墓の壁画、四神の歴史などについて多くのページをさく内容となっていた。
しかし参考になる点は数多くあったので、それについて記していきたいと思う。
来村多加史氏の発言の内容についてはピンク色文字で、それについての私の感想などはグレイの文字であらわす。

①キトラ古墳の天文図には大きな星が4つある。

キトラ古墳 天文図

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)

・キトラ古墳では4つの星が故意に大きかった。4星のうち、3つは北半球における可視領域の限界、外規に近い場所。
めったに見れない星。
大星のひとつは冬季に地上すれすれに観測される老人星。

これについて検索したところ、次の様に書いてある記事があった。

キトラ古墳天文図の星の大きさは直径約6mmで星によらずほぼ同じだが,3星のみ大きく,直径約9mmある.大きいのは,図で「天狼」「土司空カ」「北落師門カ」と書いてあるもので,天狼はα CMa(シリウス)で,同定に間違いはないと思われるが,土司空は β Cet,北落師門は α PsA(フォーマルハウト)で,位置の差が大きいので,星の同定が違っている可能性がある.ただし,この2星は,この付近に他に目立つ星がないので,なぜこれらの星だけ大きく書かれたのかは謎である.
「キトラ古墳天文図の解析 - 国立天文台」より引用(http://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/history5/21Soma.pdf

来村多加史氏は大きい星は4つだと記しておられるが、国立天文台の記事では3つとある。
実物を確認できないので、どちらが正しいのかわからない。

この4つ(または3つ)の星が大きく描かれていたのはなぜか。
中国の占星術を勉強すればその意味がわかるかもしれない。(お手上げ状態?)😂

上の写真の天文図は分かりやすいように、「天狼」「土司空」「北落師門」を緑色で、「老人星」はオレンジ色に変更した。(本来は他の星々と同じ色/実物は金箔が貼られている。)

⓶天文図に描かれた4つの赤い円は何を表している?

キトラ古墳の天文図に描かれた4つの赤い円。うち二つの円は交差している。
いったいこの円は何なのかと思っていたが、来村多加史氏が本の中で説明してくださっていた。

・内側の小さな円・・・内規・・・1年を通じ、1日を通じて地平線に沈まない星座の範囲
・外側の大きな円・・・外規・・・観測地点からの可視領域 この外にある星はみえない。
                観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない。
・中間の円・・・・・・赤道   天の北極から90度下におろした線(意味がわからない?)
                天の北極は地球の回転軸(地軸)が天球と交わる点なので、
                地球の赤道を天球に投影した円と考えてもよい。 地球の北極もその線上にある。
・ずれた円・・・・・・黄道   1年を通じた太陽の軌道

地球の自転軸は公転軸から23.4度傾いているので、天の赤道と黄道は春分点と秋分天を交点として斜めにまじわる。

赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になるので、高句麗天文図の系譜をひくものとする説もある。(宮島一彦氏説)

来村氏が「観測地点の緯度が計算できるほど精度は高くない」とおっしゃっているのは、「赤道と外規の半径比率から推算した観測地点の緯度が38度付近になる」とする宮島氏の説に対する批判なのだ。
宮島氏がどのようにして緯度を38度と計算したのか確認してみる必要がありそうに思うが
計算の苦手な私に宮島氏の計算が理解できるかどうか自信がない。😚

③キトラの天文図が日本で作られたとは思えない。

キトラ古墳の天文図は不正確ではあるが、同時代の中国・朝鮮の墳墓ではこれほどの天文図は見つかっていない。
そうではあるが、来村多加史氏はこのキトラの天文図を、飛鳥時代の日本で作るのはムリで、外国からもちこんだものだろうとする。
その理由は次のとおり。

・602年、百済僧・観勒が、日本に初めて天文学を伝えた。

・天文図の作成には渾天儀が必要だが、日本ではじめて渾天儀が持ちられたのは寛政年間(1789年から1801年)

明時代の渾天儀のレプリカ

明時代の渾天儀のレプリカ

上は民時代の明時代(1368年~1644年)の渾天儀のレプリカだが、中国では古くから渾天儀を用いており、前漢(紀元前206年 - 8年)のころ、すでに渾天儀が存在していたようである。

・中国では望遠レンズは開発されず、窺管(わくかん)という長い筒が用いられた。
窺管は上下左右に自在に動く。
観測したい星を睨めば星の緯度と経度が同時によめる。

・漢書は118官、783星とした。のちに283、1464星とした。(官は明るい恒星)
張衡は改良を加えた渾天儀で星の数を444官、2500星、微星を含めた星の総数 1万1520とした。
また張衡は水運渾象(すいうんこんしょう)を製作した。
天球儀で、漏刻(水と刑)によって制御されながら、実際ん天球と同じ速度で自動回転する。
のち、北宋時代に蘇頌が水運儀象台をつくっている。

水運儀象台
水運儀象台

・このような中国の進んだ天文学を考えると、キトラ古墳天文図は日本製ではないと思われる。

④二十八宿について

・キトラ、高松塚は二十八宿を表している。
二十八宿は月の交点周期を測る基準、星の座標をきめる基準、占星術に用いられた。
墓の二十八宿は占星術として描かれたのだろう。

・月の周期は29.53日。地球の公転は1か月で30度。
月が次の満月の位置にくるまでには地球を実際に1回転するよりも余分に2日かかる。(地球が太陽の周囲を公転しているため)
上記リンク先にわかりやすい図解がある。)
この誤差を引いた月の公転周期を恒星月といい、約27.32日
月が一夜毎に天体の中を動いていく様子を調べるには、一恒星月を整数とした27日か28日を単位として、
天球を27か28等分して目安となる星座を設定すればよい。
二十八宿のほか、二十七宿があるのはそのため。

・中国天文学では星の緯度は天の北極からの角度によって表示される。(去極度)
星の経度は入宿度 二十八宿を基準点として計測された
二十八宿の基準点は 西端の星(距星)
二十八宿は赤道からかなり外れる星座も含まれる。

・二十八宿の使い道のひとつに天文占がある。(星占い)
天体の異常現象(日食、月食、流星、彗星)が発生した場所の二十八宿が吉凶の判断基準となる。
二十八宿と人間社会との連帯を決定づける説(分野説)
本来、地球の方角を天球に投影することはできないが(地球は自転しているため)
黄道と赤道が交わる春分点を天の東方(地の西方)秋分天を天の西方(地の東方)の定点として天球に東西南北を与えた。
二十八宿にも方角が与えられる。(東西南北に7宿づつ)
人界の動向を天界の変異で語るため、宿ごとの支配地を論じた。(分野説)

高松塚古墳 星宿図

高松塚古墳 星宿図

⑤キトラ日像・月像

キトラ日像は金箔が剥がされている。上部右寄りに黒い鳥の羽と尻尾の先端がある。八咫烏が描かれていたのだろう。
(永泰公主の墓にある八咫烏と一致する。)
月像も銀箔が剥がされている。月輪下部中央に器物の高台、左に曲がった獣の脚、上部に樹木の葉がある。

http://yamataikokutosyokan.web.fc2.com/heya0/kantyou57.htm
(リンク先にイラストあり)

キトラ 日像

キトラ 月像

キトラ古墳 四神の館にて撮影(撮影可)
上の写真に大星が写り込んでいる。「土司空」だろう。

ウサギは崑崙山で西王母のために生薬を杵つき不老不死の薬を作っている。樹木は不老不死の生薬となる。
ヒキガエルも描かれていたと考えられる。高松塚にも描かれていたのではないか。

どちらにも同様の海島と海が表現されているので)赤線は日の出、日の入りの海の色。

来村氏は海だとおっしゃるが、梅原氏は雲だとおっしゃっていた。
どちらが正しいかわからないが、日・月を雲の上に乗せる表現は後年の熊野勧心十戒曼荼羅や北野天満宮の三光門にもみられる。
ただし、キトラ古墳壁画のように線であらわすのではなく、もくもくとした雲である。

熊野勧心十戒曼荼羅

熊野勧心十戒曼荼羅

三光門 月?

北野天満宮 三光門

⑥四神の起原

・西水玻遺跡 新石器時代の貝殻絵(貝殻を並べて東に龍と西に虎が描かれている)
北側の足元には人の大腿骨日本と三角形に敷き詰めた貝殻を組み合わせてひしゃくの形をつくっていた。
北斗七星か?
墓の南20mほどの場所には龍、虎、虎の背に乗る鹿、龍の頭に近づく雲が貝殻で表現されていた。
其の25mほどのところにも竜虎がある。

↑ こちらの記事に図がしめされていた。

・上村嶺虢国墓(じょうそんれいかくこくぼ/春秋時代)から出土した鳥獣紋鏡は、上に鹿、下に鳥、向かって右に虎、向かって左に龍が描かれている。
四匹が頭を向ける方向を北として、鏡背に方角を与えると東に虎、西に龍、となって
西水玻遺跡の貝殻絵やのちの四神図と龍と虎の方角が逆だが、図を頭上に挙げて下から見れば直る。
古い時代には玄武は登場しない。

「四匹が頭を向ける方向を北として、鏡背に方角を与えると東に虎、西に龍、となって西水玻遺跡の貝殻絵やのちの四神図と龍と虎の方角が逆だが、図を頭上に挙げて下から見れば直る。」とある。

私はこの文章の意味がわからず、3日(!)考えてようやく意味がわかった。

四神図は一般的に次のようなレイアウトで描かれる。

四神図

東(向かって右)が青龍、西(向かって左)が白虎である。
ところが、鳥獣文鏡は、向かって右には虎、向かって左に龍が配置されていて、一般的な四神図と虎・龍の位置が反対になっている。

鳥獣文鏡

しかし、上の図を頭上にあげて、鹿を北、鳥を南の方角に向けると、虎は西、龍は東の方角にくると、
そういう事をおっしゃっているのだと思う。

・戦国時代初期 曾侯乙墓(そうこういつぼ)から出土した衣装箱 
蓋上面に斗の字が描かれ、周囲に二十八宿の字が並ぶ。
南西に白虎、北東に青龍、龍型の面に舟形、虎方に蛙、南東には何も描かれていなかった。
鳥は他の衣装箱に描かれていたが、玄武は登場しない。

この衣装箱の図は先ほどもリンクを張らせていただいた上の記事に図が掲載されている。

玄武が描かれていないことに注意するのはもちろんだが、他の衣装箱には描かれていても、この衣装箱の南に何も描かれていなかったというのも個人的には気になる。
高松塚古墳壁画の朱雀は盗掘穴があけられたため、紛失されたとされているが
梅原猛氏は「最初から朱雀は描かれていなかったのではないか」と意見を述べられている。

↑ これは高松塚古墳南壁の盗掘穴(レプリカ)だが、盗掘穴は壁の上部にあけられている。

高松塚古墳壁画_(複製)

高松塚古墳壁画_(複製)

朱雀が描かれていたとすれば、玄武と同じくらいの位置に描かれていたのではないかと思う。
盗掘穴はこれよりも高い位置にあけられているように思うのだが、どうだろうか。
そういうわけで、梅原氏がおっしゃるとおり、朱雀は初めから描かれていなかったようにも思われる。

追記
朱雀が描かれていた場所については上に書いた通りだが、どうも盗掘穴があけられた際に、北壁の漆喰がはがれおちてしまい、その結果、漆喰の上に描かれていたと考えられる朱雀が失われたと考えられているようだ。
梅原氏は朱雀が描かれていたのならば、顔料ぐらいは残りそうだとおっしゃっているが、どうだろうか。
今後の研究をまちたいと思う。

「天子が軍を進めるにあたり、前に朱雀・後ろに玄武・左に青龍・右に白虎の旗をたて、上に北斗七星の柄のところにある星の旗をたてて行進する様を示す。」
と梅原氏は書いておられた。

天子は南面して、北から南に向かって軍を進めるということだろう。
しかし南には朱雀がないので、被葬者は軍を南に進めることができないという呪術的しかけなのだろうかと考えたりした。

衣装箱の場合だと、大事な衣装が外にでていかない。つまり、衣装持ちになれる。そういうわけで朱雀を描いていないのではないかと考えるのは、トンデモだろうか?(笑)

・昔の大型土洞墓では、青龍、白虎、朱雀が描かれるが玄武はあまり描かれない。

玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

玄武

玄武 (キトラ古墳 四神の館にて撮影)

玄武

高松塚古墳 玄武(高松塚壁画館にて撮影 撮影可)

青龍

青龍(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
※青龍は脱色が激しく、頭部・胸部・前脚が残っているだけなので、高松塚古墳壁画から書き起こしたのだろう。
高松塚とキトラの白虎像は大変よく似ているため、青龍も似ていたかもしれない。

青龍

青龍

青龍 高松塚壁画館

高松塚 青龍(高松塚壁画館)

朱雀

朱雀(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
向かって右の翼は、向かって左の翼から復元された。
先ほども述べたように、高松塚古墳には朱雀像はなかった。
(一般的には盗掘穴に描かれていたと考えられている。梅原猛氏は「初めから描かれていなかった」とされる。)

朱雀

朱雀(キトラ古墳 四神の館にて撮影)

白虎

白虎(キトラ古墳 四神の館にて撮影)
キトラ古墳の白虎は高松塚古墳の白虎とよく似ているが、向きが逆になっている。

白虎

白虎 高松塚 (高松塚壁画館にて撮影)

キトラのように向かって右向きに描かれる白虎は珍しいとのこと。
なぜキトラの白虎は逆向きに描かれたのだろうか?







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