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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑪消去法は主観的判断でなく客観的で、明確な事実によるべき 

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

①岩屋山古墳

さて、土淵氏はなぜ高松塚古墳が高市皇子の墓だとしたのか。
それは紀路にある古墳のうち、可能性が低いものを落としていった結果、高松塚古墳しか残らなかったからだとされる。
紀路とは現在の近鉄吉野線、橿原神宮前駅から線路沿いに南へ、飛鳥駅に向かう道のようである。

ひとつひとつの古墳について、土淵氏の見解をみていこう。

まず岩屋山古墳が高市皇子の墓でない理由を、土淵氏は次の様に述べておられる。(ピンク色でしめしたのが土淵氏の意見。グレイの文字で記したところは、土淵氏の説明に対する私の意見である。)

畿内に岩屋山式とする切石作りの横穴式石室がいくつかあり、7世紀前半、7世紀第二四半期のものとされる。
高市皇子は696年に薨去しており時代があわない。(土淵氏)

7世紀第二四半期とは、一世紀を4分割した2つ目という意味である。つまり、626年~650年がそれに該当する。
おそらく土淵氏が『高松塚は高市皇子の墓』を書いた1991年当時の考古学の見解では、岩屋山古墳を7世紀第二四半期としていたのだろう。

しかし、今ウィキペディアを確認すると、岩屋山古墳の築造時期は、 7世紀中葉から7世紀第3四半期(651~675)となっている。

延喜式は「高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡(現在の広陵町)に在り。」としており、広瀬郡には現在百済寺という寺もあって高市皇子の墓が広瀬郡にある可能性は否定できない。
そうではあるが、明日香に高市皇子の墓があるとするならば、それを岩屋山古墳と考えるのもありかもしれない。

築造時期が7世紀第3四半期(651~675)ならば岩屋山古墳を696年に薨去した高市皇子の墓としても、そんなに無理が無いように思える。

そして、万葉集199に
「(高市皇子は)城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。」
とあるが、岩屋山古墳は明日香近辺の古墳の中でも高さのある古墳である。

また岩屋山古墳は天皇陵に多い八角墳の可能性が指摘されている。
草壁皇子の墓は束明神古墳が有力視されているが、これも八角墳である。

束明神古墳

束明神古墳

束明神古墳横口式石槨(復元)開口部奈良県立橿原考古学研究所附属博物館展示。

束明神古墳石室レプリカ

束明神古墳 横口式石槨(復元)内部

束明神古墳 石室内部(レプリカ)

すると、天武天皇の長子で壬申の乱で活躍した高市皇子の墓が八角墳である可能性もありそうに思える。

岩屋山古墳

岩屋山古墳

岩屋山古墳 石室内部

岩屋山古墳石室内部

そして高市皇子の長子・長屋王の邸宅跡から「長屋親王」と記された木簡が発見されている。
「親王」の称号は天皇の子に用いられることが多く、皇子の子は大抵、王と呼ばれる。
そのため、高市皇子は天皇であったとする説もある。

そもそも古墳の年代をどうやって出しているのか、という疑問が私にはある。
年輪年代法を用いればかなり確実な年代がでそうだが、木の皮がついた木材が発見されないと年輪年代法は使えない。
さらには古墳築造よりも古い木材を古墳内に持ち込んだ可能性もないとはいえない。
放射性炭素年代測定法もあるが、誤差が大きいと指摘されている。

古墳の形や出土した土器などの編年(遺構及び遺物の前後関係や年代を配列すること)によって年代を出す方法もある。
しかし形の変遷の順序は正しく作れても、古墳築造時期は、かなりアバウトな数字になるのではないだろうか。

箸墓古墳の築造年代についても長らく4世紀中期以降とされ、卑弥呼の墓ではないと言われていたのが、近年炭素14年代測定法により3世紀中頃から後半とする説が有力視され卑弥呼の墓の可能性が高いと言われるるようになっていたりする。

史料と照合して年代を出すのであればそこそこ信頼できる数字になりそうだが、そういうものが無い場合、古墳や土器、建造物などの年代を出すのは難しいのではないだろうか。

【古墳の大きさ比較】岩屋山古墳は高さ12mで、近隣の終末期古墳と比較して高さがある。
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
岩屋山古墳・・・・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)
菖蒲池古墳・・・・・・・・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)径14尋(28m)、高さ1尋(2m)
高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・・・・・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                              ※石敷・砂利敷部分を含むと対辺長32m                 
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・ 辺9.65尋(19.3m)
マルコ山古墳(川島皇子/691)・・・・・・・対角長12尋(24m、高さ2.65尋(5.3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・・対角長15尋(30m)
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・・一辺3.8尋(7.6m)
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・ 径8尋(16m)

※被葬者は確実視されていないものを含む。
※1尋は2mで計算

⓶牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳については、天皇陵に多い八角墳であること、横口式石槨墳は書紀によると斉明天皇だけであることから斉明天皇陵であろう。(土淵氏)

これについては現在、八角墳の牽牛子塚古墳は斉明天皇と間人皇女の合同陵が確実視されている。
牽牛子塚古墳の石室は2つあり、さらには隣接して越塚御門古墳がある。
これは「天豊財重日足姫天皇(斉明天皇)と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」とする日本書記はの記述と一致している。

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳と越塚御門古墳(向かって右)

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳

③マルコ山古墳

築造年代が7世紀末というのは高市皇子の墓としても成り立つが、所在地が真弓で被葬者の年齢が30歳なので川島皇子の墓だろう。(土淵氏)

発掘調査の結果、マルコ山古墳から30代とみられる男性の骨が見つかった。
川島皇子は34歳でなくなり、越智野に葬られたとされ、年齢はあう。
越智野は奈良県高市郡高取町の北部,及び明日香村西部の低丘陵とされる。
真弓はこの越智野に該当しそうで、場所もあいそうだ。

マルコ山古墳

マルコ山古墳

⓸束明神古墳

土淵氏は、川上邦彦氏の文章をとりあげて、彼に同意し、束明神古墳を草壁皇子の墓だとされる。
川上氏の指摘は以下のとおり。
・多数の鉄釘、漆膜片、棺金具の一部が発見されており、漆塗りの木棺があったと思われる。
・人歯10本発見された。被葬者は1人。
・八角墳、築造時期の一致、地元では「草壁皇子の墓」とする伝承がある。若干の文献とも一致するなど、草壁皇子の墓である可能性が高い。

⑤中尾山古墳

八角墳、火葬墓なので、文武天皇陵と考えられる。(土淵氏)

中尾山古墳

中尾山古墳

⑥キトラ古墳

地名が安倍山なので、安倍氏との関連も考えられるが、安倍氏の墓は安倍文殊院辺りに集中している。
阿部倉梯麻呂の墓も安倍文殊院。703年に没した安倍御主人の墓にしては、規模と位置からふさわしくない。(土淵氏)

安部文殊院境内には文殊院西古墳があり、被葬者は阿倍倉梯麻呂という説がある。
また文殊院西古墳の東には文殊院東古墳があり、安倍氏一族の墳墓ではないかといわれている。
グーグルマップをみると、この2つの古墳のほかに谷首古墳、艸墓古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳、兜塚古墳などがある。
被葬者は不明のようだが、安倍文殊院近辺にあるので、安倍氏と関連のある古墳かもしれない。
文殊院西古墳は直径25-30m、高さ6m。キトラ古墳は直径13.8 m、高さ3.3mだが、なぜこのサイズだと安倍御主人の墓としてふさわしくないのか、土淵氏は説明をされていない。

キトラ古墳

キトラ古墳

キトラ古墳は天武の皇子だろう。その中で藤原京時代に没したのは、高市、弓削、忍壁。
忍壁は現・文武陵(栗原塚穴古墳)ではないか。
高市の墓にしては欽明天皇陵から離れすぎている。
するとキトラ古墳は弓削皇子の墓だと考えられる。(土淵氏)

藤原京に関与した人物が「聖なるライン」上に並んでいるとしたら、高松塚古墳は高市の墓ではなく、弓削や忍壁であってもいい。
また、キトラや現文武陵が高市の墓であってもいいということにならないだろうか。
なぜ高松塚が高市の墓であるといえるのかについての説明が不足しているように思われる。

文武天皇陵

現・文武陵

土淵氏は、高市の墓は欽明天皇陵の側にあるはずだとの考えから、高松塚を高市墓と考えておられるのかもしれない。
キトラ古墳は若干欽明天皇陵から離れている。
しかし、現文武陵は欽明天皇陵からそんなに離れていないので現文武陵を高市墓と考えることもできそうに思える。

そしてキトラ古墳は弓削の墓とは考えられない、かなり有力な証拠がある。
キトラ古墳から骨が出土しており、その鑑定結果から、被葬者は熟年ないしそれ以上の年齢の男性と考えられているのだ。

弓削皇子は30歳未満で亡くなったと考えられている。
弓削の生年は不明だが、693年に浄広弐に叙せられており、当時の蔭位の制では、有る身分にある子孫は21歳で位階が与えられることになっていた。
つまり、693年、弓削皇子は21歳だった可能性が高いのだ。
そして弓削皇子はその6年後の699年になくなっている。ここから弓削皇子が亡くなったのは27歳ごろと考えられている。



⓻野口王墓

名月記、阿不幾乃山陵記の記述によると、八角墳・持統天皇の火葬骨は金銅の桶におさめられているとあり、天武・持統合同陵にまちがいない。

野口王墓

野口王墓

⑧土淵氏が用いた二重消去法、仮定Aから得た結論Bを根拠Bとして結論Aを導く?

土淵氏はなぜ忍壁の墓が現・文武陵なのか、なぜキトラ古墳が弓削の墓なのかについて十分な説明をされていないと思ったが、
本の続きを読みすすめると、後のp78からp79で説明されていた。

土淵氏の考えを要約する。

「聖なるライン」上には川島(マルコ山)草壁(束明神)はない。
現文武陵、中尾山古墳は「聖なるライン」上にある。
※聖なるラインとは、藤原京の南に菖蒲池古墳、天武・持統陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武陵、キトラ古墳がほぼ一直線に並ぶラインのことである。
本当の文武陵は現文武陵ではなくて中尾山古墳が確実視されている。
文武天皇が藤原京に住んでいたことから考えると
藤原京に関係する人物の墓が「聖なるライン」上に並んでいるのではないか。
高松塚も「聖なるライン」上にあるので、藤原京に関係する人物だろう。
高松塚の被葬者は藤原京を建設をした高市ではないか。
高市以外に藤原京時代に没した皇子は弓削・忍壁がいるが、藤原京建設には関与していない。
そうではあるが、藤原京時代に死んでいるので「聖なるライン」上に墓はあるだろう。
なので、キトラ古墳は弓削皇子の墓の可能性が高い。
忍壁は現文武陵に妃・飛鳥皇女と合葬されているのではないかと思う。
これは推量だが、高松塚古墳近辺に終末期古墳がほかにないので、現文武陵が有力。(土淵氏)

土淵氏は二重に消去法をもちいている。

step1(消去法1)
高松塚・キトラ・現文武陵の3つの古墳のうち、高市の墓と想定(理由はのべていない)して、消去法で高松塚を消す。
その上で、残ったキトラは弓削、現文武陵を忍壁の墓とする。
(現文武陵を忍壁の墓とする根拠はのべていない。)

step2(消去法2)
紀路付近の8つの墓をリストアップ。
その中から高市の古墳を特定するのに消去法を用いる。
その際、消去法1で得た結論、キトラ=弓削、現文武陵=忍壁として、二つの古墳を高市の墓である可能性なしとする。
その結果、高松塚を高市の墓と断定。

次の様に書いたほうが、わかりやすいだろうか。

step1(消去法1)
 高松塚は高市の墓だと思う(根拠)→なのでキトラは弓削、現文武陵は忍壁の墓(結論)

step2(消去法2)
 岩屋山古墳は時代があわない→なので高市の墓ではない。
牽牛子塚古墳は斉明天皇陵→なので高市の墓ではない。
マルコ山古墳は川島の墓→なので高市の墓ではない。
束明神古墳は草壁の墓→なので高市の墓ではない。
中尾山古墳は文武天皇陵→なので高市の墓ではない。
キトラは弓削の墓(その理由は高市の墓が高松塚古墳だから/step1の結論を根拠として用いる)→なので高市の墓ではない。
現文武陵は忍壁の墓(その理由は高市の墓が高松塚古墳だから/step1の結論を根拠として用いる)→なので高市の墓ではない。
ゆえに、残った高松塚は高市の墓(step1の根拠を結論にしている)

つまりstep1で「キトラは高市」、「現・文武陵は忍壁の墓」と導いた【根拠】は、「高松塚は高市の墓だと思う(理由はのべていない)」だったのに、
次の段階step2では、「キトラは高市の墓」「現・文武陵は忍壁の墓」という【結論】を導いた【根拠】が「高松塚は高市の墓だと思う」だったことを忘れてしまって
「キトラは高市の墓」「現・文武陵は忍壁の墓」を【根拠】として、「高松塚は高市の墓だと思う」という【結論】を導いているのである。

根拠A(高松塚は高市の墓)→結論B(キトラ=弓削の墓、現・文武陵=忍壁の墓)
根拠B(キトラ=弓削の墓、現・文武陵=忍壁の墓=結論B )→結論Å(=根拠A高松塚は高市の墓)

ある根拠Aから消去法で導き出した結論Bを、根拠Bとして消去法で結論を導けば結論がAになるのは当たり前の様に思うのだが、どうだろう?

高松塚古墳

高松塚古墳

⑨土淵氏は明確な事実によって消去法をもちいていると言えるか。

土淵氏は『高松塚は高市皇子の墓』p211で、梅原説批判として、次のようにかいておられる。
「それには、勝馬予想表などを真似すべきでない。消去の条件は◎〇△✖のような主観的判断ではなく、客観的で動かしがたい明確な事実によるべきである。」

私は梅原氏の『黄泉の王』の中の勝馬予想表に該当する箇所はちらりと見たが、返却期限がきていったん図書館に返却したため、その部分はまだきちんとは読んでいない。
なので、土淵氏の梅原批判が的を得たものかどうか判断できないが、
「消去法は主観的判断でなく客観的で、明確な事実によるべき」というのは、全くそのとおりである。

土淵氏の「キトラ古墳は弓削皇子の墓」「高松塚古墳しかあいていない(高松塚古墳は高市皇子の墓」も消去法である。
土淵氏自身は、客観的で動かしがたい明確な事実によっているだろうか。
申しわけないがそうは思えない。

彼が用いた前提は

ひとつめ。
aキトラ古墳は天武の皇子だろう。その中で藤原京時代に没したのは、高市、弓削、忍壁。
b忍壁は現・文武陵(栗原塚穴古墳)ではないか。(なぜ忍壁皇子の墓が栗原塚穴古墳なのか不明)→忍壁を消去
c高市の墓にしては欽明天皇陵から離れすぎている。→高市を消去
(忍壁、高市、弓削)-(忍壁、高市)=弓削
ゆえに、キトラ古墳は弓削皇子の墓。

だった。

aはいい。

bは⑧で、高松塚古墳を高市の墓と定めて(理由はのべていない)から現・文武陵の被葬者を忍壁と導いていることを説明した。

cの理論は、「高市の墓は欽明天皇陵の近く」が正しければ成り立つ。
bで高松塚古墳を高市の墓と定めたのも、「高市の墓は欽明天皇陵の近く」から導いた結論であるように思える。
(そうであっても、現文武陵を高市の墓とすることもできそうではあるが)

しかし、これは土淵氏の推論であって、事実とは結論しがたい。
不確かな推論を前提にした場合、結論も不確かになるだろう。

なぜcが事実と結論しがたいのか。

土淵氏は「高市の墓にしては欽明天皇陵から離れすぎている。」とおっしゃるのだが、
土淵氏が高市皇子の墓を欽明天皇陵付近とされたのは、
万葉集199番の、「(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。」
万葉集3324の「(高市皇子を?)城上(きのえ)の道から磐余(石村)に向かい神さまとして埋葬したので」

これらの歌にある地名を次のように考えたからである。
・百済=百済大寺の有った付近=百済大寺は奥山久米寺跡と思われるので、奥山久米寺跡付近
・イワレ=石村(欽明天皇陵付近)
・城上(紀路のほとり)

しかし、延喜式は「高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡(現在の広陵町)に在り。」としており、広瀬郡には現在百済寺という寺もあり、百済の原が広瀬郡にある可能性は否定できない。

土淵氏は次のような理由をあげて、延喜式の高市皇子の記述を否定される。
❶応神以前の記紀の記事が信憑性を欠くことは常識だが、延喜式は神武以降の天皇陵すべての所在地を示していて疑わしい。
❷三立丘は宮内省管理外で、数十年前ブルドーザーで削り取られたが、何もでてこなかった。
❸延喜式が示す陵墓の兆域は広すぎて不自然。
❹広陵町から以降、遺物が出土していない。
❺百済大寺が明日香から遠い広陵町に移ったと考えるのは不自然。

しかし、彼の上の説は次のように反論することができる。

❶延喜式が記す陵墓は正しく記しているものもある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E9%99%B5%E5%BC%8F
延喜式がどのように陵墓を記しているかについては、上記記事にある。
たとえば天智天皇陵は山科陵〈京都市山科区)
天武・持統合同陵は檜隈大内陵 (飛鳥村野口。南に檜前という地名がある。)
草壁皇子の陵は真弓丘陵(束明神古墳が確実視されているが、束明神古墳の南に真弓という地名がある。)
上にあげた3つの陵は被葬者が確実視されており、これらについて延喜式は正しく記述しているように思える。

❷過去の三立丘と呼ばれる地域は近年より広かったのかもしれない。
なお、これと同様の反論は土淵氏もおこなっている。
百済大寺は十市郡にあったとされる。
土淵氏は百済の地を高市郡の奥山久米寺跡と考えておられるのだが、
「奥山久米寺跡は十市郡ではない。しかし高市郡と十市郡は隣接していた」とのべておられる。

❸高市皇子は壬申の乱の功労者であることなどを考慮して広い兆域が与えられたのかもしれない。

❹後日の発掘調査で、百済大寺跡は広陵町ではなく、飛鳥から遠くはない吉備池廃寺跡が確実視されている。
(百済大寺は文献に九重塔があったと記されているが、吉備池廃寺跡から九重塔と推測される塔跡が発見されている。
百済大寺は創建後早い時期に移転しているが、吉備池廃寺も創建後早い時期に移転したとみられる。)
また百済という地名は一ヵ所ではなく複数あると考えられる。

土淵氏は私が指摘したようなことはわかっておられるようで、次のように書いておられる。

しかしそれは高市挽歌によまれた「百済」「石村」「城上」の地名についての卑見が正しければという条件の下でのみ成立する仮説である。(『高松塚は高市皇子の墓』p75より引用)

⓾土淵氏が提供してくれている参考になる情報

土淵氏説について批判してきたが、彼は参考になる内容もたくさん読者に提供してくれている。
それについて、簡単にメモしておこう。ただし、検証はしていない.。

❶出土した杯蓋の時期は7世紀代末。これに該当する皇子は高市のみ。

天武の皇子は以下のとおり。

天武の皇子(生没年)
草壁皇子(662年 - 689年)
大津皇子(663年 - 686年)
長皇子(? - 715年)
弓削皇子(? - 699年)
舎人親王(676年 - 735年) 
新田部親王(? - 735年)
穂積皇子(? - 715年)
第一皇子:高市皇子(654年 - 696年)
忍壁皇子(? - 705年) - 龍田真人祖、のち知太政官事
皇子:磯城皇子(? - ?) 

弓削皇子は699年になくなっており、これは7世紀末なのだが、もがりをして葬ったとすると墓が作られたのは8世紀はじめであると土淵氏は考えられたのだろうか。
草壁皇子(662年 - 689年)の墓はは束明神古墳が確実視されているため省いたのだろう。
大津皇子(663年 - 686年)は万葉集に葛城二上山に移葬されたとあるため、省いたのだろう。

❷出土した海獣葡萄鏡は初唐後半から中唐始めと思われる。(樋口隆康氏)
以下、樋口氏の見解。

・高松塚と同製品と思われるものに、高松市の加藤達雄氏が所蔵するもの(’高松塚とほとんど同じ)
西安十里337号墓出土鏡(高松塚とほとんど同じ)がある。(樋口)
・西安十里337号墓から出土した鎮墓獣、天王桶、索馬胡桶、馬桶、駱駝桶が出土しているが、同じものが則天武后の武周時代〈690から705)以降の多くの墓から出土するので、西安十里337号墓は700年前後、8世紀初頭に充てる可能性が強い。
・高松塚古墳出土の海獣葡萄鏡の様式は、藤井有鱗館所蔵の鏡と、唐代盛期及びそれ以降のものとの中間。
・法隆寺五重塔心礎内より出土したものは、図柄は簡単になっているが唐代盛期とみていい。
・法隆寺五重塔の塔心礎は711年以前にたてられたが、そこから出土した鏡が唐代盛期以降となる。
・以上の考察によって、高松塚古墳出土鏡の年代は中唐前半(7世紀後半)と考えられる。(樋口隆康氏)

以下は土淵氏の見解
・高松塚の鏡は高松塚が711年より早い7世紀末の築造であることを推察させる。
・朝鮮出土の海獣葡萄鏡があり、高松塚鏡が唐から直接伝来したのではなく、新羅・高句麗などが介在して日本の天武・持統朝にもたらされた可能性を推察させる。
・そうであれば、704年の遣唐使帰国前に高松塚に埋蔵されたとも考えられる。

❸高松塚の棺金具と新羅臨海殿跡出土の塼(せん/煉瓦)の模様に似ている。
臨海殿は新羅統一(文武王 661-681)のころつくられたと考えられる。

❹高松塚から銀装大刀金具が出土した。正倉院のものににている。土淵氏は新羅文化の影響をうけたものではないかという。

❺高松塚古墳出土品は新羅の影響を受けていそうなものが多い。
新羅は672年から695年の間に16回日本に外交使節をおくっている。(高句麗からは7回)
このときに海獣葡萄鏡、棺桶金具、刀身具がもたらされた可能性がある。

❻人骨について(島五郎氏の説明)創元社版での発言

・第3大臼歯(親知らず)は人によってはえる年齢がちがう。
しかし、使用期間が同じであれば減り方は同じになるが、はえた時期がわからなければ被葬者の年齢は特定できない。
減り方は2度で、6年~8年使ったとみられる。
28で生えて8年つかうと36歳ぐらい。30歳代か、それ以上で上限はわからない。

・舌骨は20~30歳では化骨するのが22±13.4%。誤差が22%の13.46%で、数字は数学的にあてにならない。(?)
30~50歳代では67%が化骨する。年寄りは85%が化骨する。若い人は化骨しない。
この結合部はする。「20歳、30歳台では硬骨状態で化骨しない。40歳になって化骨し始める。50歳で進行する。」という人もいる。40歳以上ぐらいで化骨し始める。したがって(高松塚古墳の被葬者は)40歳以上。

・甲状軟骨(のどほとけ)は20代では化骨しない。のどぼとけの一番上の部分が残っているが化骨している。
骨に変わるのは下からなので、かなり広範囲に骨にかわっていた。40歳以上の熟年だろう。

・顎骨が1番から7番までのこっている。

・リショカの結合という背骨の増殖が見られる。これが進む戸、変形性脊椎症にって背中が痛くなる。病気ではなく、加齢現象。
19歳で0、20代で10%、30代で40%、40代で80%、50代で90%の人が変形性脊椎症になる。

❼高松塚古墳被葬者、急死・毒殺の可能性

『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「高松塚古墳出土人骨のX線学的研究」(城戸正博・阿部国昭・土井仲悟・玉木正雄)
・全ての骨に骨萎縮状態がない。
・死直前の慢性消耗性疾患、長期臥床はない。
・何らかの原因による急死の可能性。
・変形性骨変化は加齢によるもので病ではない。
・上部頸椎から中部頸椎、椎体広報部の変化という特殊性から、頸部外傷歴、乗馬の習慣を考慮したい。
・中節指骨の骨皮質の小突起、櫛状突起をみいだすので、年齢は30歳以上。
・年齢上限の判定は決定的所見はなし。
頸椎の変化、四肢関節面での変化、骨端線痕跡像、骨皮質の厚さなどを総合して生理的高齢者は否定できる。足は変形なし。

・高松塚多量鉛分
「『創立三五周年記念・橿原考古学研究所論集』昭和48年刊」
「古代漆喰の化学分析で新しく得られた二、三の知見について」安田博幸
高松塚古墳の漆喰に鉛成分が多量に含有されている。
古代の漆喰の原料・貝殻には鉛は微量。高松塚の漆喰のみ多量。

・鉛は棺の部分で多量に観測される。鉛は棺から流出した?

・保刈成男 毒殺(雪華社刊) 古代ローマでは鉛管をもちいていた。この水は甘く、鉛糖と呼ばれた。
鉛糖は酢酸鉛 酸化塩が洗髪や化粧に用いられて害をもたらした。(鉛害)
漆喰でなく、被葬者が原因であれば、被葬者は毒殺の可能性がある。

❽星宿図の年代7世紀(能田正亮)

❾人物画は朝賀の儀ではなく葬送を描いたもの 衣服は衣服令の規定をそのまま描いたのだろう。(土淵氏)

・男子は漆紗冠をかぶっている。(天武十一年七月に着用が定められた)
・男子は全員すそつきをつけている。すそつきは上着の下部につけた別の布。大宝以前の服装。
(天武十三年閏四月 「会集の日にすそつきを着て長紐をつけよ」とある)

高松塚 男子像2

上の写真の緑色の服の男性は上衣の下に筋がはいっているが、これが別布をつけた「すそつき」だろうか。

・男女とも織物の紐か帯を前に垂らしている。(かむはたの帯)持統4年に定めた帯だろう。
和銅5年には「六位以下、白銅と銀を以って川帯を飾るを禁ズ」
それ以前に皮帯に改められたことがわかる。遣唐節持使粟田真人が帰国した704年7月の直後だろう。

高松塚 女子像2

高松塚 男子像1

・男子は白衿をつけている。持統4年。〈690年)
大宝令は白縛口衿から白脛裳に逆戻りし、慶雲3年〈706年)に白衿にもどした。
壁画の服装は大宝元年から慶雲3年ではない。
慶雲元年〈704年)~3年〈706年)に皮帯に改められたので、大宝元年〈701年)より前の服装だろう。

男子が白衿をつけているようには見えない。

・左襟 養老3年〈719年)に右襟にかわった。左衿なので、それ以前。

・女子像は神を後頭部で結び跳ね上げている。これは天武11年〈681年)の乗髪禁止に合致する。
朱鳥元年〈686年)乗髪に戻したが、詔より弱い勅なので、厳守されなかったのだろう。
慶雲二年〈705年)の結髪令の注には「語は前紀(持統帝の時代)にあり。是に至りて重ねて制す」とある。
大宝令では五位以上の令服は宝〇で金銀の飾りをつける。六位以下は義〇をつける。(〇は読み方がわからない。すいません。)
壁画の女性の髪型は簡素で、上記にはあたらない。朱鳥元年〈686年)と大宝令の中間の髪型。

・女子像は天武11年〈681年)の詔にしたがい、肩衣をつけていない。

・女子像は男子像と異なり、「ひらおび」をつけている。
大宝令では皇族と内命夫の令服のみ復活したが、朝服はこれを欠く。
女子の「ひらおび」は黙認されたものだろう。701年の大宝令以降でなく、大宝令以前だろう。

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳 女子群像

❿蓋(きぬがさ)

貴人の外出時に用いる。身分によって色が異なる。
儀制令(大宝令及び養老令/礼儀解)によれば、
皇太子・・・表紫 裏スハウ(蘇芳のことか?赤紫)頂四角 錦を覆い総を垂れる。
親王・・・・紫
一位・・・・深緑
三位以上・・・・紺
四位・・・・ハナタ
四品以上及び一位・・・頂角に錦を覆い、総を垂れる。
二位以下錦を覆う。ただし、大納言以上は総を垂れる。裏は朱。

高松塚の蓋は緑色で角を錦で覆い、緑色の房を垂れているので、一位。(上の動画1:42あたり)

諸臣一位に該当する者は中臣鎌足~天平時代の期間では、石上麻呂、藤原不比等しかいない。
もともとは紫であせて緑になった可能性もある。
この儀制令が天武朝でもあてはまるか。天武朝の『浄御原令』の蓋の規定は不明。

⓫筆法、顔料が法隆寺のものに似る。
・蓋の端にある連珠文の模様後世と彩色原理は法隆寺天蓋や金堂壁画中の者と同一の錦門のパターンになっている。
・人物の描き方は法隆寺金堂天井板の落書きに似ている。
・高松塚古墳壁画は7世紀の終わりごろ描かれたものだろう。(以上、秋山光和氏)

・高松塚古墳壁画の顔料は法隆寺のものと類似性が高い。九州の装飾古墳のものとはかなりちがう。(安田博幸氏)

⓬高松塚古墳壁画と唐の壁画比較
658年 執失奉節墓、669年 李爽墓、706年 永泰公主墓、708年 韋洵墓など年代のはっきりしているものが多数ある。
日月、星辰、四神など高松塚と共通点があるが、唐のものは大型。
李爽墓・・・各面にひとり 二人の場合も単純
永泰公主墓・・・群像 人数も多い
高松塚・・・群像
高松塚は李爽墓と永泰公主墓の中間?

⓭高松塚を描いたのは黄文本実?
・高句麗系
・薬師寺の仏足石の原図を伝えた人
・初唐のころ、王玄策がインドの仏足足を写した。それを黄文本実が伝えた。

天智天皇8年(669年)の第七次遣唐使で渡唐したとみられ、王玄策が中天竺で転写した仏足石図を唐の普光寺で再転写し日本に請来した伝承があるほか[1]、天智天皇10年(671年)天皇に献上した土木・建築に用いる水臬(みずばかり=水準器)についても[2]、同じく唐より持ち帰った物か[3]。

天武天皇12年(683年)八色の姓の制定により一族とともに、造姓から連姓に改姓した[4]。
持統天皇8年(694年)大宅麻呂・台八嶋とともに鋳銭司に任ぜられている。この時の冠位は勤大弐。
大宝元年(701年)大宝令の位階制の制定に伴って従五位下となり、大宝2年(702年)持統上皇の崩御に際して、穂積親王・犬上王・路大人・佐伯百足とともに作殯宮司を務める。慶雲4年(707年)6月の文武天皇の崩御に際しては、志貴皇子・犬上王・小野毛野・佐伯百足とともに殯宮の行事を勤め、同年10月の大葬に際しても御装司を務めた。
また、高松塚古墳の壁画を描いた人物とする説もある[5]。



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