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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⓾高松塚古墳の被葬者=高市皇子説(土淵正一郎氏)※追記あり

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

高松塚古墳 光の地上絵

高松塚古墳 光の地上絵(キャンドルで高松塚古墳の男女を描いたもの)

いままで梅原猛氏の『黄泉の王』という本を参考にして高松塚古墳について考えてきた。
この本は図書館で借りていたのだが、返却する必用が生じたため、現在手元に本がない。
なので、途中ではあるが、梅原氏の説については一旦中断して、『高松塚は高市皇子の墓/土淵正一郎(新人物往来社)』を参考にして記事を書くことにする。

①高市挽歌

万葉集に柿本人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌がある。
全文、現代語訳はこちら ↓ のブログ記事にある。

長いので、現代語訳を要約して記しておく。

明日香の真神の原の地に宮殿を定めて神として天の岩戸にお隠れになった天武天皇が全国を平定しようとして、
東の国の兵を集め、「凶暴な人々を鎮めよ、従わない国を治めよ」と高市皇子に戦の指揮を任せられた。
高市皇子は腰に太刀をつき、手に弓をもって兵を率いた。
伊勢の宮から神風を吹かせて敵を惑わし、雲で太陽が見えないよう暗闇に包み込み、日本国を平定された。
天武天皇が自ら統治し、高市皇子が政務をとられて、栄えていたときに
高市皇子の宮殿を殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)と飾り立て
従者たちは白い麻の喪服を着て、埴安にある宮殿の広場に昼は一日中伏し、夕べには宮殿を仰ぎ見て這い回り
もう高市皇子にお仕え出来ない悲しみに嘆いていたが、その悲しみが終わらないうちに
(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。
けれど高市皇子が永久を願って造られた香具山の宮はいつまでもなくなることはないだろう。
大空仰ぐように見てしっかりお慕いしていこう(199)

⓶城上の宮は馬見丘陵にある?

赤字の部分をもう一度記しておこう。

天武天皇が自ら統治し、高市皇子が政務をとられて、栄えていたときに
高市皇子の宮殿を殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)を飾り立て
従者たちは白い麻の喪服を着て、埴安にある宮殿の広場に昼は一日中伏し、夕べには宮殿を仰ぎ見て這い回り
もう高市皇子にお仕え出来ない悲しみに嘆いていたが、その悲しみが終わらないうちに
(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。

高市皇子は元気でバリバリ政務をとっていたのに急死してしまったかのようによめる。

高市皇子の宮は埴安というところにあったらしい。
橿原市に現在という地名はないようで、グーグルマップで検索してもでてこないが

万葉時代には天香具山の西麓にある畝尾都多本神社(哭沢の杜)の北側に「埴安の池」がありhttp://saigyo.sakura.ne.jp/haniyasunoike.htmlより引用

とあり、埴安は天香具山の西麓にあったようである。
高市皇子の宮は天香具山の西麓にあったのだ。
高市皇子が薨去したのち、殯宮(あらきのみや/埋葬するまで仮に死体を安置しておく宮)をつくった。
人々がまだ埴安の宮殿で悲しみに沈んでいるとき、高市皇子の遺体は百済の原を通過して、城上の宮に埋葬された。
この「百済の原」は、「奈良県北葛城郡広陵町百済」と考えられている。

平安中期の延喜式には、高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡に在り。」と記されている。
三立岡は、馬見丘陵にある見立山ではないかと考えられている。
しかし、見立山には古墳はみつかっていないらしい。

③百済から飛鳥寺までは至近距離?

これに対して土淵氏は
「百済=北葛城郡広陵町百済」は納得できない。百済は飛鳥奥山あたりではないかとおっしゃる。

その理由のひとつが、日本書紀・壬申紀の次の記述である。

大伴吹負、密かに留守司坂上直熊毛と議りて一二の漢直等に謂りて曰く、『我謀りて高市皇子と称りて、数十騎を率ひ飛鳥寺の北の路より出でて営に臨まむ。乃ち汝内応せよ』といふ。すでにして兵を百済の家に繕ひて、南の門より出づ。

672年、壬申の乱がおこる
天智天皇崩御後、天智の弟・大海人皇子(のちの天武天皇)と天智の子・大友皇子が皇位を巡って争ったのだ。
天武側についた大伴吹負は飛鳥にある大友皇子本営を攻略するため、留守司・坂上直熊毛と計画をたてた。
そして1人2人の漢直らに次のように語った。
「私は偽って高市皇子と名のり、数十騎で飛鳥寺の北の路から出て、大友皇子の軍営に現れるから、お前たちはそのときをねらって相手軍をうて。」
そして兵を百済の家に選抜して南の門から出た。(日本語訳自信ないです。すいません)

土淵氏はこの記述から、百済という地名の場所にあった吹負の屋敷の南門から飛鳥寺の近江朝の本営まで至近距離であったと考えられた。

北葛城郡広陵町百済から飛鳥寺までは距離がありすぎる(9km以上はある。)というのだ。

④土淵氏の百済大寺=奥山久米寺跡説

次に土淵氏は百済大寺があった場所が百済ではないかと考えられた。
百済大寺とは現在奈良市にある大安寺の前身で飛鳥時代に建てられたと記録にあるのだが、どこに建てられたかが不明となっていた。

土淵氏はいくつかの文献をあげる。

❶日本書記
639年秋7月に舒明天皇が百済川のほとりに大宮および大寺を建設した。
❷大安寺伽藍演技並流記資材帳
舒明天皇11年春2月、百済川のそばに子部社を切り排いて、九重塔を建てた。百済大寺という。しかし火事によって九重塔、金堂石鴟(しび)は焼けてしまった。
❸三代実録 陽成天皇 元慶4年〈880〉10月
昔、聖徳太子が平群郡熊擬道場を建てた。つ。飛鳥岡本宮天皇(舒明天皇)、これを移転させて十市群百済川辺に縦、封三百戸を施入して百済大寺とした。子部大神宮の近側に在ったが、怨を含んで屡々、堂塔を焼く。

そして、「ここに十市郡とあり、広瀬郡ではない」ことを指摘された。
土淵氏は百済の地を高市郡の奥山久米寺跡と考えておられるのだが、奥山久米寺跡は十市郡ではない。
しかし高市郡と十市郡は隣接していたということも指摘された。

次に土淵氏は考古学的証拠として、1989年の奥山久米寺跡の報道をとりあげておられる。
記事は「明日香村奥山で、飛鳥時代初期と考えられる大規模な金堂の基壇と参道が見つかり、文献に名をとどめない謎の寺跡」と報じている。

1983年ごろには網干善教氏が、「奥山久米寺跡は高市大寺、百済大寺の跡の可能性がある」と発言された。
1990年、土淵氏は飛鳥資料館・学芸室長・猪隈兼勝氏に質問したところ「ほとんどの考古学者は奥山久米寺は百済大寺跡と考えている」との回答をえたとおっしゃっている。

そして、土淵氏は人麻呂が歌に詠んだ八釣川が百済川であろうとされた。

八釣川 水底絶えず 行く水の 継てぞ 恋ふる 此年頃を(柿本人麻呂)
( 八釣川の水底を絶えず流れる水のように、絶えることなくずっと恋をしています。何年も。)

土淵氏によれば、八釣川は明日香坐神社の東方にある八釣山に源を発し、奥山久米寺の西で北折し、北流していたという。
(グーグルマップでは確認できず、現存しないのかもしれない)

⑤百済大寺は吉備池廃寺跡?

土淵氏が「高松塚は高市皇子の墓」を著したのは1991年。
私がこのブログを書いているのはそれから32年が経過した2023年である。

現在、ウィキペディアには次のような内容が記されている。

・伝承によれば、この寺は聖徳太子建立の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地。
・この百済大宮と百済大寺の所在地を奈良県広陵町百済に比定する説は古くからあったが以下の理由から疑問視されていた。
a「百済」の地名が古代から存在した証拠がない。
b 付近から古代の瓦の出土がない。
c 飛鳥時代の他の宮(岡本宮、田中宮、厩坂宮など)は飛鳥近辺なのに、百済宮のみが飛鳥から遠い場所にあるのは不自然。
・1997年以降、桜井市吉備(安倍文殊院の西方)の吉備池廃寺の発掘が進み、伽藍の規模、出土遺物の年代等から、吉備池廃寺が百済大寺であった可能性が高い。

・1997年、奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)は奈良県桜井市の吉備池廃寺跡が百済大寺跡と推定されると発表した。
(ちなみに古淵氏が『高松塚は高市皇子の墓』を著されたのは1991年で、これが発表される以前である。)
・吉備池廃寺跡は藤原宮跡の東でかつて磐余(いわれ)と呼ばれた地区にある。
・古瓦の様式年代も639年建立の百済大寺にあう。


・伽藍は法隆寺式伽藍配置で、金堂・塔・中門・回廊・僧房の遺構が検出されている。
・法隆寺式伽藍配置としては最古
・推定高さ80-90メートルの九重塔や金堂および伽藍の規模は同時代の国内寺院をはるかに凌ぎ、新羅の皇龍寺や文武朝の大官大寺に匹敵する。
・創建時期は飛鳥時代の630年代-640年代初頭と推定され、ほどなく移建されたと見られることから、第34代舒明天皇によって舒明天皇11年(639年)に建立された百済大寺(大安寺前身寺院)の遺構に比定する説が確実視される。


百済大寺が奥山久米寺跡ではなく、吉備池廃寺跡だとすると、申しわけないが「奥山久米寺付近の地名が百済であったとする」土淵氏の説は通らなくなる。

吉備池廃寺跡の付近は磐余という地名であったとウィキペディアは記している。
上の地図を確認すると、吉備池廃寺跡の南東あたりに天理教磐余文教会の名前も確認することができる。

そしてこの磐余(石村)については土淵氏も述べておられる。

万葉集3324(長歌)と3325(短歌)で磐余(石村)とでてくる。

原文と現代語訳はこちらのページにある。https://sanukiya.exblog.jp/29486298/
長いので現代語訳の磐余の言葉がでてくるところだけ引用させていただくことにしよう。

これはうつつか夢ではないかと
わけがわからずうろたえるうち
城上(きのえ)の道から磐余に向かい
神さまとして埋葬したので

磐余の山を真っ白な
布で覆っているように
山にかかっている雲は
今は亡き皇子だろうかな
https://sanukiya.exblog.jp/29486298/ より引用

この挽歌には作者名も引用原典も記されていないが、土淵氏は「人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌であろう」という。

その理由のひとつは、棺の進路を城上としているが、人麻呂が詠んだ高市皇子への挽歌にも
「百済の原を通過して神さまとして葬って 城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさられた」とあるため、としておられる。

ただし、私は3324の歌が土淵氏がおっしゃるように、人麻呂が詠んだ挽歌かどうかは判断に迷ってしまう。
3324は城上から磐余にむかっている。最終到達地点は磐余のようによめる。
一方、199の柿本人麻呂が詠んだ高市挽歌は、百済の原から城上の宮に向かっていて、最終到達地点は城上となっているからだ。

土淵氏説のつづき。
彼はこの磐余(石村)を欽明天皇陵付近ではないかとされた。
その理由は
・欽明天皇陵の事を付近の人々は石山と呼んでいたと、幕末の蒲生君平が書いている。
・『日本古墳大辞典(東京堂刊)』は欽明陵の別称を石山・猿山としている。
・万葉集3324(長歌)で石村、と3325(短歌)で石村の山と詠んでいる。(原文は磐余ではなく石村となっているそうだ。)
石村の山が石山である。
・継体紀8年3月の条に、「村邑(ふれ)を剥掠(さきかす)む」とある。
「村邑(ふれ)」について『日本古典文学大系』には「古代朝鮮語」とある。
当時欽明天皇陵がある檜隈は渡来人の居住地で、葺石に覆われた欽明天皇付近の部落を「石村(いはれ)」と呼んだ。
(石村は「いしふれ」であったのが、転じて「いはれ」になったということか。)
・万葉学者は石村を「磐余」と訳した。
その理由は大津皇子が亡くなるときに詠んだとされる「ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」の印象が強いせいだろう。
さらに、磐余は多くの天皇の宮都の所在地の地名であったことも原因だろう。(履中天皇・磐余椎桜宮、継体天皇・磐余玉穂宮、用明天皇の磐余池辺双槻宮)

しかし百済が百済大寺のあった吉備池廃寺跡であり、3324(長歌)と3325(短歌)が柿本人麻呂が詠んだ高市挽歌だとすると、
石村(いはれ)は吉備池廃寺跡付近の磐余と考えたほうがよさそうに私には思える。
ただし、土淵氏がこの本を書いたとき、吉備池廃寺跡は発掘調査されていなかったので、やむをえない点があると思う。

⑥城上は紀路のほとり?

・(高市皇子は)百済の原を通過して、神として葬って、城上の宮を永遠の宮殿として高々と造ってみずから神としてそこに鎮座なさった。(199)
城上(きのえ)の道から磐余に向かい
神さまとして埋葬したので(3324)

この城上は通説では広陵町にあるとしている。
なぜ広陵町とされたのか。それは先ほども述べたように、延喜式に「高市皇子の墓は、「三立岡。大和国広瀬郡に在り。」と記されているためだ。

これについて土淵氏は次の様な理由で疑わしいとされている。
❶応神以前の記紀の記事が信憑性を欠くことは常識だが、延喜式は神武以降の天皇陵すべての所在地を示していて疑わしい。
❷三立丘は宮内省管理外で、数十年前ブルドーザーで削り取られ、消滅した。
❸延喜式が示す陵墓の兆域は広すぎて不自然。
❹広陵町から以降、遺物が出土していない。
❺百済大寺が明日香から遠い広陵町に移ったと考えるのは不自然。
※これについては、すでに述べたように、のちに吉備池廃寺跡が発掘調査されて百済大寺跡であることが濃厚になった。
また、百済大寺があるから地名が百済であったということもない。
百済という地名は各地にある。

しかし、土淵氏によれば、広陵町ではない、とする説もあるという。
たとえば、折口信夫は城上(きのへ)は明日香村木部(きべ)とする。

グーグルマップで明日香村木部と入力してもヒットしないが、
木部は藤原京の東京極である中ツ路と剣池をへて山田寺にいたる山田路が交差するあたり、ということである。

【追記】
飛鳥時代から残る古代官道。遣隋使とともに来日した裴世清が宮殿まで向かった道。

宮殿へと続いたこの道は、遣隋使と裴世清も通ったであろうか。石川池(剣池)や豊浦宮跡、雷丘と、山田道沿いにも、いにしえの飛鳥が偲ばれます。

https://asuka-japan-heritage.jp/suiko/spot/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%81%93/より引用


とあり、木部は 孝元天皇 劔池嶋上陵あたりだろうか。

土淵氏は「城上」を「紀州路のほとり」「紀路のほとり」とされる。

上記地図によれば、藤原京の西の下ツ道が紀路のようである。

土淵氏の『高松塚は高市皇子の墓』p35の地図では現在の近鉄吉野線、橿原神宮前駅から線路沿いに南へ、飛鳥駅に向かう道を紀路とされている。


土淵氏が想定するルートは次のとおり。
奥山久米寺跡付近(百済)→欽明天皇陵付近の部落(石村)→城上(紀路)

しかし、百済を奥山久米寺跡あたりとする説の根拠であった、奥山久米寺跡=百済大寺とする土淵氏の説は
のちに吉備池廃寺跡の発掘調査によって、百済大寺跡であることが有力視されるので、通りそうにない。

もしも、高市皇子の遺体が、高市皇子の宮があった天香具山の西麓から、運ばれていったとすると
天香具山の西→東へ向かう→吉備池廃寺跡→西へ向かう→石村/欽明天皇陵付近→紀路と、わざわざ遠回りして運ばれていったことになる。
しかし、まったくありえないことではないだろう。
そして、紀路から東にそれて高市皇子は高松塚古墳に葬られたと土淵氏はいう。


高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑪消去法は主観的判断でなく客観的で、明確な事実によるべき
へつづく~



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