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高松塚古墳・キトラ古墳を考える⑧高松塚古墳=忍壁皇子の墓説(直木孝次郎氏説)

高松塚古墳 女子群像

高松塚古墳壁画 女子群像

トップページはこちらです。→①天智・天武・額田王は三角関係?

①高松塚古墳は藤原京時代に皇子を葬ったもの?(直木孝次郎氏説)

梅原猛氏は著書『黄泉の王』の中で、直木孝次郎氏の『高松塚古墳の被葬者=忍壁皇子説』についてふれておられる。
それによれば、直木氏の説は次のようなものである。

・聖なるライン上にある。→ 藤原京時代にできたもので、天皇の皇子が被葬者ではないか。
              天武・持統・文武三天皇の近親者の可能性が高い。
              古墳の造営時期は藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)まで。

※前回説明したように、「聖なるライン」は藤原京を最北とし、その南に
菖蒲池古墳
野口王墓(天武・持統陵)
中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)
高松塚古墳
キトラ古墳

がほぼ一直線上に存在している。(多少のずれはある。)

※キトラ古墳については梅原猛氏の『黄泉の王』が著された当時、存在が周知されていなかったと思われる。

※藤原京から「聖なるライン」を北に延長すると御廟野古墳(天智天皇陵)があるのだが、これも当時認識されていなかったと思われる。

※持統天皇が藤原京遷都をしたのは694年12月だが、690年12月に『宮地を観(みそなは)す』とあり、新京の視察が行われたと考えられる。このとき天武陵はできていたはず。(天武は686年に崩御)

聖なるライン説は藤原京ができて、その朱雀大路の南に天武・持統陵、文武陵、菖蒲池古墳ができたと考えるべきなので矛盾が生じる。
天武陵の北に藤原京ができたとすれば、天武帝の死のとき藤原遷都の計画ができていたと考えるべき。(岸俊夫氏説)

・梅原氏は上の岸氏の説は成立しないと考える。その理由は文献がなく、天武死後すぐに遷都計画が立てられたとは考えられないため。(しかし実際に古墳は聖なるライン上に並んでいるので、私はあり得ると思う。)

高松塚古墳

高松塚古墳

⓶高松塚古墳=忍壁皇子の墓説(直木孝次郎氏説)

高松塚古墳の造営時期を藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)までとすると、被葬者の候補としては、大津皇子・草壁皇子・川島皇子・高市皇子・弓削皇子・忍壁皇子などがあげられる。
直木氏は、この中から、大津・川島皇子を以下の理由で除外した。()は薨去年。

大津皇子(663-686)/年が若く、謀反の罪で処刑されているので除外。
川島皇子(657-691)/越智野(高市群高取町超智のあたりか)に葬られている。
高市皇子(654?-696)/壬申の乱の勇将だが、広瀬群(現在の北葛城郡)に墓があること記載されている。

直木氏はこうして、草壁皇子・弓削皇子・忍壁皇子の3人にしぼり、それから島五郎氏による骨や歯の鑑定結果を考慮された。
直木氏が考慮された島五郎氏の鑑定結果は次のとおり。
骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

草壁皇子(622-689)/28歳で薨去
弓削皇子(673?ー699)/30歳未満で薨去

となって、直木氏は草壁皇子・弓削皇子を省き、残った忍壁皇子(?ー705)を高松塚古墳の被葬者ではないかとした。

また直木氏は忍壁皇子について、次のような内容を語っておられるという。
・忍壁皇子(天武の子)は壬申の乱では兵を率いて活動したという記述はない。壬申の乱のとき19歳だった高市皇子より年下だろう。
・天武崩御(686)後、忍壁皇子は文武天皇4年〈670?)にやっと登場する。
このとき、大津・高市・川島はすでに亡くなっていたので、忍壁の地位は宮中第一。
持統期に姿を見せないのは、草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)のライバルとして持統に忌避されていたからではないか。
しかし、文武が無事即位したので、警戒をといたのでは。

梅原氏は、直木氏が考慮された次の島五郎氏の鑑定結果を「異議あり」とされている。

骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳

梅原氏は高松塚古墳の被葬者を弓削皇子ではないか、としておられるが、彼の意見はあまり支持されていない。
ウィキペディアにも次の様に記されている。

弓削皇子説を唱える代表的な人物は、菅谷文則(現橿原考古学研究所所長、滋賀県立大学名誉教授)、梅原猛(哲学者)ら。
しかしながら、出土した被葬者の歯やあごの骨から40代から60代の初老の人物と推測されており、20代という比較的若い頃に没したとされる弓削皇子の可能性は低いと考えられる。

したがって梅原氏が『島五郎氏の鑑定結果を「異議あり」とされた理由』は、高松塚古墳の被葬者=弓削皇子説を考えるうえで非常に重要である。

記事が長くなりそうなので、これについては次回。



高松塚古墳 飛鳥美人 光の地上絵

高松塚古墳 光の地上絵 キャンドルを並べて高松塚古墳壁画の女子群像を描いたもの




まとめ 高松塚古墳=忍壁皇子の墓説(直木孝次郎氏説)
直木孝次郎氏の『高松塚古墳の被葬者=忍壁皇子説』
・聖なるライン上にある。→ 藤原京時代にできたもので、天皇の皇子が被葬者ではないか。
              天武・持統・文武三天皇の近親者の可能性が高い。
              古墳の造営時期は藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)まで。
持統天皇が藤原京遷都をしたのは694年12月だが、690年12月に『宮地を観(みそなは)す』とあり、新京の視察が行われたと考えられる。このとき天武陵はできていたはず。(天武は686年に崩御)
・聖なるライン説は藤原京ができて、その朱雀大路の南に天武・持統陵、文武陵、菖蒲池古墳ができたと考えるべきなので矛盾が生じる。
・天武陵の北に藤原京ができたとすれば、天武帝の死のとき藤原遷都の計画ができていたと考えるべき。(岸俊夫氏説)
・天武死後すぐに遷都計画が立てられたとは考えられないので岸氏説は成立しない。(梅原猛氏説)
(しかし実際に古墳は聖なるライン上に並んでいるので、天武死後すぐに遷都計画がたてられたかもしれない。)
高松塚古墳の造営時期を藤原京造営開始(686)から平城遷都(710)までとすると、
被葬者の候補としては、大津皇子・草壁皇子・川島皇子・高市皇子・弓削皇子・忍壁皇子
直木氏は、この中から、大津・川島・高市皇子を以下の理由で除外した。()は薨去年。
大津皇子(663-686)/年が若く、謀反の罪で処刑されているので除外。
川島皇子(657-691)/越智野(高市群高取町超智のあたりか)に葬られている。
高市皇子(654?-696)/壬申の乱の勇将だが、広瀬群(現在の北葛城郡)に墓があること記載されている。
直木氏はこうして、草壁皇子・弓削皇子・忍壁皇子の3人にしぼり、それから島五郎氏による骨や歯の鑑定結果を考慮された。
・直木氏が考慮された島五郎氏の鑑定結果は次のとおり。
骨の鑑定結果・・・30歳~70歳までの男子。筋骨たくましい初老の大男。
1本だけ残っていた歯の摩耗状態・・・40歳~50歳
草壁皇子(622-689)/28歳で薨去
弓削皇子(673?ー699)/30歳未満で薨去
直木氏は草壁皇子・弓削皇子を省き、残った忍壁皇子(?ー705)を高松塚古墳の被葬者ではないかとした。
・忍壁皇子(天武の子)は壬申の乱では兵を率いて活動したという記述はない。壬申の乱のとき19歳だった高市皇子より年下だろう。
・天武崩御(686)後、忍壁皇子は文武天皇4年〈670?)にやっと登場する。
このとき、大津・高市・川島はすでに亡くなっていたので、忍壁の地位は宮中第一。
持統期に姿を見せないのは、草壁の遺児・軽皇子(文武天皇)のライバルとして持統に忌避されていたからではないか。
しかし、文武が無事即位したので、警戒をといたのでは。


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