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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⑥高松塚古墳は本当に薄葬令ののちに作られたのか?※一部書き直しました。

トップページはこちらです。 高松塚古墳・キトラ古墳を考える ①天智・天武・額田王は三角関係?

高松塚古墳

高松塚古墳

①高松塚の直径は中尾山古墳(文武天皇陵?)より大きい。

梅原猛氏は次のような内容を述べておられる。

❶高松塚古墳は終末期古墳の中でもとりわけ規模が小さい。
❷森浩一氏がいうように、高松塚古墳が大化の改新(645年)以降のものとすれば薄葬令の影響が考えられる。
❸薄葬令は古墳の大きさを次のように規定する。
土盛の大きさ・・・王(みこたち)以上       ・・・方9尋、高さ5尋
         上臣(大臣、大宝令では三位以上) ・・・方7尋、高さ3尋
         下臣(大徳小徳 大宝令では四位) ・・・方5尋、高さ2尋半
         大仁小仁以下(五位以下)     ・・・封(つちつ)かずして平ならしめよ
❹高松塚は直径18m、高さ5m 人尋は六尺(約2m)なので、方9尋、高さは2尋半
❺高松塚古墳の土盛の広さは薄葬令の「王以上」だが高さは「大徳小徳」。

「薄葬令」の「大きさ」(外寸)に関する部分の抜粋を記した記事があった。

「甲申。詔曰。朕聞。(中略)夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。(以下略)」


王以上・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 9尋 高さ5尋)
上臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 7尋 高さ3尋)
下臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 5尋 高さ2.5尋)
大仁・小仁・・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
大礼から小智・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
庶民・・・・・・・地に収め埋める


梅原氏は大礼以下の規定サイズを記していないが、大仁小仁以下以上の封土については、上の記事の数値と一致しているので、まちがいはなさそうだ。
内部についてはのちにのべる。

そして、おそらく梅原氏は、『壁画古墳 高松塚 ₋調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』を読まれたものと思われる。
(この本のp193に記されている島五郎氏の「高松塚古墳出土人骨について(中間報告)」の内容を、梅原氏は『黄泉の王』に書いておられる。)

そこで、『壁画古墳 高松塚 ₋調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』で高松塚古墳の大きさについて記されたところを見てみると、p28に次のように記されている。

○墳丘の規模は直径20mの基盤を設け、直径16m、高さ5.39mの墳丘を原型とするならば、南の水田面より高さを考えると薄葬令に準拠した方9尋、高5尋に該当しなくないこともないが、現状からみると直径18mとも考えられる。
『壁画古墳 高松塚 ₋調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』28pより引用

高松塚古墳に関する他の古い本にも、直径18mとあった。

しかし、ウィキペディア高松塚古墳を確認すると、
直径23 m(下段)及び18 m(上段)、高さ5mの二段式の円墳となっている。
『壁画古墳 高松塚 ₋調査中間報告/奈良県教育委員会・奈良県明日香村』の序には昭和47年とあり、昭和47年までの調査結果をまとめたものだろうが、その後の調査で二段円墳であること、下段直径は23mであることがわかったのかもしれない。

梅原氏がおっしゃるように、1尋2mとするならば、直径23mは11.5尋。高さ5mは2.5尋となる。
しかし検索すると、1尋は1.5m、古代中国では8尺(約1.m)とでてくる。
1尋を1.5mとすると、高松塚古墳は直径15.3尋、高さ3.3尋、1尋を1.8mとすると12.8尋、高さ2.8尋。
いずれにしても直径は薄墓令の王以上の規定・9尋を超えるサイズになってしまう。

ちなみに文武天皇(646年の薄葬令以降の707年に崩御)陵であることが有力視されている八角墳の中尾山古墳は対辺長19.5m、高さ4mなので、高松塚古墳はこれを上回る規模の古墳だということになる。

キトラ古墳も高松塚古墳と同様の二段式の円墳だが、 上段直径9.4 m・高さ2.4 m、下段直径13.8 m・高さ90 cmなので、1尋2mとして計算すると直径6.9尋、高さ1.65尋。
こちらは薄葬令の規定におさまりそうである。

梅原氏が『黄泉の王』を著したのは1973年だが、キトラ古墳が発見されたのはその前年の1972年だった。
『黄泉の王』ではキトラ古墳については一切触れられていないが、
上の記事には「キトラ古墳は1978年頃に存在が知られるようになった。」とあり、さらにキトラ古墳の壁画が発見されたのは1983年だった。
『黄泉の王』でキトラ古墳についてふれられていないのは、そういう事情があるものと思われる。

キトラ古墳

キトラ古墳

⓶他の古墳の大きさも調べてみた。

ついでにいくつか古墳の大きさを調べて方の大きい順に並べてみた。
王以上の規定(方9尋、高さ5尋)以上の古墳は赤でしめす。
※1尋は2mとして計算している。1尋=1.8m、1.5mとした場合の1尋は下の数値よりさらに大きくなる。

野口王墓(天武 /686・持統/702)・・・・ ・・東西29尋(58m)・高さ4.5尋(9m)
岩屋山古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・方22.5尋(45m)、高さ6尋(12m)            
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・・・・ ・・対角長15尋(30m)
※ 現在の墳丘は対角長直径10m程だが、中近世の神社境内の整備による。発掘の結果、対角長30mの八角形墳であったことが判明した。
菖蒲池古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・方15尋(30m)、高さ3.75尋(7.5m)
栗原塚穴古墳(文武天皇陵に治定されているが、別の古墳である可能性が大きい)・・・・径14尋(28m)、高さ1尋(2m)
高松塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径11.5尋(23m)・高さ2.5尋(5m)
真弓鑵子塚古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・径11.5尋(23m)、高さ2.5尋(5m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇/661・間人皇女/665) ・・対辺長11尋(22m)・高さ2尋(4m)
                       ※石敷・砂利敷部分を含むと32m 
園城寺亀丘古墳(大友皇子/672)・・ ・・・・・径10尋(20m)・高さ2.15尋(4.3m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・・・・・・・対辺長9.75尋(19.5m)・高さ2尋(4m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・・・・・・ 方9.65尋(19.3m)  
薄葬令(王以上/646年制定) ・・・・・・・・・方9尋(18m)・高さ5尋(10m)
久渡古墳群2号墳 (高市皇子/696)・・・・・・径8尋(16m)
キトラ古墳(被葬者不明)・・・・・・・・・・・径6.9尋(13.8 m)・高さ1.65尋(3.3m)
越塚御門古墳(大田皇女/667)・・・・・・・・ 方5尋(10m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・・・・ 方3.8尋(7.6m)
※大津皇子の墓は二上山墓に治定されているが、鳥谷口古墳が有力視されている。

高松塚古墳の高さは薄葬令の規定以下だが、他の、方(方墳)・径(円墳)・対角長(八角墳)が薄葬令の規定を超える古墳をみても、薄葬令の規定・高さ5尋を下回るものが多い。
それは力学的にその高さ以上は盛土をつめないということではないのかな、と思った。
(コンクリートで固めるなどすれば可能だろうが)

高さが、薄葬令の規定である5尋(10m)を超えるのは、上のリストでは岩屋山古墳だけである。

このようにしてみたとき、申しわけないが、梅原氏の「❶高松塚古墳は終末期古墳の中でもとりわけ規模が小さい。」という発言はもう少し慎重に考えてみる必要がありそうに思える。

また大型前方後円墳の時代にも小型円墳の陪塚なども存在するので、外見だけで古墳の時代を特定するのは難しいと思う。
(高松塚・キトラ古墳は石室内部の状態などから終末期古墳であると判断できるが)

牽牛子塚古墳

牽牛子塚古墳(斉明天皇、間人皇女の墓である可能性が高い。隣接して越塚御門古墳があり、大田皇女の墓の可能性が高い。)

野口王墓

野口王墓(天武・持統陵)

文武天皇陵

栗原塚穴古墳(文武天皇陵とされているが、文武天皇陵は中尾山古墳の可能性が高い。)

中尾山古墳

中尾山古墳(文武天皇陵の可能性が高い)

かんす塚古墳

真弓鑵子塚古墳 被葬者は不明

③高松塚古墳の石槨の大きさは五位以下?

梅原氏は高松塚古墳の石槨の大きさについて、幅1.035m、長さ2.655m、高さ1.134mとされている。
ウィキペディアでは南北の長さが約265cm、東西の幅が約103cm、高さが約113cmとなっていて、ほぼ同じである。

さらに梅原氏は薄葬令の石槨の規定を次のようにのべておられる。
王(みこたち)以上        ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
上臣(大臣、大宝令では三位以上) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
下臣(大徳小徳 大宝令では四位) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
大仁小仁以下(五位以下)     ・・・長さ9尺、高さ広さ4尺

ところが、http://www.ranhaku.com/web04/c4/5_01.html
上の記事の記述は次のようになっていて、内部の高さを不明としている。

王以上・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 9尋 高さ5尋)
上臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 7尋 高さ3尋)
下臣・・・・・・・内部(長さ9尺 幅5尺 高さ不明)封土(一辺 5尋 高さ2.5尋)
大仁・小仁・・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
大礼から小智・・・内部(長さ9尺 幅4尺 4尺)封土なし
庶民・・・・・・・地に収め埋める

「甲申。詔曰。朕聞。(中略)夫王以上之墓者。其内長九尺。濶五尺。其外域方九尋。高五尋役一千人。七日使訖。其葬時帷帳等用白布。有轜車。上臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方七等尋。高三尋。役五百人。五日使訖。其葬時帷帳等用白布。擔而行之。盖此以肩擔與而送之乎。下臣之墓者。其内長濶及高皆准於上。其外域方五尋。高二尋半。役二百五十人。三日使訖。其葬時帷帳等用白布。亦准於上。(以下略)」


上の文を読んでみると、内部の大きさは次のように読めると思う。
王以上の墓・・・内長九尺。濶五尺。
上臣の墓・・・・・内長濶及び高さ上に準じる。
下臣の墓・・・・・内長濶及び高さ上に準じる。

「濶」とは「広さ」を表す漢字である。多分幅の事を言っていると思う。
そして上臣、下臣のところには「濶及高」とあるので、濶(広さ/幅)の中に高さは含まれないと思う。
しかし王以上の墓の規定には『高(高さ)』はなく、『濶(広さ/幅)だけしか記されていないのに
上臣、下臣の規定には『内長濶及び高さ上に準じる』となっていて、よくわからない文章である。

梅原氏は「濶」を『幅と高さ』と解釈したということだろうか。

そして梅原氏は高麗尺の一尺=35.6cmとし、
高松塚古墳の石槨の大きさを幅2尺9寸1分、高さ3尺一寸八分、長さ7尺4寸6分と計算されている。
幅1.035m・・・103.5cm÷35.6cm=2.91尺
長さ2.655m・・・265.5cm÷35.6cm=7.46尺
高さ1.134m・・・113.4cm÷35.6cm=3.19尺

ネットで検索すると高麗尺は一尺=36.4cm、唐尺は一尺=30.3cmとでてくるが
6世 紀末計画の飛鳥寺は高麗尺(35.6cm)の 完数で設計されているといわれ
という記事もある。

ウィキペディア 尺 を読んでも、日本の古代の尺の長さはよくわかっていないようである。

唐尺の一尺=30.3cmで高松塚古墳の大きさをあらわすと
幅1.035m・・・103.5cm÷30.3cm=3.42尺
長さ2.655m・・・265.5cm÷30.3cm=8.76尺
高さ1.134m・・・113.4cm÷35.6cm=3.74尺

薄葬令の規定をもう一度見てみよう。

王(みこたち)以上        ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
上臣(大臣、大宝令では三位以上) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
下臣(大徳小徳 大宝令では四位) ・・・長さ9尺、高さ広さ5尺
大仁小仁以下(五位以下)     ・・・長さ9尺、高さ広さ4尺

唐尺で計算しても、長さは9尺に近いが幅は梅原氏がおっしゃるとおり大仁小仁(五位以下)なみである。

④他の古墳と比べても高松塚古墳の石槨は小さいといえそう?

しかし、これだけで高松塚古墳の石槨が小さいとはいえない。
他の古墳と比べてみることが必要だ。

とりあえず1尺30cmとして各古墳の石槨の大きさを求め、薄葬令より大きなものは赤で示す。

菖蒲池古墳・・・・・・・・・・・・・不明
真弓鑵子塚古墳・・・・・・・・・・・長さ21.1尺(6.33m)、幅14.1尺(4.23m)、高さ16尺(4.8m)
牽牛子塚古墳(斉明天皇、間人皇女)・・長さ11.7尺16.7尺(3.5m)、幅16.7尺(5m)、高さ8.3尺(2.5m)
                  ※牽牛子塚古墳の被葬者は2人で、仕切り壁で2つの空間に仕切られている。
岩屋山古墳・・・・・・・・・・・・・長さ16.3尺(4.9m)、幅9尺(2.7m)、高さ10尺(3m)
束明神古墳(草壁皇子/689)・・・・長さ10.2尺(3.06m)・幅7.1尺(2.12m)・推定高さ8.3尺(2.50m)
岩内1号墳(有馬皇子/658)・・・・ 長さ8.3尺(2.48m)、幅6.7尺(2m)、羨道:長さ(11.4尺)3.42m
薄葬令(四位以上)・・・・・・・・・長さ9尺(2.7m)、広さ5尺(1.5m)、高さ5尺(1.5m)
薄葬令(五位以下)・・・・・・・・・長さ9尺(2.7m)、広さ4尺(1.2m)、高さ4尺(1.2m)               高松塚古墳・・・・・・・・・・・・・長さ8.9尺(2.655m)、幅3.5尺(1.035m)、高さ3.8尺(1.134m)
キトラ古墳・・・・・・・・・・・・・長さ8.7尺(2.6m)、幅3.3尺(1m)、高さ0.65尺(1.3m)
鳥谷口古墳(大津皇子/686)・・・・長さ5.3尺(1.58m)・幅2尺(0.6m)・高さ2.3尺(0.7m)
                                                                開口部は幅1.3尺(0.4m)・高さ1.7尺(0.5m)
中尾山古墳(文武天皇/707)・・・ 長さ3尺(0.9m、 幅3尺(0.9m)、 高さ、?
                  ただし、中尾山古墳の被葬者は火葬されている。

このように見てみると、石槨も薄葬令の規定より大きい物が多くある。
その中で高松塚古墳、キトラ古墳の石槨は「小さい」といえそうである。





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