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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ⓶弓削皇子は人妻を愛した?


①正史には3回しか登場せず、万葉集に8首を残す弓削皇子

梅原猛氏は、高松塚古墳の被葬者は弓削皇子ではないかとしておられる。
そして、弓削皇子が正史に登場するのは下の3回だけ(生没についてと、官位を授かった記事)、万葉集には8首の歌を残しており、また柿本人麻呂が詠んだ挽歌などもある。
梅原猛氏は、これらの歌から判断して「弓削皇子は暗殺されたのではないか」とおっしゃっている。

正史が描く弓削皇子
・673年天武天皇即位の記事 「・・・次の妃大江皇女、長皇子と弓削皇子を生れませり。」
・693年 七年の春正月の辛卯の朔、壬辰(二日)に、浄広壱を以て、皇子高市に授けたまふ。浄広弐を皇子長と皇子弓削とに授けたまふ。 
・癸酉広弐弓削皇子薨ず。〈699年)

前回、天智・天武・額田王は三角関係であったとする説について記したのは、その弓削皇子が額田王と歌をやりとりしているためだ。

⓶ホトトギスは斬首のイメージ?

それでは万葉集の中に描かれた弓削皇子の姿を見てみることにしよう。

吉野の宮に幸いでま す時、弓削皇子の額田王に贈る歌一首
いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく(万2-111)
【通釈】過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます。
【補記】「鳥」はほととぎす。「弓絃葉の御井」は吉野離宮近くにあった水汲み場。ほとりに弓絃葉が茂っていたための呼称か。額田王の和した歌は「古に恋ふらむ鳥は霍公鳥(ほととぎす)けだしや鳴きし吾が思へるごと」。いつの吉野行幸とも知れないが、仮に持統七年(693)とすれば、弓削皇子二十代、額田王六十代半ばの贈答。

額田王の和へ奉る歌一首 倭京より進入(たてまつ)る
古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと(万2-112)
【通釈】遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。私がこうして昔を偲んでおりますように。
【語釈】◇吉野の宮に幸せる時 持統天皇の吉野行幸。持統四年(690)から同八年頃。当時、弓削皇子は二十代、額田王はすでに六十代の老齢であった。◇倭京 飛鳥京。◇霍公鳥 過去を偲んで悲しげに鳴く鳥と考えられた。一度帝位を退いたのち復位を望んだ蜀の望帝が、その志を果たせず、死してほととぎすと化し往時を偲んで昼夜分かたず鳴いた、との中国の故事に由ると言う。
【校異】結句、西本願寺本などは原文「吾戀流碁騰」とあり、「あがこふるごと」と訓む説もあるが、ここでは金沢本・元暦校本などに従った。
【補記】「古に恋ふる鳥かも」(昔を懐かしがる鳥なのでしょうね)と暗に額田王を鳥に喩えて詠んだ弓削皇子の歌に対し、中国の故事を踏まえて婉曲に「その通りです」と答えた歌。

この歌について梅原氏は次のように書いておられる。

だいいち、ほととぎすは不吉な鳥なのである。『十王経』にはエンマ大王の許に会った無常鳥が、ほととぎすになったとある。中国ではこの鳥は死者の亡魂の貸したものだという。そしてまたゆずる葉も無常を示す植物である。青年の心には、すでにこのとき、不吉な運命の自覚のようなものがあったのだろうか。(『黄泉の王』p117-p118より引用

梅原氏のおっしゃるとおり、不吉を予感するかのような歌だと思う。
私たちはホトトギスが、「ほんぞんかけたか」「てっぺんかけたか」と鳴くことを知っている。


2)ホトトギスは平安時代すでに「死出(しで)の田長(たおさ)」といわれたように、冥土からやって来て農事を促したり、「死出の山こえて来つらん郭公」〔拾遺‐哀傷〕のように冥土の使いとしたりする俗信があり、不吉な鳥とする見方もあった。それが「本尊かけたか」という聞きなしにつながったかもしれない。

天辺とは、「兜 のいただき」のことで、転じて、「頭のいただき」を意味するようにもなった。
兵庫県姫路地方の伝説では、「大晦日に厠で「頑張り入道時鳥(がんばりにゅうどうほととぎす)」と3回唱えると、人間の生首が落ちてくるという。
天辺は「頭のいただき」のことだった。
そしてホトトギスは「てっぺんかけたか」と鳴くのだった。
「てっぺん」は「頭のいただき」のことで、その「頭のいただきがかけたか」とホトトギスは鳴くのである。
「頭のいただきが欠ける」とは「首が欠ける」「首が斬りとられた」という意味である。
それで「頑張り入道時鳥」と唱えると、生首が落ちてくるという話が創作されたのではないだろうか。
このように考えるとますます弓削皇子の歌から不吉なイメージが広がってくる。

③ユズルハは譲る葉で、古い葉は天武、新しい葉は天智の比喩?

ゆずりは

ユズリハ(古名 ユズルハ)


梅原氏は「ユズルハは無常を示す植物」とおっしゃっている。
なぜユズルハは無常を示す植物なのか。

和名ユズリハは、春に枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉することに由来する[6]。古名はユズルハ(弓弦葉)といわれ、葉の中にある主脈がはっきりと目立ち、弓の弦のように見えることに由来する[8]。

「ゆずる葉」とは「古い葉が新しい葉にその地位を譲って落葉するところからつけられた名前で、「譲る葉」だったのだ。

ここで、前回の記事、高松塚古墳・キトラ古墳を考える ①天智・天武・額田王は三角関係?  を思い出してほしい。

あかねさす紫野行き標野しめの行き野守は見ずや君が袖振る(万1-20)
【通釈】紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって――野の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを。

皇太子の答へたまふ御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我あれ恋ひめやも(万1-21)
【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。

この2首について、次のような説があるのだった。

A.もともと額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)の妻で、大海人皇子との間に十市皇子という娘ももうけていたのだが
大海人皇子は皇太子であった同母兄の中大兄皇子(のちの天智天皇)に「額田王を譲れ」とせまられて、泣く泣く譲った。
そして、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となり、天智天皇主催の薬狩のとき
大海人皇子はすでに自分のものではなく兄天智天皇のものとなった額田王に手を振った。
それを見た額田王は「天智天皇が見ていますよ」と大海人皇子をなだめた。
それにこたえて大海人皇子は「あなたが憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。」と返した。

額田王が天智天皇の妃になったという記録はなく、上の説が絶対正しいとはいえないが

弓削皇子が額田王に贈った歌、

いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく(万2-111)
【通釈】過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。弓絃葉の御井の上を鳴きながら大和の方へ渡ってゆきます。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yuge2.html より引用

を鑑賞すると、Aの説は正しいように思える。

「ゆずるは」は「譲る葉」であり、枝先に若葉が出たあと、前年の葉がそれに譲るように落葉する植物だった。

これをふまえて現代語訳すると、次のようになるだろうか。

「額田王、あなたは過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。
弓弦葉の語源は「譲る葉」であり、新しい葉がでてくると、古い葉は新しい葉に譲るようにして落葉しますが
その弓弦葉のように、あなたは大海人皇子(天武天皇)から中大兄皇子(天智天皇)天武天皇の妻であったのに、天智天皇の妻となられた。」

 天智天皇が崩御したのは672年、天武天皇が崩御したのは686年。
弓削皇子が額田王に歌を送ったのは「
吉野の宮に幸でま す時」である。

いつの吉野行幸とも知れないが、仮に持統七年(693)とすれば、弓削皇子二十代、額田王六十代半ばの贈答。

とあり、これが正しければ、天智も天武も亡くなったあとの話となる。

千人万首の訳は「大和のほうへ渡ってゆきます。」とあるが、原文や詞書に「大和のほうへ渡ってゆく」とは書いていない。
なぜホトトギスが「大和のほうへ渡ってゆきます。」と訳したのかといえば、弓削皇子は吉野の宮にいて、大和にいる額田王にあてて歌を贈ったと考えたためだろうか。

古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が思へるごと(万2-112)
【通釈】遠い過去を恋い慕って飛ぶという鳥は、ほととぎすですね。もしかすると、鳴いたかもしれませんね。私がこうして昔を偲んでおりますように。

額田王が偲んでいる昔の思い出とは何だろうか。
それは額田王を愛した二人の男性、天武(譲り葉の古い葉に喩えられる)・天智(譲り葉の新しい葉に喩えられる)との思い出だろう。

⓸弓削皇子が短命だったのは自分の命を額田王に与えてしまったから?

吉野より蘿生せる松が枝えを折取をりて遣おくりたまへる時、額田王の奉入たてまつる歌一首
み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言みことを持ちて通はく(万2-113)
【通釈】[詞書] 弓削皇子が吉野から苔のむした松の枝を贈って来た時、献上した歌。
[歌] 吉野の美しい松の枝は、なんて慕わしく思えるのでしょう。あなたのお言葉を持って飛鳥の都まで通って来るとは。
【語釈】◇玉松が枝 この「玉」は、「魂(たま)」と同根で、霊力を持つものであることを示す。常緑・長寿の樹である松は、生命を守る精霊の憑代(よりしろ)と考えられた。弓削皇子は額田王の長寿を願って松の枝を贈ったのである。

この歌について、梅原猛氏は次のように書いておられる。

しかし、敏感な額田王の心には、すでにこのとき、ある不安がかすめたにちがいない。蘿生した松、これはたしかに老人には気のきいた贈物であるが、なぜこの青年はこんなものに、心をひかれるのかしら、この青年の心の中には自己の人生の短さへの無意識の自覚のようなものがあるのではないかしらと。
(『黄泉の王』118pより引用)

私はこの歌を詠んで、有馬皇子の次の歌を思い出してしまうが、有馬皇子の歌と弓削皇子の歌を結び付けるのはやや飛躍しすぎているかもしれない。

有間皇子の自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首
磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む(万2-141)
【通釈】磐代の浜松の枝を引っ張って結び、道中の息災を祈る――願いかなって無事であったなら、また帰って来てこの松を見よう。

有馬皇子は孝徳天皇の皇子だったが、654に孝徳天皇が崩御したあと、孝徳天皇の同母姉宝皇女が再祚し(斉明天皇)、中大兄皇子(のちの天智天皇)が皇太子となった。
蘇我赤兄にそそのかされた有間皇子は謀反を語り合った。
しかし赤兄は有馬を裏切って中大兄皇子に之を密告し、
有馬は藤白坂(和歌山県海南市内海町藤白)で絞首刑となった。
19歳だった。

上の歌は、藤白坂に向かう途中、岩代(和歌山県日高郡南部町)で詠んだ歌とされる。

松は確かに長寿のシンボルだが、有馬皇子はそれを旅の途中でおいてきてしまったために、わずか19歳という短い命で終わってしまったともいえる。

とすれば、弓削皇子が30歳ぐらいの短い命で終わってしまったのは(弓削皇子の年齢については次回書く予定。)、このとき60歳ぐらいだったと思われる額田王に松を送ってしまったためであると、万葉集はそういうことを伝えようとしているようにも思える。

⑤弓削皇子はなぜ歌に萩を読みこんだのか?

弓削皇子、紀皇女を思しのふ御歌四首
吉野川行く瀬の速みしましくも淀むことなくありこせぬかも(万2-119)
【通釈】吉野川の早瀬のように、私たちの仲も、ほんのしばらくの間でも、淀むことなくあってくれないものか。
【補記】紀皇女は天武天皇の皇女で、弓削皇子の異母姉妹。石田王の妻であったらしい(万3-424~425)。 

吾妹子わぎもこに恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花ならましを(万2-120)
【通釈】あの子に恋い焦がれてばかりいずに、いっそのこと、咲いてはすぐ散ってしまう秋萩の花であったらよかったのに。
 
これらの歌についての梅原氏の感想は次のとおり。

吉野まできても、男は女のことで胸が一ぱいなのである。吉野川の流れは早い、その早い流れを見て、男は、うらやましく思う。あの流れのように、しばらくでも中断することなく女とあいたい。川にまで全貌を感ぜざるを得ないとは、彼は何という深い恋にとらわれたことであろう。
男はまた吉野で萩の花をみる。女とあえないようだったら、あの秋の萩の様に、一次咲いて散ってしまった方がましだ。恋のみが、この青年の生きがいのようであるが、この恋には悲劇的なにおいが強いのである。男は、恋すべからず人に恋をしているのではないか。(『黄泉の王』p119より引用)

梅原氏の文章はやや感情的、感傷的なようにも思えるが、感想に異論はない。
ただ、それに付け加えておきたいのは、なぜここで弓削皇子が萩という花をもちだしたのか、についてである。

萩は別名を「鹿鳴草」という。
なぜ「鹿鳴草」というのかといえば、萩の白い花を鹿の夏毛の斑点に見立てたためだろう。
そして、日本書記「トガノの鹿」にこんな話がある。

雄鹿が雌鹿に「全身に霜が降る夢を見た」と言った。
雌鹿は偽った夢占いをして「霜だと思ったのは塩で、あなたは殺されて塩漬けにされているのです。」と言った。
翌朝、雄鹿は猟師に射られて死んだ。

つまり、萩の白い花と、鹿の夏毛の白い斑点は、死体を塩漬けにするための塩の比喩なのだ。
古には謀反の罪で死んだ人の死体は塩漬けにされることがあったという。
この歌は弓削皇子が謀反の罪で死んだことを暗示しているようにも思える。

⑥浅鹿の『鹿』は謀反人を暗示している?

弓削皇子、紀皇女を思しのふ御歌四首のつづき

夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の 浅香の浦に 玉藻刈りてな(万2-121)
【通釈】夕方になれば潮が満ちて来るだろう。住吉の浅香の浦で、今のうちに藻を刈ってしまいたい。
【補記】世間の噂にならないうちに恋人を自分のものにしたい、ということ。浅香の地名に「朝」を掛けて「夕」と対比するか。

大船の泊つる泊(とまり)のたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子故に(万2-122)
【通釈】大船が碇泊する港に波がたゆたっているように、私の心もひどく揺れ、思い悩んで痩せてしまった。あの子は人妻であるゆえに。
【補記】「人能兒(ヒトノコ)は、多く他妻をいへり」(万葉集古義)。

この2種についての、梅原氏の解説。

男は吉野から難波に行ったのかもしれない。悲恋の憂愁にたえかねて、男は海でも見たら心がなぐさめられるかもしれないと、皆と別れて、ひとり住吉の浅鹿の浦に立ったのかもしれない。しかし、そこにおいても男の追いかけるのは、恋しい女の面影のみである。男は女とのたまゆらの逢瀬を思う。夕方になると潮がみちてくるので、猟夫たちは、いそがしげに玉藻を刈っている。その漁夫のように、わずかな暇を盗んで、いそがしげに女を抱く、あのつかの間のおうせを男は思っているのである。ああ、つかの間の逢瀬でもよいから、もう一度女を抱きたい。
男は、また海上遠く漂っている舟を思う。舟は港々に、碇泊する毎にゆれにゆれて、定まらない。男は自分の人生も、あの舟のようなものであったと思う。自分の人生の、一コマ一コマが、不安にみち苦悩にみちて、心も体も弱りはてているのだ。あの女のために。(『黄泉の王』p120より引用)

住吉の浅香とは、大阪市住吉区浅香付近のことだろう。
「千人万首」は浅香と表記しているが、『黄泉の王』では浅鹿と表記している。

万葉集の原本は存在せず、いくつかの写本が伝えられているので、それらの写本の中には「浅香」と示すもの、「浅鹿」と示すものがあるということかもしれないし
千人万首のほうは、近年の地名の表記にあわせて浅香としたということかもしれない。

浅鹿の鹿という文字は、さきほど説明した、謀反人を暗示しているようにも思われる。

玉藻の玉は美称である。玉藻は特定の種類をさすものではなく、藻全般を指す言葉のようである。
肥料にする目的で刈っていたようである。食用に用いられることもあるとのこと。

万葉集の歌から、弓削皇子と紀皇女が恋仲であったことがわかる。
しかも紀皇女は弓削皇子ではない他の男性の妻であったと思われる。

すると、

いにしへに 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡りゆく
(額田王、あなたは過ぎ去った昔を恋い慕う鳥なのでしょうか。
弓弦葉の語源は「譲る葉」であり、新しい葉がでてくると、古い葉は新しい葉に譲るようにして落葉しますが
その譲る葉のように、あなたは大海人皇子(天武天皇)から中大兄皇子(天智天皇)天武天皇の妻であったのに、天智天皇の妻となられた。)と弓削皇子が歌を詠んでいるが

人妻である額田王に恋をした大海人皇子と、やはり人妻である紀皇女に恋をした弓削皇子のイメージがここで繋がってくる。

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