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高松塚古墳・キトラ古墳を考える ①天智・天武・額田王は三角関係?(2023-06-06 一部書き直しました。)

今日から新しいシリーズ「高松塚古墳・キトラ古墳を考える」を始めようと思う。
ただし内容はまだ定まっておらず、どのような結論になるかは、私自身にもわかっていない。
そのため、途中で順番を入れ替えたり、内容を書きなおしたり、追記を入れたりすることが頻繁にでてくるかもしれないが
よろしくお願いします。

①大海人皇子と額田王の歌のやりとりは宴会のおふざけ?

天皇の蒲生野に遊猟したまへる時、額田王の作る歌

あかねさす紫野行き標野しめの行き野守は見ずや君が袖振る(万1-20)
【通釈】紫草の生える野を、狩場の標(しめ)を張ったその野を行きながら、そんなことをなさって――野の番人が見るではございませんか。あなたが私の方へ袖を振っておられるのを。

皇太子の答へたまふ御歌
紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我あれ恋ひめやも(万1-21)
【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。

「紫のにほへる妹を~」の歌は大海人皇子(のちの天武天皇)が額田王の「あかねさす紫野行き~」の歌に答えたものである。

668年5月5日、天智天皇は蒲生野において薬狩りを行った。
薬狩とは、5月5日に鹿の若角をとったり、薬草を摘む行事のことである。

額田王の歌に詠まれた『君』とは大海人皇子(のちの天武天皇)、『野守』は天智天皇のことで、
「天智天皇が見ているにもかかわらず、大海人皇子が私(額田王)に手をふっている。」
と読んだ歌である。

また天智天皇はこんな歌を詠んでいる。

なかちおほえの三山歌

香具山は 畝傍うねびを愛をしと 耳成みみなしと 相争あひあらそひき 神代より かくなるらし 古いにしへも 然しかなれこそ 現人うつせみも 褄つまを 争ふらしき (万1-13)
~略~

【通釈】[長歌]香具山の神様は、畝傍山の神様を愛しいと思って、耳成山の神様と争った。神代からこんなふうに恋の争いがあったらしい。神様の昔もそうであったからこそ、現代の人も、結婚相手をめぐって争うものらしい。


この三首の歌から、天智天皇・大海人皇子・額田王は三角関係であったとする説が古くからある。

天香久山は額田王、耳成山は袖にされた大海人皇子、畝傍山は中大兄皇子ということになります。

と解説する記事があったが、争ったのは香具山と耳成山であり、香具山が愛しいと思っているのは畝傍山である。
耳成山も畝傍山をいとしいと思っているからこそ争ったのだろう。
すると、畝傍山が額田王、香具山は中大兄皇子、耳成山は大海人皇子
または、畝傍山が額田王、香具山は大海人皇子、耳成山は中大兄皇子の比喩ではないかと思う。

この三角関係説に対して千人万首は次のように書いている。

相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)。そのような見方に立つ一つの読み方として、池田彌三郎『萬葉百歌』から引用すれば、「これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、『にほへる妹』などと、しっぺい返しをしたのである」。

池田彌三郎氏が主張されているように、宴会のおふざけの歌だとすると、文学の香り、情緒は冷めてしまう。
しかし論理的に考えてそれが事実だと考えられるならば、それが文学的でなかろうと、情緒がなかろうと認めなくてはいけない。

大和三山

龍王山より大和三山を望む。上から畝傍山、耳成山、箸墓古墳。向かって左の色の濃い部分は天香久山・・・だと思う。

⓶薬狩が行われたときの額田王の年齢は?

額田王の生没年は不詳。
大海人皇子(天武天皇)の后で、十市皇女を生んでいる。

十市皇女は天武の第一皇女とウィキペディアには記されている。
ウィキペディアによると天武の第二皇女は大来皇女で、生年は661年。
すると、十市皇女は661年より前の生まれということになる。

(額田王の)生年は不詳であるが、まず孫の葛野王が669年(天智天皇8年)の生まれであることは確実である。このことから、娘の十市皇女の生年は諸説あるが、648年(大化4年)から653年(白雉4年)頃の間の可能性が高い。更に遡って、額田王は631年(舒明天皇3年)から637年(同9年)頃の誕生と推定される。

葛野王の生年669年については正史に記載があるということだろう。
葛野王の母親・十市皇女の生年は不明だが、21歳で葛野王を生んだとすれば十市皇女の生年は648年、
16歳で葛野王を生んだとすれば十市皇女の生年は653年となる。
まあ、そんなものかなと思う。

さらに、その十市皇女を額田王が21歳で産んだとすると、627~632年。
16歳で生んだとすると、632~637年となる。

ウィキペディアは額田王の生年を631年~637年ごろとしているが、これもまあまあそんなものだと思う。

天智の薬狩りが行われたのは日本書記によれば668年とある。
十市皇女の生年「648~653年」が正しければ、天智の薬狩りが行われたとき、十市皇女は15~20歳ごろである。
すると天智の薬狩が行われたとき、額田王は36歳~41歳ごろということになる。

池田彌三郎氏が、「この時すでに四十歳になろうとしている額田王・・・」と書いているのは、そんなに間違っているように思えない。

③中大兄皇子は大海人皇子の妻・額田王を奪った?

私は千人万首の「宴会でのおふざけの歌」と聞いて少し勘違いしてしまった。
十市皇女は天武の皇女なので、668年の薬狩のとき、すでに額田王は大海人皇子の妃で
40代に近い額田王が「人前で手を振るなんてやめてよ、恥ずかしい。」と大海人皇子にいった。
それに対して、「君は人妻だけど愛しいよ」と「しっぺい返し」をした。
このとき額田王には既に十市皇女という娘がいた。
十市皇女は大海人皇子の娘でもある。
すると、このとき大海人皇子と額田王は夫婦であったということになる。
いくらおふざけでも、大海人皇子が自分の妻である額田王を「人妻」などと呼ぶだろうか?と疑問に思ったのだ。

これについて、下記動画は次のように説明している。



>1:08 額田王は16歳頃女官として宮中に出仕するようになり、天智天皇と天武天皇の母・斎明天皇に仕えました。
額田王は和歌の才能を見出され、宮中の歌会で天皇に代わって歌を詠む役割を仰せつかっていたといいます。
額田王は宮中でも指折りの歌人として宮中行事に欠かせない存在となっていました。
https://www.youtube.com/watch?v=nwZ5wBK8G4M&t=1017s より引用

658年の斉明天皇の紀温湯行幸、661年の斉明天皇の新羅征討の際、熟田津の石湯行宮などで額田王が詠んだとされる歌がある。
また額田王が皇極天皇代に読んだとされる歌の補記に、「648年の近江比良宮行幸の時の皇極上皇(斉明天皇と同一人物)御製」ともある。
このことから、「額田王は16歳頃女官として宮中に出仕、斉明天皇に仕えた」と言っているのだと思う。
正史に「額田王は16歳頃女官として宮中に出仕、斉明天皇に仕えた」という記録があるわけではないと思う。

額田王の生年は631年~637年ごろと考えられるので、648年は11歳~17歳となる。
宮中に出仕する年齢としては16歳ぐらいが適当、と考えたのではないだろうか。

>1:32 そしてある時、斉明天皇の息子・大海人皇子と出会ったのです
2人は同年代か、額田王が少し年下ともいわれています。
彼らは恋に落ち、額田王は大海人皇子の妃となったのです。
648年頃に額田王は第一子・十市皇女を出産しました。
娘も生まれ、夫婦仲もよく、宮中では第一線でバリバリ働くエリート女官。
全てが順風満帆だった彼女の前に厄介な人物が現れます。
大海人皇子の兄であり、後に天智天皇となる中大兄皇子です。
中大兄皇子は額田王の美貌と才能に強く引かれ、弟の妻であるにも関わらず
彼女を自分のものにしたいと思ってしまいました。
そして大海人皇子に「額田王を譲れ」と迫ったのです。
皇太子である兄に逆らえない大海人皇子は額田王を譲ってしまい
額田王は中大兄皇子の妻とされてしまいました。

668年の天智天皇の薬狩のとき、大海人皇子が自分の妻である額田王を「人妻」と呼んで「ごっこ遊び」をしたのではなくて

もともと額田王は大海人皇子(のちの天武天皇)の妻で、大海人皇子との間に十市皇子という娘ももうけていたのだが
大海人皇子は皇太子であった同母兄の中大兄皇子(のちの天智天皇)に「額田王を譲れ」とせまられて、泣く泣く譲った。
そして、668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となり、天智天皇主催の薬狩のとき
大海人皇子はすでに自分のものではなく兄天智天皇のものとなった額田王に手を振った。
それを見た額田王は「天智天皇が見ていますよ」と大海人皇子をなだめた。
それにこたえて大海人皇子は「あなたが憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。」と返した。

つまり、額田王は
「天武の妻であったのを、天智が奪って自分の妻とし、その天智の妻である額田王に天武がラブサインを送った」
このように上の動画は解釈しているわけである。

なるほど、このように考えたほうが、薬狩のとき、額田王に大海人皇子の娘の十市皇女がいたことの辻褄があいそうだ。

ただし、天智天皇の妃として額田王の名前は記録されていないので、確実とはいえない。

⓸雑歌なら宴会の歌といえるか?

>5:10いやこれ自分らで昔なんやかんやあったっていうてもうてるやないの
大スキャンダルじゃないの

その心配はいらない
だって大海人皇子の妻だった額田王を天智天皇が奪ったことなんて
宮中の人間はみんな知ってることだからな

>5:42 しかし彼らはなぜ宴の席でこんな歌を詠んだのか
理由は一つその場を盛り上げるためだよ
昔の自分たちのスキャンダルをネタにした座興だったというわけだ
しかもこれは天智天皇の御前で歌われたものだったそうだ

>6:39 これを聞いた天智天皇はどんな反応だったの

伝わってはいないが多分大笑いしていたんじゃないかな
中大兄皇子は弟が裏切らないように自分の娘を4人も嫁がせていたが
このことの埋め合わせだったんじゃないかとも言われているんだ。


この部分は、千人万首にあるような解釈から導き出されたものだろう。
もう一度千人万首の記述を引用しておこう。

相聞の部でなく、雑歌の部に分類されていること、また題詞には「額田王の作る歌」とあって、「贈る歌」とはなっていないこと等から、額田王が大海人皇子個人に向けて思いを伝えた歌でなく、宴などでおおやけに披露した歌と思われる(宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道)。そのような見方に立つ一つの読み方として、池田彌三郎『萬葉百歌』から引用すれば、「これは深刻なやりとりではない。おそらく宴会の乱酔に、天武が武骨な舞を舞った、その袖のふりかたを恋愛の意思表示とみたてて、才女の額田王がからかいかけた。どう少なく見積もっても、この時すでに四十歳になろうとしている額田王に対して、天武もさるもの、『にほへる妹』などと、しっぺい返しをしたのである」。
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nukata.html より引用

動画で「しかもこれは天智天皇の御前で歌われたものだったそうだ」といっているのは
この歌が相聞(ラブソング)ではなく雑歌に分類され、
「宴で詠まれた歌は「雑歌」に分類するのが万葉集の常道」とあり、当然天智天皇の薬狩の後の宴会では、天智天皇もいたと考えられるためだろう。

しかし、この額田王と大海人皇子の歌のやりとりが、宴会の席で読まれたものと決定づけられるだろうか。

「相聞(そうもん)」「挽歌(ばんか)」と並ぶ、『万葉集』における三大部立(ぶだて)の一つ。「相聞」「挽歌」に含まれない内容の歌を総括するが、国見(くにみ)、遊猟(ゆうりょう)、行幸(ぎょうこう)など宮廷生活の晴の場でなされた歌などを収め、編纂(へんさん)にあたっては「雑歌」が他の二つの部に優先する。『万葉集』では、巻1、3、5、6、7、8、9、10、13、14、16の諸巻に「雑歌」の部をたてる。その部立の名称は、『文選(もんぜん)』に典拠を求めたと認められ、歌の内容からする「相聞」「挽歌」に対して、主として歌の場に基づくのが「雑歌」の部立だといえる。宮廷生活の晴の歌の集合として、表だった本格的な歌という意識があったものとみられる。
https://kotobank.jp/word/%E9%9B%91%E6%AD%8C-89152 より引用


とあり、額田王と大海人皇子は額田王が天智天皇の妃になったのちもお互い愛を感じていたが、この歌は薬狩りという場の歌なので、雑歌に分類されている、などということはないのだろうか。

上記に万葉集の雑歌がリストアップされている。

その1番歌、
篭もよ み篭持ち 堀串もよ み堀串持ち この岡に 菜摘ます子 家聞かな 告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我れこそ居れ しきなべて 我れこそ座せ 我れこそば 告らめ 家をも名をも

これは雄略天皇が菜摘みをする女性をナンパする歌である。
女性からの返歌がないので、相聞とはいえず、雑歌にいれたのかもしれないが。

相聞ではなく雑歌なので宴会で詠んだおふざけの歌、とするのは、申しわけないが、短絡的であるように思える。

この歌は、天智天皇と大海人皇子の対立の始まりを物語っているのではないか?
大海人皇子は天智天皇の皇太子だった。
しかし天智天皇は自らの子である大友皇子に皇位を継承させたいと思っていた。〈十市皇女は大友皇子の后)
天智天皇が672年に崩御したのち、天智の子・大友皇子vs天智の弟・大海人皇子の争いがおこる。(壬申の乱)
大海人皇子が勝利して即位した。(天武天皇)

そのような兄弟の対立の始まりを予感させる歌として、万葉集はこれらの歌を記録したように思われるのだが。




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