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トンデモもののけ辞典129  倉坊主

①倉坊主

倉坊主(くらぼうず)は、根岸鎮衛による江戸時代の随筆『耳嚢』巻之九にある江戸(現・東京都)の怪異。原題は「怪倉の事」であり[2]、「倉坊主」の名は『妖怪お化け雑学事典』(講談社)によるもの[3]。

概要
本所(現・東京都墨田区)の隅田川近くに数原宗徳という幕府の御用医師が住んでいたが、昔から彼の屋敷の倉には不思議な言い伝えがあった。倉の中に奇妙なものが住んでおり、家人が倉から何か物を出したいときには、そのたびに断りを入れなければ凶事があるとのことだった。その代わり、どの品物を明日欲しいと倉に願うと、翌朝にはその品物が倉の前に揃っているのだった。

ある年のこと。数原邸が火事にあったが、なぜか件の倉だけは焼け残った。寝床を焼かれた数原の家来の一人の書生が寝床を求め、この倉に何者かが住んでいても非常時ならば問題ないとして、倉の中を片付けてそこに寝ていた。すると恐ろしい顔つきの坊主が現れて、許可なく倉に立ち入ったこと、さらには無礼にも倉の中で寝たことを責めた。そして、本来ならば命を奪うところだが、非常時なので許し、今後は決して立ち入ることのないようにと言い残して姿を消した。驚いた書生は、たちまち倉を逃げ出した。

以来、数原家では毎年決まった日に、倉の前で祭礼を執り行うようになったという[2]。 なお、数原家代々の墓所は神奈川県伊勢原市の日蓮宗上行寺にある。もともと寺自体は江戸時代から白金(現在の明治学院大学の真正面)にあったが、戦後になり伊勢原に移転した。


⓶「在原業平ゆかりの地」の怪
上記リンク先、写真の説明に「東京都墨田区吾妻橋。数原宗徳の倉があったとされる」と記されている。


物語の舞台は東京都墨田区吾妻橋である。

吾妻橋

吾妻橋

吾妻橋の西、隅田川には地名と同名の吾妻橋という橋がかかっている。
地図に橋の名前が表示されないかもしれないので、隅田川にかかる橋を北から順に書いておこう。
白髭橋、桜橋、(白髭橋、桜橋は上にスクロールして確認してください。)言問橋、すみだリバーウォーク、吾妻橋、駒形橋である。
吾妻橋の東には大横川に業平橋という地名と同名の橋がかかっている。

③事問橋

すみだリバーウオークをはさんで吾妻橋の北には言問橋があるが、言問橋という橋名は、平安時代の歌人・在原業平(825~880)が詠んだ次の歌にちなむとされる。

名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
(その名に「都」を持っているのであれば、さあ訪ねよう。都鳥よ。私が思う人は無事でいるだろうか。)

言問橋

事問橋

『伊勢物語 東下りの段』には次の様な内容が記されている。
在原業平とその一行は東下りをしてこの地にやってきて、見知らぬ鳥がいたので船頭に聞くと、「都鳥」だという。
そこで業平は、都鳥という名前から都に残してきた人のことを思い出してこの歌を詠んだのだった。
業平の歌を聞いて一行はみな泣いてしまった。

http://keirinkan-online.jp/high-classic-japanese/20201028/517/3/

船頭が登場することからおわかりのように、かつてここに橋はなく、現在の白鬚橋付近に「橋場の渡し」があったとされる。

竹屋の渡し(明治時代)

竹屋の渡

④業平橋

次に業平橋という橋名の由来をみてみよう。
かつてこの橋があるあたりに、南蔵院というお寺があり、その境内に業平天神社があった。
『江戸名所記』によれば、業平はこのあたりで亡くなったとあり、その場所に業平塚が建てられていたことから、業平天神社は建てられたのだという。
(業平塚は力士・成川運平の墓が業平の墓に転じたという説(『遊歴雑記』)、里見成平の墓という説(『本所雨やどり』)など諸説ある。)

業平天神

業平天神

業平は『惟喬親王の乱』で流罪になった?

物語の舞台となった吾妻橋の由来が気になるが、その前に、在原業平という人物について、ざっとみておこう。

文徳天皇は紀静子が産んだ長子の惟喬親王を皇太子にしたいと考えて、源信に相談したが、
源信は藤原良房を憚って天皇をいさめたという。
その結果、藤原良房の娘・明子が産んだ惟仁親王が産まれたばかりで皇太子となった。

在原業平はこの文徳天皇の長子・惟喬親王の寵臣であった。

大阪府東大阪市にある千手寺パンフレットに「在原業平と業平が仕えていた惟喬親王」についての、こんな伝説が記されていた。

その後、維喬親王(これたかしんのう:844~897)の乱で、堂宇は灰燼に帰したが、本尊の千手観音は深野池(現大東市鴻池新田あたりにあった)に自ら飛入り、夜ごとに光を放つを見た在原業平がこれを奉出し、これを本尊として寺を再建したと伝える。
 維喬親王は文徳天皇の第1皇子。第4皇子の維仁親王(後の清和天皇)の外戚藤原良房の力が強く、皇位継承にはならなかったが、乱を起したというのは史実ではない。
[参考資料] 『恵日山 光堂千手寺』 千手寺パンフレット
         『日本歴史地名体系』大阪府の地名編 平凡社

千手寺パンフレットより引用

※文徳天皇の生没年は827年~858年。在位は850年~858年である。

パンフレットには「文徳天皇の第1皇子は維喬親王」とあるが、維喬親王とは惟喬親王(844~897)の事だと思われる。
また「乱を起したというのは史実ではない」とあるが、そうとも言い切れないような気がする。
(詳しくは、惟喬親王の乱 シリーズをお読みください。
記事45本もあるじゃん、長くて読めないよ~、という方はこちらの記事をよんでね。↓
惟喬親王の乱㊵ 千手寺 『惟喬親王の乱と在原業平腰掛石』 )

千手寺

千手寺

在原業平は「京には住まない。東に住む国を見つけよう」と東下りの旅に出て、隅田川にやってくる前、
三河の国の八つ橋というところにやってきたところ、
ある人に、「かきつばたといふ五文字を、句の上に据えて、旅の心を詠め。」
と言われ、こんな歌を詠んでいる。

らごろも
つつなれにし
ましあれば
るばるきぬる
びをしぞ思う

五七五七七で構成される和歌の最初の文字をつなげると、「かきつばた」となる。

「つま」とは「夫からみた妻」という意味もあるが、古語においては「夫婦や恋人が、互いに相手を呼ぶ称」のことであった。
業平は都においてきた妻を思い出してセンチメンタルな気分になったのかもしあれないが、「つま」とは業平が仕える惟喬親王のことであるかもしれないと思った。
しかし「かきつばたといふ五文字を、句の上に据えて、旅の心を詠め。」と命令口調で言ったある人が惟喬親王であるようにも思える。

後者の説をとれば、業平は惟喬親王とともに東国に住むべき土地を探して旅をしている、ということになる。

業平が惟喬親王とともに旅をしているのか、都に残してきたのかわからないが
いずれにしろ、東国に住むべき土地を探して、ということは、平将門がやったように、東国に独立国をつくるということだろう。
これはクーデター(惟喬親王の乱?)である。

伊勢物語が史実を記したものかどうかわからないが。

⑥吾妻橋の由来は「東下り」からくる?

業平の人物像が見えてきたところで、吾妻橋の由来についてみてみよう。
・江戸の東にあるために東橋と呼ばれていたのが吾妻橋になったという説
・向島にある「吾嬬(あずま)神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説
などがある。

しかし、言問橋、業平橋の由来を見ればこの地は在原業平ゆかりの地であるといえ
業平を主人公とする伊勢物語 東下りの段において、業平が
名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと
と詠んでいることなどを考えると、伊勢物語 東下りの段にちなんで、東橋→吾妻橋と転じた可能性もありそうに思える。

検索すると、業平吾妻鑑という歌舞伎もあるようである。

なお、幕府の御用医師・数原宗徳については、検索しても倉坊主の話しかヒットしない。

⑦伊勢物語 芥川の段に登場する倉に住む鬼

どうやら数原邸があった吾妻橋付近は在原業平に対する信仰が深い地域であることがわかった。

ということは、数原邸の倉に住む妖怪・倉坊主の正体もまた在原業平に関係するものだと推測される。

伊勢物語に芥川の段がある。

業平は身分違いで得ることができない女のもとへ長年通っていたが、ある夜、盗み出して芥川というところまでやってきた。
女は草の上の露を見て、「あれはなあに?」と聞いたが業平は答えなかった。
雷が鳴り、雨も激しくなってきたので、業平は鬼がいるとは知らずに、壊れかけた倉に女をいれて、自分はやなぐい(弓を入れる道具)を背負って戸口にたっていた。
夜があけるころ、鬼は女を食べてしまった。
業平が見にきたときには女はすでにおらず、業平は地団太を踏んで悔しがった。
これは、二条の后(藤原高子/藤原良房の養女)がの、いとこの女御に仕えていたが、大変美しかったので業平が盗んだのだが、藤原基経(高子の兄、良房の養子)と藤原国経(基経の実弟)が取り返したのだった。
それを鬼と表現したのだ。


吾妻橋周辺は業平がこのあたりで和歌を詠んだということもあって、業平信仰の厚い地域だった。
すると、「数原邸の倉に住む妖怪・倉坊主」が創作された背景には、業平と高子が駈け落ちしたが失敗したことを記す伊勢物語 芥川の段のイメージがありそうである。

芥川の段に登場する倉の中には鬼がいて、その鬼は高子を一口で食べてしまったのだった。
(「鬼が高子を食べた」というのは比喩的表現で、実際には藤原基経と藤原国経が高子を連れ戻した。)

もちろん倉に鬼がいるとは思っていなかった業平は、倉の鬼に断りもなく高子を中に入れたことだろう。

この伊勢物語・芥川の段のイメージから、倉坊主は生みだされたのではないだろうか。

芥川

芥川





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