丹後倉橋山の件を描いた天保7年の文献[1](瓦版[2][3][4]とされるが、木板に刷られているのがうかがえる)。— 徳川林政史研究所蔵。
①件
「件(くだん)」は、概していえば書いて字のごとし(「亻」+「牛」)、その容姿は牛の体と人間の顔の怪物とされる[5][6][7][注 2]。
佐藤健二さんは、件のルーツは中国の白澤ではないかとおっしゃっている。
城間清豊の白沢之図
人間の言葉を解し万物の知識に精通するとされる。その姿を描いた図画は魔除け(厄除け)として用いられる。
⓶「件の如し」という定型句は怪獣・件から生まれたのではない。
上記ウィキペディア「件」には、ほかには次のような内容が記されている。
❶「件の如し」という定型句があるが、西日本では「怪獣・件の予言が外れないように、嘘偽りがないという意味である」と説明されるが、俗解語源(民間語源)の一つと考えられている。
❷天保年間(1831年~1845年)の瓦版によれば「件は正直な獣であるから、証文の末尾にも『件の如し』と書くのだ」とある。
(この説が天保の頃流布していた)
❸怪獣「件」の記述が登場するのは江戸時代後期。
「如件(件の如)し」という定型句は平安時代の『枕草子』にも登場する。
ゆえに「件の如し」と怪物「件」を関連付けるのは後世の創作(島田裕巳の説)
島田裕巳さんの説はもっともだ。
「件の如し」という定型句は怪獣・件から生まれたのではなく、件という言葉があったので怪獣件が生み出されたと考えるべきだろう。
③件は実在していた。
ウィキペディア「件」には次のような内容も記されている。
❹・天保7年(1836年)の瓦版・・・・天保7年12月、丹後国与謝郡(よさのこおり)「倉橋山」に人面牛身の獣「件」が出現した。
※倉橋山は、京都府宮津市、天橋立の以西にある標高91mの倉梯山か。
天保7年に流布した瓦版から件を書写したものも現存する。
❼『密局日乗』という日記の、文政2年5月13日条(=西暦1819年7月4日)に牛の子として生まれたクダンの記述がある。
防州上ノ関(現・山口県上関町)の民家の牛から生まれた人面牛身の子牛が、人語をあやつり、みずからを「件」と名づけよと指示し、異形という理由で自分を屠殺してはならないと諭し、7年の豊作が続くが、8年目に兵乱が起こる、と予言した。
❽安政7/1860年3月12日付で牛から件が生まれたという報告書が近年(2020年)、兵庫県立歴史博物館で発見された。
❾幕末の錦絵「件獣之写真(くだんじゅうのしゃしん)」(慶応3/1867年作と考証)に、「牛の子として生まれ、予言を残して三日で死ぬ」と書かれている。
❿明治の文献にも牛の子として生まれたり、剥製が見世物になったとある。
⓫第二次世界大戦後の民俗学の書物には「件は牛から生まれる奇獣、または人と牛とのあいのこ(雑種)で[、人間の言葉を話すとされるが、生まれて数日で死に、その間に作物の豊凶や流行病、旱魃、戦争など重大なことに関して様々な予言をし、それは間違いなく起こる」とある。
⓬戦後、近畿地方で件が出生したという話もある。
⓭人面を彷彿させる顔の奇形の仔牛が疾患によって生まれることがあり、件の伝説に発展したものだろうと推察される。
検索してみると人面の牛の動画があった。件は実在していたのだ。
/
残念なことに誕生して2時間後に絶命してしまったとのことだ。
④予言獣
ウィキペディア「件」の記述のつづき。
❺江戸時代後期にいくつかの予言獣が流布した。
件(くだん)はその予言獣のひとつで、疫病の流行を予言し、その厄除招福の方法を教示する。
❻天保年間の瓦版でも「この件の絵を貼っておけば、家内繁昌し疫病から逃れ、一切の災いを逃れて大豊年となる。じつにめでたい獣である」とある。
アマビエは江戸時代後期の瓦版に登場する。
瓦版の内容は、次のようなものである。
肥後国海中に毎夜光る物がでた所へ役人が行き、見ると図のような者が現れた。
「私は海中に住むアマビエと申す者である。当年より6か年の間諸国は豊作である。
ただし病が流行する。私の写しを早々と人々に見せるように。」
そういって海中へ入った。右は写し役人より江戸へ送られてきた写しである。
弘化3年4月中旬(1846年5月上旬)
テレビではアマビエの絵は写し描くことで、写し描いた人の疫病除けになると言っていた。
肥後国海中の怪(アマビエ/アマビヱ)
アマビコという妖怪もいる。
熊本県の海に現われ、豊作と疫病の流行を告げ、自分の姿を家の中に貼っておけば病難をまぬがれるとも語ったという文がいっしょに書かれている。
アマビコ
アリエという妖怪の図には次のような話が添えられていたという。
肥後国(現・熊本県)青鳥郡の海に、夜になると鱗を光らせる妖怪が出現した。
旧熊本藩の柴田という士族が正体を探りにいった。
妖怪は海にすむ鱗獣の首魁・アリエと名乗り、次のように告げた。
「今年から6年間は豊年がつづくが、6月からはコロリ(コレラ)に似た病気が流行して、世の人々は六割死ぬ。
しかし、私の図を信心すれば難をさけることができる。」
アリエ
ウィキペディアには「件(くだん)はその予言獣のひとつで、疫病の流行を予言し、その厄除招福の方法を教示する。」とあり
件とアマビエ・アマビコ・アリエはとてもよく似ている。
1822年、西日本でコレラ流行。
1836年 瓦版に「天保7年12月、丹後国与謝郡(よさのこおり)倉橋山に人面牛身の獣・件が出現した。」とある。
1846年 瓦版にアマビエが描かれる。
1858年 江戸などでコレラ流行。
1860年 牛から件が生まれたという報告書あり。
1862年 江戸幕府『衛生全書』の抄訳本『疫毒預防説』を刊行。
「身体と衣服を清潔に保つ」
「室内の換気をよくする」
「適度な運動と節度ある食生活」などを推奨する。
1867年 錦絵に「牛の子として生まれ、予言を残して三日で死ぬ」と書かれている。
1876年(明治9年)「アリエの図を信心する者がいるそうだが、迷信である」という内容の記事が、甲府日日新聞(や長野新聞に掲載される。
1877年(明治10年)「虎列刺(コレラ)病豫防(よぼう)心得書」
「石炭酸(フェノール)による消毒」、
「便所・下水溝の清掃などの予防対策」
「看護する者以外は他家に避難させる」
「患者が回復または死亡した後、家族は家中を消毒してからも、10日たつまでは学校に入ることを禁じる」
1879年(明治12年) コレラ流行
1886年(明治19年) コレラ流行
明治時代、件が産まれた、剥製が見世物になったと記す文献あり。
昭和時代、戦後、近畿地方で件が出生した。
件は実在していた。
人面に似た奇形の顔を持つ牛が生まれることがあり、その牛は人(亻)+牛という謎々で件と名付けられた。
しかしさずがに予言まではしなかっただろう。
そうではあるが、件に予言能力があると流布されたのは
コレラの流行による不安がある中で
奇獣に予言能力があると考えられていたためだと思われる。
特に牛は牛頭天皇を思わせる。
牛頭天皇は武塔神やスサノオと習合され、疫神として八坂神社などに祀られている。
牛頭天皇は疫神なので、祀り上げて御機嫌をとっておけば疫病から逃れられると信仰されていた。
人面の牛は神秘的であり、かつ生まれてまもなく死んでしまうところから、疫病神が自らの身を犠牲にして(死んで)疫病から人々を救ってくださる。
そんな風に考えられたのではないかと思ったりする。
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