鳥山石燕『百器徒然袋』より「経凛々」
①経凛々
経凛々(きょうりんりん)は、鳥山石燕の妖怪画集『百器徒然袋』にある日本の妖怪の一つで、経文の妖怪[1]。
軍記物語『太平記』にある平安時代前期の京都西寺の祈祷僧・守敏(しゅびん)が、東寺の僧・空海との法力比べで敗れ去った逸話をもとに石燕が創作した妖怪とされる[1]。不用となって捨てられた守敏の経文が経凛々になったものだろうか、と石燕は解説文を書いている[2]。
『百器徒然袋』の妖怪は、室町時代の妖怪絵巻『百鬼夜行絵巻』をモチーフとして描かれたものが多いが、この経凛々についても同様に『百鬼夜行絵巻』の中にある、くちばしの長い鳥状の妖怪が経文を頭に巻いている姿にデザイン上の共通点が見られる[2][3]。
絵に添えられた文章は、次のように記されているようである。
「尊ふとき経文のかゝるありさまは、呪詛諸毒薬のかえつてその人に帰せし
守敏僧都(しゅびんそうづ)のよみ捨てられし経文にやと、 夢ごゝろにおもひぬ。」
尊い経文がこのような有様になってしまったのは、呪詛のもろもろの毒がその人(呪詛した人)に返り
守敏僧都が詠み捨てた経文なのであろうと、夢ごころに思った。
というような意味だろうか。(まちがっていれば教えてください)
⓶空海vs守敏の雨乞い祈祷合戦
平安時代、平安京には二つの寺が建てられた。
東寺と西寺である。(現存するのは東寺のみで西寺は現存しない。)
東寺
823年、嵯峨天皇は空海に東寺を、守敏に西寺を与えた。
824年に大干ばつがおこり、空海と守敏は神泉苑で雨乞い祈祷合戦を行ったと『今昔物語』には記されている。
まず、守敏が法力で雨を降らせることに成功した。
次に空海が雨乞いを行ったが、雨は降らなかった。
守敏があらゆる雨の神(龍神)を法力で水瓶の中に封じていたのだった。
そこで空海は天竺の無熱池より善女龍王を勧請して雨を降らせた。
守敏が降らせた雨は都に降っただけだったが、空海が降らせた雨は三日にわたり国土を潤したという。
神泉苑
経凛々は、このとき守敏が呪詛に用いた経文の妖怪であり
空海に対して行った呪詛が守敏自らに跳ね返ってこのような妖怪の姿になったと、そういうことなのだろう。
③経凛々の凛々は仏具の「お鈴」からくる?
「凛々」に「しい」と送り仮名をつければ、「凛々しい」となる。
「凛々しい」とは、「きりっとしていて引き締まっているさま」を意味する言葉であるが、経凛々は凛々しいだろうか?
凛々しいかどうかは主観によるだろうが、呪詛が自らに跳ね返ったのが妖怪・京凛々なので、凛々しいとは言い難いようにも思える。
妖怪が左手に持っているお椀のようなものは仏具の「お鈴(おりん)」だろう。
妖怪の向かって左にある巻物は妖怪の右腕だと思う。
そして巻物の先に棒があるが、これは鈴棒で、妖怪がお経をあげながら、右手で「お鈴」を叩いているのだと思う。
その「お鈴(おりん)」の音が「りんりん」と鳴るところから経凛々という名前が付けられたのではないだろうか。
④経供養
私は経凛々という妖怪から、経供養を思い出した。
経供養とは、「 a経文を書写して仏前に供え、法会を営むこと」である。
また、 「b陰暦3月2日、大阪の四天王寺の太子夢殿で修する法会」のことも経供養という。
bはaのひとつということかもしれない。
かなり以前に四天王寺の経供養を見に行ったことがある。
ただし現在、四天王寺の経供養は陰暦3月2日ではなく、10月22日 (22日は聖徳太子の月命日)であり
「日本にお経が伝来したことを記念して始められた舞楽法要」とされている。
もともとは非公開で、太子殿の椽の下の庭で舞うところから「椽の下の舞”」と呼ばれていた。
しかし、現在は誰でも見学することができる。
ただし私が行った日は雨天であり、縁の下の庭ではなく、太子殿前殿で行われた。
その時、私は「お経は供養のためにあげるものなのに、そのお経を供養するんだ」と驚いたものである。
しかし、お経は供養するためにあげるだけのものではなく、守敏がやったように呪詛にも用いられるのであれば
それは供養する必用がありそうである。
お経に恨みつらみが込められているのであれば、供養しなければ成仏できず、経凛々のような妖怪になってしまうからだ。
四天王寺 経供養
⑤採桑老
四天王寺の経供養で、ひときわ異彩を放つ舞があった。『採桑老(さいそうろう)』である。
老人が不老不死の薬を探し求めて舞うというもので、めったに舞われることのない幻の舞と言われている。
なぜめったに舞われることがないのかと言うと、この舞を『舞うと死ぬ』と言い伝わっているのだという。
この舞は唐のころに作られたとか、百済国の採桑翁をモデルに作られ、用明天皇(聖徳太子の父)の御代に大神公持(おがのきんもち)が伝えたなどといわれる。
その後、京方(10世紀ごろより、京方・天王寺方・南都方の3つの楽所があった)の多家(おおのけ)が伝承しており、いったん途絶えたたが、堀河天皇が天王寺方の秦公貞(はたのきんさだ)に命じて継承させたとされる。
その後、旧暦2月22日の聖徳太子の命日の法要である聖霊会において何度か舞われた記録がある。
四天王寺 経供養 『採桑老』
※長らく、『採桑老』を舞った人は死ぬと言い伝えられていたそうですが、その後何事もおきず、舞人はお元気とのこと。
採桑翁では舞の途中で漢詩を唱える。
三十情方盛 四十気力微 五十至衰老 六十行歩宣
七十杖項栄 八十座魏々 九十得重病 百歳死無疑
三十情方盛・六十行歩宜・七重杖項栄・八十座魏々はすいません、意味がわかりません。(わかる方、教えてください!)
四十気力微は「40歳は気力微かなり」、五十至衰老は「50歳で老い衰える」、九十得重病は「90歳で重病を得る」、百歳死無疑は「百歳で疑いなく死ぬ」だろうか?
九・十と百は縁起が悪いので唱えないのだという。
「採桑老を舞うと死ぬ」と言われるのはそのためではないかとする説もある。
採桑老は唐または百済で作られたといわれるが、日本に伝わり、天王寺方に継承され聖徳太子の命日に行われる四天王寺の聖霊会で舞われることで、採桑老に聖徳太子のイメージが重ねられたのではないだろうか。
梅原猛さんは聖徳太子は怨霊だといっておらる。
怨霊とは政治的陰謀によって不幸な死を迎えたもののことで、疫病の流行や天災は怨霊の仕業でひきおこされると考えられていた。
聖徳太子の子孫は蘇我入鹿に攻められて全員法隆寺で首をくくって死んだ。
そのため聖徳太子は怨霊になったと梅原氏はおっしゃっている。
「採桑老を舞うと死ぬ」といわれるのは、聖徳太子の怨霊の祟りがあると考えられたからかも?
四天王寺 経供養『採桑老』
四天王寺 経供養
聖徳太子が詠んだお経にも、恨み、つらみが込められていた?
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