霊山寺 干支祭(5月第3日曜日)
霊山寺・・・奈良県奈良市中町3879
霊山寺には次のような伝承が伝わっている。
「小野富人(小野妹子の子であるという。)は壬申の乱に関与したため、672年に右大臣を辞して、登美山に住んだ。
684年、富人は熊野本宮大社に参篭した。
そのとき、薬師如来(熊野速玉大神の本地仏)が夢枕にあらわれて『薬湯を作り、病人をたすけよ』と告げた。
そこで富人は登美山に薬師如来を祀り、病人を癒すために薬湯を設けた。
人々は富人を登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)と呼んで敬った。
728年、流星が宮中に落下するという事件がおき、阿倍内親王(のちの孝謙天皇)がノイローゼとなった。
このとき、聖武天皇の夢枕に鼻高仙人が現れ、湯屋の薬師如来に祈れば治るとのお告げがあった。聖武天皇は行基に命じて登美山を参拝させた。
するとたちまち阿倍内親王の病は回復した。
そこで734年、聖武天皇は行基に命じて大堂を造らせ、736年にインドバラモン僧の菩提僊那が寺名を霊山寺と名づけた。 」
壬申の乱は672年に勃発した内乱である。
天智天皇の皇子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位継承をめぐって争い、大海人皇子が勝利して即位した。
敗れた大友皇子は自害して果てた。
小野富人はこれに関与して右大臣を辞した、とあるので大友皇子側についたのだと思われる。
ところが、歴代右大臣のリストの中には小野富人の名前がない。
壬申の乱が起こったとき右大臣だったのは中臣金である。
小野富人は小野妹子の子であるというが、ウィキペディアで小野妹子を調べても、子として毛人・広人の名前はあがっているが、富人の名前はない。
672年、本当に右大臣だった中臣 金(なかとみ の かね/?- 672年)は中臣鎌足の従妹である。
大化の改新で功績をあげた鎌足の死後、中臣金が急速に出世して、671年に右大臣となった。
672年に勃発した壬申の乱(大友皇子vs大海人皇子)では中臣金は大友皇子側について戦った。
しかし大海人皇子側が優勢で、大友皇子は自殺した。
金は捕えられて処刑となり、金の子孫は流罪となった。
この中臣金が天智天皇の勅をうけて天智天皇御宇8年に建立したと伝わる神社が滋賀県大津市大石中にある。
佐久奈度神社である。
御宇(ぎょう)とは「宇内(うだい/天下)を御する帝王が天下を治めている期間」のことである。
天智天皇の在位期間は668年~672年に崩御するまでの4年間であるが、天智は先代の斉明天皇が661年に崩御したのち、即位せずに称制している。
なので、天智天皇御宇8年とは、661年から8年目の669年を指すと思われる。
この佐久奈度神社の宝物に伊勢神宮より賜った神剣と鼻高面がある。(参照→
☆)
古より伊勢神宮を参拝する前に佐久奈度で禊ぎをする習慣があり、このような関係から伊勢神宮より賜ったものであるという。
鼻高面とは赤い顔をした天狗の面である。
霊山寺の由来には「小野富人が672年に右大臣を辞して登美山にすみ、鼻高仙人と呼ばれた」とあった。
しかし672年右大臣だったのは小野富人ではなく中臣金であった。
さらに中臣金が創建した佐久奈度神社には伊勢神宮より賜った鼻高面がある。
鼻高仙人と呼ばれた小野富人と中臣金は同一人物のように思われるのだが、どうだろうか。
小野富人=中臣金だとすれば、いくつかの矛盾点が生じる。
中臣金は672年に死亡しているが、小野富人はこの年より登美山に住むようになっている。
私は小野富人が登美山に住んだというのは、死んだ小野富人の霊が登美山に住んだということだと思う。
また薬湯を作ったのは小野富人ではない別の人物だろう。
そして、その薬湯は小野富人の御利益があって作られたという意味で、小野富人が作ったということにしたのだと思う。
嘘といえば嘘だが、嘘は信仰と言い換えることもできる。
今でも、たとえば家を建てたとして、実際に家を建てる資金を調達したのは自分自身であるにもかかわらず、「死んだ父のおかげで家を建てることができた」などと言うことがある。